穏やかな秋の夕暮れ

2016年11月22日 12:25

穏やかな秋の日を歩く。

高く澄んだ青い空、純白のうろこ雲。
のどかで、気持ちのいい、秋の夕暮れ。

黄金のジュウタンの敷かれた並木路をしばし歩く。
陽射しも柔らかく、風もさやかに。
黄色に染まった銀杏が、夕日に煌めくさざ波となって葉を揺らす。
一葉が舞い落ちる。

落葉を踏みしめ歩くと、かすかに樹々の声がする。
「すべてこの世はこともなし」
穏やかな秋の夕景の一刻にしばし身を委ねる。

 すると、みるみる空は青から群青色に、たなびく雲も薄墨色に。
色が喪われていく。
ビルの窓に燈が点り、ネオンが輝き初め、「夕暮れの哀れさ」を一瞬にして奪いさる。
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真田信繁の生き様 (2)

2016年10月28日 17:55

真田丸築城

 打って出るか籠城するかの議論が紛糾したのち、淀殿や大野修理の専断で籠城が決定すると、幸村は大阪城での籠城戦をシュミレーションしてみた。大阪城は東は湿地、北は天満川、西は難波港という天然の要害に囲まれているので、徳川の大軍が陣を張るのは南だと予想し、南側に最も防衛力を集中する必要があると考えた。そこで幸村は城の南側の弱点を補うものとして、三の丸の南、玉造口の外に、東西180mほどの半円形の真田丸という出城を築き、5000人の兵で守備することとした。
 大阪城は周囲の長さが8Kmにも及ぶ総構の難攻不落の巨城として名を馳せており、徳川家康は力づくで大阪城を落とすのは難しいと考え、城内にスパイを配置して、敵の切り崩しにかかるとともに、攻撃のチャンスを窺い、無断で攻撃することを禁じていた。
 一方、幸村は戦闘開始から数日経っても敵が攻めてこないので、敵は功名を焦り始め、さぞイライラしていることだろうと考え、徳川方に心理戦を仕掛けた。真田丸の前列に布陣していた前田利常隊を挑発した。真田丸前方200m先に小山があり、この山に少数の鉄砲隊を配置して、前田隊を連日狙撃した。前田隊に死傷者が出たが、家康はまだ突撃を許さない。小山の鉄砲隊を追い払おうと前田隊は小山に出撃したが、すでに真田隊は撤退した後であった。真田隊から、それをからかわれ、嘲笑された前田隊はその挑発に我慢ができず、突撃命令が出る前に、真田丸を攻撃、それを見ていた井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊もつられて真田丸に殺到した。まさに幸村の思う壺、できるだけ引きつけての鉄砲の一斉射撃を行った。徳川方は甚大な損害を被り、これを機に真田丸には迂闊に近寄れなくなった。家康もこのままでは拉致があかず、長期戦になってしまうことを嫌い和議に持ち込むことにした。
 秀頼は最初は和議に反対していたが、連日大砲の弾が打ち込まれ、母淀君の神経が参っていたところに、その一発が居室を直撃し、侍女8名が即死するに及んで、淀君が強硬に主張して和議が結ばれた。ここでは家康の心理戦が効を奏する。
 和議を結ぶことが決まった時点で、秀頼の敗北が決定的になる。豊臣方は徹底して籠城するという作戦を立て、近隣の米を全て高い金で買取り、徳川の大軍がすぐに兵糧が尽き、また冬の厳しい寒さでの野営で士気が下がることを予想した戦略を立てていたのに、戦のわからぬ淀殿の言い分で和議。これでは何のために立てた戦略だったのか、戦わずしてすでに負けている。孫子の兵法でも戦いの上策は戦わずして勝つこと(百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり)と書かれており、戦わないことの重要性が説かれ、家康の作戦勝ち。

夏の陣
 和議が結ばれ外堀、内堀が埋められた時点で、大阪城は裸城となり、外からの攻撃を防ぐことはできなくなっていた。
こうなってしまっては、幸村といえども家康を打ち破る作戦があるわけでなく、あとは死に場所を求めての戦いになった。策があるとすれば、奇策しかない。ただただ家康の首を取ること。茶臼山に陣取っていた幸村は赤い旗に真っ赤な鎧(真田の赤備え)に身を包んだ赤い軍団の真田隊3000を率いて、家康の首のみを目指して一丸となって突撃した。家康の前面にいた、越前松平軍1万3000を蹴散らし、家康本陣へと殺到した。本陣前では旗本隊が必死に防戦、真田隊の猛攻を受け、壮絶な乱戦となった。真田隊の討ち死にが相次ぐが、隊列を整えて、3度本陣への突撃を試みた。そしてついに家康の「馬印」が引き倒すまで進撃した。家康にとって馬印が倒されるほどの激戦は「三方原の戦いで武田信玄に大敗した時と真田に攻められた今回の2度だけである。家康は腹を切ることを覚悟したが、側近に止められた。
 しかし真田勢は多勢に無勢、次第に消耗し追い詰められ、撤退をやむなくした。幸村は疲労困憊し、四天王寺に近い安居神社で傷口を治療してる時に、越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され、討ち取られた。思う存分に暴れ、十分戦い尽くし、疲労困憊の幸村は西尾に「自分の首をとり、手柄にせよ」と言ったという説もある。後日褒美を与えるため西尾に面会した家康は、西尾が自分が討ち取ったという話を聞いて、お前なんかに幸村が打ち取れるはずがないと言ったという。幸村、享年48歳。

 家康は冬の陣の折、信濃10万石を条件に徳川方につかないかと持ちかけたが、幸村は即座に断っている。また幸村の家臣はどんな不利な戦況でもだれも降参せず、粛々と最後まで戦ったとされる。なぜ幸村は負けるとわかっている戦いにうってでたのか?なぜ幸村の軍隊が一丸となって無謀とも言える突撃をおこなえたのか?想像するしかないが、当時の武士はかぶき者と言われ、目立って派手に振る舞い、後世に名を残すことが誉であるとの価値観を持っていたので、武士の意地、潔い死に場所を求めた? 後藤又兵衛は確かにそうだったかもしれないが、幸村はそれよりも圧倒的に不利な状況下、自分がどれだけできるか、自分の力を試したかった?男として大名の息子として生まれ、父親ゆずりの自分の才能に自信のあった幸村は、家康という大きな壁をぶち破り、困難であればあるほど、自分の実力を天下に示したいという欲求があった?
 第二次世界大戦時、山本五十六は戦争に反対し、米国とは絶対に戦えないと主張しておきながら、命を賭してまでは反対せず、真珠湾攻撃を企画したのと似ている。彼も軍人として、大きな敵であればあるほど胸のどこかに、自分の持てる全ての力を試してみたいという気持ちがあったのかもしれない。

