インパクトファクター
今年も恒例の研究専門誌のImpact factor (2008) の発表があった。昨年と傾向に変わりはなく生物分野(臨床医学を除く)のトップグループをNatureとCellの姉妹紙が独占している。Nature, CellとScienceはいつもながら上位に位置し、Nature (31.434), Cell (31.253), Science (28.103)である。 Natureの姉妹紙は軒並み高くNat Genet (30.259)を筆頭にNat Med (28.103), Nat Immunol (25.113), Nat Material (23.132), Nature Biotech (22.297), Nat Cell Biol (17.774), Nat Neurosci (14.164), Nature Method (13.651), Nat Struct Biol (10.987)とImpact factor 10以上にNatureを含め10誌を数える。一方のCellの姉妹紙はCancer Cell (24.962), Immunity (20.579), Cell Metabo (16.107), Neuron (14.17), Mol Cell (12.903), Dev Cell (12.882), Curr Biol (10.773)とCellを含め8誌に及ぶ。Nature やCell出版社以外のジャーナルでImpact factor 10 以上はJ Exp Med (15.219), Circulation(14.595), Gene Dev (13.623), Plos Biol (12.903), Blood (10.432), Genome Res (10.176) とAm J Human Genet (10.176)くらいなものである。完全にNatureやCell 誌の戦略勝ちである。これらのジャーナルは商業誌であるのに対しScienceは学会誌のために幅広くジャーナルを出すという事ができないというジレンマを抱えている。実際ScienceのEditorはそうこぼしていた。
Natureを出版しているNature Publishing Groupはどん欲で今やNatureという名前がつくジャーナルを20誌出版し、review誌を14出版している。またその領域も生命科学を初めとし、医学、物理、化学、テクノロジー、地球、環境とありとあらゆる方面に及んでいる。Review誌も軒並み高いImpact factorを持ち、Nat Rev Mol Cell Biolの35.423を筆頭に上位を占めている。そのため昔からあったTrendやCurrent Opinion誌などのreview誌はその立場を蹴落とされている格好だ。
昔からあった学会誌や専門誌の凋落ぶりはもっとひどい。PNAS (9.38), J Cell Biol (9.12), Embo J (8.295)。これらは数年前まで10以上のImpact factorを誇っていた。MCB は5.94, JBCに至ってはまさに長期低落で今や 5.52である。
もう一つの傾向は生化学や分子生物学と名をうったジャーナルが敬遠され、がんのような病気を扱った基礎医学誌が軒並みImpact factorを上げている。昔はJBCより低かったCancer Res (7.514)やOncogene(7.216)は今やはるかに上位を走っている。
Impact factorの傾向は世の中の研究傾向を映している。一昔前までは生化学や分子生物学が若者を引きつけ、華やかに脚光を浴びて来た。いまや生化学は古い学問のように思われ、敬遠されている。実際生化学会の会員は年々減少しつづけている。日本では分子生物はまだ頂点を維持しているが、諸外国では完全に機能を扱った細胞生物学や神経科学などにその座を明け渡している。学校での新しい研究室の名も生化学とか分子生物とか言った一般名がつく事はなくなり、より具体的に発生、形態形成とか再生、神経などといった名前が多くなって来た。もう一つの潮流はNat BiotechやNat Methodで象徴されるように新しい技術の開発が注目をあつめていることであろう。
これらのことから時代の流れを読み取る事ができる。研究も人がやることであり、多くが税金を使ってやるということから研究の流行という潮流から逃れる事はできない。研究費の投入もポジションも潮流にのった船にだけに与えられるからである。昔は全く潮流から外れ、漂流していても毎年支給される固定のある程度の額の予算がきた。今はその予算も削られ、潮流に乗れない船の船員は餓死を待つしかない。Impact factorを裏読みすると実に現在の研究のトレンドがうかがわれる。
これから何を学ぶかであるが、航海図の整った流域の潮流にのって、リッチなしかし大勢の中の一員としての研究生活を送るか、難破船となってでも潮流から外れて、新たな航海をして新大陸を見つけるか、それとも餓死するかの冒険の旅に出るのを選択するのは、若者の特権である。
へそ曲がりのおじさんとしては今一度ボロ筏に乗って新たな地を目指して冒険をしてみたい。大きな浪にのまれてしまう可能性は高いが。
楠正成
楠木正成はこの戦いに敗れて自刃するのだけれど、その当時の地形は今は殆ど残っていない。肝心の湊川も大きく西の方に曲げられ会下山を掘削し地下を通っている。この川は川床が平地より高く、土手で囲まれ、たびたび氾濫を繰り返す暴れ川であったらしい。今は湊川公園になっている。湊川は、天王谷川と石井川が合流し、長田港、苅藻島付近で海へと注ぐ。この湊川は過去に2回付け替えられており、古い順に和田岬(大和田の港)へ流れる古湊川、川崎町(現在のハーバーランド・神戸港)へ流れる旧湊川、苅藻川と合流し長田港へと流れる新湊川と呼ばれる。
会下山は楠正成の陣どった山である。行ってみて分かった事であるが、以外と海からは急勾配になっている。
戦いは戦わずして撤退した後醍醐天皇方の完敗であり、国際的に取り上げられMinatogawa Battleと言われている。
Battle of Minatogawa
Date:1336
Location: near the Minatogawa river
Result: Ashikaga victory
Belligerence Ashikaga rebels : Imperial forces
Commanders: Ashikaga Takauji: Kusunoki Masashige and Nitta Yoshisada
Casualities: Masashige commits suicide
今回湊川神社、湊川公園と会下山へ行って来た。
湊川神社は楠正成を奉ったお社である。その名にふさわしく楠の生い茂った神社内で、時折、ひとが訪れてお参りしている。この神社には水戸黄門自筆の墓碑「呼忠臣楠子之墓」がある。
湊川公園には楠正成の馬上姿の銅像がある。
会下山は海側からは結構急な勾配の山で、海に至るまでが一望できる。大和田の岬に上陸してくる足利軍を迎え撃つには最適の場所であろう。会下山の中腹で思いがけないものを見つけた。世界的植物学者で日本に自生する植物を体系的に整理し、多くの名前をつけた牧野富三郎博士の研究所跡があった。
尊敬する一人である牧野博士は小学校しか出ていないのに、東京帝大教授、博士となった人物である。牧野博士についてはまたとりあげるとする。
頂上は思ったより広く、今は公園になり、桜の木が多く神戸の花見の名所になっている。この山が楠正成の陣した所だと分かるのは唯一「大楠公湊川の陣跡」の石碑のみ。
写真 1. 湊川神社の本殿 2. 水戸光圀が墓碑を書いたという碑 3. 大楠公の墓 4. 神社の正門 5. 正成の騎乗姿の像 6. 湊川跡の石碑 7.牧野富三郎研究所跡の石碑 8. 正成陣跡 9. 会下山からの風景 10. 初夏の夕焼け
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無情
大学で知り合って無二の親友となったHKは理系の学生では珍しく万葉集がとても好きでした。そのせいもあって妙に文学好きの僕と気があい、よく奈良の万葉の里を訪ねて歩き回ったものだった。その頃のぼくはどちらかというと万葉集よりも古今集や金塊集などの和歌の方が洗練されているようで好きだった。
午前中で学校を抜け出し、奈良へ急いだある日の夕方。「あああれが天の香具山でこれが畝傍山か耳成山か」などそこここに見える山や川全てが万葉の舞台。中大兄皇子の歌「香具山は 畝火雄々しと 耳成山と 相争ひき 神代より かくにあるらしいにしえも しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」を思い浮かべながらとぼとぼと日の暮れかかる大和路を歩いた。時は晩秋、麓にはすでに夜陰が忍び寄り、急に肌寒く感じられるようになって、残光が山の頂を茜に照らし出し、その神々しさにうっとりとしたものだった。その残光も色褪せてあたりが夜の帳に包まれ始めると、なぜか急に寂しく、物悲しくなり、二人は無言で家路を急いだのでした。
その彼が突然、死んでしまった。30歳を目前にしての自殺でした。残暑の残る暑い暑い夏の終わりでした。僕はおそ巻きながらやっと人生の方向を決めて、研究で身を立てようと決心し、秋からアメリカに留学するという一ヶ月前の出来事でした。そのため、今やっている仕事を片付けようと夜遅くまで必死で働いていて、自分のことばかりで精一杯、彼がわざわざ死のひと月前に東京に訪ねて来てくれたときも、自分のこれからの夢や抱負ばかりを一方的に話したに違いありません。もう少し彼が何を求めているのか、わざわざ訪ねてきた訳を察してあげる事ができたらと悔やまれてなりません。それからほどなく、突然の電話で、慌ただしく徳島に飛び、葬儀にでることになりました。身体も魂もふぬけになったように、その時のことは余り覚えていません。ただ火葬場での煙が風もない昼下がりの暑い中を、まっすぐに上っていくのをじっと見つめ、魂もあの煙とともに昇っていくのかなとぼんやり思っていました。夏の終わりを惜しむかのように蝉の鳴き声だけがあたりを包み、いっそう暑さを増していました。僕は流れ落ちる汗を拭きながら、炎天下に立ち尽くす事しかできませんでした。
一見、彼は周りからは公私ともに順調にいっているように見えました。同級では一番の出世頭ですでに助教授になっていましたし、結婚も予定されていました。なぜ死んだのか遺書がなかったので、その理由は今となっては分かりようもありません。全く自殺する理由など考えられないくらい、うらやましいくらい傍目からは順調に見えました。
突然、心におおきな穴がぽっかりと空き、例えようのない侘しさを感じました。人生の無情、不条理を感じました。
そんな彼が好きだった歌 「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和しうるはし」や 「あおによし奈良の都に咲く花のにおうがごとく今盛りなり」をどこかで耳にする度、未だに心がきゅんと縮こまり、人って何だろう?生きるって何だろう?と心が叫びます。
その後、すぐに留学をし、お墓に参る機会がなかったので、帰国してとるものもとりあえず墓参りをしました。彼の実家は北九州の小倉にあり、ご両親と弟さんとの3人家族でした。ご両親に会って何を話したかは定かではありませんが、朝日新聞の記者をされていた厳格そうなお父さんは「亡くなった親孝行なHとはできが違い、どうしようもない弟は早稲田を出た後、ぶらぶらしていたけど、今は落ち着いて予備校の先生をやっている」とすこしあきらめたようなそれでいて許しているような寂しげな顔で話された事だけを覚えています。
墓は父親の実家のある山口県の田布施の田園地帯の真ん中の灌木の生い茂った丘の麓にありました。夕暮れまじかで、日が落ちるのとの競争でタクシーを乗り付けての慌ただしい墓参りでした。実家は父親の兄が跡を継ぎ、農家を守っておられました。墓参りを終わるとあたりはまさに漆黒の闇に包まれ、ぽつんと田んぼの中に建つ一軒の農家の明かりが妙に明るく輝いて感じられました。
あれからもう30年以上になります。もう一度、最後のお参りをしなくてはと考える歳になってきました。
田舎のたこと都会のたこ
研究室に明石から通っている女性がいる。生まれてこのかた30数年、旅行以外明石から出た事がないという。一年前に当研究室に勤めたのが初めての明石以外の地だという。神戸と明石では電車で15分の距離。それでも明石を出ての大冒険らしい。じっと同じ所で、周りを見ないようにして生きていく。自分の慣れ親しんだ環境で、親や兄弟と気心知れた人たちと心地よく、過剰な刺激が無いように暮す。たこ壷に入って自分でふたをしてできるかぎり、あたりを見ないように、なにも聞かないようにする。
その女性に言わせると「たこ壷からでえへんで!明石はたこだけではあらへん。鯛もあるで、魚貝類もおいしいで。明石は極楽や」となる。
一方で、北陸の片田舎から出て来た女性もいる。彼女は反対に地方の人間社会、同一の価値観にがんじ絡めに縛られた社会から飛び出したい。そんな閉鎖社会の鎖を解きはなして、「私自由に生きたい。干渉されたくない」確かにそうなのよ。「田舎はすぐにあそこの家の長女はまだ結婚しないのか, 女の子が大学院まで行ってどうするのとか」そんなの大きなお世話。「村の人は、他人には興味ない振りをして、耳はダンボの耳。人の生活を覗き見して、ひそひそと噂するのが楽しみ。それしかやることがないのよ」確かに!「そんな所に今更帰ってみなさいよ。どんなことになるか」確かに! 「親も兄弟もいるから楽は楽なんだけど」確かに!となる。
さてさて都会のたこ壷と田舎のたこ壷、あなたはどちらがお気に入りですか?
都会のたこは誰もだれがとなりのたこ壺にはいっているかには目もくれない、孤独な社会。気が向いたらつぼから出て行って、刺激を求めればいい、慰み合えばいい。生活の糧を得るために最小限の閉鎖社会とつきあって、あとは個々の日常にもどればいい。小さなたこ壷が無数あり、だれがどの壺に入っているか知らない、都会。
一方、壺の数が少なく、お互いにどの壺に誰が入っているかのみならず、その壺にすむ人々の容姿、性格から経歴にいたるまで個人情報は筒抜けの小さな街や村。どちらをお好みであろうか?
私はたくさんあるたこ壷にまぎれて、ひっそりと自由にくらせる都会のたこ壷の方が好きだった。最近は歳をとり、田舎で少々の人間関係の煩わしさにも少しは耐えられる自信ができ、田舎での晴耕雨読にも憧れている。そんな生活にあこがれてブログのタイトルに「たおやかな生活」とつけたが、すぐに間違いに気づかされた。日々の研究活動をする限り、そんな事はあり得ないと。「テンションを上げて、頑張っていい成果を、面白い成果をあげるぞ」。と自分に言い聞かせないと脱落してしまう社会だ。社会はすぐに言う。「お前達はいい気なもんだ、税金で趣味の研究をし、生活まで面倒を見てもらえる」と。そんなのは遠い昔の研究者。今の研究者はすぐに評価され、悪ければキックアウトされ、研究費ももらえない。
この競争社会一生懸命働き、ストレスも受ける、いやなこともやる。つき合いが嫌いでも人と付き合いネットワークを作る、論文もうまく書け、英会話もできるように、プレゼンテーションもうまくする、研究者だからといって研究だけに没頭できるわけではない。時間がいくらあっても足りない。これが普通だ。だからブログのタイトルも改訂版から「たおやかな生活を夢見て」と変えた。何人の人がお気づきであろうか?
現在の研究者はたこ壷に潜んでいる訳にはいかない。否応無しに壺から引っぱり出される。壺の外でのたこ踊りが一人前にできないたと生き残れない。これが研究者の現実。
幻の光
この宮本輝の小説は人生に大きな大きな影響を与えた。この本を読んで無性になみだがとどめなく流れ、せつなかった。哀しかった。人の世の不条理が心に焼き付いた。
「きのう、わたしは32歳になりました。兵庫県の尼崎から、この奥能登の曾々木という海辺の町に嫁いできて丸3年が過ぎたから、あんたと死に別れて、かれこれ7年にもなるんです」という書き出しで始まる。
「どん底の貧乏生活の幼少期を過ごした尼崎の阪神国道沿いの木造アパートに小学校6年のときあんたが後添いの連れ子として引っ越ししてきた。私はそのとき以来頭がよく、格好いいあんたが好きになった」
お互いに中学校をでると働きはじめ、あんたは鉄工所の見習い工員になった。二人は大人になるのを待って結婚し、初めての子供を産んで3ヶ月後に、わたしは理由も判らん自殺というかたちであんたを喪ったんでした。それ以来、もぬけの殻になって生きてきた。幸せの絶頂期、なんであんたは自殺したんやろ。その理由はいったいなんやろとわたしは呆けた頭で考えに考えてーーそれでも分からなかった。
なんの理由も見つからぬ自殺という形で、愛するものを喪った地団駄をふむような悔しさとわびしさ。
まわりの人の勧めで子連れで人のいい子持ちの板前と再婚して能登の片田舎で幸福な生活をおくれるようになった彼女に、今なお前夫への思慕が噴きあがることがある。なんでこんな理由も分からぬ不条理な不幸が自分の身の上に降り掛かるのだろうか。考えれば考える程,分からない。この絶望感と寂寞感。
そんななか、夫やまわりの人々の優しさに次第に新しい人生をがんばろうと思う様に次第になる。この小説の希望は幻かもしれないが光が差し込みそうな将来を予感させて終わることだ。
この小説を読んだ時ほどショックを受けたことはない。涙が次から次へと溢れ、人生の哀しさ、不条理、明日知れぬ運命が心に刻み込まれた。何故これほど哀しいのか理由もなく、ただ哀しかった。この小説が性格形成、思想形成に大きな影響を与えたことは間違いない。
しかしまたずーと後になって読み返した時にはそれ程のショックは受けなかった。小説を読む「歳やおかれた環境とそのときの精神状態」によって全く受けとる印象が異なる。昔感激した映画を期待してもう一度見たけどそれほどではなかった。逆に昔は何にも感じなかったが、今度見たときはすごく感激した。という事は往々にしてある。人間はその時々の環境に左右されて、価値観も変わる。優しくなったり、冷たくなったり、寛容になったり、厳しくなったりして生きている。
しかし未だに最初に読んだ時のショックは忘れない。
夢の又夢
夢をみた。多分明け方だと思う。しっかりと内容を覚えているから。港に白い客船が数隻係留されている。防波堤の向こうは、晴れているのに大きな浪がうねっている。風が妙にきつい。大きな浪のうねりの合間にクジラの尻尾が見える。目を転じて左手をみれば、島があって、そこの造船所のドックには3隻の大型客船が係留されている。海峡に面して、島の突端に白亜の洋館がみえる。屋根はモスグリーンで塗られ、尖塔が海峡を睥睨している。
島の山の頂きには大きな枝を四方にはった樹がみえる。となりにいた誰かが言った。「よく学校を抜け出して、あのような大きな樹の下の秘密の基地で、よくホーン漂流記(こんな本はない)や15少年漂流記を読んだなあ」夢の中の自分が言う。「今だってやろうと思えばできるじゃあない。少年の頃の夢の実現が」見てもないホーン岬の風景が夢で出てきたのは昔「impossible voyage」という本を読んだ時の、印象が強力であったためかも、マゼラン海峡の方がもっとすごく感じたんだけど。いずれにしても夢の中、そんなに筋が通っているはずもない。
ホーン岬は南米最南端の岬でドレーク海峡に面している。岬を通過する経線をもって太平洋と大西洋の界とする。それより南は南極大陸だ。
少し北にあがるとマゼラン海峡がある。 この海峡は大西洋と太平洋の潮位の差により、いつも海峡は潮が渦巻き、幾多の暗礁、狭いが上に流れも速い。天候はいつも荒れていて、屈指の航海の難所。大西洋と太平洋を結ぶ重要な航路であるが、難所故に南のドレーク海峡を大回りする船も多かった。マゼラン海峡を自ら操縦して通った船長は船乗り仲間からは畏敬の念で見られ、相手が司令官でも足を机の上に投げ出したまま、話してもいいとさえ言われる。今ではほとんどがパナマ運河を通る。
楠正成
今朝方から雨も本降りとなり、梅雨に突入した。窓を開けているとひんやりとした風に肌寒い。時折車が雨を轢いて走る音を聞きながら仕事をするのが好きだ。車のたてる喧噪が雨音にかき消されて、雨をはねる音だけが聞こえてくる。
楠の通りに面して湊川神社がある。湊川神社は楠木正成を奉った社である。
後醍醐天皇方の楠正成と新田義貞の連合軍はここ神戸の地、湊川で足利尊氏と足利直義の軍を迎え撃った。
足利尊氏は一時期新田義貞や楠木正成らに破れ、九州に落ち延びていた。楠正成はこの有利な折に尊氏と和睦する事を進言するが、後醍醐天皇の聞き入れることとならず、新田義貞に追討を命じ、正成は国元での謹慎を命ぜられる。しかし義貞が播磨の国の白旗城の赤松則村を攻めあぐねている間に、足利方は体制を立て直し、京都に攻め上がってきた。危険を感じた義貞は兵庫まで撤退し、この地で立て直しを計った。後醍醐天皇は正成に救援を命じた。ここで湊川の戦いと称する戦いが勃発する。
新田軍は本陣を和田岬と会下山の中間地点の2本松におき、和田岬にも軍勢を配して足利軍の上陸に備えた。楠軍は湊川の西の会下山に陣を敷いた。足利直義を司令官とする主力部隊は西国街道を進み、和田岬の新田軍には少弐頼尚が側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する
ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
神戸駅から歩いて5分の所に、楠木正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。
楠
インフルエンザ騒動もいつのまにか立ち消えになり、またもとの静かな神戸に戻った。
梅雨に入りそうで,入らない少し湿り気のある風が吹く、坂道を神戸駅から歩いてくると楠の大木が道の両側に植えられた50m程の道に行き着く。ちょうど今の時期は葉が萌葱色から薄緑そして深いみどりへと通るたびに変わる、一年で一番美しい時期である。
楠は常緑高木で関東以西に自生し,高さ30m直径5mにも及ぶ大木となる。春の終わりに、白く小さな花をつけ、その木は防虫,防腐効果にすぐれ、家具などに使用される。昔は楠から樟脳という防虫剤を抽出し衣服の虫除けに使っていた。この樟脳の成分はカンファーと呼ばれる二環性モノテルペンケトンで、楠の葉や枝などのチップを水蒸気蒸留することで結晶として容易に得られる。かってはカンファーの名の如く、カンフル剤「強心薬」としても使われていた。さわやかな香りがする。
そんなことを考えながら楠の大木の下を歩いている。楠の葉の合間から漏れてくる陽光が風に揺れ、足下に光のさざ波を作る様を見ても、科学的なことを思い浮かべたがる一生物研究者の興ざめた頭を片隅に押しやり、できる限り自然の美を味わうようにしている。
暑くなる夏までの枝葉を大きくはって威風堂々と,それでいて枝と枝の間隔が密でなく風が吹くと一斉にその葉を揺らし、さわさわと音を出す今の楠が一番好きだ。
インフルエンザと生物進化
伝搬の速さ、進化の速さ、次々と起こる新たなウイルス感染症。ブログ休止中に生物学的に面白い事件が世界で起こったので、ブログをぼちぼち再開した。
なぜ国内初の新インフルエンザが神戸の高校生に発症したのかは分からないが、科学的には興味深いことではある。このウイルスがメキシコからやってきたのだとすれば、メキシコ帰りの誰かが感染したが発症せず、検出不能のままキャリヤーとして国内に入り、これが高校生にうつったと考えるのが妥当であろう。しかしなぜ高校生や年少のものにかかり易いのか,実はこれと似たウイルスがいて昔、流行ったのだけど、毒性も低くだれも気づかずに治り、その抗体をある年以上の者は持ったためだとかいわれるがその詳細は定かではない。今回流行ったのはそのウイルスが変異をおこして少し毒性をあげたため、騒がれたのかもしれない。
交通が発達せず、人の行き来が少ない時代、様々な菌やウイルスはある特殊な動物に寄生して生きてきた。豚や鳥や猿または犬や牛に感染し、個体に悪影響を与えず、長年これらの動物の体内でローカルに生き続けてきた。通常は人にはかからないのだけど、それらの動物と人とが近くで住み初め、菌やウイルスが人と接触する機会が増え、感染するような変異を獲得すると一気に人に感染し、更には悪性度を増した菌やウイルスとなる。エイズウイルスはアフリカの一地方に住んでいた猿が持っていたウイルスであるが、土地が開発されて猿の近くに人が住み始め、接触が始まると、人に移るように変異し、それが全世界に広まったとされる。
そのような変異は進化の過程での、生物が変異を獲得して変わっていく様と同じで、菌やウイルスにとっても変異が感染に都合のいいものだけとは限らない。何億やなん兆もの個体が偶然の変異によって様々に変わり、自分たちの生存に都合のいい変異を獲得した個体だけが、優位に生き残れる。菌やウイルスにとっても自然に淘汰され、あっという間に消えてしまうものもある。サーズはどこにいったのであろうか?