写真1、2:真田丸跡にある三光神社、写真3:大阪城と繋がっていると言われる抜け穴、写真4:真田幸村像、 写真5:茶臼山戦場跡、 写真6:安居神社、 写真7、8:幸村最後の地、
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真田信繁の生き様 (1)

2016年10月24日 15:54

九度山幽閉
  1600年、関ヶ原の戦いが始まると、父昌幸と弟信繁は石田三成方の西軍につき、兄の信之は徳川方東軍に加わって参戦。勝負はあっけなく6時間あまりで決し、徳川家康が勝った。昌幸、信繁父子は死罪となるところを信之や本多忠勝の必死のとりなしで、高野山の麓の九度山へと蟄居させられる。真田父子の戦いでは2度とも徳川軍を相手に上田城で戦い、勝利を収めたにもかかわらず、関ヶ原の大戦で西軍が負けたため、局地戦では勝ったが、勝負に負けるということを味わった。もし真田昌幸が関ヶ原に行って参戦していたら、勝敗はどうなっていたであろうか? 昌幸は関ヶ原の戦いのような多くの大名が集まり戦う大会戦ということから、1日や2日で決着がつくとは思っていなかった。まさに自分の描いていた戦略とは懸け離れた決着をしてしまい、徳川の威光に屈するようになった悔しさは計り知れないものがあった。
それから14年間貧乏のどん底を味わい、真田紐を売ったり、兄信之の差し入れにより糊口をしのいだ。今も九度山に真田庵という真田父子が過ごした田舎家が残っている(写真 )。どん底の生活を送っていたことが垣間見れる。徳川からの恩赦をひたすら待っていた父昌幸はその最中、1611年に九度山で亡くなる。関ヶ原へ向かう道中、上田にて足止めを食らい、戦闘に間に合わず、家康から大目玉を食らった徳川秀忠の真田への怨念は強く、絶対に許そうとしなかった。

  大阪冬の陣
何と言っても14年間という長い幽閉の思いが一気に大阪冬の陣に向けて吐き出される。
九度山を宴会の最中に抜け出し、大阪城に入った真田繁信改め幸村は秀頼より総大将の就任を依頼されたが、目立ちたがり屋で大法螺吹きの後藤又兵衛や毛利勝永などに拒絶され、また馳せ参じた浪人たちのまとめ役の秀頼の側近、大野修理の優柔不断さもあって、議論は空回り。結局は実績よりも大言壮語の人物が自分の軍を率い、総大将は秀頼がなるという、統率のとれない軍隊とは言えないような組織となる。これでは家康が「烏合の衆の大阪方が何万人居ようとも怖くない、ただ真田だけが心配だ」と言ったことは理解できる。
 鉄砲や大砲が発達してきた関ヶ原以降の戦闘では昔と違って個人対個人の戦いでなく、統率のとれた集団として動くことが大切。いくら勇猛果敢な豪傑であっても単独での活躍はあり得ない。後藤又兵衛などはすでに時代遅れとなっていることに本人は気づいていない。
そのような状況下、幸村の大阪城から打って出るという積極策は取り入れられず、籠城策となる。しかし射程距離の長い大砲が開発され、巨大な大阪城と言えども城の外から攻めることができる時代には無意味とも言える籠城であった。これ以降遠くから距離を置いて攻めることができる戦闘での籠城策は意味をなさない。明治維新時の会津鶴ヶ城(若松城)も、兵を持っての攻めには随分抵抗もできたが、向かいの山の上からのアームストロング砲には手も足も出なかった。
 幸村は守りと攻めを兼ねた、真田丸砦を築き、徳川軍を迎え撃つということになった。ここまでが先週の真田丸の放映。これからが真田丸のクライマックス。

九度山の写真 写真1:真田庵 写真2:真田庵由緒 写真3:貧乏生活 写真4:昌幸墓


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研究者の労働時間

2016年10月12日 12:46

研究者の業績と待遇

  先日100時間を超える残業のため、心身消失で自殺した女性に過労死が認められたという報道がなされた。
 研究者はどのくらい働いているのであろうか?振り返ってみるに、自分の経験ではポスドク、助手、助教授時代を通して平均すると10時−10時で働き、土曜も原則働くという時間帯であった。論文の仕上がりが見え、研究が佳境に入った時とか、競争相手が論文を出しそうだという噂を聞いた時では、帰るのはいつも終電という具合であった。
周りの研究者を見ていても大体がこのような感じで働いていたと思うし、もっと働いていたものも大勢いた。研究者は、一旦貧乏な大学、貧乏な研究室、劣悪な環境に入ってしまえば文句を持っていくとこがない。自分で好きでやっているとみなされる。結果が全てで、いいアイデアだったけど、お金がなかったからできなかったとかあの機械がなかったから、決定的なデータが取れなかったとか、では通らない。何をやっても自由だけど、それだから全責任を個人で負うことになり、競争に負けた場合、研究に向かないと分かった場合、転職したくても社会とのパイプがなく、会社も取ってくれない。
 一方で、アカデミアの研究者のポストは非常に少なく、面白い、人を惹きつける研究、流行の研究をしていなければ、就職は難しい。特に大学法人化以降、個々の学校に降りる運営交付金が毎年減らされ、大学が長期に研究者を雇えるお金が不足してきたため、大学でのポストが圧倒的に少なくなってきている。
大学のポストを得る場合、結局は実績、論文数とインパクトファクターの高い雑誌に何報論文を載せたかで、ほとんど決まる。最近では論文の引用数を書かせたり、どのくらい影響力のある論文を書いているかまで求められる。
Google Scholarで簡単に引用数やh指標(ある研究者のh指数は、「その研究者の論文のうち、被引用数がh以上であるものがh以上あることを満たすような最大の数値」。具体的には、h指数が30である研究者は、被引用数30以上の論文が少なくとも30編あるが、被引用数31以上の論文は31編未満であることを示す。この指標は、当該研究者の論文の量(論文数)と論文の質(被引用数)とを同時に1つの数値で表すことができるという利点を持つ。)が出るので、これを書かす大学が増えている。数字で業績のインパクトや重要性がわかるので、応募してきた人の序列がたちどころに分かり、重宝される。どこかに書いてあったが、教授候補のh指標は20くらいであるそう。一度自分のh指標を調べてみたら。
 競争という研究社会では、心労のため鬱になる人が出たとしても、自分はガツガツと働かなければ生き残れない。もう少し米国のようにまでとは言わないが、研究者をサポートするシステムを充実させて、せめて研究に割ける時間を増やして欲しい。日本でも昔は技官とか秘書とか校費で雇われているスタッフがいたが、今では皆無。研究環境はますます悪くなって来ている。これでは時代に逆行ではないか。政府が研究開発に力を入れていくというのだったら、短期の競争的資金を増やすばかりではなく、長期に人を雇用できるシステムを作り、生活の安定を保証して、研究に専念できる時間を多くするようにすべきではないか? そうすれば、自分の好きなことができるので長時間労働でも我慢できるかもしれない。

えせ科学それとも世紀の大発見?  常温核融合

2016年09月30日 11:55

 常温核融合の実用化?

一時期、TVでもてはやされていたが今ではすっかり言われなくなった「マイナスイオン効果や納豆キナーゼの効果」、はたまた、「がんの特効薬」などと、なんの根拠もない科学や、華々しくNatureに出版されたがすぐに捏造がばれた小保方さんのSTAP細胞事件など多くのえせ科学が世間を騒がしてきた。同様に、一時期もてはやされ、有望視されてた常温核融合という夢のクリンーンエネルギーも結局えせ科学だと葬り去られた。
 しかし死にかけた常温核融合が不死鳥のように蘇ってきたというのだ。

 核融合というのは原子の中心にある原子核同士がくっつくことでおこり、その際に膨大なエネルギーを放出する。太陽の輝きの源泉である。通常の核融合実験では原子核をプラズマという状態にして核融合を起こす「プラズマ核融合」でおこなうのだが、非常な高温と、プラズマ状態の原子核を閉じ込めておくための強力な磁場が必要である。それを発電システムに活用する「核融合炉」の実用化を目指し、フランスや日本などは、国際協力の下で「ITER(国際熱核融合実験炉)」の建設を進めている。核融合炉を実現するには、1億℃以上のプラズマ状態の反応場が必要になる。そのためには大掛かりな装置が必要となり、莫大な金がかかるため、計画は難航している。
 
 しかし常温で核融合を起こすことができれば、非常に安価に簡単に核融合を起こすことができる。「常温核融合」のアイデアを思いついたのはフライシュマンとポンズである。、核融合のネックが原子核同士を近付けることができないという点にあるのなら、プラズマやミューオン媒介といった物理学的手法ではなくなにか化学的手法でそれが実現できないか、というのが彼らの発想だった。高校の実験でもやる水の電気分解に少し手を加えることで水素原子核を金属棒にぎゅうぎゅうに詰め込んでこの問題を回避できるのではないかと考えた。これらは「凝集系核反応」と呼ばれ、金属内のように原子や電子が多数、集積した、状態で元素が変換する現象を指す。彼らが着目したのはパラジウムという物質であった。パラジウムに水素を詰め込むには、水の電気分解で、一方の電極にパラジウムを使えばよいと考えた。その実験で、電気分解をするために1ワットの電力を投入したのにたいし4ワットの発熱が得られた、と記者会見で発表し、夢のエネルギー実現化と大々的に取り上げられた。しかし様々な矛盾点が噴出し、いつの間にかインチキであろうとされていった。
 そのアイデアを発展させ日本の大阪大学の荒田吉明名誉教授は常温核融合の公開実験を行った。その際の手法は、酸化ジルコニウム・パラジウム合金を格子状のナノ構造にし、その構造内に重水素ガスを吹き込むと、常温で過剰熱とヘリウムが発生する、というもので、大気中の10万倍のヘリウムと30kJの熱が検出されたものである。しかしこの実験結果も解釈が違うとか、再現できないとかという理由でいつの間にか消えていった。

 しかししかし、その常温核融合が蘇ってきたというのである。
2014年4月に、日本経済新聞は、三菱重工の岩村グループが、「重水素を使い、少ないエネルギーで元素の種類を変える元素変換の基盤技術を確立した。」と報じた。また「トヨタグループの研究開発会社、豊田中央研究所も元素変換の研究を続けており、成果が出ているようだ。」とも報じた。

 続いて米国特許庁は2015年11月、凝集系核反応に関する米研究者からの特許申請を初めて受理し、特許として成立させた。これまでは、現在の物理学では理論的に説明できない現象に関して、特許は認めていなかった。特許が成立した技術名は、「重水素とナノサイズの金属の加圧による過剰エンタルピー」で、ここでもナノ構造の金属加工が技術上のポイントになっている。

さらに今年の5月にはアメリカ議会委員会は 「仮に凝集系核反応が実用化に移行した場合、革命的なエネルギー生産と畜エネルギーの技術になる」 とし凝集系核反応研究の現状を国家安全保障の観点から評価するように国防相に要請している。

 画期的な発見、発明ほど、常識ではありえないもので、当初はだれも信用してくれない。インチキだとか捏造だとか言われる。実際、多くの画期的だと思われたようなこと、韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)のヒトの胚性幹細胞(ES細胞)や小保方さんのSTAP細胞などは実際にはなかった。
  だけどまだ確定したわけではないが、今回の常温核融合のようなこともあり得る。もし本当だったらエネルギー大革命を起こす世紀の大発見となる、日本とイタリアがこの研究分野をリードしているということも日本人として嬉しい。
 科学の社会ではある時もてはやされ、画期的な成果だと持ち上げられたことが事実ではなかったということや、反対に誰もがありえないとボロクソに言われていたことが、結局事実であったということがよくある。
 研究者ならだれでもそんなことはありえないとか、再現性がないなどの中傷を受けたことがあるであろう。特に、その研究領域の大御所から学会などの公開の場で科学的でない批判されると、その影響は大きい。科学的な批判であれば、科学的に反論できるが、根拠なく情緒的に批判されるとどうしようもない。どこへ行ってもあれインチキらしいよと、研究費も手に入らなくなる。こちらが正しいと分かると、何も言わなくなる。しかしその時負った負のイメージは消し去れない。
 私もこのような経験はよくしたが、その際、科学的でない批判には反論せず、少なくともこういう条件で実験すれば、このような結果になる、と結果に自信を持って答えることにしていた。

家康と三成の関ヶ原前哨戦

2016年09月02日 15:59

関ヶ原の戦いに至る攻防

 NHKの真田丸では秀吉が老醜を曝し、「秀頼を秀頼を宜しく」と、なりふり構わず頼み込み、亡くなると、満を持して家康が動き始めた。
真田一家は石田方につくか徳川方につくかの大きな選択に迫られ、父昌幸の命により、真田一族全てが徳川につくことを一旦決めた(ここまでが先週の真田丸での放映)が、関ヶ原直前に考えを変えた。真田一族の関ヶ原及びその後の展開はまたにして、今回は関ヶ原の戦いに至る石田三成と徳川家康の間に戦わせられた前哨戦に絞った。