インフルエンザ一つをとってみても、生物は未だに進化/変異を続けている事を実感させられる。またそのスピードの速さには驚かされる。
個人と組織
個人と組織の関係は諸葛孔明、真田幸村、秋山真之や山本五十六を述べる際に、常に彼らの前に立ちはだかった問題であった。いくら優秀な個人でも優秀な組織を動かす事ができなければその能力は生かされない。有能なリーダーと組織の方向性が噛み合い、歯車がうまく廻って、思いがけないような大きな仕事がなしうる。
WBCでの侍ジャパンの活躍と世界一のタイトルの獲得も、個人が個を押さえて、組織のために尽くした結果、なし得たものであろう。それに対し、アメリカやキューバは組織というより、個人が優先され、個人の個々の能力は侍ジャパンのメンバーよりも秀でていたかもしれない。しかし個人プレーが行き過ぎると組織が目的に向かって一団となりにくくなる。いびつな歯車になり、スムースに回転できない。その点、日本や韓国のチームは歯車に徹し歯車をスムースにまわす事を心がけた。そして、大きな回転力が生まれた。
近年、日本は従来の慣行を破り、個人を重視し、個々の自由競争に任せる方向に舵をきった。いわゆるグローバルスタンダードである。その結果、格差が激しくなり、社会がぎくしゃくしてきた。個をたてるか組織をたてるかは国によって、文化によって考え方は全く異なる。日本人はどちらかというと、個を消して集団に溶け込み、組織の歯車となって、集団として大きな仕事を成し遂げるという、古来からの日本人の精神構造にあった生き方をしてきた。個を滅する代わりに、個の面倒は組織が一生みてきた。
近年、国中がこぞってそのような社会を、アメリカ的な個を主体にして能力のある人間は、無い人間を踏み台にしてどんどん上がっていくという方式に変えようとした。
どちらがいいのかは一概には言えないが、日本国民全体を考えると、みんなが協力し、落ちこぼれを無くし、集団で大きな仕事をなそうというシステムの方が日本の幸せに向いているのかもしれない。し。WBCを見ながら真田や秋山や山本の嘆きを考えてみた。彼らはみんなこのような組織があったならとつぶやいたことであろう。しかし往々にして個人と組織が噛み合わず、力が分散され、おおきなベクトルにならない。これほど始末の悪いこともない。個人と組織の関係は古来より古今東西を問わずいつも難しい問題である。
昨年の3月にブログを初めて一年が経った。初めは身の回りに起こった日常を記すつもりであったが、どんどんとマニアックに流れ文章も長くなっていった。文章を書く感を取り戻すのを目的で始めたブログだったので、初期の目的を達せたのと、これ以上続けてもマンネリに陥りそうなので、この辺でひとまずこのブログは一時休止しようと思う。またぼちぼちと関係ない下品なことがコメント欄に現れ始めるようになったことも休止する理由の一つ。今後は、もっと長い文章を少し、時間をかけて書くか、日記的なブログとし、タイトルも全てリニューアルしてどこかで再デビューしたい。
日露海戦後の秋山
秋山真之は日露海戦でバルチック艦隊粉砕のための全面的戦略を立て、縦列に突入して来るバルッチック艦隊の前面で、古来よりやっては成らないとされていた敵前回頭を行い、丁字戦法を採り、大勝した事は有名である。我々も「坂の上の雲」などで日露海戦の時の秋山真之の行動は良く知っている。しかし彼の晩年のことについてはあまり知らない。
秋山真之は松山中学では10番あたりをうろうろしていたが、卒業の年になり、東京へ呼んでもらうために、一番になると決めるとその目標を達成した。また海軍兵学校(江田島)も首席で卒業した。成績優秀者は海外留学組に選ばれる。5名の成績優秀者(1番から3番まで)がえらばれアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスおよびロシアへ留学したがただロシアへ留学した広瀬武夫は例外的に席次が低く64番であった。彼は人が目を付けないロシア語を会得し、当時の列強の一つであるロシアに早くから目を付けていたのが認められた。広瀬武夫は後に旅順港閉塞作戦で壮烈な戦死を遂げる。秋山はアメリカに渡ると戦術戦略の大家マハン大佐に師事し海軍戦略を研究する。
ちょうどタイミングよくサンチャゴ海戦がおこり、実地に視察する幸運に恵まれた。この戦いはアメリカとスペイン海軍の戦いで、サンチャゴ港閉塞作戦、ダイクイリ上陸作戦、両海軍艦隊の海上決戦と行われ、アメリカ海軍が太平洋上での覇権を握るようになった戦いである。秋山真之はつぶさにそれらの戦闘を観察し、10章にも上る長文の報告書を帝国海軍軍令部に提出した。極秘情報118号とされたこの報告書は正確で広汎な観察と独創にみちた分析で、日本海軍の歴史上空前絶後の傑作とたたえられ、彼の天才ぶりを一気に高めた。秋山真之31歳。
その後、英国をまわって帰国した秋山は常備艦隊参謀をへて、海軍大学校の教官となり、戦務、戦術、戦略の講義を担当する。この名講義ぶりも彼の名を高らしめる。その戦術の講義では明治の時代に「現時すでに頭角を現し来たりたる軍用軽気球、又は潜水艇などが益々発達し、巡洋艦が空中を飛行し、戦闘艦が海中を潜航するに至ったと想定してみれば、もはやこのときの戦場は平面ではない。立体的である。戦術のみではなく現時全盛の海軍なるものも無用の長物となった、空軍万能の時節となりましょう」と予言している。しかし彼の予測があり、山本五十六の主張で真珠湾での空軍の大活躍があったにもかかわらず、日本海軍は結局、大鑑巨砲主義から逃れる事ができなかった。秋山真之は飛行機や潜水艦という実態を見ずとも予測できたにもかかわらず、昭和の海軍は実際に目の前で空軍の活躍を見ていても、それを認めようとはしなかった。そこに秋山や山本の深い深い憂いがある。
バルッチック艦隊を殲滅するため、連合艦隊が出撃した。その時「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動しこれを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」という名文を打電して出撃。さらに東京湾に凱旋し,天皇陛下へ凱旋の報告も秋山真之が書いた。「客歳2月上旬、連合艦隊が、大命を奉して出征したる以来、既に一年有半、今日再び和平の秋に遭い、犬馬の労を了へて大とう(天皇旗)の下に凱旋するを得たり」さらに続けて「天佑と神助により我が連合艦隊は5月27、28日敵の第2第3艦隊と日本海に戦いて殆どこれを撃滅することを得たり。我が連合艦隊が能く勝を制して奇跡を収め得たるは一に天皇陛下御稜威の致すところにして固より人為の能すべきにあらず。特に我が軍の損失死傷の僅少なりしは歴代神霊の加護によるものと信仰するのほか無くさきに敵に対し勇進敢戦したる麾下将卒も皆この成果を見るに及んで唯感激の極言言う所を知らざるものの如し。」と
連合艦隊解散の辞では「武人の一生は連綿不断の戦争にて、時の平戦に由りその責務に軽重あるの理なし、事あれば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本文を尽くさんのみ。――――神明はただ平素の鍛錬に力めたたかわずしてすでに勝てる者に栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に案ずる者より直ちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」とこの名文に感激したT. ルーズベルト大統領は全文を翻訳して陸海軍に配ったとされる。
天下の名参謀は名文の持ち主で、人を文章でも感動させる。諸褐孔明の出陣に臨んで奉った「出師の表」も名文として名高い。先帝劉備の遺徳を偲んで、自分が受けた恩、その時誓った漢王朝再興へ向けて、魏を滅ぼさなければならないとの思いの深さが切々と書かれている。
秋山真之は海軍大学校教官にもどった。その後音羽艦長、伊吹艦長と艦隊勤務を歴任。大正2年同期のトップをきって少将となっている。軍務局長に任じられた頃から、海軍戦略を越えて国家の外交に関心を持ち始め、孫文の運動を助けた。しかし、ときの外務大臣加藤友三郎は政治的介入を嫌い、秋山を更迭する。
秋山は海軍兵学校を首席で通し、その後も同期のだれよりも早く出世し、日本海軍の英雄となった男が、その炯眼が世に入れられなくなり、組織から浮き上がっていく運命は、壮絶かつ悲壮的である。
秋山も、幸村も強いては孔明も山本五十六までも結局はその才能、能力が周りの人間より、あまりにも秀でていため組織から浮き上がり、真意を理解できる能力の者がいない。それがこれら歴史の勇者を孤独にし、深い憂いを持たせる原因となっていった。
大正6年海軍中将に昇進。その頃から病床にふけるようになる。病床の秋山は戦略を説き続け「海軍は飛行機と潜水艦の時代になる。その研究発達に万全を期せられたい。」「米軍とことを構えてはならぬ。さもないと、日本は大変な苦境になる」と言っていた。
辞世の句 「不生不滅明けてカラスの3羽かな」49歳11ヶ月の人生であった。
真田幸村
小さい頃から漫画や少年向きの小説で、真田幸村、大助親子に親しんできた。猿飛佐助、霧暮才蔵や三好入道を従えて圧倒的な敵に七面法被の活躍をするさまを興奮しながら読んでいた。負けると分かっていても圧倒的な敵に立ち向かっていく生き様は日本人の魂を揺すぶらない訳はない。一方で、なぜわざわざ艱難辛苦な生き方を選び、それほど固執しなければならなかったのか?その意地の深さを思い泣けてきた。思い入れの深い真田幸村は一回や二回のブログで語り尽くせる物ではない。
真田幸村は真田昌幸の二男として織田信長の台頭で戦国の世がめまぐるしく変わる頃信州真田に生まれた。武田家に属し、真田の小さな里の城主だった昌幸は織田信長による信州攻略で、織田方についたかと思えば、本能寺での謀反であっけなく信長が殺されてしまう。すると主のいなくなった信州に越後の上杉、関東の北条や駿府の徳川がその空き地を虎視眈々とねらう。そんな情勢下、上杉景勝のもとに、幸村を人質に差し出し、北条が沼田を狙っているのが分かると徳川に近づくなど、弱小国としてはできる限りのことをしてきた。しかし徳川と北条が密約をかわし、沼田城を北条に譲れとの圧力がかかると、断固拒否。徳川勢7,000が上田城にこもる2,000に攻めかかってきた。徳川の猛攻を凌いでいるうちに、徳川軍は急に兵を引いてしまう。三河以来の家康の随臣の一人である石川伯耆守数正が岡崎城を棄てて豊臣秀吉のもとに走ったことが徳川勢が突然の退却をした理由であった。そこに徳川方のメンツを立てるため、秀吉が両者の仲介にはいり、徳川と仲直りをする。その結果、昌幸の兄である、信幸が人質として駿府にいくことになる。一方、幸村は秀吉のもとに人質として大阪に住むことになる。こうして真田家が将来徳川方と大阪方に別れて戦う遠因ができる。その後、信幸は徳川の重臣本多平八郎忠勝の娘ねいと縁組み、結婚する。
秀吉の天下がほぼ決まると関白に任じられ、お小姓組から抜擢された前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家とならんで石田三成が5奉行として秀吉の威光を背後に権勢をふるっていた。その石田三成やその小姓時代からの親友大谷刑部小輔吉継に認められ、かわいがられる。特に大谷吉継は幸村に好意を抱き、なにかと世話を焼きたがる。ついには娘のらくを幸村と娶らせる。
秀吉は最後の仕上げと、北条氏政、氏直父子に上洛を促し、真田昌幸の所領地、沼田を北条に与えた。それでも北条は挨拶に上洛しない。そこに名胡桃城事件が勃発する。この事件は秀吉が真田昌幸に計って、北条を陥れたもので、北条にこの城を攻めさせる様に計り、信幸からの訴状を受けて小田原攻めが始まった。
小田原の陣の後沼田城は真田家に返還され、領地も信州上田で38000石、上州沼田で27000石。徳川家が関東に移封されたのを機会に、沼田は徳川との縁の深い長男信幸に与えられた。小田原城開城一年後には秀吉の愛児鶴松が亡くなった。秀吉54歳。それを機会に羽柴秀次を養子にして関白の職を譲り、自らは太閤と称した。それから2年運命のいたずらか秀頼が誕生した。更に2年、秀次が乱行のかどで死罪を免じられる。
真田幸村は大谷吉継の運動により、従5位下、左衛門佐に任じられる。
1598年秀吉が亡くなると、幸村は上田に帰り、今後の対策を父昌幸と相談。1600年ついに家康が動き始める。会津120万石上杉景勝討伐の軍勢をあげると、それに呼応したかのように石田三成が挙兵する。真田父子はどちらかの陣営につくかで話し合う。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹で幸村の妻は三成最大の親友大谷吉継の娘、一方兄信幸の妻は父が徳川四天王の一人。昌幸は真田領の譲渡の要求や上田城攻撃などで家康を忌み嫌っていた。結局、昌幸と幸村が西軍に信幸が東軍にと敵味方に分かれる事となった。上田城に籠った昌幸、幸村父子は秀忠が率いて関ヶ原へいく4万の軍勢を、引きつけ時間稼ぎして徹底的に遅らせ、関ヶ原の戦いに間に合わせないようにした。その結果秀忠が関ヶ原に到着したのは戦いが終わって4日後のことであった。家康が激怒して、3日間秀忠に会わなかったことは有名である。
真田父子の上田城での秀忠軍遅延作戦は成功したが、肝心の関ヶ原の戦いで敗れてしまったため、家康は死罪を申し渡すつもりであったが、兄の信幸と本多忠勝が助命嘆願に努めたため、真田父子は高野山の麓九度山に配流される事になる。配流先の善名称院、通称『真田庵』で父子は仕送りに頼って細々と生活を送る。1611年(44歳)、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没。享年64歳。翌年に幸村は出家、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の訓練を積む。
疑問はなぜ真田父子を大阪に近い高野山に配流したのかということだ。関ヶ原の戦いで全てに決着をつけ、そのいきおいで、西軍総大将の居る大阪城を攻め、豊臣を滅ぼそうと思っていたのが、あまりにあっけなく西軍が破れ、豊臣に言いがかりをつけることがならず、またもう一度なんらかの言いがかりをつけ、豊臣方から攻めさせるか、落ち度をついて滅ぼす際に、一気に豊臣方に組する武士や浪人をあぶり出して一気に決着を付け、将来に禍根を残さぬ様に考えたのではないか。そのため、関ヶ原でやぶれた大名の武家を京都や高野山など大阪に近いところに置いて、監視していたのではないかと想像される。
関ヶ原から2年たつと、家康は朝廷から従一位右大臣に任じられ、征夷大将軍の宣下をうける。また孫の千姫を秀頼のもとに嫁がせ、豊臣方の懐柔も忘れない。その間、九度山の配所で昌幸が69歳で亡くなる。
家康はその後もなにかといちゃもんをつけ、2条城に滞在中に、秀頼に挨拶にきて臣下の礼をとるようにと強要してきた。相変わらず淀君などの大阪方は強気一本やりであったが、片桐且元、加藤清正や浅野幸長らに説得され、2条城での会見にこぎ着けたため、家康は大阪を攻める機会を逸する。そうこうする内に、かの有名な事件が勃発。家康は今まではゆっくりと時間をかけ無理押しをせず、豊臣を追いつめてきたが、これを境に一気に豊臣を潰そうとの態度が性急になる。家康も高齢、焦りが見えてきた。方広寺の大仏殿の鐘銘に「国家安康」とあるのは家康を呪い、またその後に「君臣豊楽 子孫殷昌」は豊臣家の繁栄を願う意味だとの言いがかりをつけ、一気に緊張が増した。
大阪方の誤算は秀頼が呼びかければ、太閤殿下の旧恩を受けた大名が少なからず集まるだろうと思っていたが、大名は誰一人馳せ参じることはなかった。太閤が亡くなって20年あまり、義理よりも現実が支配した。しかし世の中に溢れていた不平不満の浪人は大勢集まった。元大名の長宗我部盛親、や塙団右衛門、後藤又兵衛などがいるが、まさに寄せ集め集団であった。大野修理を秀頼の補佐として第一人者に任じる大阪方にあっては幸村の積極策は取り入れられる訳もない。幸村は大阪城の弱点である南方、そこはなだらかな台地があるばかりで要害はなかった、を固めるため、世に言う惣構えを造った。それでも十分でないと思った幸村は出丸をも造った。それは、当時の鶴橋村の小長谷の一丘陵に突貫工事で造られ、真田丸と呼ばれた。
かくして冬の陣と言われる戦いが始まった。真田丸は敵の大軍に囲まれ、猛攻を受けるも上田城攻防の際と同様、幸村は敵を翻弄し大活躍をして、真田の名前を上げる。家康は戦いの一方で和議をも画策し、決して無理押しはしない。大野修理もこれで時間が稼げると思って、和議を結ぶも家康の方が一枚も二枚も上手であった。外堀を埋め、惣構えを壊し、二の丸の堀を埋めて、和議の条件以上に堀は埋め尽くされ、鉄壁であった大阪城がただの城になってしまった。
和議を結ぶと同時に家康は次の戦いに向けて、着々と準備を始め、これを最後の戦いにしようと思っていた。まただれの目にも今度は城の外で決戦をしなければならないだろうということが分かった。
夏の陣に際し、後藤又兵衛は河内の国分が主戦場になるであろうと主張し、取り入れられる。しかし幸村は戦闘の一部に勝ったところで、情勢を変えることは難しいだろうとの考えから、家康本人を襲撃しなければ、所詮戦いに負けるであろうとの考えであったが、味方が団結するため、この案に賛成する。赤具足をつけさせた真田軍は伊達の騎馬隊をけちらし、誉田から藤井寺に渡って陣を構えたが最終的には木村重成や長宗我部盛親の敗北を受けて、大阪城に撤退した。明けて翌日、最後の僥倖を期して、天王寺口で家康の本陣を突くため、茶臼山に陣を構えた。真田の赤備えである。家康の本陣にたびたび突入するが家康をみつけることができず、真田隊の兵士とともに討ち死にする。享年49歳。46歳という説も或る。
義理と忠義をつくした悲劇の名将として語り告げられることになる。なにが彼をそれほど駆り立てたのか? 関ヶ原の戦いで勝てると読んだのか?家康のやり方に生理的な嫌悪を抱き、それと上田のような弱小大名を虫けらのように扱ったことが許せなかったのか?あれほど策略家の家康がなぜ、真田父子をうまくあしらい、味方に付けておかなかったのか?これほどの働きをするとは予想だにしなかったのではないか?