1 家康の陽動作戦
  秀吉の死後は有力な大名により構成された5大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家と上杉景勝)と実際に政務を取り仕切る5奉行(石田三成、増田長盛、浅野長政、前田玄以と長束正家)で合議を行い事を決めるという約束がなされていたが、秀吉の死後早速家康が約束を破り手前勝手な行動を取り始めた。三成は家康の行動を非難し、豊臣家の内部では三成を中心とする官僚派とそれに反対する武断派とに対立した。しかし大きな問題に発展しなかったのは大老の前田利家が仲裁役として振舞っていたからと言われる。
 しかし1959年3月に前田利家が死んでしまうと、それまで積もった両陣営の不満が一挙に吹き出してしまう。武闘派による三成暗殺事件が起こり、三成が失脚して、家康が大阪城に入り政務を行うようになると、5奉行の反発はさらに加速する。
 家康はさらに家康の暗殺を仕組んだとして前田利長と5奉行の一人浅田長政を弾劾し、前田家を軍事力をチラつかせて屈服させ、浅田長政を失脚させ、目の上のこぶを一つずつ取り去っていく。家康は決して事を急がず、三成派の主要な人物を一人一人潰していって、自分に有意な状況になるよう持っていくというしたたかさを見せる。
 
2 関東の上杉を攻め、三成を誘い出す。
 1600年にはいると、家康は各大名に年賀の挨拶に大阪に来るようにと命じるが、上杉景勝だけがこれを拒否しする。すると上杉家が無断で軍備を増強しているとの噂を流がし、家康はこれに対して、釈明を求めるが、上杉の重臣、直江兼続からは反対に家康の横暴なる振る舞いを咎めた弾劾状が送られてくる(いわゆる直江状)。家康はそれに乗じて謀反の疑い明白であるとして上杉征伐のための軍を編成、大阪を離れる(1600年6月)。家康の戦略のうまいとこはこの戦いはあくまで上杉が豊臣家に対して反逆したための成敗だとし、秀頼より金20000両と兵糧20000石を下賜してもらい、秀頼の名で討伐に向かうように見せかけたことである。

3 三成は徳川の隙間をついたとぬか喜び
 一方、三成は7月12日に佐和山城で大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊らを集め秘密会議を行い、毛利輝元を西軍総大将として家康を打倒する計画を立てる。同日、愛知川に関所を儲け、諸大名の東軍への参加を食い止め、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えた。そのため長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝らは足止めをくらい、西軍への参加を余儀なくされた。その動きは増田長盛・長束正家・前田玄以よりなる三奉行には知らされてなく、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請している。挙兵を企てた一味の増田長盛までがこの要請人に入っていることはどちらにも良い顔をしたがる人間が三成側に多かったことも大問題。
 7月17日に安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任した。
ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発した。主に中国・四国・九州の諸大名が追従しおよそ10万の兵力を集めた。
 会津征伐のため江戸城にいた家康は、増田長盛より家康打倒の謀議が行われているとの書状を受け取った。この当時、増田長盛は三成の挙兵宣言に名を連ねているにもかかわらず、家康に通報しその態度をはっきりさせてなかった。予定通り、7月21日下野小山へ到着。 そこで三成が伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者により知らされた。家康は自分が大阪を離れればその隙に三成が挙兵するであろうことは予想していた。まさに家康の思う壺。

4 家康はお調子、武編者福島正則をおだて上げ利用
 7月25日に家康は会津征伐へ参加した大名を招集し、軍議を開いた。いわゆる「小山評定」である。家康にとっての最大の問題は豊臣恩顧の大名達がどのような態度を取るかであった。家康は黒田長政を介して福島正則に秀頼には害が及ばないことや、三成は秀頼のためにならないことを説明し、東軍へつく態度を鮮明にするように説得した。ここでもまず多くの大名を説得するにあたり、一番の豊臣恩顧の大名の福島正則に的を絞り、正則を介して諸大名を説得させるという戦略をとった。
 この時点では3奉行による「内府ちがひの条々」の挙兵宣言はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかった。さきに届いた淀殿や3奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていた。問題は当初3奉行や淀殿は三成挙兵を家康に取り締まってくれと頼んでいることである。家康はこれで三成を打つ大義名分を得たことになる。

 家康は人質に妻子が取られていることから、進退は各自の自由であると伝えさせたが、軍議の冒頭、福島正則が妻子が人質に取られていようが、断固家康に味方することを表明、黒田、徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全員が家康に与するとの証文を得た。まさに家康の作戦勝ち。

5 真田昌幸はそれでも西軍に与する
 ただ真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌の2名はそれを良しとせず小山を去り西軍に味方した。真田一族も家康の上杉征伐に従っていたが、三成からの密書が来ると、父昌幸と信繁は軍を離れ上田城へと戻った。

6 関東や東北での後顧の憂なくして出陣
 大切なことは、戦場となる関ヶ原へのルートである東海道筋の諸大名をことごとく味方に引き入れ、諸城と兵糧を確保し、東軍の展開が容易になったことである。
家康は先陣として秀忠に3万7000という徳川家の主力部隊を授け、宇都宮城から中山道を通り、美濃方向へ出陣させた。しかしたった2000人の兵が守る真田昌幸指揮する上田城をいつまでたっても落とすことができない。上田城攻略に手間取っている間に、関ヶ原の戦いが始まり、結局家康は主力軍無くして戦いを進めることになったという話は有名である。これについては真田丸の項で別に記す。
その頃関東・東北地方で 西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家 と佐竹家 という大名であった。一方、東軍(徳川家康側)に協力した大名は、 最上家 と 伊達家 だった。上杉家 は 進軍してくるはずだった 徳川軍 を待ち構えていたが、徳川軍は 「小山評定」 の後に引き返してしてしまい、徳川よりの伊達家 が 上杉家 への攻撃を開始したので、上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに伊達に対抗するため、軍勢を最上領へと向けた。もう一方の三成側の佐竹家は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らが猛反対し、義宣は意見を押し切ることができず、ついに少数の兵を徳川秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、がら空きの関東の家康領に上杉も佐竹も攻め込むことはなかった。結局、佐竹義宣、上杉景勝という関東、東北の2大大名が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことも、三成にとって大誤算だった。

7 家康による毛利家の切りくずしと西軍の切り崩し
 小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危険から江戸に留まり、藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させた。西軍総大将を務める毛利輝元のお膝元の吉川広家や小早川秀秋が裏切るなど、毛利家の内部対立が結局関ヶ原の戦いでも決定的になる。また家康は書状200通あまりを東西の諸大名に送ったのに対し、三成ははるかにそれに及ばず、情報戦でも家康圧勝の感がある。
9月1日に岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと出立した。

8 三成、秀頼及び毛利輝元から出陣を断られる
  三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していたが、いずれも淀殿に拒否され果たせなかった。輝元には出馬の意思があったといわれるが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされている。
だいたい総大将になっている輝元が出陣しないお飾りでは意味がない。

9 いよいよ関ヶ原
 家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれを散々に打ち破った。
 14日夜、家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進する。西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かった。この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えた。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していた。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていた。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった経緯があり、家康には恩義を感じていたが、三成には嫌悪していた。
小早川秀秋は豊臣の血を引く豊臣方の中枢にいた人物である。その彼までが三成を嫌って家康についたことはいかに三成が人気なかったかがわかる。
9月15日早朝に関ヶ原の戦いの火蓋が東軍の福島正則と西軍の5大老宇喜多秀家の間で切って落とされる。最初は激戦であったが、毛利家の吉川広家の寝返りで毛利軍はまったく戦う意欲なし。結局、毛利家 は 西軍・総大将 という事になっていたが、実際には総大将らしいことは何もやってない。四国の雄、長宗我部家も動かない始末。さらに決定的なのは石田三成の側面の松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りを機に一気に東軍に有利な展開になった。結局終ってみれば、たった6時間の戦闘。大がかりな戦の割に短時間で決着がついた。真田昌幸は決着はそう短期間ではつかないだろうと予測し、自分もその戦闘に参加できるであろうと思っていた目論見もあっさりと消えてしまった。

10 家康の戦略に若輩三成完敗
 表面的な戦力は5分5分にように見えるが、裏を返せば関ヶ原の戦い前に家康が三成を圧倒していたことがわかる。三成敗因の大きな原因はなんといっても人情味のない、人を見下すような三成の態度の不人気さと、豊臣恩顧の大名、中でも福島正則や小早川秀秋までが、家康が秀頼を裏切ることはないであろう、三成の方が秀頼の将来にとって良くないという家康の宣伝に乗せられてしまったのが一番大きい。
三成は自分の器の小ささに気づき、毛利のようにお飾りではなく実際に動ける有能なる大名、たとえば大老の宇喜多秀家などを大将にして(実際に、関ヶ原の戦いでは宇喜多軍は健闘した)出陣し、自分は補佐役に回ってたら状況は変わっていたかもしれない。

 現代にも三成や家康と同じような性格の人物は多い。三成的人間は秀才で頭は切れるが、官僚的で、人情味がなく杓子定規にしか行動できない。上には従順だが下には厳しい。他方、家康のようなたぬきおやじは、義理人情には厚いが緻密さに欠け、丼勘定。従順な人間には愛想がいいが、一旦歯向かうと後が怖い。政治的な裏工作が大好き。あなたの上司はどちらのタイプの人間でしょうか?

参考 関ヶ原の戦い Wikipedia

インパクトファクターから見るジャーナルの趨勢

2016年08月08日 12:33

NatureとCell関連雑誌の圧倒的強さ

毎年7月になるとジャーナルのインパクトファクターが発表される。この発表にジャーナルの関係者は一喜一憂する。もしインパクトファクターが上がれば、その成果を誇示でき、競合する他誌を追い落として、このジャーナルに投稿する論文が増え、しいては質のいい論文が獲得でき、読者も増え、財政的にも潤う。

総合的に見るとは 小さな変化はあったが、インパクトファクターの傾向は前年とあまり変わりなかった。
いつものようにトップを臨床関係のジャーナルが占め、CA-A Cancer J for Clinicianはなんと100超えでIF:131.723、それを先頭にNew England J Med (IF:59.553), Lancet (IF:44.023)と常連が続く。
基礎系ジャーナルのトップはこれも変わり映しなくNatureでIF:38.138, 次いでScienceのIF:34.661、CellはIF:28.71となり、Natureのダントツ一位が定着した感があり、Cellとは10も差ができた。 Nature, Cell, Science以外ではNatureの姉妹誌のNat Gent  (IF31.616)やNat Med (IF:30.357)はCellよりも高いインパクトファクターを示す。さらにNat Med (IF:25.328)が続き、それをCellの姉妹誌のImmunity (IF:24.082), Cancer Cell (IF:23.214), Cell Stem Cell (IF:22.387)が追っている。ここまでが20点代。

 その後に、Can Discovery (IF:19.783)と、初めてNatureやCellの姉妹誌以外の米国がん学会発行のジャーナルが出現する。そしてまたNat Immunol (IF:19.381), Nat Cell Biol (IF:18.699), Cell Metabo (IF:17.303), Nat Neurosci (IF:16.724)、Cell Res (IF:14.812), Neuron(IF:13.974), Mol Cell (IF:13.958)とNatureと Cellの姉妹誌が独占し、その中にあってPLOS Medは IF:13.583と健闘している。Nat Struct Mol Biol (IF:13.338), J Clin Invest (IF:12.575), Cell Host Micro (IF:12.552), Blood (IF:11.841), Nat Commun (IF:11.379), J National Cancer Inst (IF:11.37), Genom Biol (IF:11.313), J Exp Med (IF:11.24), Am J Human Genet (IF:10.794), Mol System Biol (IF:10.581),  Gen Dev (IF:10.042)と続きここまでが10点代。

EMBO Jは10点から滑り落ちてIF:9.643になり、Nat Proto (IF:9.646)と続き、EMBO Mol Medは上昇して IF:9.547となった。さらに、PNAS (IF:9.423),  一時期15点代あったDev Cellも10点代から滑り落ちて今や IF:9.338、Nucleic Acid Resは躍進してIF:9.202。Curr Biol がIF:8.983、あの細胞生物学雑誌の名門で今でも載せるのが難しいとされるJ Cell BiolがIF:8.717まで下がってきた。PLOS Biol がIF:8.668、 Can ResがIF:8.556でeLifeがIF:8.303、Cell Death DifferがIF:8.218となっている。
OncogeneはIF:7.93でCell Report がIF:7.87. PLOS PathogはIF:7.003でここまでが7点代。

6点代はPLOS Gent がIF:6.661, Development (IF:6.059)で、5点代はGlia (IF:5.997), Can Letter (IF:5.992)でMol Cell Proteom (IF:5.912), Human Mol Gen (IF:5.985), J Neurosci (IF:5.924), Stem Cell (IF:5.902), J Medicinal Chem (IF:5.589), J Mem Sci (IF:5.557), Mol Oncol (IF:5.361), DNA Res (IF:5.267), Struct (IF:5.237), FASEB J (IF:5.229), BBA Mol Basis Dis (IF:5.158), BBA Mol Cell Biol (IF:5.128), Human Gent (IF:5.138), Biochem Pharmacol (IF:5.019)となっている。