いずれにしても男の意地を押し通した。九度山にこもって15年。うわべは平静を装い、もの静かに隠居暮らしをしていると見せかけて、内面真っ赤にやけたマグマが沸々と噴火の時を待っていた。なにが彼を長い年月を経ても、変わらない魂を与え続けたのか?意地ということ以外説明する言葉を持たない。これぞまさに、一武将が大きな権力に立ち向かい一矢を報いたいとの命をかけての意地であった。
諸葛孔明
魏呉蜀の3国がその派遣をかけて争った壮大なるドラマは良く知られている。蜀の劉備元徳は漢王朝の末裔として、漢王朝を簒奪した魏の曹操を倒して、漢王朝を復興させ、正義を世に示そうとする。そのため劉備は関羽や張飛という義理に厚い豪傑と義兄弟の誓いをする。そこに三顧の礼をもって迎えた諸葛孔明や義理に厚くクールで重厚な趙雲を加え、蜀の国を築く。
しかし長い抗争により、関羽が亡くなり、ついで張飛が暗殺され、劉備や趙雲が亡くなり、2代目皇帝に凡庸な劉禅が跡をつぎ、人材の払拭する事甚だしく、孔明が孤軍奮戦せざるを得なくなる。
魏の国では司馬仲達一門の勢力が盛んになり、曹操のあとを次いだ曹丕もなくなり、曹叡が跡を継ぐ。
孔明は「出師の表」を奉り、劉備との約束通り、魏を倒そうと努力するも、その思いはどこか空回りし、皇帝や蜀の国の人々に現状で満足する傾向が出て来る。それでも孔明は魏を攻め続け、結局はかれもその戦いの最中に亡くなる。亡くなったあとも五条原で司馬仲達を敗走させる。これが「死せる孔明生ける仲達を走らす」と成る。孔明は何度も仲達を挑発し、決戦に臨もうとしたが、仲達は孔明と戦って、自分の才能が劣ることを自覚して挑発に乗る事は控えた。徹底的に持久戦に持ち込んだ。これが功を奏して孔明の寿命は尽きてしまう。234年没。
魏の国では司馬仲達一門の勢力が盛んになり、曹操のあとを次いだ曹丕もなくなり、曹叡が跡を継ぐ。その曹叡も36歳という若さで亡くなり、曹芳が即位(239年)する。曹爽が権力を振るい始め、仲達は病気を装い引退し,ぼけているふりをした。曹爽が安心して洛陽を留守にしている好きに一気にクーデターを起こし、政権を奪取してしまう(249年)。そして、降伏した曹爽一派を殺害し、魏における全権を握った。
蜀では258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。そうなると蜀の国は暗愚な劉禅と、魏延の裏切りであっさりと魏に降伏してしまう。しかし劉禅は魏・晋両国で「安楽公」に封じられて天寿を全うした。劉禅はこの暮らしに満足したという。
その後、結局天下を統一したのは司馬仲達の孫の司馬炎で、形では魏より禅譲を受けて皇帝となり、「高祖宣帝」となった。かくして晋王朝を創始した。
これが三国志の結末。天下を統一したのは曹操の末裔でもなく、孫権や劉備の末裔でもなかった。
蜀の敗因はなにだったのだろうか?結局は国力の差。人材の不足。に尽きる。孔明はそれが分かっていて自分が生きている間に短期決戦でもって魏を倒したかった。そのため幾度も遠征するが、結局仲達の消極的作戦で持って歯車が噛み合わず、長期戦になってしまった。こうなると消耗戦となり、物量、人材の豊富な方に軍配があがる。
孔明をしてみても、動かぬ敵に戦略はかけられず、膠着状態が続き、じり貧を免れなかった。孔明も死に場所を求めて、何度も何度も戦いを挑んだがその精神が初期の義に燃え立つ劉備を初めとする関羽や張飛と異なり、贅沢に育ったボンボンの劉禅やその取り巻きにうまく伝わらなかった。それら2世連中はまた生活も安定し、現状に満足し始めてきた。蜀は滅びるべくして滅んだと言える。
ニミッツ
山本五十六の魂は伝わらず、孤軍奮戦すれども空回り、明治初期の頃の気概をもった軍人がいなくなった。学校の成績至上主義のエリート軍人が上層部を占め,軍人の官僚化が起こり、自分たちの利害追求に走って、大所高所からの判断ができなくなった。山本五十六はこのような内なる敵とも戦わなければならなく、しだいに作戦も官僚化した軍人達と妥協をせざるをえなくなる。
一個人が持てる力を最大限に発揮するためには、個人と組織がうまくかみあっていなければならない。孔明が劉備亡き後、孤軍奮戦で長期戦に次第に消耗していったのに対し、山本五十六も少数の理解者はいたが孤軍奮戦を余儀なくされた。彼も大国アメリカを敵にまわすにあたり、その国力の差を考え孔明同様、短気決着を望んでいた。しかし、軍人官僚達は長期戦、防衛戦を望んでいた。
日本は組織がばらばらで意志の統一を欠いたのに対し、米国は太平洋面での作戦はニミッツ一人にその権限を与え、意志の統一を図った。
ニミッツはハルゼーという日本では考えられないような劣等生(卒業席次は42/62)を取り立てて第3艦隊司令官にした。彼は勇猛果敢でジャップを殺せ、ジャップを殺せと叫んで部下に人気があったという。一方ではその野卑さで大きな組織の長になれる人物ではないとの酷評もある。彼は「ミズーリ」号での降伏文書調印式では会場責任者として出席した。この時日本側代表重光葵外相が署名までもたついていた。「サインしろ、この野郎! サインしろ!」と罵った。また、調印式の最中は「日本全権の顔のど真ん中を泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」ともいう。
ニミッツはハルゼーのような一本気で勇猛な猪突猛進タイプの軍人もうまく使ったが、彼自身はハルゼーとは対照的な紳士で、戦後荒廃しきっていた「三笠」の修復にも手をさしのべた。「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止した。1958年の『文藝春秋』2月号において「三笠と私」という題の一文を寄せ、「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…」と訴えた。保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付した他、アメリカ海軍を動かして揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約三千万円を充てさせた。「三笠」の復興総工費が約一億八千万円であるからこの運動は大きな助けとなった。1961年5月27日に無事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹したという。ニミッツは軍人としても卓越していたが、人間としても人情味あふれる男であった。
ニミッツのように、敵国の軍人(東郷元帥)を崇拝する度量と余裕のあるすぐれた人物が敵の太平洋方面司令長官であったことは、作戦をどうのこうのという前に、どうあってもかなわない気がする。
零戦対抗機Hellcat
第二次大戦中、アメリカ海軍が空母に配備した主力艦上戦闘機で特に有名な戦闘機はヘルキャットである。
このF6Fの開発目的はズバリ「打倒!零戦!」であった。1943年初頭まではアメリカ海軍機で唯一零戦と互角な戦いを繰り広げられたのはヘルキャットの前機種F4F「ワイルドキャット」ただ1機種のみ。
「ワイルドキャット」が苦戦したのは零戦の軽快な運動性によるもので格闘戦(ドッグファイト)に持ち込まれれば最後、運動性ではまず勝ち目は無かった。アメリカにとって日本は仮想敵国であったとはいえ、零戦21型がここまで高性能であるとは夢にも思っていなかった。
そこで前線では零戦との1対1の空中戦を禁じてチームで戦うことを徹底させていた。この戦術は効果があり、一方的な戦いではなくなったのです。
しかし、機体の性能差が簡単に埋まるわけではなく前線では新型機の到来を望む声が高くなった。この新型機開発に向けて、アメリカ海軍は最終的に2社に開発指示を出した。
一つはまだ戦闘機開発においてメジャーではなかったヴォート社、そしてもう一つが軍用機の名門グラマン社だった。ヴォート社の画期的すぎる新型機(後のF4U コルセア)は開発失敗の可能性もあったため、保険の意味合いでグラマン社にも新型機開発を発注していたのだった。
グラマン社ではF4Fを全般的にパワーアップした後継機の開発に乗り出していました。しかし、少々のパワーアップ程度では零戦21型と戦えないため、エンジンはF4Fの倍は出せる強力なものを採用しスピードと重武装という点の強化を図った。この設計には捕獲されたライバル機「零戦」の分析データ、先行投入されたF4Fの運用データもあり、比較的設計チームは気楽に仕事が出来たといわれている。
癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高める堅牢な装甲、防護鋼板などの装備に加え、見た目に反し日本軍搭乗員にも一目置かれるほどの良好な運動性能があり、格闘戦を得意とする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体で、折畳み式の主翼を備え一隻の航空母艦に多数が搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。弱点は2,000馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが、それでも零戦や一式戦闘機「隼」など、日本の1,000馬力級戦闘機よりは優速であり、必要にして十分であった。限られた出力の機関で最大限の性能を発揮するため極力まで軽量化された零戦に対し、大出力の機関を得て余裕のある設計がなされたF6Fは全く正反対の性格の戦闘機であり、日米の国力の差を象徴していると言える。
さらにコクピット周りの防弾鋼板をはじめとする防弾装備が強化された。コクピットの防弾鋼板は零戦21型の標準武装の一つであった7.7mm機銃を全く通さなかった。 この結果パイロットの生還率も高く、その防御力の高さから当時のパイロットたちは「グラマン鉄工社製」などとあだ名をつけていたというエピソードがある。
設計チームはこのパワーアップに必要なエンジンに新型の2000馬力級エンジン「プラット・アンド・ホイットニー・ダブルワスプXR-2800」を選択した。このエンジンはアメリカを代表する高性能・高出力エンジンで信頼性においても定評があり、各航空機メーカーはこのエンジンを競って採用した。
これに匹敵できた日本のエンジンは「誉」型程度で、信頼性が全く比べ物にならなかった。「誉」は限界ギリギリの設計であったのに対し、こちらは非常に余裕を持たせた造りになっていたのです。
また重量が重いため、零戦に対してはるかに急降下速度が速く有利に戦闘に持ち込めたと言われる。
性能諸元(ヘルキャット) 零戦
全長; 10.23m 9.12m
全幅; 13.06m 12m
全高; 3.52m 3.53m
正規重量; 4128 Kg 1745 Kg
エンジン; 2000馬力 950 馬力
最大速度; 603 km/h 534 km/h
武装; 12.7㎜機銃 6挺 7.7 mm 機銃 2挺
爆弾:454 Kg×2 120 Kg x2
比較からも分かるように、圧倒的零戦が軽く、運動性能がいい事が分かる。一方で、エンジンの馬力と言えば、2倍程度ヘルキャットの方が高い出力をほこる。この出力の差はどうしようもないほど大きく、武装、防弾、爆弾装着をとってみても優れている。特に、零戦の持っている機銃ではヘルキャットの防弾鋼板を貫通できず致命的ともいわれた。大戦の終盤、おそまきながらこのヘルキャットに対抗して、大型エンジン金星を積んだ零戦が登場したが、すでに時遅しであった。
画期的ないい製品を開発すると、それにひきずられて次の製品が出にくいのは昔も今も同じである。もう少し、もう少しと引きずり、交代のチャンスを失う。
これが決定的な敗因となる事は現在の大きな会社でもよくある。その典型がソニーのウオークマンである。出た当時、まさに画期的、これで一気にソニーの名を高めた。画期的な製品を出した後は、別の人物による別の戦略で大きなchangeが必要である。でも日本ではそれは非常に難しい。なぜなら,それほど成功した人を換えるなんで、人情的にできない。歴史は証明している。大成功の後にはかならず油断がきて、大敗することを。
生物分布境界線
日本は島国であるため、他の国に比べ固有種が多く、多様性にも富んでいる。
全世界の総生物種は175万種でそのうち哺乳動物が6000種、鳥類が9000種、昆虫が95万種、維管束植物は27万種あまりとなっている。特に、陸地面積の7%しかない熱帯雨林に全生物の90%近くが生息すると言われる。
日本はユーラシア大陸東岸の雨の多い地域に属し、植物相は旧熱帯区系界と全北区系界の二つにまたがり、動物相は旧北区と東洋区に属している。日本は南北に長く、多くの島より成り立っていることや大陸との分断やモンスーン地帯に位置する事など豊かな生物相を示している。我が国の維管束植物が5565種あり、哺乳動物が188種で、は虫類が87種いる。同じくらいの面積のドイツと比較してみると、ドイツでの維管束植物は2632種、哺乳動物は76種では虫類は12種と,我が国の方が圧倒的に多様性に富んでいる。
我が国の総植物種は9万種類と言われ、地理的に古い時代に大陸から離れた南西諸島,大陸とつながったことのない小笠原諸島と南鳥島が旧熱帯区系界に属し、残りの地区は全北区系界に属す。旧熱帯区系ではタコノキやヤシ類が特徴的で全北区系ではクリやヤナギ類が分布する。動物相の面からは、6つに区分される世界の動物区のうち、わが国は旧北区と東洋区に属し、九州本島以北の地域の動物相はユーラシア大陸との類縁性が高くなっている。また、屋久島・種子島と奄美大島との間に引かれる渡瀬線より南の地域には、ハブ属やチョウ類など台湾や東南アジアとの近縁種が多くなっている。渡瀬庄三郎(1862年生)は南西諸島の生物相を検討するうち、屋久島・種子島と奄美諸島の間(厳密にはトカラ列島の悪石島と小宝島の間)に、生物地理区の旧北区と東洋区を分割する分布境界線が存在することに気づき、1926年(大正元年)にこれを発表した。この分布境界線は、現在も渡瀬ラインの名で知られている。渡瀬線以北の地域は、津軽海峡に引かれるブラキストン線によって2つの亜区に区分され、北側はヒグマやナキウサギなどシベリアとの近縁種が多く、南側はツキノワグマなど朝鮮半島との近縁種が多く見られる。この境界ラインを提唱したのは、イギリスの動物学者のトーマス・ブラキストンである。彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があるとみてこれを提唱した。また、ほ乳類にもこの海峡が分布境界線になっている例が多く知られる。日本で生物層が大きく変わるのは、よって渡瀬ラインの南と本州、九州、四国地区とブラキストンラインの北、北海道である。
世界で分布境界線を最初に提唱したのは、アルフレッド・ウォレスである。彼は労働者階級の出身のため、貴族階級のダウインの影に隠れて、進化論への貢献度が極度に低く押さえられている。ダウインが種の起源を書き上げるにあたって、彼のデータを随分参考にした事は間違いない。ダウインに消された男とも言われる、彼は1868年、インドネシアにおける生物研究の中から、主として動物相の差をもとにその存在を主張した。彼の言う境界線はスンダ列島のバリ島とロンボク島の間を通り、ボルネオ島、セレベス島の間を経て、ミンダナオ島の南へ抜けるものである。彼によると、これより西は東南アジアを含む東洋区の生物相を持ち、これより東はオーストラリア区に属する。この境界線は、ウォレス線と呼ばれる。有名なのはこれより南には大型肉食獣が存在せず、そのため全く外の地域とは異なった進化をとげた動物が多いことである。オーストラリアのダチョウや南極のペンギンなどの空を飛ばなくなった鳥。カンガルーなどの有袋類などや更にはカモノハシや針モグラなどの卵胎生がその代表。ほ乳類であるにもかかわらず、卵をうむ。
このように多様性に富んだ生物相が形成された背景として、わが国の国土がユーラシア大陸に隣接し、新生代第四紀に繰り返された氷期と間氷期を通じて、津軽海峡やトカラ海峡等で陸地化と水没を繰り返し、これに伴い様々な経路で大陸からの動植物種の侵入や分断・孤立化が生じたことが挙げられる。
日本列島は大陸から分離して成立したが、奄美諸島以南の島々は大陸島の中で最も古くから独立した島であるため、動物相の固有性が高い。また、北海道は大陸とのつながりが長く続いたため、北方要素の強い独自の動物相が見られる。このため、屋久島・種子島と奄美諸島との間に引かれた渡瀬線及び本州と北海道の間に引かれたブラキストン線の2つの生物地理学上の境界線を区分の指標とする。
琉球列島と小笠原諸島は独自な生物種の進化をとげたため、この島の生物種は他の地区と異なる固有種が多い。
琉球列島は亜熱帯に属し、年降水量が多い。亜熱帯林が発達し、マングローブなど南方要素の強い植物が見られる。奄美大島や沖縄本島北部のやんばる地域、西表島にはまとまった照葉樹林が分布する。動物相は極めて固有性が高く、ヤンバルクイナやイリオモテヤマネコなどの生息により特徴付けられる。
小笠原諸島は亜熱帯に属し、年降水量は中位である。ヒメツバキなどに特徴付けられる海洋島型の亜熱帯林が見られ、父島や母島にはシマイスノキが優占する亜熱帯林が分布する。動物相は極めて固有性が高く、オガサワラオオコウモリなどの生息により特徴付けられる。
日本は島国だけあって固有の生物種が多い。しかし近年、多くの外来種が持ち込まれ、古来種を絶滅させようとしている。固有種が失われれば、昔の里山の風景は成り立たない。メダカが泳ぎ、蝶やトンボが飛び、夏の夕暮れともなると蛍が飛び交うという田舎に行けばどこにでもあった風景を取り戻す事ができるであろうか?
白州正子著「西行」を読んで
今までにも西行に関する書物は西行物語や山家集を含めいろいろと読んできた。しかしこの本はそれらの解説本と異なり、西行の内面に深く入り込み、そのときに西行が感じたであろう「無情と世間を完全に断ち切れない境地」の感情が「異常なまでに桜の花に注がれた」様を語っている。西行自身が訊ねていったゆかりの地を著者自身が実際に訪れ、西行がそこで読んだ歌とその当時の西行に立ち返っての心情の吐露の代弁は、「出家したけど人間を捨てきれなかった西行の業と、その心のうちを和歌を通して訴えた生き様」の叫びとして興味深い。
西行の俗名は佐藤義清。1118年に生まれ、18歳で左兵衛尉となり、鳥羽院の北面の武士として仕える。23歳で出家し、西行と名乗る。出家の原因には諸説有るが、西行物語では親友佐藤範康の急死が直接の原因であるとしている。しかし源平盛衰記によれば「申すも恐れある上臈女房を思懸け」ての失恋にあるという。この女性は鳥羽上皇の中宮となった侍賢門院たま子「王に章とかく」で、西行はこの女性を崇拝し熱愛していた事は疑う余地がないのだそうだ. たま子は正2位権大納言藤原公実の末子に生まれた。生まれてすぐに白川法王の寵妃、祇園女御の養女となり、院の御所で生活する。白川法王は次第に孫ほどに年の違うたま子を寵愛するようになり、ついに手をつけてしまう。法王は適当な婿を捜そうと、関白忠実の息子、忠道に声をかけるが言を左右にして応ぜず、鳥羽天皇のもとに入内させる。天皇15歳、たま子17歳であった。
「夕張りの月にはづれて見し影の 優しかりしはいつか忘れん」
白川法王との情事は入内後も続いた。第一王子の顕仁親王(後の崇徳天応)は法王の子であった。侍賢門院はまさに院政を象徴する女性で、やがて勃発する保元の乱の因となった。法王は1129年に崩御し、嵯峨野の法金剛院にまつられる。時が過ぎ、鳥羽上皇は美福門院を寵愛するようになり、侍賢門院も42歳(1142年)で出家し、法金剛院に籠り、45歳で崩御し、多情多感な一生を終えられる。
西行29歳の折。侍賢門院、かくれさせおわしましにける御あとに、人々またの年の御はてまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀河の局のもとへ申し送りける。
「尋ぬとも風の伝にも聞かじかし 花と散りにし君が行へを」
侍賢門院の崩御から十数年経って法金剛院に紅葉を見に行き。
「紅葉見て君やたもとや時雨るらん むかしの秋の色をしたひて」
また嵯峨野清和院で 「春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり」
西行は出家した後、しばらくは向日市の西、長岡京の大原野の「花の寺」大原院勝持寺にいたと言われる。
「山林流浪の行をせんとおもいて」吉野へ毎年のように桜見物にでかけ60首の和歌を詠む。
「吉野山花の散りにし木のもとに とめし心はわれをまつらん」
「願わくば花のしたにて春死なむ その如月の望月の頃」
「春ふかみ枝もゆるがで散る花は 風のとがにはあらぬなるべし」
湘南海岸の大磯近くに鴫立沢の旧跡がある。西行はここで3夕の和歌として有名な
「心なき身にもあわれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」を詠んだ。
陸奥にも2度旅をしている。白川の関をもうでて、能因法師の詠んだ「都をば霞とともに立ちしかぞ 秋風の吹く白河の関」を慕って白川の関を訪れている。
「白川の関屋を月の漏る影は 人の心を留むるなりけり」
院政時代というのは、王朝の文化が、最後の光芒を放ちつつ消えていく時代であった。その衰退の始まりは保元の乱にあった。保元の乱、平治の乱、源平の合戦と承久の乱との戦乱を通して朝廷の権力は無惨にも瓦解する。中でも凄惨を極めたのは崇徳天皇の生涯であった。天皇が白川法王と侍賢門院たま子の間に生まれた不義の子であることは、先に述べたが、白川法王が崩御すると、美福門院得子が鳥羽上皇の寵愛を集める。そして得子の生んだ体仁親王(後の近衛天皇)が皇太子にたてられ崇徳天皇に譲位を迫った。その時天皇は23歳。体仁親王を養子にさせられ、親王は3歳で即位する。鳥羽上皇に深い恨みをい抱く事になった。その頃から、侍賢門院も落胆のあまり、出家する。また先の関白太政大臣の忠実とその次男の頼長と長男の忠通が崇徳院派と鳥羽上皇派に分かれ確執がひどくなった。鳥羽上皇が崩御すると忠通は源頼朝や平清盛と手を組み保元の乱を制し、崇徳院は出家を余地無くされる。西行はすぐさま仁和寺の崇徳院のもとを訊ねる。
「かかる世にかげも変わらずすむ月を 見る我が身さえ恨めしきかな」
保元の乱が終わると崇徳院は讃岐の国へ流島となった。配流の後8年して46歳で崩御した。西行はそれから4年して配流の跡を訪ねている。讃岐に詣でて、松山の津と申すところに、院おわしましけん御跡たづねけれど、かたもなかりければ
「松山の波に流れて来し船の やがて空しくなりにけるかな」
よわい70のころには源平の戦いも終わり、義経が陸奥に追われていたが,その頃西行は伊勢に滞在していた。
1190年西行は弘川寺で73年の生涯をとじる。侍賢門院への思慕の情から逃れるためには出家して自己を否定するより仕方なかった。心なき身になりつつも、朝廷に見られる人間の強欲と権力闘争の激動を外から見ていて、歌が唯一のなぐさめとなっていった。
新しい年が明けた。100年に一度の大不景気も満足する事を知らない人間が欲望を膨らまし、グローバル化を金科玉条にして、世界を競わせ大量消費をあおり、借金をしてまで買いあさった結果だ。更に人は自分の欲望のため、地球をも破壊しつつあり、何十億年もかかって進化してきた自然は今や息絶え絶えとしている。
年頭にあたり、破壊される地球と人間の横暴に抗議の心を込めて短い小説を書いてみた。だれかこの小品のイラストを描いてくれる方はいませんでしょうか?
(この文章は正月の間に書いたものですが、もはや2月も半ば。手直しのため少し外っておいたため、発表の時期がずれた。)
-Lonely penpen-
written by superpenpen
いつの頃からか地表を覆っていた氷が解け始め、棚氷も年を追うごとに痩せ細り、黒い雲かと見まごうばかりにいた大好物のオキアミやイカも少なくなってきた。何百年も何千年もの間、先祖代々住み慣れた岩だらけの島での生活はちょっぴり不便だけど、それでも魚でいっぱいのおなかを抱えて、仲間同士助け合って、岩山をよじ上って巣への道を急いだものだった。いつの頃か人間がクジラを追って現れ始め、ところかまわず荒らし回るようになった。人工の岸壁や小屋を作り、ごみを放置して、何万年、何千年けがされることのなかった自然が次第に失われ、ペンギンには住みにくい荒廃した南氷洋の島となってきた。最悪なのは近年にはいり人間があちらこちらの島に犬や猫を連れて住みつき、牧場を作るため自然を破壊し、我々の住処を占拠し、羊を飼っておきながら、動物愛護だ、ペンギンを保護しなければと叫んでいることだ。
(1) 希望
あの頃は若かった。颯爽と金髪のリーゼンをなびかせ、胸を反らして岩の上をこれ見よがしに飛び回ったものさ。燃えるような真っ赤な目はルビーの瞳。情熱そのもの。海中に潜れば空を飛ぶように羽ばたき、矢のような速さで魚を追いかけた。俺にかかればどんな魚だってもうおしまいさ。蒼い空に蒼い海。はち切れんばかりの希望が胸につまっていた。いつも何かでっかいことをやってやろう、地球を引っ掻いてやろうと思っていた。何に束縛される事もなく自由に泳ぎ回り、夜になると満点の星空をあおいでの一寝入り、日が昇れば魚採りに明け暮れた。氷山の下をひょいとくぐり抜け、魚を追った日もあった。冬には棚氷が突き出て、一面氷と雪の世界。冷たい風が吹き荒れても、へっちゃらだった。氷の合間から海に入ると大しけでも水の中は静寂そのもの。音のない水中を飛び回ると、まさに天下を取ったような気分。仲間のペンギン達にもこの身軽で格好いい自分の姿を見せつけ、得意の絶頂だった。オキアミや小魚はあちらこちらで群れて泳ぎ回り、大好きなイカも簡単にありつけた。ある時は南極からの寒流に乗って遠足をし、はち切れんばかりの魚をお腹に詰め込み、南十字星を眺めつつ波に揺られて独り寝としゃれた。気楽な毎日であったが、ちょっぴり寂しくもあり、恋にときめく歳になってきた。
(2) 恋
初めて彼女を見たのは海の奥深く大好物のイカを追って行った時だった。昼なお暗い海の奥深く、蛍光色に光り輝くイカを追っていた。まさにイカに追いつき、採ったと思った瞬間、そばから音もなく猛烈なスピードで追い越したかと思ったら、イカをかっさらったペンギンがいた。横取りされむかっときて文句を言おうとして、顔を見た。とたん精悍さの中にも気品のある顔に圧倒され何も言えず、しょんぼりと海面に浮かんでいった。その間、何を考えていたのか、ショックのあまり、記憶にない。髪はリーゼンに決め、金色の髪飾りを風になびかせて、格好よく岩の間を飛び回っている自分が持てないわけないと思っていた。実際、多くの女の子に声をかけられ、散歩はしたけれど、何となくそのままになっていて、積極的になれる彼女はいなかった。
次に彼女に会ったのは夏(南半球では夏が寒い)が終わり、ひさしぶりに雲もない晴天の秋の朝だった。岩をピヨンピヨン跳んで海に行こうとした時だった。ふと胸騒ぎがして斜め後ろを振り返ると、丁度彼女も海に向かおうと岩をジャンプしていた。
一緒に海に入らないかと声をかけると、ぶっきらぼうだけど、思いがけず「良いわよ」との声が返ってきた。海の中では魚の追いかけっこになった。陸上での岩跳びは遥かに僕がうまいのだけど、水の中の動きでは彼女の方が敏捷で、魚採りもうまかった。海の奥深くに潜って、一気に上昇してきて、魚をとる技はとりわけすばらしかった。2人が協力して、一人が魚を追い込み、一人が採るといとも簡単に魚が捕れた。調子に乗って何匹も何匹も魚を捕った。相性の良さはこの上ない。急速に仲良しになり、一緒に魚採りに出かける日が増してきた。ある時は海辺の岩の上に立ち2人して大きな夕陽が海の向こうに沈んでいくのを無言で眺めていた。水平線に真紅の太陽が沈みかけると、あちこちの氷山に残光があたり、赤やオレンジや紫の反射となって飛び散り、光のファンタジーショウが始まる。波も金色の光を浴びて飛び散る。海全体が光の反射を受けてきらきらと輝きだす。夕日が落ちると、今度は天空いっぱいが紅赤色に染まり、雲の端が金色に光り輝きはじめ、海面は次第に黒々としてくる。やがて、壮大なる光のショウも終わり、空も紫色から薄墨色へとかわり、闇の帳が支配し始め、漆黒の闇に代わる。それを待ちかねた様に天空では星々のきらめきのショウが開始する。そんな中、おなか一杯の魚をもって、2人は巣への帰路を急いだものだった。
またある時は遠くの島まで魚を求め、幾日も泳いでいった。ただ2人でいることだけで幸せだった。日が暮れて漆黒の闇が二人をとりまいても、フリッパーに触れて光る夜光虫の蛍光が、あたりをほの明るく照らし出し、道に迷うことはなかった。夜空を跳ぶ自分たちのシルエットが夜光虫の滴りで輝く。いつしかその光も、水平線から覗いた太陽で色あせる頃、小さな島に着いた。島の周りは人間が手をつけていない、荒らされてない自然が残り、好物の魚たちも群れになって泳いでいた。島には、なにより、小さな湾の奥に休むには絶好の平らな岩棚が波打ち際にあり、おおきな図体のアザラシ達もゆったりと寝そべっていた。二人は心置きなく魚を追い求め、疲れると岩棚の上で休憩した。そんな日々が1−2年も続いただろうか。
(3) 結婚
秋が行きかけているある日。ついに2人はお互いに向かい合って、フリパーをパタパタと打ち鳴らし、くちばしを空に向け大きな声で結婚の誓いをした。僕は島の中腹の岩陰の窪地を掘り、小石を運んで新居を作った。2人の家は狭く,雨風を完全には防げなかったけれど幸せそのものだった。すぐに2人の卵が産まれ、僕と彼女で交互に大切に1ヶ月あまり抱きかかえた。すると殻の内側から最初は弱々しく、次第に力強く殻をつつく音が聞こえ、ついには殻を打ち破り、かわいい産毛の子が誕生した。それからが夫婦にとって大変。なにしろいつもお腹をすかして餌をねだる。交代で海に出て、お腹いっぱいにして帰って来て、お腹の魚を戻して子供に与えるのだけど、くちばしをつついて催促する食欲は限りない。一人が巣を守り、一人が海に出て餌をとったのでは追いつかなくなると、そのような幼児ばかりが集められた、クレイシュという託児所に預けて二人して餌を採りに海に出た。クレイシュの何百の幼児の中から我が子を見つけ出すのは大変。鳴き声と匂いとを目指して我が子に巡り会い、餌を口移しであげて、また海にでる。これの繰り返しが2ヶ月近く続いた。しかしある日を境に、次々に本能によって海に導かれるかの様に、幼いペンギンは海を目指して、巣だっていった。我が子も海際で少し躊躇さをみせ、後ろを振り返ったが、海へとジャンプし、海の彼方に仲間達と巣立っていった。
そんな繰り返しが何年も続き、何事もない日常が淡々と過ぎていった。そんな平凡な日常が一番幸せだった日々だと分かったのはずーっと後になってからだった。10年も経っただろうか。我々夫婦もすっかりベテランとなり、やっと落ち着いて子育てもできるようになってきた。巣立ったペンギンは本能の赴くまま、多くの雛ペンギンと沖を目指して次から次へとくりだす。あの頃は,毎年多くの卵が孵り、巣立ちも実に騒がしいものだった。
しかし、そのような穏やかな日々は長く続くことはなかった。
(4) 人間の出現
ある時を境に、次から次へと多くの人間がわれわれの住む島にやってきて、油を採るためにクジラだけでなく我々をも乱獲した。その殺戮はほどなく禁止されたが、やがて人間がやって来るばかりか、住み着く様になった。その結果、人間と一緒にやってきた病原菌と犬や猫,羊が確実に我々の生活をうばった。特に免疫のない病原菌により、多くのペンギンがばたばたと死んでいった。また人間は何かと理由をつけては牧場を広げたため、われわれの住むところは犬の来れない崖の中腹に狭められていった。ペンギンの子供の数はあっという間に激減し、若い夫婦も少なくなってしまった。それに最近では傲慢で、欲が深く、恥知らずの人間は我々の住処を荒らすばかりか、とうとう地球までも破壊し始めた。その影響で地球全体が温暖化に向かい、南極近海の海水温が上昇したため魚の群れが遠くに行ってしまった。その結果、大好きだったオキアミやイカもこの附近の海域からめっきりその姿が減ってきた。それでもまだ我々夫婦はどうにか飢えることなく小さな島の小さな岩陰でひっそりと人間におびえ、犬におびえてくらしていけた。
(5) 天候不順
人間が我々の島の周りに出現し始めるのと比例して、次第に天候不順な日が多くなり始めた。冬には気温が異常に上昇し、棚氷も溶けて、南極とも思えない温かい冬が続くことが稀ではなくなってきた。われわれペンギンの身体は寒いのにはヘッチャラだけど、暑さには耐えられない。そんな気候で、冬の暑さに多くのペンギンが亡くなったかと思うと、夏にもその気温の上昇が我々に襲いかかった。夏に降るべき雪が降らず、雨が降った。またあたりの氷も溶けて、幼児の保育所のクレイシュを水浸しにした。大人のフリッパーは水を弾くようになっている。幼児の羽毛は体温を寒さから守るための防寒具だけど、それが逆に水を吸って、体温をうばい、多くの子供が息を引き取った。幸いにも私たちの子は、雨に打たれて肺炎になったが、奇跡的に回復して無事旅立ちを迎えることができた。
(6) 不幸の始まり
あれは突然の出来事であった。波打ち際で旅立ちを迎えて、泳いでいた子供に大きな影が近寄る間もなく、その影が突然波間から現れ、大きな口の中に飲み込まれていってしまった。大きな,大きな黒くてお腹が真っ白なシャチであった。余りにも突然の出来事で、無声映画の駒送りのシーンのように、ワンカット、ワンカットがゆっくりと流れていき、声もでず、手足も動かなかった。時間からいえばほんの数秒であったか数十秒であったにもかかわらず,永遠のように感じられた。音のないモノトーンの写真の中の出来事のようであった。
それから長い月日が経ったようにも思えるが、実際にどのくらい経ったかは覚えていない。ただひたすら忘れようと一日中海に潜り、魚を追っかけ、海流にも乗り遥か地球の彼方へといってみたりもした。何度も死のうと考えた。しかし生きながらえた。天が命を奪うまで生きようときめた。子供の分まで生きようと決めた。それでも心の傷はいやされることはなく,悪夢となって度々あの光景が現れた。夢の中で声を上げて泣いていると、その自分に気づいて、目が覚めた。それでも次第に月日が経つと、悪夢は茫洋とした大海の景色の中に封じ込められていった。現実から逃避し、魚採りでいやなことから逃げていると、世の中の移り変わりや妻のこと等も気にかける余裕がなかった。
妻の気持ちは離れていき、少し精神も壊れかかっていった。非常に感情が高ぶったかと思えば、すぐに落ち込み感情のコントロールができず、潔癖になりすぎ、寛容さがうしなわれてきているようだった。そんな妻にどうしようもせず、慰めの声をかけるでもなく心が離れたまま、月日が過ぎていった。それでもどうにか、表面的な日常生活は送っていた。海の彼方へ沈んでいく夕陽を眺めながら、日が落ちて、夜の帳が支配する間の残光によって照らし出された夕焼け雲をみながら、心を落ち着かせ,昔のあの美しかった自然一杯の夕日を思い浮かべながら、暗闇の中を巣へ帰っていくだけの気力はお互いに残っていた。
(7) 自然破壊