5点以下を簡単に紹介すると、 J Immunol (IF:4.985), BBA Bioenerg (IF:4.864), BBA Mol Biol Lipid (IF:4.779), J Physiol (IF:4.731),と続き、J Cell Sciは昨年より下がって IF:4.706、 Mol Cancer Res はIF:4.51へ上昇, Endocrinol (IF:4.498)でMCBは下がってIF:4.427、J Lipd ResがIF:4.368, 米国の生化学、分子生物学会発行の名門ジャーナルJBCもついにここまで下がってIF:4.258, FEBS Jは上昇してIF:4.231, Am J Pathol (IF:4.208), Cell Signal (IF:4.191), J Proteo (IF:4.173), J Cell Physiol (IF:4.155), Proteomics (IF:4.079), MBCも下がって IF:4.037, J Mol Biol (IF:4.037)、 Eur J Cell Biol (IF:4.011)。 ここまでが4点代。

Cell CycleはIF:3.952, Mol PharmacolがIF:3.931, 日本癌学会発行の雑誌Cancer Sci はIF:3.896で日本発行の雑誌のトップ, Traffic (IF:3.721), BBA Biomem (IF:3.687)でBiochem Jがここまで落ちてIF:3.562, 次いでFEBS Lette(IF:3.519)となっている。PLOS ONEはかろうじて3点代にとどまり、IF:3.057となった。

昨今の変化を見るために著明に上がったのと著明に下がったものを調べてみた。
インパクトファクターが昨年より1以上上がったものはScience (1.05), Nat Gen (2.264), Nat Med (2.994), Immunity (2.521), Cell Res (2.399), Blood (1.389), Mol Cancer (1.624), 一方1以上下がったものとして、Nature は3.318下がっても依然として全体のトップ。 Cell も大きく下がり3.532の低下, Nat Methods (6.744), Neuron (1.08), JNCI (1.213), J Exp Med (1.275), Autophagy (2.645), J Cell Biol (1.117), eLife (1.019), EMBO Rep (1.316)となっている。

 傾向として言えることはNatureとCellとその姉妹誌が圧倒的に上位を席巻していること。中位でもPLOS Oneの成功に触発されてNature が出したopen access journalのSci Reportは5.578で、一方Cellが出したCell Reportは8.358 と、PLOS Oneが3.234と発行当初から徐々に落ちてきているのに比べ、やはりブランド雑誌は強い。

 自分が長い間研究してきた分野の生化学や細胞生物学とがん関連のジャーナルを見ると、生化学や細胞生物の雑誌の凋落とがん関係の雑誌の隆盛ぶりが目につく。
生化学、細胞生物学関係ではPNASが昨年の9.674から9.423へ、JBCが4.573から4.258へ、Biochem Jが4.396から3.562と大幅下落、また細胞生物学の代表的ジャーナルはいずれも、Dev Cellが9.708から 9.338へ、 J Cell Biolは9.834から8.717へ、J Cell Sci も5.432 から4.706へといずれも振るわず、長期低落傾向を示しているが、一方でNat Cell BiolのようにIF:18.699と依然として高いインパクトファクターを維持している雑誌もある。このことは一概に領域による人気低落だけではなくブランド力、編集方針の差がこの結果を生み出したのか?
一方がん関係はCancer Cellが23.523から23.214と変化なし、Can Discoveryは19.453から19.783へ、Can Resは9.329から8.556へ、Oncogeneは8.467から7.932へ、Can Letterは5.621から5.992へ、Mol Can Resは4.38から4.58へと一部のジャーナルによっては多少の降下はあるが、総じてインパクトファクターが他の領域の雑誌より高い。

国内誌を比較すると日本がん学会誌のCancer SciがダントツでIF:3.896、で
Gene CellがIF:2.581, J BiochemがIF:2.397でCell Struc FunctがIF:1.969と昨年と変わりない。ここでもがん関連のCancer Sciがじりじりと上げてきている。

豊臣秀次の粛清を考える

2016年07月22日 15:35

 人は皆、トップに立つと金正恩化する。

 NHKの真田丸では秀頼が生まれ、秀頼に後を継がせたい秀吉により、秀次が粛清され、豊臣家の凋落が起こり始めたことを匂わして今週が終わった。

  豊臣家の命運を考えてみると、朝鮮戦争失敗で陰りが見え始めたが、淀君との間に実子の秀頼が生まれ運気が上昇するかに見えたが,逆に急激に落ちていった。大きな原因の一つはあれほど人がよく、人の話をよく聞いていた名君秀吉が暴君となってしまったこと。どこで変わってしまったのか?

 秀吉は唯一の子鶴松が没し、後継者がいなくなると、親族を取り立て、後継者にしようとした。その一人が秀吉の正室、高台院(ねね)の兄の息子、小早川秀秋で豊臣家の養子として、秀次に次ぐ後継者として育てられた。 もう一人は秀吉の姉、瑞竜院日秀(とも)の長男豊臣秀次で豊臣家の後継者の本命としてすでに秀頼が生まれた時には関白まで上り詰めていた。しかし秀頼が生まれると秀吉は自分の後を継がせたいと思うようになり、秀次と秀秋が邪魔になってきた。
 秀秋は豊臣の姓を受けながら、中国地方の毛利の家臣、小早川隆景の養子に出された。また翌年には豊臣秀次に難が及び、粛清された。謀反の疑いをかけられ、関白の地位を剥奪され高野山に幽閉され、切腹させられてしまう。NHKのドラマでは自分で前途を絶望して切腹したように描かれていたが、事実はどうなのか、様々な憶測がなされている。
 秀次は素行が悪く、非道なことを度々したため処罰されたとの説もあるが、それにしては処罰が厳しすぎる。
 謀反の疑いがあり、そのために粛清されたとも言われるが、実際に謀反なら切腹ではなく、打ち首にされたであろう。やはりNHKの解釈のように秀次が前途を悲観して、自殺したというのが妥当かもしれない。しかし謀反でないとしたら秀次一門への処罰が厳しすぎるのはなぜか?
  関白を取り上げてどこか地方の大名にでもすればよかったのに、なぜ秀次切腹のみならず、三条川原に首を晒させ、一族郎等、幼い乳飲み子から側室まで関係あるものすべてを処刑し、根絶やしにしたのはなぜであろうか? 山形城主最上義光の娘、駒姫(15歳)にいたっては側室になるため上京し最上邸にて休養中で、まだ側室にはなっていなかったが一緒に処刑された。家臣の22名が切腹、20名が流罪等、39名の正室、側室、お付きの女中、子供たちはすべて打ち首にされた。
 一方、助かった者もいた。真田信繁は秀次の娘、隆清院(たか)を助けるべく、側室にする。そして秀吉の許しを乞うたものの、気が変わらないうちにとたかを呂宋助左衛門に預け、一時期海外へたかを逃す。その後信繁との間に一男一女をもうけている。
  謀反をでっち上げ、悪徳さを際立たせるため、罪もない一族郎等を抹殺したのであろうか?当時の考えでは、関白の位の者を地方に出すとか、蟄居させるとかはできにくかった。すると謀反という大犯罪をでっち上げて抹殺するよりしかたなかったのか?
 それにしても狂気の沙汰でしかない。誰も止めることはできなかった。信長同様一旦言い出すと手がつけられなく、自分が偉くて絶対君主であることを誇示したかった?