天候のくるいも次第に顕著になってきた。 いつもなら雪が降り氷が厚くなり、氷棚の張る夏にも関わらず、土砂降りの雨が降ったり、異常に高温の日が続くことがまれではなくなってきた。冬には晴れ渡った晴天の日がなく、長雨が続き、風やインフルエンザと言った感染症が蔓延し、大勢の幼いペンギンや年老いたペンギンの命を奪った。海岸にはプラスチック製のボトルや発泡スチロールの破片が大量に流れ着いた。昼間の海中でみるとそれはきらきらと光り、多くのペンギンはイカと間違えプラスチックを飲み込んでしまい,消化できず亡くなっていった。私の妻もイカと思って飲み込んだ発泡スチロールがのどにつまり、苦しがってあっという間にあの世にいってしまった。彼女にとってみれば生きて地獄を見るよりも幸せだったかもしれない。あれほど大勢いた仲間達が人に狩られ、営巣地を牧場にされ、犬や猫に追いかけられ、はたまた人の持ち込んだ病原菌に壊滅的に数を減らしていった。人間は地球に炭酸ガスや過酸化ガスをまき散らし、そのせいでオゾン層が破壊され、多くのペンギンが白内障になりがんとなって死んでいった。さらに追い討ちをかけたのは、その結果生じてきた地球温暖化による影響であった。温暖化による海水温の上昇、異常気象の多発により、オキアミやイカなど餌があれほど豊富だった海から消えてしまった。その結果、多くの弱い子供や年老いたペンギンが次々に餓死していった。
(9) 孤独な ペンペン
気づいてみると生き残っているのは年老いた自分を含め、わずかなペンギンだけとなってしまった。
ペンペンには蒼く澄み切った冬の空を眺めながら、何が地球で起こっているのか理解できないでいた。そして一人で沈み行く太陽を見つめつつ,夏には氷が張り出し、雪が降り、寒い寒いと凍えてくらした日々や岩場に生えた草むらの陰で、大勢のペンギンたちが巣創りや子育てに励んでいた冬の日々を思い出していた。夕陽が沈み、あたりが漆黒の闇に覆われても立ち尽くし回想に浸る毎日であった。それでもペンペンは死が訪れるまでは生きていこうと誓った以上、懸命に生きることにした。
一人ぽっちになって、ペンペンは薄くなってしまった金髪のリーゼンをかき分け、ぼろぼろになったつけ髪をいじりながら、見えなくなってきた目で、遠い海をながめ、薄れ行く気力のなかで、楽しかった日々を脳裏に浮かべていた。我々はいったい何か悪いことをしたのだろうか?神の摂理に反することをしただろうか?なんでこのような仕打ちをペンギンが受け、絶滅の危機に曝されなければならないのだろうか?と考えながら夕日の見える岩の上で薄れ行く気持の中で、これでやっと妻や子や仲間たちに会うことができるとの安心感が胸一杯に広がった。
「Super PenPenの独り言」
エンリコ フェルミの役割
第二次世界大戦においてはアメリカのみが原爆を開発し、広島、長崎に投下した。
原子物理学の研究においてドイツは世界の最先端を走っていた。1938年にはすでに、原子核が分裂し、その際大量のエネルギーを放出することに気づき、カイザーウイルヘルム研究所(今のマックスプランク)にドイツウラニュウム研究会が発足された。この時点ではドイツはアメリカを初めとする諸外国に完全にリードしていた。しかしナチス高官がカイザーウイルヘルム研究所のスタッフの身元調査をした。物理学者の中にはユダヤ人が多く、ユダヤ人は排除されなければならないとの理由でユダヤ系研究者は排斥の憂き目にあった。その筆頭にあげられたのがイタリア系ユダヤ人のエンリコフェルミであった。彼は同じユダヤ系のリーゼマイナトナーとともに国外追放された。
Enrico Fermi(1901-1954)はローマに生まれた。原子・分子の分光学的研究で「フェルミ共鳴」を発見、また粒子散乱理論、原子核構造論、量子電気力学など多方面にわたる優れた業績を残した。とくに、34年に発表した「原子核のβ崩壊の理論」は、湯川秀樹の中間子論とともに、素粒子物理学への道を開くものとなった。さらに、発見されたばかりの中性子を原子核実験に利用、「フェルミの中性子減速理論」をつくり、遅い中性子の特異性を発見(1934)、中性子物理学を開いた。同年さらに、中性子によるウラン衝撃実験によって「超ウラン元素」を発見、後のハーンによる核分裂現象の発見の契機をなした。この中性子による原子核反応に関する諸成果によってノーベル物理学賞を受賞した(1938)。その後、アメリカに亡命し核物理学研究の成果をあげる。ドイツでは1940年になると原爆開発は国防軍の管理下におかれ自由な研究は全くできなくなってしまった。そして完全に原子爆弾の開発が停止してしまう。一方、アメリカでは秘密さえ守れば自由に、時間にも束縛される者も無く研究できた。フェルミはマンハッタン計画に参加し原爆製造に深く関わるようになる。これが大戦の後半には実を結んだことはご存知の通りである。
日本での開発状況はどうかというと、1941年に陸軍は理化学研究所に原子爆弾開発を委託する。アメリカの原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」から1年遅れ、1943年から本格的に仁科芳雄博士らは天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮しようと試みた。独立に、海軍は京都大学の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼した。こちらは遠心分離法による濃縮を計画していた。日本にはウラン鉱脈が少なく、二酸化ウランは上海の闇市場で130 kg購入した他、ドイツに頼んでウランをUボートで輸送してもらっていたが、途中でドイツの敗戦となり、Uボートも連合国に降伏したため手に入る事はなかった。
理化学研究所で行っていた熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が極めて悪く濃縮にまで至らなかった。京都大学での遠心分離法も設計図ができあがった時点で終戦となった。
ナチスがフェルミを国外追放しなかったなら、ドイツが最初に原爆を製造していたかもしれない。
零式戦闘機の開発:長所と短所
誰もが知る海軍の代表的戦闘機零戦。堀越二郎設計の三菱重工で開発、製造された。生産は14300機に上り、アメリカ海軍のヘルキャットF6F,アメリカ陸軍のムスタングP51-Dとともに、第2次大戦の優秀な戦闘機とされる。三菱航空機の堀越二郎が設計主任となり、極限にまで性能を突き詰めた戦闘機として大戦前半においては向かうところ敵なしに状態であった。要求性能が高いため様々な新しい試みがされた。その一つに住友金属が新たに開発した世界に誇る超超ジュラルミンを採用した事で、30キロ軽量化に成功するなど、軽量化が極限まで追求された結果、航続距離が他の戦闘機に比べ圧倒的に長く、俊敏に操作できる飛行機となった。しかし極限にまで性能を追い求めた結果、大戦の後半でより馬力の強いエンジンが米国で開発され、それを積む飛行機が投入されたのに対し、零戦に大きなエンジンを積むのは不可能であった。そのため、零戦の優位性が次第に失われていった。
日本海軍は昭和7年に航空技術の自立を目指し、機体とエンジンの開発に踏み切った。航空メーカーの中島飛行機はアメリカのライト社から「サイクロン」の製造権を買い、それが「光」の開発につながった。三菱はアメリカから「ホーネット」の製造権を買い「金星」を開発した。昭和10年頃になると700-900馬力の様々なエンジンが開発されたが、中でも中島の「栄」と三菱の「金星」が傑出していた。
堀越は零戦開発の基本計画を進めていた昭和13年のはじめ、それに積むエンジンで悩んでいた。当然自社製のエンジンが使いたい。大出力エンジン、九六陸攻に搭載され実戦にも使われ、1070馬力に改良されていた「金星」40シリーズがあった。このエンジンは戦闘機に積むにはやや大きい感もあるが将来の出力アップや戦闘力増大を考えると最適であった。しかしその当時のパイロットは小型で運動性能のよい戦闘機を好んだ。そのため、堀越は金星より一回り小型の「瑞星」を選び搭載した。しかし、改良を重ね出力が1080馬力にあがっても次期主力戦闘機用としてはものたりなかった。中島は一時、三菱との開発競争から降りていたが、空冷星形14気筒エンジン「栄」12型を開発し、再び競争に参入してきた。このエンジンは重量が瑞星と同じ530Kg程度であるにもかかわらず、出力は950馬力で瑞星を70馬力以上も上まっていた。しかも2速スパーチャージャーをつければ1100馬力以上にパワーアップが見込まれた。その結果海軍は三菱に中島の栄を零戦に積む事を要求した。たしかに栄はすばらしいエンジンではあったが1080馬力が限界であった。戦争初期には連戦連勝であったが、より大きなエンジンを積んだ敵戦闘機が出現するとかげりが見え始め、防弾、火力の強化、性能向上など後におこる要求にエンジンが対応できなかった。元々排気量の大きかった金星は昭和16年には1500馬力のエンジンへと改良し、昭和20年、戦争も終わりに近づいたころ金星を装備した零戦(A6M8C)が生まれた。時既に遅しの感があった。
もう一つの大きな零戦の弱点は防弾、防火設備が貧弱なため、パイロットの被害率がきわめて高く、多くの熟練搭乗員の命が失われた。日本の飛行機は機銃掃射を受けるとたちまし火を噴いて墜落していく。しかしアメリカの戦闘機、やB17などの爆撃機は被弾しても火を噴かない、落ちない。さすが日本軍もあまりの人的被害の大きさに燃料タンクが発火しないように、撃ち落としたB17の燃料タンクを調べてみると、燃料タンクは何層もの重ね合わせ構造になり、被弾するとスポンジゴムが穴を塞ぎ、ガソリンが漏れるのを阻止するしくみになっていた。ガソリンタンクは空気がないため、弾があたっても発火しない。漏れだしたガソリンが引火して発火する。そこでガソリンが漏れださない構造になっていたのであった。早速日本もこの装置を取り入れ、新たな消火装置も開発して搭載した。しかし日本の技術者達は空力的洗練さと軽量化に骨身を削り、防火対策にまで手がまわらなかった。精神主義が受け身的な装備の開発を遅らせた。気づいた頃には勝敗がついていた。
日本もドイツも戦闘機開発では同じような過ちをしている。とにかく性能向上、戦闘能力重視と職人的な技を好んだ。一方のアメリカはトータルとしていい戦闘機を造る事を心がけた。生産のしやすさ、部品の補給、修理のしやすさ、人命尊重など。それらが日本ではあまり顧みられず、精神力でカバーということになってしまった。短期決戦ではこれでいいかもしれないが長期戦には向かない。第2次大戦の技術面でも負けてしまった。
写真1:零式戦闘機;写真2:三菱4240号の製造番号が見える
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黒島亀人参謀
もし第2次世界対戦に勝っていたなら、黒島亀人は日本海海戦の東郷元帥の頭脳、秋山真之にも勝るとも劣らぬ名声を得たであろう。黒島亀人は山本五十六の先任参謀として常に山本五十六と行動をともにし、その作戦を立て、遂行してきた。真珠湾攻撃しかりミッドウエイ海戦しかり。司令長官東郷―参謀秋山に対比して司令長官山本―参謀黒島といわれる。
よほどの変人だったらしく、いい話は残っていない。誰もが反対する黒島をあえて、連合艦隊司令部先任参謀に抜擢した。その理由は簡単で、彼が並外れた変人、奇人であり、海軍大学校を優秀な成績で卒業した秀才たちでは、並の考えから外れ得ず、その戦略を読まれてしまう可能性がある。それに対し、奇人、変人の考えは予想する事も難しくアメリカのような大国を相手に戦わなくてはならない場合、正攻法でいっても通用しない。よほど奇抜な作戦を立ててもらうためには彼でなくてはならないと説得した。
山本五十六はアメリカのような大国と戦うようになった場合、正攻法や持久先
方は役に立たず、奇襲をかけ、どんどん積極的に攻め続け、早いうちに有利な状態で講和にもちこむしか手が無いと思っていた。しかし、軍令部は南方の資源を確保しつつ、アメリカ海軍が出てきた時に、待ち伏せて叩けばいいという持久論であった。
山本は持論を通すため、航空兵力を結集して真珠湾奇襲を決行することを決意し、黒島参謀に真珠湾奇襲作戦計画を練らせる事にした。その変人たる頭脳に期待した。天才肌で凝り性の黒島は長門後部甲板の先任将校の個室に籠り、ふんどし一丁で、ろうそくの光の中、瞑想し一人で作戦全般を練ったという。その結果、あのような奇抜で、誰が考えても、無謀だと思われるような、しかし緻密に練られた案が完成する。長駆ハワイまでどのように隠密行動をとるのか、何隻の空母を投入するか?難問はつきない。
この一戦に全てを賭けるとの大ばくちで使える空母6隻を全部投入する。
「トラトラトラ」の」電報が発せられ、奇襲の成功が長門に伝えられる。しかしあれ程山本が念を押していた宣戦布告の通知が間に合わず、この成功もだまし打ちにされてしまった。
賭けとして敢行した真珠湾攻撃が大成功をおさめ、これで早い講和の実現がかなうはずであったが、だまし討ちとの批判が轟々とアメリカ国内で巻き上がり、アメリカ国民の意気を消沈するどころか、高揚させてしまった。また日本国内では楽観的な空気が漂い始める。しかも真珠湾で打ち漏らした空母が残っている。山本に焦りが生まれた。短期決戦によって政治的終戦に持ち込もうとする戦略構想が、ちょっと勝っただけで浮かれ、戦時下というのにのんびりと出勤退庁時間を守っているような海軍中央の秀才どもに分かるはずが無い。第二段の攻撃も積極作戦でいこうと決め、軍令部には相談無く、黒島参謀を中心に作戦を練り始めた。山本が幕僚に研究を命じた作戦計画は4つある。1. セイロン島を攻略し、英国海軍を南方地域から追い払い、ドイツ軍と手を握る。2. ハワイを攻略する。3. オーストラリア北部に侵攻する。4. ミッドウェイの攻略。である。
論議の果てに連合艦隊は皮切りにセイロン島攻略を行う事を決定した。しかしこの案は軍令部により却下されてしまう。その結果、連合艦隊司令部はセイロンにかわって本気でハワイ攻略を考え始める。当然のごとく日本本土とハワイの中間にあるミッドウエイ攻撃が浮かび上がる。その頃にはアメリカ機動部隊がウエーキ島や東京に近い南鳥島を蹂躙し始めていた。ミッドウエイ攻撃でもってアメリカ空母艦隊を殲滅する以外、早期決戦と本土防衛を果たせる方法はない。黒島大佐は真っ暗な参謀室に閉じこもって秘策を練る。誰にも理解されないような独創的な秘策を、香をたいた部屋で瞑想し、絞り出す。そして半月もたたないうちにポートモスビー攻略からフィジー、サモア攻略作戦という3ヶ月半にわたる大作戦を生み出すのである。黒島参謀が一番頭を悩ましたのはアメリカ空母の動静であった。そこで黒島参謀は敵空母を誘い出し、一気に叩くという作戦を考えだした。大部隊をいくつかのグループにわけ異なる日時、異なる場所から出撃させ、精密なスケジュールのもと、ミッドウエイに敵を誘い込み殲滅する。これが彼の考え抜いた作戦であった。
第一撃はアリューシャン列島を叩く。すると米艦隊は真珠湾を出てアリューシャン列島へ向かうであろう。第二段は南雲機動部隊がミッドウエイに襲いかかり、その後ミッドウエイとハワイの中間で待機する。あわてた米艦隊はミッドウエイに向けて急遽舵をきるであろう。そこを捕捉して一網打尽にしようとする案で黒島は自信満々であった。いずれにせよ、艦艇200隻以上の大兵力が、10個のグループに分かれ。太平洋の北から中央にかけて展開し、スケジュール通りに進撃するのである。ほんのちょっとした齟齬で緻密な計画は反対に完全に瓦解してしまう恐れがある。米国は暗号電報の解読で、ミッドウエイに日本海軍が続々と集まりつつあるという情報を得ていた。そして米空母は南雲機動部隊司令部の予想よりも早くミッドウエイ海域に到達していた。
日本側にも前もって警鐘の電報が送られていたのであるが、無視されてしまう。マーシャル諸島のクエゼリン環礁を基地としていた第六(潜水艦)艦隊の司令部特務班は米空母から発せられたとみられる米軍の暗号電報の発信場所を特定した。それはミッドウエイの北北東170カイリ付近で、2隻の空母がミッドウエイに向けて移動しているというものだった。作戦特別緊急電報で大本営、赤城機動部隊に打電された。大和の山本長官のもとにも知らされた。「赤城に念のため知らせてはどうか」と山本は言った。しかし黒島参謀は自信満々に「赤城でもこの電報を受け取っていますから、知らせる必要なないでしょう」とさり気ない返答であった。しかし赤城の南雲司令部は敵空母は、はるか彼方にいるに違いないとの先入観から、電報を受け取る状態にすらしなかった。
待ち伏せのつもりが、情報不足、索敵の遅れから、反対に奇襲されて、惨敗に終わり、米軍をしてミッドウエイの七面鳥狩りとまで言わしめた。空母赤城、加賀、蒼龍が炎上。頼みの山口多門少将率いる飛龍も被弾し戦闘力を失った。
しかしその被害はひた隠しに隠され、海軍大本営発表と称して日本海軍の勝利を大々的に戦果を発表した。海軍中央の秘密主義は完璧で、国民に対しても、陸軍にも、東条英機首相にもなんの知らせも無く、大本営発表を頭から信じ、連戦連勝で戦争は間もなく終わるかのごとき、幻想に陥り、天皇に対しても事実を知らせる事は無かった。
戦後に黒島は「しかしその情報(電報のこと)を見逃したにしろ、南雲があらゆる機会を捉えて、命令を忠実に実行したなら日本海軍が勝利を得たでしょう」と語っている。
南雲司令部が真の目的はミッドウエイを叩く事ではなく、敵空母を殲滅することだと理解していれば確かに、黒島の案は成功していただろう。しかし、意思の疎通に欠け、先入観に凝り固まっていた機動部隊にはその柔軟さがなかった。山本の嘆きは益々深まる。
1943年春。連合艦隊司令長官山本五十六大将は南方前線視察のため、ラバウルを飛び立ち、バラレからショートランドへわたる途中、暗号を解読した米軍の待ち伏せにあい、撃墜される。
山本五十六戦死の後、黒島は生彩を欠くようになる。軍備を担当する軍令部第2部部長となり、特攻兵器の開発に携わった。黒島が軍備担当の責任者に就任した事は海軍が特別攻撃を採用する決定的意味を持ったとされる。戦闘機による特高の他、人間魚雷「回天」、ロケット特攻機「桜花」にも携わり、9500人もの若者が特攻で散る事となった。黒島自身は軍令部のデスクワークだったため、戦犯に問われる事もなく、戦後も生き続け、1965年73歳でこの世を去る。
黒島は善しにつけ悪しきにつけ、天才として自分の才能を思う存分引き出してくれる山本五十六のもとで、並外れた知略で活躍したが、その支えを失ってしまうと一気にたががはずれてしまった。
バルチック艦隊を撃破することで、大部分の目的が達せられた日露海戦と違い、黒島、山本の不幸は真珠湾攻撃だけで戦争は終わらず、連続して戦い続けなければならない長期戦になったことにある。日露戦争の場合も第2次大戦の場合も全面戦争では勝ち目の無い戦であった。日露戦争においては、短期に日本が有利に戦いを進めている間に、将来を見通せる政府首脳がいて講和に成功した。一方、第二次大戦では、真珠湾攻撃の成功で勝てるのではないかという期待が膨らみ過ぎ、また政府首脳陣に先を読める者がいなかったため、ずるずると長引いた戦争になってしまった。
山本はあくまで積極的な短期決戦でのみ勝機があると考えていたため、黒島に秘策を考えさせ、自信をもって真珠湾攻撃、ミッドウエイと攻め続けたが、ほんの小さなボタンの掛け違いで、大きな齟齬が生まれ、ミッドウエイの大敗につながった。
柳田邦男著「マリコ」
海軍や外務省の米英協調派による努力も虚しく、日本は米国に対し、真珠湾攻撃に踏切り米国に宣戦布告をしてしまう。この事実が消える事は無いのだけれど、その陰で命をかけて日米開戦を阻止し、両国の平和の架け橋にならんとした外交官がいた。その娘の名前が「マリコ」という。マリコは外交官の寺崎英成とアメリカ人女性のグエンの間に生まれた。
35、6歳の頃、何もかもが生き詰まっていた時に読んだ柳田邦男著「マリコ」ほど、心が打ち震え、涙が溢れたことはなかった。また自分の生き方にもこれほど影響を与えた本も無く、宮本輝の作品とこれくらい、と言うほどのショックを受け、彼の生き方と運命の残酷さを考えさせられた。
寺崎英成はワシントンに勤務する外交官であり、日米緊張が高まる中、情報収集を行っていた。ある日、日本大使館で開かれていたパーテイーの式場で米国人女性グエンと知り合い、恋に落ちる。英成は機密文書を扱う高級外交官であり、上司や周囲からは日米が戦争状態になったら敵国の女性となる。そんな女性と結婚すべきではないと反対されるも、「日米は仲良くなしなければならない。二人で日米の架け橋となって戦争回避に尽くすつもりだ」と結婚する。
昭和6年に上海勤務となりそこで日米の架け橋となる「マリコ」が誕生する。昭和12年。情勢は風雲急を告げ、日本は中国と戦闘状態に入る。
昭和15年には再びワシントン勤務を命じられる。英成の兄太郎は外務省でアメリカ局長という重職についていた。日米間の電話は必ず盗聴されている。兄は英成から日米間のやり取りやアメリカの出方、感触をすばやく知らせてもらうための秘策を思いつく。暗号名「マリコ」が誕生する。アメリカ側の反応がよければマリコは元気。悪ければマリコは病気。もっと悪くなるとマリコは危篤という具合に連絡をとった。
英成にはアメリカの国力、情勢などの情報収集の任務もあったが、FBIは徹底的にマークし、尾行、盗聴、手紙の開封など克明に記入していた。これが「寺崎ファイル」となり、戦後英成がGHQから高く評価されるもととなる。しかし事態は刻々と悪い方に向かい、マリコの症状は益々重くなる。そのような日米の押し詰まった事態をどうにか打開すべく来栖三郎全権大使がワシントンにやって来る。英成は最後にとっておきの奥の手を来栖大使に授けた。それは「ルーズベルト大統領から天皇陛下宛の親書を送ってもらい、直接天皇陛下に訴えかければだれも反対できない」というものであった。
昭和17年12月7日午前10時。開戦前日。ルーズベルト大統領より、親書が打電されるが、日本軍部の画策により、電報がアメリカ大使のもとに届いたのが午後10時。翻訳されて天皇のもとに届いたのが8日の午前3時。すでに遅そし。真珠湾攻撃の30分前であった。天皇にはあらかじめルーズベルトから親書が届く事は知らされていた。天皇は戦後「昭和天皇独白録」で、「親書が来るのを待っていたが、いっこうに来ない。きたらそれに返事するつもりでいたが、間に合わなかった」と述べている。
真珠湾の攻撃が始まった。英成はグエンに言った。「日本は負ける。君たちはアメリカに残れ」しかしグエンは「国がどうなろうと家族は一緒です。私たちは日本に行きます」と答えた。日本に帰国後は、グエンとマリコは敵国人としてひどい仕打ちと辱めを受けなければならなかった。マリコは石を投げられ棒で叩かれ、グエンはスパイだと特高警察につけまとわれた。栄養失調に陥り、体を壊し、マリコは明るさを失った。
昭和20年の8月。玉音放送。戦争は終わった。
マッカーサーの政治顧問であったアチソンはFBIの寺崎ファイルによって、英成が日米の平和に向けて懸命の努力をしていた事を知り、英成を探し出して「君の平和への努力を発揮すべき時がきた」と日米の架け橋に採用する。英成は日本政府とGHQの連絡官として復職する。翌年には天皇とマッカサーの通訳担当官になる。英成は寝食を忘れて、仕事に没頭するが、長年の、過度のストレス、体の酷使、栄養状態の悪さ、などが重なり脳溢血で倒れてしまう。グエンの献身的な看病で一命は取り留めるが、ハードな仕事に耐えられない体となり、外務省を退職。
マリコが成長し、英成は日本と米国とどちらで教育したらいいのか迷うが、日本やアジアの政情不安などを考え、マリコとグエンに米国に帰る事を強く勧める。再び家族が一緒に暮らせる日々を夢見るも、朝鮮戦争が勃発し、日本も戦争に巻き込まれるのではないかとの危惧から日本へ帰る機会を失なってしまう。そして一年後、グエンのもとに一通の電報が届く。それは英成の突然の他界を知らせるものであった。
英成の死後、グエンは「太陽に架ける橋」を出版し、「平和のためにはいつも橋を強固にする努力を惜しまないようにしなければなりません。私たちは日本とアメリカとの間に橋を架ける努力をしてきましたが、それは不完全なものになってしまい、日米の戦争と言う誰も望まないのに突入してしまいました。これからは日米により強固な橋を架け二度とこのような不幸なことが起こらないよう努力しましょう」とのメッセージを本に込めた。
一方、マリコはアメリカで大学に入り、弁護士のメイン ミラーと結婚し、民主党員として夫のためワイオミング州で選挙活動をする傍ら日本国名誉領事官を勤め、日米の架け橋として活躍する。
マリコは英成の死後40年経って、遺品の中から「昭和天皇独白録」を発見し出版する。この本では日米戦争当時の昭和天皇の思いが独白というかたちで語られ、当時の天皇の心情がよく現れている。
現在マリコは70歳を越えているが、健在で活躍されている。2006年の春、日米友好と世界平和に尽くした功績で、叙勲され今の天皇陛下と会い歓談されたという。何を話されたのか興味が湧く。
日米の架け橋のために一生を捧げた一家と、その運命を翻弄した大きな歴史のうねり。考えさせられることの多い本であった。
伊地知幸介の悪評は事実か?
「坂の上の雲」の中で司馬遼太郎によって伊地知ほど無能で頑迷であるとして徹底的にひどい評価を受けた者はいない。本当にそんなに無能だったのか?
伊地知は薩摩藩士の伊地知直右衛門の長男として1854年に生まれる。陸士を優等で卒業後フランス、ドイツ留学。日清戦争には第2軍参謀副長として出征。大本営参謀、参謀本部第一部長、駐英武官とエリートコースを順調に進んだ。1904年、陸軍少将の時に旅順要塞攻撃のため新設された第3軍参謀長に就任し総司令官である乃木希典大将を輔弼した。その時の無能ぶりが、司馬遼太郎の酷評を受ける事となる。
その後旅順要塞司令官に発令され、東京湾要塞司令官に転じ、同期トップで陸軍中将に進んだ。1910年には軍務を退き、翌年、病気により休職した。1917年没。
旅順攻略は乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とした第三軍が当たった。乃木軍の参謀長伊地知幸介の無能により日本兵の集団自殺的な戦死があったとされる。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけという例は、史上に類がないとも言われている。
戦況を把握して的確な作戦計画を立てるのが参謀長の職務でありながら、「終始砲声が聞こえていては落ち着いて思考できない」ことを理由に、司令部を後方の安全地帯に置き、要塞砲の増強要請に対しても「設置し直す手間がかかるので必要ない」と答えるなど、終始硬直した作戦計画を立てて機関銃や地雷で重装備しているロシア軍に対し、白襷をかけさせ肉弾攻撃に固執した。その結果、山腹が日本兵の死体で埋まり、ロシア兵ですら「無意味で不可解な突撃」と述べるほどの損害を出し続けた。乃木も対要塞の専門家とされていた伊地知に対し、戦術変更などの命令を積極的に行わなかった。
しかし彼の経歴を考えてみるに、伊地知は第5代、第7代野戦砲兵監を務め、砲兵の運用法研究や装備調達をする部署のトップであったにすぎず実戦経験も乏しかった。砲兵の大家だから、要塞攻撃にふさわしいと考えた人事がそもそも間違いだった。ただ司令官の乃木が長州出だから参謀長に薩摩出身の伊地知をもってきたといわれても仕方ない人事だった。また伊地知の不幸は乃木がすでに評判のいい名将軍とされ、彼を表立って批判ができなかった世論の反動が伊地知への批判に向かっていったことかもしれない。
乃木軍の第一回総攻撃によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷15,800人であり、敵に与えた損害は軽微で小塁ひとつぬけなかった。第二回目の総攻撃では死傷4,900人で、要塞はびくともしない。
東郷艦隊の幕僚室では、なぜ乃木軍は二〇三高地に攻撃の主力を向けてくれないのかと思っていた。東京の大本営にとっても、乃木軍の作戦のまずさとそれを頑として変えようとしないことには困り果てていた。大本営でも二〇三高地を攻めるように頼んだが、命令系統のこともあり、示唆程度に終わってしまう。
結局は児玉源太郎がやってきて、方針を変更し東京湾から二十八サンチ榴弾砲を持ってくる。これが日本敗亡の危機から救い出すことになる。司馬遼太郎は児玉をしてこういわしめている。「司令部の無策が、無意味に兵を殺している。貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ」と。
人が良いだけの司令官と、大局観の無い頑固な参謀により、死ななくてもいい多くの兵士が亡くなった。乃木将軍は明治天皇にかわいがられ、明治天皇の崩御とともに殉死し神様に祭り上げられた。一方の伊地知幸介も日露戦争後には陸軍少将には珍しく爵位を授けられている。この例から見ても当時は評価が低かった訳ではない。表面だって糾弾されることはなかったし、それを糾弾すれば、陸軍首脳はなにをやっていたのだとなる。それを恐れた。だれも失敗の責任を取らないという官僚体質は昔も今も変わらない。坂の上の雲で司馬遼太郎が伊地知幸介をみごとにまで酷評したことで、その評価は地に落ちたが。一度このようなレッテルを張られてしまうと、それを払拭して、名誉挽回することは不可能に近い。
研究の世界でも、一方的にあの結果はおかしいなどと、風評をたてられてしまうと、反論の機会がなく、その噂が一人歩きする。そうなると、その噂が消えるのには時間がかかる。論文で反論される方がはるかにいい。当方の言い分が正しいのだと論文で主張できるから。
口コミの裏情報が飛び交い、その影響力の大きい日本社会ではネガテイブなレッテルを張られる事はその人の将来に致命的である(恐い、恐い)。
激動と混沌の時代を迎えるあなたへ
2009年の年が明けた。100年に一度という程の不景気な年を迎え、激動の混沌の時代がやってくる。今日は激動期、混沌期に生きた2人の人物を取り上げ、その精神構造が最終的な判断にどのように影響を与えていったかを考察したい。
河井継之助と山本五十六は長岡の出身で、深い因縁をもった二人であった。長岡を中心とする中越から上越国境の魚沼地方は一年の3分の一が雪に閉ざされてしまう。深い雪、長い冬、厳しい寒気、そして貧しさ。この風土の越後に育った人は律義さと忍耐強さで知られている。ともに忘れてならないのは進取の気性にも富んでいることである。長岡人は常に「いっちょ前」の人間になることを目指していた。深い雪に長い間閉ざされ、忍従の生活を強いられ,はけ口のないエネルギーがある一点を目指して蓄積され、そして爆発していく。河井継之助と山本五十六,更に過去に遡れば上杉謙信と、ストイックに自分の信念を説き、ついには忍耐が切れ、爆発へと向かっていく様は何か共通したものがあるように見える。長岡人の血には「なにごとかなさざればやまず。しかも他人の手を借りることなく」の熱情が流れているという。
山本五十六は高野家に生まれた。家は代々長岡藩の儒官の家柄である。祖父は明治維新の長岡攻防戦で、77歳で敵陣に切り込んで戦死。父も銃士隊に加わって参加、戦争に負けて苦労を重ね、明治になって役人、小学校長を務めた。その6男として1984年に生まれた。長岡中学校を卒業し、海軍兵学校に入学。入学成績は2番。海兵卒業次席は13番であった。首席は後の親友で、対欧米協調派の筆頭であった堀悌吉であった。卒業と同時に巡洋艦日新に乗り込み、日本海海戦に参加することになる。その時。左手薬指と中指を失うという重傷を負う。この高野五十六が戊辰戦争の時、河井継之助の片腕として戦い,戦死した長岡藩家老の山本帯刀家に入り名をついだ。以後は山本五十六となった。河合家と山本家は明治になっても逆賊の烙印が消されることもなく、世を潜んで暮していた。山本は錦の御旗に逆らった藩の出身として、また薩摩閥の強い海軍において、いつも日陰の道を歩まされてきた。そんな山本には「薩長何するものぞという反骨心がむらむらと湧き、今に見ていろ人が目を剥くような「いっちょ前の」仕事をしてやるぞとの気概あった。これは河井継之助と共通した魂であろう。
河井継之助は自分を単純な佐幕論者ではない、確たる戦略論をもっていると思っていた。それゆえ、長岡藩を横暴極まる薩長軍に無条件降伏してなるものかという思いがあった。よって恭順というひたすら皇軍にひれ伏すということが我慢出来なかった。しかし武装中立の立場を貫くという態度は、勝ちにおごる皇軍の軍監岩村の受け入れられるものではなかった。「かくまで誠意を尽くして嘆願しても、お認めなくばやむをえぬ。弓矢の道の命ずる通り、藩を焦土とかしてもお相手つかまつろう」となる。その背景にはおのれが築き上げた長岡軍団の強靭さがあった。最強の兵器と精強の兵を用いて,世の言う不可能を可能にしてみようではないかという過信があった。河井継之助という侍は当時にあっては珍しい程武士道に生きる武人であり、炸裂するような激しさで美学的な破滅を選んだ。
山本五十六は対米英戦争は日本を亡国に導くと猛烈に反対してきた。また対英米協調派の旗頭のひとりだった親友海軍中将堀悌吉が伏見宮軍令部総長を頭にいただく対英米強硬派の画策で、予備役に入れられた後も、海軍大臣米内光政大将、次官山本五十六中将、軍務局長井上成美少将のトリオが中心になって、三国同盟に反対し、対米協調を唱えてきた。しかしやがて山本は連合艦隊司令長官となって中央から飛ばされ、井上も軍務局長から離れて、支那方面艦隊参謀長として出されることになる。そして、陸軍が、国中が、海軍までもが対米開戦の主流派に乗っ取られ大合唱し始める。
そんな中でも、山本は国力を基本にした戦略観から、アメリカと戦ったら間違いなく日本が負けると確信していた。にもかかわらず、開戦3ヶ月前に、近衛文麿首相から意見を求められ「もしやれと言われるなら,一年や一年半は大いに暴れてご覧に入れる」と言ってしまう。あえて「対米戦争はやれません。やれば必ず負けます」とはなぜ言えなかったのであろうか。自分が造り上げた空母、航空部隊の威力と真珠湾奇襲という破天荒且つ斬新な戦略をためしたいという軍人特有の感覚が心底にあったのと、いままでの鬱屈した精神が跳ね、「何事か成さざればやまず」という河井継之助を突き動かしたのと同じ越後人魂がむくむくとでてきたのではないか。その結果、真珠湾奇襲となり、太平洋戦争に突入する。
河井継之助も山本五十六もどちらかというと寡黙で、長々しい説明や説得を嫌った。分からぬものに己の内心を語りたがらず、ついてくるもののみを好む。分からんやつには説明しても分からん、と木で鼻をくくったような横着なところがある。河合も藩で意見の合わない者を説得するということはせずに、容赦なく排除したように、山本も海軍中央と実戦部隊司令部との食い違いを埋められないまま、戦争に突入していった。連合司令長官として山本は孤独な戦いを戦ったという他はない。こうしてみると、河合といい山本といい、「己を棄てて泥にまみれ罵詈雑言に耐える」ことを最後まで貫くことができず、そんなに言うのなら自分の実力を目にも見せてやらんとの気概がむくむくとこみ上げてきたのではないか。山本の立場で言えば、本来国家の大計をたてるのは政治家がやるべき仕事で軍人のやる仕事ではない。軍人は一旦国家の方針が決まったらそれに従うべきものなのである。という心もあった。
世論を気にせず、己の信念のまま、未来の国を見通して大義を貫くのはなんと難しいことか?