 千利休や秀次粛清事件があり、秀吉の健康も衰えていくと、急速に豊臣政権へ忠誠を唱える人物が減ったこともうなずける。さらには豊臣政権の中枢にいた石田三成や大谷吉継の朝鮮戦争時の対応や秀次切腹への対応に対し、不満を抱くものが増えていき。表面上換言する事はないが、どんどん内に向けて不満が蓄積して行った。
秀次を次期後継者とするべく、政権の基盤を作り上げていた組織は崩壊し、豊臣政権の屋台骨をも揺らがす事態へと発展していくことになろうとは秀吉は気づかなかったのか?
これを機に急速に豊臣政権への求心力が衰えることになる。若い頃は人の話をよく聞き、戦術にも長け、頭脳明晰な君主であったが、全国を統一し、敵がいなくなり、逆らう者がいなくなった途端、心の奥に潜んでいた真の性格、暴君、横暴ぶりが出てきた。人の言うことを聞かず、耳障りのいいことばかりを言う人物ばかりを侍らし、的確に情勢が見れなくなった。これでは政権は長続きしない。
 今日でも、よく言われることはその人の本当の性格は頂点に立ってみないとわからないということ。何人もトップに立ち、反対や意見をする人がいなくなると金正恩化する。敵対するもののみならず、うるさいやつ、耳障りの悪いやつは粛清しろとなる。
しかしそれでは組織が潰れるのは昔も今も同じ。少々耳障りが悪くても、組織の為、仕事のためを思って言ってくれるうるさい同僚、部下には耳を貸そう。それが結局はいい成果につながる。

日本でもanti-aging薬の臨床試験が始まった

2016年07月12日 16:24

Anti-agingがまた一歩近ずいた。

慶応大学はワシントン大学と共同でanti-aging効果があるとされる「ニコチンアミド・モノヌクレオチド、NMN」の安全性を確かめる臨床研究に入った。この物質は生体内にも存在し、エネルギー代謝に不可欠な「ニコチンアミド・アデニンジヌクレオチド、NAD」に変化する。老化に伴いNADは減少するので、このNMNを摂取して、補うことで、また積極的にNADを増やして抗老化作用を得ようとするものである。なぜ直接NADを摂取しないでNMNを採るのか?NMNは吸収されやすく、NADは吸収されないためだと考えられる。NMNは体内で「Nicotinamide mononcleotide adenyltransferase, Nmnat」により補酵素のNADへと変換される。NADのターゲットの一つにsirtuin (SIRT)という長寿遺伝子があり、NADで活性化される。つまりSIRTはNAD依存的な脱アセチル化酵素として、活性化されると代謝のキイとなる転写因子を脱アセチル化して、作用をおこす。SIRT1はAMP-kinaseの下流で活性化され、AMP-Kの活性化はSIRT1の活性化にもつながる。カロリー制限によるanti-aging効果は同じように、AMPが増えることによるAMP-K活性化によって起こる。

一方、米国ではmetoforminという糖尿病治療薬を用いて臨床研究に入っている。metoforminはAMP-Kを活性化し、エネルギー代謝の中心に位置し、栄養状態を監視するmTORというタンパク質 キナーゼを抑制して、代謝活動を低下さす。mTORはPI3K/Aktシグナルの下流にあり、insulinや増殖因子で活性化される。Insulin signalはエネルギー代謝の中心にあり、糖代謝、脂質代謝をコントロールする。その代謝の中心にmTORがあり、栄養状態を監視し、栄養状態がいいと活性化され、代謝を促進する。rapamycinはmTORの阻害剤としてanti-aging効果が確認されているが、副作用があるため人への投与はできない。

栄養状態がいい場合は細胞内のATPが豊富になり、エネルギーを浪費する。しかし栄養状態が悪く飢餓状態寸前の場合や絶食状況の場合には細胞内のATPは減少し反対にAMPが増える。すると細胞は浪費をさけるため、節約遺伝子のスイッチを入れ、エネルギー代謝に重要なstepをshut downする。これを行うのがAMP-KでAMP量を感知して活性化され、mTORをリン酸化して活性を抑え、代謝を抑制する。

現在のところ、anti-agingに有望な薬剤の開発のターゲットとしてmTORを阻害するかSIRTを活性化するかの方法がとられているが、NMNは実際に体内に存在する補酵素化合物なので、この摂取によりanti-aging効果がとれるとすればすぐにでも使える。 すでに世界の大きな製薬会社はanti-aging 薬の開発に取りかかっている。
これらanti-agingは成人病と言われる、がんを始めとする、糖尿病、動脈硬化、アルツハイマーなどの病気の発症率を下げることが期待されている。若い頃描いていた夢のような話が現実に近づいた。ここで目指そうとするanti-agingは寿命を伸ばそうとするものではなく、がんやアルツハイマーなどの成人病などにかからず、健康に年取って(healthy aging)寿命を迎えようというものである。

西郷隆盛に踊らされた赤報隊

2016年06月17日 16:26

長州、薩摩の尖兵として使い捨てにされた赤報隊

湖東三山とは西明寺、百済寺と金剛輪寺を指し、琵琶湖の東の鈴鹿山脈の麓にひっそりと佇んでいる。金剛輪寺は奈良時代の中頃聖武天皇の勅願で行基によって開山された天台宗のお寺。平安時代には比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場として栄えた。しかし信長の比叡山焼き討ちに際し、被害を受けるが、本堂と3重の塔は消失を免れた。近世に入ってお寺は荒廃したが、今は紅葉の寺として秋の紅葉シーズンには大勢の観光客で賑わっている。

  この金剛輪寺が幕末の歴史上の一瞬に現れ、消えていった。
 そのことが原田伊織著「明治維新という過ちー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」に載っている。この本は明治維新を全否定した本で、長州や薩摩はテロ集団と変わらないという論調で、今まで長州や薩摩が幕府を倒して新しい近代日本を作ったという明治維新史観とは全く異なる。長州や薩摩に徹底的に痛めつけられた会津地方でこの本はバカ売れ、大ベストセラーになっているのだそうだ。この本に関しては別の機会に紹介したい。