日本がなぜ負けると分かっている戦争に突入したのか?いかにして欧米協調派が排除されていったのかについては別の機会に議論したい。
(参考:半藤一利著 山本五十六)
年の瀬の最後のブログとして
(1)新年を迎える心境
世界中が未曾有の不景気に突入しようがしまいが新しい年はくる。100年に一度の大混乱だそうだ。不謹慎かもしれないが大混乱を経て歴史はかわる。もう少し若いときに、この混沌に出会いたかった。どのような新しい秩序が打ち立てられ、歴史がまた動き始めるのか見極めるのが楽しみ。彗星のごとく現れたオバマが魔法の杖で持って鮮やかにこの混乱をおさめるのか?更なる混沌が現れるのか?残念ながら日本はその改革の主役にはなれないことは明らかであろう。
私は老兵として鮮やかなお手並みでこの困難さを一気に解決してくれる人物もしくは明治維新のように一群の人物の登場を待ちわびるのみである。
(2)更なる愛の形 (3)
清水辰夫作「イーツ!」
この変わったタイトルの小説も少年時代の淡い恋を描いた、大人になりかかる少年の純な心情と背伸びした少女とのときめきと、切なさを伴った愛の形がうまく描かれた作品。
榊原加奈子は母子家庭に育ち、母親はあやしげな飲み屋を経営している。加奈子は「容貌は校内の女子生徒の中でもずば抜けていた。大柄で、四肢のバランスが取れ、躯のまるみが他の生徒とはまるでちがった」という男子生徒の憧れの、なにかと噂の多い女性である。
時々店にでて母親を手伝っている。啓介は風呂の帰りに、加奈子が客の酔っぱらいに絡まれて、怒り、逃げるように歩いている所に出くわす。「ろくに街灯もない暗い街だったが、西の空に月がでていた。あと2、3日で満月になろうかという大きさだ。その月の光に照らされ,加奈子の姿は薄れながらもまだ見えていた。啓介はあとを追い始めた。4、5分行くと城山に突き当たる。山地の端にある勾配のきつい山で、手前の峰の頂上に中世の山城の跡があった。この山頂へ、高校一年の秋、ふたりでなんどか通った。秋の演劇祭に参加したときの稽古を、この城山でやったのだ。出し物はイプセンの「人形の家」。啓介は石段の上まで戻ってきて腰をおろした。眼下に街の中心部が望めた。駅の北側は一面の田だった。いま、月の光を浮かべて巨大な湖のように静まり返っているのがそれだ。田植え前の水が張られているせいだった。ところどころ青い蛍光灯がともっている。まだ残っている、誘蛾灯だった。その先は闇に沈んでなにも見えない。日本海が5キロ先の丘陵の向こうにあった。」石段に腰掛けての会話。「カウンターの中にしかいないわよ。疑ってるんでしょう」「吸ってるわよ。煙草ぐらい。お酒はあんまり好きじゃないけど」ばか。イーツ!だ。「今夜はまだ吸っていないわよ」
啓介の父親の経営している工場も不況で、借金取りが押し掛ける有り様だ。啓介は借金取りが押し掛けてくる家を離れ、よく城山の木陰で勉強した。とある神社のお祭りの夜。神楽の見物客のなかに英語教師の殿村が奥さんらしい女性といた。そこから少し離れた竹やぶの陰に加奈子がいた。からっとした空気の気持のいい夜だった。あいにく月は出ていなかった。城山に向かい、いつもの石段を上がって、一番上で腰をおろした。「勉強はかどっている?」「全然。それどころでじゃなくなりかけている。大学へ行けるかどうか怪しくなってきた。工場がつぶれるかもしれない」「この街が嫌いなのね」「嫌いだ」あたしもよ。「大嫌い」「どこに行くか当てはあるの?」「前は神戸に行こうと思っていた」叔父の一人が芦屋に住んでいた。大学の第一志望を旧神戸高商、いまの神戸大学にしていたのはそのせいだ。「わたしも行こうかな」「さっきお宮で殿村を見かけた。奥さんらしい女の人と一緒だった。あいつとつきあっているという噂はほんとか」「気になるの?」
工場はついに差し押さえられる。啓介が外に出て,町中を歩いていると、そこに殿村の妻が血相を変えて、加奈子の母親のやっている飲み屋に飛びこんだ。「このメス猫が、メス猫がが」というきしむようなわめき声が漏れてきた。頭を手でかばった女性がなかから転がりでてきた。加奈子だった。加奈子が顔を上げて、啓介であることに気づいた。彼女は顔をゆがめて激しく狼狽し、両腕で胸を抱えてうずくまった。ワンピースが引きちぎられ、そこから乳房がのぞいていた。日が暮れてきた。明かりがともり、目の前が滲んできて、色彩が少しずつ消え始めた.鰯雲がでていた。柿が色づきかけている。さっきまで飛び回っていた秋あかねが姿を消し、代わって蝙蝠が飛び始めた。
加奈子はそれから学校へでてこなかった。殿村のほうは謹慎処分になって自宅待機を命じられた。
「この一週間毎日ここに来て、君を待っていた。はじめは懐中電灯を持ってきて、その光で参考書を広げていた」加奈子が真顔になって聞いていた。加奈子は時計をみた。「いかなきゃいけないところがあるの。そろそろ下りなきゃ」「どこに行くんだ」加奈子は駅の方を指差した.
ぱらぱらとしか人影を見なかった。駅の待合室は空っぽで、駅前広場のバス停には灯りのついていないバスが一台停まっているきりだった。「もういいから帰ってよ」浜崎と書かれた行き先表示灯に赤ランプがともった。車内の灯りがともった。こちらを見ていた男の顔がはっきり見えた。英語教師の殿村だった。
「なにを考えているんだ。行くんじゃない。残るんだ。加奈子。やり直そう。ぼくと一緒にやり直そうよ。一緒にこの街を出て行くんだ.君の面倒をみてやれるやつはぼくしかいない」加奈子が涙をぼろぼろこぼしながらうなずいた。目をしばたき、顔をくしゃくしゃにして、溢れでる涙を手で拭った」うなずいてみせた。加奈子はありがとうと言っていた。バスのドアが閉まり、運転手がギアを入れた。つぎの瞬間、加奈子は身を翻すとバスめがけて駆け出した。加奈子がガラス窓に顔をおしつけて啓介を見ていた。バスが彼の前をさしかかると突然加奈子はイーツ!という顔をしてみせた。さびしくて、かなしくて、うれしくて、せつなくて、くやしくて、加奈子は涙を流しつづけていた。バスは加奈子を乗せて走り去った.波が引くような音を残してすべてのものが啓介の前から走り去った.
このラストのシーンもうまい。高校3年生の男の純情でいとしいくらい切ない感情とその年頃の女性の背伸びした、しかし大人になりきっていない感情がうまく表現されていて、青春時代のときめきと、言い表せない切なさと、さらに現実の厳しさを扱った小説として秀逸。
愛の形 (2)
江國香織作「冷静と情熱の間Rosso」と辻仁成作「冷静と情熱の間Blu」
この作品は江國香織が女性「あおい」の立場で書き、辻仁成が男性の「順正」の立場で書いてRossoとBluの2冊にまとめられた。全く独立した形であおい自身の日常と10年前の出来事への追慕の情が書かれ、順正の日常と過去の消しがたい悔恨の情が書かれる。
「あおい」はミラノ育ちの日本人で現在はミラノにアメリカ人のボーイフレンド「マーブ」と一緒に静かで満ち足りた生活を送っている。週に3日はジュエリーショップで働き、あとは図書館がよいをして過ごす日常だ。ミラノの夏。ケプレロ通りの泰山木が咲いた。この花が咲くと夏がきたと思う、と昔母が言っていた。泰山木の花は白くて大きく、甘く強い匂いがするけど、肉厚の葉っぱがあまりにびっしり繁っていて、その茂みに隠れてしまうので、下をとっていても気づかないひとが多い。
ある日日本人学校の同級生の崇が訪ねてくる。話は順正の話になる。何があったの?あんなに仲が良かったのに、なにがあったの?
阿形順正は、私の人生のなかの、決して消えないとんでもないなにかだ。彼との間の出来事は、遠い昔の学生時代の恋などではない。私は大学のそばのアパートに住んでいて、アパートと言っても木造の一軒家。順正は梅が丘のアパートに住んでいて、お互いのアパートでたのしくてめまぐるしく、あらゆる感情が凝縮された濃密な時間をすごしたかわからない。20歳だった。私たちは大学の裏庭にいて、――約束をしてくれる?あの時私は、普段に似ず勇気をかき集めて言った。私にしてみれば、生まれてはじめての愛の告白だったから。フィレンチェのドーオモにのぼるなら、どうしてもこのひととのぼりたい。そう思ったのだった。順正はいかにも順正らしい屈託のなさで約束してくれた。いいよ。2000年の5月か。もう21世紀だね。
ほんとうに来てしまった。階段の先に小さな青空がみえる。空だけを描く画家になりたい。順正は昔、そんなことを言った。いい風。私は風に顔を突き出す様にしてそれを味わった。フィレンチェのドーオモの頂上を吹いていく風。壁にそってゆっくり歩く。赤茶色の屋根屋根の向こう、はるか遠くには緩やかな丘陵が見える。わたしの目は一点にすいよせられた。その人は、片膝をたててすわっていた。しばらく立ったまま、私は順正を見ていた。小柄な姿勢のいい、10年の歳月を経てもまるで変わっていない様にみえる、なつかしい順正を。
順正」会いたくて会いたくてたまらなかった、と、告白しているような苦しい声で、その人の名前を口にした。ふりむいた順正の、記憶よりも削げた頬。息がとまるかと思った。フィレンチェの街を見下ろすドーオモのてっぺんで、やわらかな、夕陽の光の中で。
嵐のような3日間であった。嵐のような、そして光の洪水のような。30歳の誕生日おめでとう。来るとは思っていなかったよ。もうあんな約束忘れてしまっていると思っていた。幸せにいきていると聞いていたから、絶対こないと思っていた。幸せに?よくわからなかった。もう忘れてしまっていた。「マーブ」も、ミラノも、物語の中のように遠い。順正と私は、ドーオモの狭い階段を一緒に降りた。順正はフィレンチェの街にくわしかった。 「住んでいたんだ」そんなことを言って、私を驚かせた。順正がフィレンチェに住んでいた。ミラノから目と鼻の先の、歴史におきざりにされたようなこの小さな町に。
川沿いの並木道に、街灯の明かりがつき始めていた。私は目の前にいる男性を、完璧な信頼を持って眺めた。その豊かでやわらかな黒い髪や、おどろきや喜びの一つ一つに敏感に反応する瞳、時々照れくさそうな微笑みを浮かべる色の薄い唇、育ちの良さをうかがわせる首すじ。知ってる。その一つ一つをかって私は愛したし、いまもまた依然として、こんなに愛してる。「あおい」の今の生活の話をして。私は小さく息をすい、息を吐いた。身体をよじって順正の顔をみた。哀しそうな顔を。ジュエリー店で働いていること。そこで「マーブ」と出会ったこと。一緒に暮らし始めたこと。マーブと別れたことは言えなかった。「幸せなんだね」
列車が中央駅のホームにすべりこんだ。夕方だ。うす曇りの鈍色の。順正はひきとめなかったし、私もまた、ひきとめてほしいとは言えなかった。ちょっぴり気まずい思いをしながら現実の住むミラノへと帰っていく。
「順正」の場合
この街はいつだって光が降り注いでいる。ここにきてから、ぼくは一日たりと空を見上げなかった日はない。青空はどこまでも高く、しかも水で薄めた絵の具で描いたように涼しく透き通っている。霞のような雲はまるで塗り残した画用紙の白い部分みたいにその空の中を控えめに漂い、風や光と戯れるのを喜んでいる。順正はフィレンチェで絵画の修復の技術を勉強し、「芽実」と暮らしている。「芽実」は「あおい」とはなにもかもが正反対。痩せているのに、頬がふっくらしているあおいとは好対照に、芽実の肉感的な身体つきは彼女の血の問題に由来して、こちらを恥ずかしくさせるくらい隙がなく情熱的。
あの時最初二人は、かって幼少の頃「あおい」が暮らしていたこのミラノのことを話していたのだった。その日あおいはめずらしく情熱的に語り続け、彼女の方からあの約束を口にした。私の30歳の誕生日に、フィレンチェのドーオモのね、クーボラの上で待ち合わせするの。どお? 30歳か。あと十年も先のことだ。
フィレンチェの工房が閉鎖され東京に戻ることになる。10月のある日、母校成城大学へ足を延ばすことにした。小田急線に乗って、成城学園前で降りた。駅は当時のままだった。改札を出た途端、記憶が一気に甦った。自然に体は動き出していた。「あおい」と時々待ち合わせたビルの2階の喫茶店はもうなくなっていた。記憶に或る花屋やブテイックやケーキ屋を見つけるたびに、胸に込み上げてくる仄かな熱で目元が緩んだ。ここをぼくたちは片寄せ合って歩いたのだった。あの頃の二人の面影がそこら中に溢れている。校門を入ると、記憶が一層激しく感情を揺さぶってきた。何もかも6年前のままだった。思い出がそこら中に残っていた。歩くたびに胸が熱くなった。季節は同じく秋だった。落ち葉を踏みしめてぼくは坂道を駆けた。振り返る「あおい」の顔に満面の笑みが溢れていた。
時は流れる。そして思い出は走る汽車の窓から投げ捨てられた荷物さながら置き去りにされる。時は流れる。つい昨日のことのような出来事が、或る時、ある瞬間に、手の届かないほど昔の出来事として記憶の靄の彼方に葬り去られることがある。時は流れる。人は不意に記憶の源に戻りたいとなみだぐむことがある。1999年初春。長い冬が終わって、日差しにも温もりの片鱗が宿り、風は冷たいながらも清々しく、新しい季節の到来を伝えていた。また春が来た。ぼくは羽根木公園の梅が薄紅色に咲き誇り、青空と地面の間を水彩の具で線を引いたように淡くにじませているのを見上げながらため息まじりに口腔で呟いてみた。ぼくの側に「芽実」がいたし、ぼくもまだ無職だったし、それにぼくは過去に引っ張り回され相変わらず「あおい」のことを忘れられずにいた。
ねえ、「あおい」って誰なの。その人のことが今でも忘れられないの?順正とその人の間に何があったの。ぼくと「あおい」の子供を返せと叫んでいたけど。二人の間に子供がいたの?ああ、ほんの一瞬だけど、いた。でももう居ない。流産だった。
今も「あおい」さんのことが忘れられないんでしょう。「芽実」の声は闇の中で震えていた。忘れられないと言いかけて口を噤んだ。もう二度と愛し合うことはない。それでいいじゃないか。「芽実」は出て行った。ドアが再び閉じられ、室内は暗くなった。
空が白みだすと、窓を開け、外の空気を吸ってみた。鼻孔の奥がつんと澄み、肺に朝の空気が染み渡る。西暦2000年の5月25日だった。着替えると、日の出を待たずに外に出た。息をひそめて夜明けを待った。空が明け始めると、鳩の群れが大円蓋のさらに上空を飛び去った。八時半、大聖堂の扉が開き、ぼくは中に入った。頂上にはまだ誰ものぼっていなかった。ぼくはクーポラの真裏に腰を下ろした。待っている時間の長さは、つまり悟るための長さだ。
次第に太陽が傾きはじめた。空があかくなりはじめていた。建物の屋根に光が反射している。「順正」声が耳元をかすめる。風の悪戯かと思った。しかし、耳はしっかりと懐かしい感触を覚えていた。振り返ると、そこに待ちこがれた人がいた。
しかし「あおい」は昔の「あおい」でなかった。「あおい」は、アメリカ人の恋人に愛され、これほど美しくなったのだった。「あおい」の肉体の変化や体臭の変化にぼくは気がついてしまった。そこには全くぼくというものが介在できない域が存在していた。二人はいったい何を抱きしめていたのだろう。ぼくが抱いていたのは8年前の「あおい」だった。「あおい」もきっと8年前のぼくを抱いていたはず。ふたりは過去と寝た。
ミラノまでの切符を買ったあおいが僕の手から鞄を受け取った。腕時計をみてあと「5分だわ、と告げた。行くね」わずか三日。たったの三日でこの八年が、修復ではなく、清算されてしまったのだった。
ぼくは改札の手前で彼女を見送った。新しい世紀。何を糧に生きていけばいいのだろうか。冷静が最後は勝った.
「あおい」もう一度心の中で彼女の名を呼んでみる。大切なのは現在。ぼくはまだ何も試していない。試さないで、彼女を一人彼女の現在へと送り返しては駄目だ。この八年を再び凍りつかせては駄目だ。ユーロスターで行けばまだ「あおい」の列車よりも早くつくことに気づく。ユーロスターに飛び乗る。新しい100年を生きようと誓いながら。
男は過去をひきずりその情熱が8年という時間の流れと、別々の人生を歩んできたという重みに勝る。一方、女は過去の情熱は情熱として最後には、8年の重み、現実の生活という冷静さが勝る。男は常に夢想し、情熱を追いかけ、女はいつも現実的、冷静が最後は支配する。
松山探訪(2)
翌日は穏やかないい天気の日曜日、まだ人影がまばらな城趾公園を落ち葉を踏みながら散策する(写真4)。山の上に青空を背景に松山城が見える。公園の片隅にあった茶室でお茶をいただく。ロープウエイでお城に上る。お城からは松山の街が一望され、瀬戸内海も遠くに穏やかに光っていた。赤く染まった紅葉や桜の葉は陽の光を透過して鮮やかに光り、風にそよいでいた。蒼天に映える天守閣と太鼓櫓。日本独特の石垣や屋根の曲線(写真5)。
お城の中に入る。お城は火災で焼け落ち、昭和40年に入って、むかしのお城を復元したもの。全てが忠実に木造で復元されているせいもあって、お城の構造、天守閣の構造、屋根や壁の張り方などを解説した長い映画をみてよく仕組みがわかった。
讃岐うどんがこの際ぜひ食べたかったのだけど、どこを探しても伊予うどんと言われる柔らかいうどんしかなかった。隣どうしの県でこうも違うとは。近いとどうしても対抗意識がでるのであろうか?仕方なしに、伊予うどんの釜ゆでを頼んだら、その量たるや大量すぎて、食べるに手間取り時間がなくなる。前日の昼のうどんも今日のうどんも柔らかく、讃岐うどんへの思いは、ついに果たせなかった。無念。慌てて、タクシーで好古の墓地のある道後温泉に向かう。しかし運転者は好古の名前を知らず、なんていうことだ。やっと墓地にたどり着き慌ただしくお参りをし(写真6)、せっかく温泉にきたのに、道後温泉の前を素通りしてまた慌ただしく空港へ向かった。
往きの飛行機は天候が悪く、揺れて、気分の悪くなる人が続出したが、帰りは飛行機が揺れる事も無く、伊丹空港へと着陸し、無事今回の旅は終わった。
写真(1)城趾公園a-c; 写真(2)松山城a-d; 写真(3)道後温泉a-b; 写真(4)雲海 from I.
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松山探訪(1)
ある初冬の土曜日「坂の上の雲」愛好会メンバー6人で、Tuka君の送別会をかね、松山を訪れた。来年NHKドラマで「坂の上の雲」が放映されるとあって、松山にある坂の上の雲ミュージアムが混むこと必須であるとの懸念から、今年中に行こうとの愛好会メンバーの念願がやっとかなっての旅行であった。
伊丹空港からプロペラ機に乗って1時間ちょっとの旅。プロペラ機は低空を飛ぶので、瀬戸内海の島々がこれぞまさに箱庭のように眺望された。広がる雲海の途切れから、瀬戸内海の穏やかなきらめく海が見下ろせ、その中に島なみがが点在する様は絵画そのものであった。
淡い冬の日差しに映えて舞う銀杏の葉は黄金色に染められ(写真1)、松山の街は静かなたたずまいの中ひっそりとしていた。正岡子規上京までの住居を保存して作られた子規堂には子規の勉強した机や遺品が狭い部屋の中に盛りだくさん陳列してあった(写真2)。子規は「坂の上の雲」の前半における主要な登場人物で、秋山真之と親交があった文筆家。ホトトギスを主宰し、それまでの写実的な俳句から脱皮すべく俳句革新を目指した。真之と子規との親交は明教館での小、中学を通して深められ、さらに松山市内で発行されていた文芸雑誌「風詠新誌」に二人とも和歌を投稿する間に意気投合した。子規のみならず後に日本海海戦の作戦参謀となる真之も文学少年であった。この片鱗が日露開戦劈頭に打った電文「天気晴朗なれども浪高し」にも現れてる。
二人して上京し東大予備門へ入るが、真之は経済的な理由や兄の好古が陸軍に入隊していたこともあって、19歳になって海軍兵学校へと入学する。このきっかけになったのはもう一人の松山出身の幼なじみの清水則遠が突然の病で急逝したことだった。真之は海軍士官学校入団の決意を子規に送った歌で述べている。「送りにし 君がこころを 身につけて 波しずかなる 守りとやせん」。子規はその返歌として「海神も 恐るる君が 船路には 灘の波風 しづかなるらん」と真之の行く末の平穏を祈っている。この歌を境に、二人の道は大きく分かれていくことになる。
にわかに雨が降り出すなかを、慌ただしく秋山兄弟の育った生家を復元した記念館へと入った(写真3)。秋山真之、好古の銅像が建つ庭。特に感銘したのは兄弟をよく知る親族の方が普段の兄弟を語られたビデオをみて、真之は寝ても覚めてもいつも国家のことばかり考えていたと言われたこと。真之は辞世の句「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」を詠み51歳で永眠。
この3羽とは子規と志し半ばでなくなった親友の清水則遠のことであろうと考えられている。一方、好古は近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官、教育総監を務めた後退役し、松山の中学校の校長に就任して若者の教育にあたり、71歳で世を去る。雨の中を慌ただしく撮ったため、確認を怠り、残念ながら真之の銅像の写真はぼけてしまっていた。好古の像は威風堂々と撮れた。
秋山真之、好古兄弟個人の活躍については次の回に譲るとして、ここでは松山訪問と二人の由緒ある場所を訪ねての感想にとどめた。
その後、夕方慌ただしく「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。ミュージアムは4階建ての立派な円形の窓の大きい近代的ビルで、建築家・安藤忠雄氏による設計のもとに建てられ、各階はスロープで結ばれ、ゆったりと歩きながら鑑賞できる様になっている。
中でも秋山真之の海軍兵学校での成績表があり、2番と4点差での首席であったことなど興味深いものがあった。一方、資料は無いが兄の好古は陸軍士官学校をびりから2番で出たという。また日本海海戦の劈頭でのあの檄文「本日天気晴朗なれども浪高し」の原稿(残念ながらコピー)もある。一時間ほどかけてゆっくりと館内を見学し、ミュージアムを後にした。一番楽しみにしていたミュージアム訪問であったが、どちらかというと資料よりも坂の上の雲の読者からの絵や感想文が多くて、物足りない気もした。
松山探訪(2)に続く。
写真(1)銀杏と電車 a-c; 写真(2)子規堂 a-c; 写真(3)秋山兄弟生家 a-c
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陸軍参謀「瀬島龍三」と「不毛地帯」の壱岐正
瀬島龍三は大本営作戦参謀として太平洋戦争開戦以降の陸軍のほぼ全ての作戦の立案、指導にあたった。
陸軍士官学校を次席で卒業(1932年、首席は原四郎)。陸軍大学校は首席での卒業であった。太平洋戦争では作戦参謀としてマレー上陸作戦、ガダルカナル撤退作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、菊水作戦を担当した。
戦争末期の1945年7月1日から関東軍参謀となり、対ソ防衛戦を指揮する。8月15日に日本が降伏。東軍司令官の山田乙三や秦総参謀長と極東ソ連軍総司令官アレクサンドル、バシレフスキー元帥に停戦交渉に赴くも、捕虜となる。極東裁判においては、陸軍中将を最後に予備役に入り、終戦当時は大陸鉄道司令官であった草場辰巳と関東軍総参謀副長(陸軍少将)の松村知勝とともにソ連国の証人として出廷し、自分は満州国設立や対ソ連戦の指揮には携わっていないと証言する。草場辰巳は訴追側証人として出廷する前に自決した。
その後、瀬島はシベリアに11年の長きにわたって抑留、強制労働に従事させられ、生きた地獄を味わうこととなる。復員後、1958年伊藤忠商事に入社し、入社3年目で業務部長、翌年には取締役業務本部長、半年後に常務、さらに入社19年後に専務、副社長、副会長を経て会長になった。さらに中曽根康弘政権のブレーンとして活躍し、95歳の長き人生を全うし永眠。
山崎豊子作「不毛地帯」では、瀬島がモデルの壱岐正は関東軍参謀として終戦を迎える。シベリア抑留を経て帰国し大阪に本社がある近畿商事(伊藤忠商事)の社長大門一三のたっての頼みで入社し、個人経営的な前近代的商社を日本の代表的な商社にするため、参謀としての能力を会社経営戦略に生かす。個人ではなく組織として動く会社をめざし、糸偏商社の名前を返上して、重化学工業に強い商社にするために力を発揮する。ライバルとして出てくる鮫島辰三(東京商事)は日商岩井の元副社長海部八郎がモデルとされる。海部は神戸大を卒業後日商に入社し、副社長にまで昇進した人物。特に航空機における商圏を確立し、航空自衛隊FX選定におけるF-4や、F-15採用では、いずれも、日商岩井がメーカー代理店となり、同航空機部は「海部軍団」と呼ばれ伊藤忠商事の瀬島機関と対比された。ダグラス・グラマン事件で外為法違反・偽証罪の容疑で逮捕され、副社長を辞任。小壱岐も本人の意思とは別に利権がらみの戦闘機の機種選定での防衛庁への戦闘機売り込みに関わるようになり、その過程で友人の航空自衛隊防衛部長・川又空将補を死に追いやることになる。その後当分の間アメリカ近畿商事の社長として勤務し、日本に帰ってきた後、副社長に昇格し、脱繊維を目指し、自動車の外資との連携や参謀時代にいやというほどその必要性を感じた石油の獲得をめざし、日本のエネルギー自立をはかるべく、石油採掘の事業を立ち上げる。
終盤では大門社長が独断でした綿糸取引が大損となり、老害が目立ち始めると、社長を辞めるように辞職を勧告する。一方、イランでの石油がやっと5本目の井戸を掘ったところから噴出し、周囲から次期社長の声が出る中を大門社長とともに会社を辞す。一人シベリアに散った同僚たちの慰霊を慰めるべくシベリアに出立する飛行機の中で昔を回想するシーンで小説は終わる。
しかし現実の人物は会長にまで上り詰め、国家の要職にもつき95歳という長寿を生きている。生涯、多くの人々を死に追いやった作戦を立案し、指導した事への反省の弁は生涯聞かれなかった。私は戦争初期、中期のころの作戦については失敗に終わったものもある程度仕方ないと思っているが、終盤に至って菊水(楠木正成の旗印)作戦などの無謀とも言える特攻作戦をも立案した責任は大きいと言わざるを得ない。その結果海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。菊水作戦を指揮した宇垣纏中将は、終戦の玉音放送を聴いた後に、艦上爆撃機「彗星」で出撃して「最後の特攻」を行い、沖縄諸島方面で戦死した。
陸軍は代々陸軍大学を優等で卒業した軍刀組が組織の中枢を占め、卒業席次で出世がきまるという慣行があった。陸軍大学のごく一部の究極の学校秀才たちの独善によって戦争が遂行されたことに日本の不幸がある。一方の海軍では席次はそれほど重視されなかった。しかし陸軍秀才組の多くは人間的に冷酷だとか、残虐だとかいうことはなく、ある面「不毛地帯」の壱岐正のような合理的で折り目正しい素顔を持っていた。戦後になって、このような学校秀才万能システムが今度は官僚機構に持ち込まれ、大蔵省、財務省のごくわずかなエリートたちの支配する官僚となった。しかも、これらの組織の秀才たちは誰一人として、自ら立案した計画が失敗しても責任を取ろうとはしないことも同じである。しかし官僚機構もいまでは破綻しつつある事は皆さんご承知の通り。
戦力と戦略
以前から不思議に思っていたことだが、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線において、なぜあれ程破竹の勢いで攻め、たちまちフランスを占領し、英国軍をダンケルクから追い落としたドイツ軍がその勢いに乗って英国に攻め込めなかったのか? 結局は英国の制空権の獲得ができなかったことにその敗因があるという。
ヨーロッパはほとんどが陸つづきで、お互いに国境を接している。そのため地上戦をおこなう戦車と航空兵力が勝敗を決めることになった。一方太平洋戦争では主に海上がその戦闘域となり、大きな勝敗は空母および航空兵力の優劣で勝敗が決まった。狭い領域で戦うヨーロッパでは航続飛行距離の短い航空機でよく、一方の太平洋域では航続距離の長い飛行機が必要とされた。
ではなぜドイツ軍は英国との空中戦に負けたのか?
詳しく主な戦闘機の性能を比較してみる。ドイツ空軍 「Luftwaffe, ルフトバッフェ」の主力はメッサーシュミット教授の設計によるあの名機、メッサーシュミットBf109。一方英国空軍 「Royal Air Force, RAF」の主力はスピットファイヤー。参考のために上げると日本の主力機は三菱重工社製の日本が誇るゼロ式戦闘機。
ルフトバッフェの主力戦闘機メッサーシュミットBf109は 3.1万機製造され、補助戦闘機フォッケウルフFw190は 2.2万機製造されたのに対し、RAFの主力戦闘機スッピットファイヤーMk2は3万機でハリケーン1が3万機の製造。日本の場合海軍の零戦が1.1 万機で陸軍の一式戦「隼」が6,000機というお粗末さ。ルフトバッフェは単座戦闘機をほとんどメッサーシュミット一種に絞っていたが、英国は3種の戦闘機を持っていた。更にルフトバッフェは機甲部隊と戦術空軍とによる電撃戦を得意とし西ヨーロッパの国々を圧倒していく。しかし、1940年の初夏にドーバー海峡を隔てた大英帝国に触手を伸ばした頃からメッサーシュミットの栄光に影がさし始める。
全長(m) 全幅(m) 翼面積 総重量(トン) 出力(馬力)
Bf109E 8.64 9.9 16.2 2.5 1100
スピット2 9.12 11.2 22.5 3.1 1200
零戦21 9.2 12.0 22.4 2.41 940
Bf109は単座戦闘機の中でもかなり小さく、零戦は大きさの割に軽く、代わりに馬力が弱い。メッサーシュミットはヒットエンドラン戦術重視型、零戦はドッグファイト戦術重視型でその中間がスピットファイヤーといえる。
更に性能の比較を見ると最大速度はBf109Eが570km/hに対し、スピット2が580km/hで零戦が540km/hとほぼ同格で遜色ない。他の性能も大差ない。このような戦力でルフトバッフェと英国空軍(RAF)の死闘が始まる。英国はまさに後のない戦いであった。4ヶ月に及ぶ死闘はBattle of Britainと呼ばれる。
ルフトバッフェは単発戦闘機Bf109が 800機、双発戦闘機BF111が250機、急降下爆撃機ユンカース87が260機と双発爆撃機He111などが1,000機をもって攻めたてた。
迎え撃つRAFはスピットファイヤーが370機とホーカーハリケーンが 710機である。戦力からみれば圧倒的にルフトバッフェが有利であった。特に主力戦闘機においてBf109が800機に対しSpit2が370機と決定的な差があり、誰しもが戦前に予想すればルフトバッフェの圧勝の予想パターンであった(三野正洋著 ドイツ軍の小失敗の研究より)。
しかし英国は圧倒的に不利な航空兵力を補うため、開発したばかりのレーダーを最大限に活用した。一方のドイツ軍はレーダーをあまり重要視していなかった。またドイツ軍は目標が散漫であった。Londonを叩きたいのか?工場を叩きたいのか?レーダーサイトを叩きたいのか? 英国戦闘機を殲滅したいのか?もしドイツ空軍の司令官がまず英国戦闘機を殲滅し、その後後顧の憂い無く様々な爆撃目標を叩くという戦略をもっていたらどうなったであろうか?多分ドイツ空軍圧勝であったであろう。空軍元帥“ふとっちょ”ゲーリングには能がなく、自分の既得権益を守ることに汲々としすぎ、的確な戦略目標を示せなかった。ゲーリングはRuftwaffe産みの親で、ドイツ空軍創設には多大な貢献をしたが、実践向きではなかった。そこにドイツの不幸がある。
すでにドイツはフランスを占領していたので、ドーバー海峡沿岸の基地を利用できた。攻撃目標のLondonまではわずか160km.どう考えてもドイツ空軍の圧勝間違いなく思われた。しかし主力戦闘機メッサーシュミットの航続距離は700 km。 ということはLondonに着くまでに燃料の1/3を消費することになり、London上空には30分しかいられない。スピットファイヤーの航続距離も大差ないが、英国上空で戦っているから、いつでも降りることができる。両者のドックファイトが始まると、あっという間に30分経ち、明らかにメッサーシュミットの航続距離の不足あるいは滞在時間の不足が目立ち始める。英国の迎撃戦闘機隊はすぐにこの事実に気づき、空中戦を引き延ばし始めた。Bf109は戦闘を打ち切って戦線を離脱する必要にかられ、逃げるとそれを追尾し海峡近くで撃墜されることや不時着が相次いだ。戦闘に強く身軽な戦闘機という設計のコンセプトが今度は決定的に弱点となってルフトバッフェに襲いかかった。
ドイツ空軍がこの弱点をはやく気づき改良していたらどうなったであろうか?
かくして英国への侵攻は完全に失敗に終わった。最終的にドイツ軍の損失は戦闘機、爆撃機が1733機で乗員3050名に対し、英国側の損失は915機で乗員600名という英国空軍(RAF)の圧勝で終わった。これを転機にドイツ軍の電撃的な作戦は影を潜め、ヒットラーは戦線をロシアに転換し、泥沼の勝利なき戦いへと突き進むことになる。
一方わが零戦の航続距離は、海を超えて攻撃する必要性を考慮して設計されたためか1880 kmとダントツに長く、米海軍のF4Fも1680 kmと長い航続距離の戦闘機を設計している。さらに零戦は補助タンクをつけ航続距離をのばしていた。ドイツ軍はこれを採用していない。
いくら優れた兵器(航空機)でも使われる場とか供給力とかが考慮されていないと、その真価を発揮出来ない。少々能力で劣った航空機でも単純な構造で、部品の補給や生産量が多ければ、優秀な航空機を圧倒できる。ドイツはどちらかというと技術にこり過ぎ、戦略全体を見失ってしまった。日本の場合は精神力ばかりを重視し、人を粗末にしすぎた。確かに零戦は優秀な戦闘機であったが、戦闘能力ばかり考えたコンセプトで設計され、機体が軽く、敵の銃弾が隔壁を貫通しパイロットに致命傷をあたえることが多く、戦争が長引くと熟練したパイロットの不足に陥った。日米間の生産量の圧倒的な差はなんとも埋めがたい。更に決定的なのは米国や英国は大型爆撃機(特に四発の)を持っていて、軍需工場などを叩くことができた。ドイツや日本は戦略的空軍というようなコンセプトがなく、大型長距離爆撃機(双発爆撃機は存在したが)を持たなかった。米国空軍がB29などの大型戦略爆撃機で日本の工業地帯や都市に対し絨毯爆撃を行い、徹底的に破壊尽くし、戦意を削いだことは有名である。B29などの戦略大型爆撃機はエンジンに排気タービン(ターボチャージャー)を装備し、空気の薄い高度でも濃縮された空気をエンジンに供給できた。日本は撃ち落とした機体を調べ、排気タービンをコピーしたけれど、タービンの羽に必要とされる高度の合金、冶金技術が伴わず、結局完成することはできなかった。太平洋戦争における航空兵力、海軍力についてはべつの機会に述べるとする。
長期戦においては結局総合的な戦略というものが最後には効いてくる。 bestと思われる戦闘機(兵器)(製品)での戦いが常に勝つ訳ではない。これらの歴史の失敗は大きな戦略にのっとったコンセプトよる航空機(兵器)(製品)開発の必要性を教えてくれる。
尼子一族と中山鹿之介
尼子一族の運命。毛利と中国地方の覇を争って、敗れ没落して行く尼子家に忠誠を尽くし自らも滅んで行った中山鹿之介。尼子家再興のため、圧倒的な大軍の毛利軍に対峙する悲壮感と絶望感。信長の政争の駆け引きに翻弄されていく姿。幼少の頃、このような読み物に涙し、義憤し、その生き様に感動した。
鹿之介は自ら命を断つことはせず、逃げて、逃げて、逃げのびて、艱難辛苦を排し幾度でも立ち上がり、尼子家再興を目指した。またいつも「我に七難八苦を与え給え」と祈り、身を挺して獅子奮迅の働きをするも、果せず惨死。享年34歳。その生き様の清冽潔癖さは人の心を打つ。
尼子家は宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として月山富田城(安来市広瀬)に拠り、出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄え、中国地方で大内氏と対等な勢力図を築いた。
しかし大内氏を滅ぼした安芸国の戦国大名毛利元就の石見東部への侵攻を受けるようになり、その応戦中に尼子晴久が月山富田城にて急死。晴久の急死という最悪な事態を引きずったまま、晴久の子義久は毛利氏の攻勢に耐えきれず、1566年に月山富田城を包囲する毛利氏に降り、戦国大名尼子氏は滅亡した。
立原久綱や山中鹿之介らは、義久、倫久、秀久の尼子三兄弟を杵築まで見送ることが許され、そこで主従決別の盃を交した。これが主君義久と尼子家臣らとの永訣であった。鹿之助らは望みを将来にかけて故国出雲をあとにした。
山中鹿之助(鹿助)
山中鹿之助は眉目秀麗で堂々たる体躯の若者であったらしい。戦場では三日月の兜をかぶり、獅子奮迅の働きをしてその勇壮ぶりが轟いていたという。
しかし、お家断絶後、鹿之助の人生は、ひたすら「尼子家の再興」に費やされることになる。
山中鹿之助らは1569年に京都で出家していた尼子一族の孫四郎を還俗させ、勝久と名乗らせた。
そして、その勝久の元に主家再興の兵を挙げた。
但馬から海路で隠岐を経て出雲に上陸するや、鹿之助はすかさず各地に檄を飛ばし、
短期間の間に6,000もの兵を集め、新山城を拠点にし、かつての本拠・月山富田城を狙う。尼子軍は新山城に本営を移し、故城の富田城を攻撃したが奪回できず、明けて1570年、2月、迫り来る毛利軍25,000を7,100の兵をもって月山の近くの布部山(要害山)に迎え撃った。しかし、毛利の大軍の前に大敗し、尼子十勇士の一人横道兵庫助を失った。ついで、山中鹿介につぐ十勇士の大立物、秋上庵介が毛利に降り、さらに佐太の勝間城の戦に勝久の側近、三刀屋蔵人や十勇士に名をつらねる上田早苗介が討死した。尼子方高瀬城主米原綱寛は毛利方に城を明け渡し、尼子の本陣新山城に退去した。鹿之助自身も伯耆末石城に居たところを攻囲され、降伏してしまう。
これによって鹿之助はかろうじて一命は助けられるも、尾高城(現米子市)に幽閉され,再興第1戦は終わる。
尼子牢人が京都に走ったころ、鹿之助も脱獄して京へとのぼる。その頃、戦国の舞台は織田信長によって回転の速度を早めようとしていた。鹿之助らは信長の援助を得て因幡国に進出し、再興第2戦を企図する。しかし、因幡から伯耆、そして出雲奪回への計画はもろくも崩れ、またも京都に舞い戻った。
尼子再興の第3回戦の舞台は山陰から山陽に移され、播州上月城が主戦場となる。すなわち、信長の先陣で中国征伐の総帥羽柴秀吉と、毛利の総帥毛利輝元を補佐する吉川元春・小早川隆景との対決である。 毛利方の赤松氏が籠る上月城は秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿之助らが羽柴軍の最前線を担い上月城に入った。毛利軍は山陰山陽の両道より三万の軍勢を以って、1578年、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、信長の指示により三木城攻略を優先し、尼子主従は見捨てられた。上月城は孤立し遂に勝久は毛利氏に降伏、開城自刃し尼子氏は滅亡した。ここに出雲尼子氏は完全に滅亡したのである。上月城はJR姫新線「上月」駅又は中国自動車道の「佐用」で降り、神戸より車、電車で2時間の場所。
こんな小さな山城を3万の毛利軍が十重二十重と囲ったとはまさに強者どもが夢の跡。
一方、鹿之助は降人となり捉えられて、西へ送られる途中、備中松山城のふもと、高梁川と成羽川の合流点にあたる合の渡において謀殺された。鹿之助は、忠誠を貫いた一生を終えた。34歳
しかし、山中鹿之助の遺児で次男である新六は後に鴻池と名乗り、豪商、鴻池家がここにはじまる。
歴史の第一幕が終わり、第2幕の歴史がここに始まる。