 赤報隊は幕末に王政復古を得て長州藩、薩摩藩によって結成された東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。島津藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視が中心になって金剛輪寺で結成された。隊長は相楽総三で公家の綾小俊実、滋野井公寿らを盟主とし擁立し、近在の勤王の志士を募り、旗揚げした。赤報隊には別働隊(第2隊、第3隊)も存在した。相楽総三は薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、西郷隆盛や大久保利通と連絡を取りつつ、下野、相模、江戸市内にて押し込み強盗などをし、旧幕府軍を挑発し江戸薩摩藩焼き討ち事件を起こさせて、上方に先立って江戸で戦闘を起こした。これが鳥羽伏見の戦いのきっかけにもなったと言われる。
 実際、相楽は旧幕府が新政府に反乱を起こすよう仕向ける挑発的行動を西郷隆盛より任され、関東、江戸で撹乱作戦を行った。強盗や傷害事件を関東、江戸で起こさせ、江戸を騒擾させ、まんまと西郷の策にのり、怒った幕府側は鳥羽伏見の戦いを起こして、歴史が大きく薩摩、長州の方に傾くきっかけとなった。
戊辰戦争で江戸へ攻め上っていく、東進に際し相楽は先鋒となって攻めた。この時、相模は旧幕府の所領は天皇の領地になるので年貢は半額になると先々で布告し、民衆の支持を集めたが、赤報隊の他の隊が規律を守らず押し込み強盗を行ったため、評判が悪く、京に呼び戻された。しかし他の隊は帰ったが、相楽は帰らず独断で、軍令に背いて進軍した。
相楽隊の軍令違反を新政府は苦々しく思っていたがが、新政府が最も恐れていたのは年貢を半減するという布告であった。新政府は年貢を半減するという布告を初期に出したが、情勢が官軍に圧倒的に有利とわかると、庶民の人気を集める必要もないということで、さっさと引っ込めてしまった。本当に信じられると厄介なことになる。最初は良かれと扇動してやっていたことが、逆に新政府の汚点になりつつあった。
そこで新政府は偽官軍の汚名を着せ、赤報隊を徹底的に取り締まることとした。
その結果、相楽は同志とともに天朝に背く逆賊として囚われ、なんの取り調べもなしに処刑され、首を街道にさらされた。罪状は官軍を装って強盗無頼を働いたというものであった。
  こうして赤報隊は都合のいいように使われ、用なしになると抹殺されてしまった。赤報隊は結成からわずか2ヶ月という短い歴史で幕を閉じた。
しかし太政官から官軍先鋒のお墨付きをもらっていたこともあり、昭和に入って赤報隊の名誉が回復された。
  組織の下っ端はいつも都合のいいように煽てられて、使われ、都合が悪くなると失敗の責任を押し付けられ断罪される。いつの世もこの法則は変わらない。赤報隊もその典型的な例であった。

そんな歴史のドラマの一コマとなった金剛輪寺の写真。
写真1:本堂;2:金剛輪寺由緒;五重の塔1;新緑に埋もれる5重の塔
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謀略と太平洋戦争

2016年06月06日 13:02

歴史的大事件には謀略はつきもの

第2次世界大戦のきっかけとなった、満州国進出や日中戦争いずれも謀略がきっかけとなっている、真珠湾攻撃もアメリカ国民を日本との戦争に引き込むため、時の大統領ルーズベルトが仕掛けた謀略との説もある。

1. 満州事変

満州事変は奉天(現瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)の満州鉄道の鉄道爆破事件(柳条湖事件)をきっかけに起こった。

1931年(昭和6年)9月18日、満州の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された 。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。

事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐である。二人はともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した。
柳条湖事件を計画・立案したのは、板垣征四郎と石原莞爾の2人であった。上述のとおり、2人はともに一夕会の会員で、板垣は二葉会、石原は木曜会にも加わっていた。
1928年(昭和3年)1月19日の木曜会会合で、当時、陸軍大学校の教官であった石原莞爾が「我が国防方針」という題で話をし、ここで「日米が両横綱となり、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」という彼独自の戦争論を述べた。石原は、このなかで、日本からは「金を出さない」という方針の下に戦争しなければならないと述べ、「全中国を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも」戦争を続けられるという構想を語って、中国全土を支配下に置かなければ、米国との戦争は成し得ないと演説した。
 そこで石原莞爾ら関東軍は謀略をもって柳条湖事件を起こし、満州進出のきっかけをつくった。そして満州を手中に収めた軍部は、北進政策を進めるべくロシアへと手を伸ばし始めるが、次の謀略事件、廬溝橋事件が発生する。

2. 廬溝橋事件

1937年7月7日、北京郊外の廬溝橋で日本の支那駐屯軍と中国軍とのあいだで戦闘が始まった(廬溝橋事件)。演習中の日本軍に対して中国軍が発砲したことがきっかけとされているが、日中双方の言い分は食い違い、真相ははっきりしていない。11日には、現地の日本軍と中国軍のあいだで、停戦協定が結ばれたにもかかわらず、近衛内閣は三個師団の派兵を決定し、これを機会に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示した。7月末には華北で日本軍の総攻撃が開始され、北京、天津など主要都市を占領、8月には上海に2個師団が派遣されて華中でも戦闘が始まった。

秦郁彦、安井三吉によれば日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとしている。一方、坂本夏男は中国共産党は7月8日に全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないと主張している。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える者も存在する。

中国共産党の陰謀説が面白い。
元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。
盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。
さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部に相当)でも傍受した。盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」と語っている。
 当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、「起死回生」を図る為、日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、「漁夫の利」を得ようと考えた。結果的に狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期にわたって、広大な中国大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になった。更に、その後、共産党は国共内戦で国民党に勝利し、遂に中国全土の支配権を獲得、「中華人民共和国」を建国(1949年)した。その意味においては、「盧溝橋事件」とは、日本軍が共産党軍にはめられた訳で、「日中戦争」とは、日本が中国共産党軍に「仕掛けられた」戦争だったそうだ(仕掛けられた日中戦争より)。

謀略はさらに続く。日本がアメリカと戦闘状態に突入したきっかけも曖昧。

3. ハワイパールハーバー奇襲

12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。
東郷から駐米大使野村吉三郎宛、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。
覚書は現地時間午後2時20分に来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使より、国務省においてコーデル・ハル国務長官に手渡された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃の1時間後だった。
「米国及び英国に対する宣戦布告の詔書」は日本時間11時45分に発された。
アメリカは当時すでにパープル暗号の解読に成功しており文書が手交される前に内容を知悉していた。ルーズベルトは12月6日の午後9時半過ぎに十三部の電文を読み、「これは戦争ということだね(This means war.)」とつぶやいたという。ハルの回想によると12月7日の午前中に全十四部の傍受電報を受け取ったとあり、「日本の回答は無礼きわまるものであった」「この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいっていなかった。日本はこのような予備行為なしに攻撃してきたのである」とある。また通告が遅れたことについては「日本政府が午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。
 野村は、この指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて、一時に会いに来るべきであった」としている。
須藤真志によると真珠湾攻撃及び日米開戦にまつわる陰謀論について、整理すれば次の3つになるという。
1. ルーズベルト政権が日本の真珠湾攻撃を予測していながら、それをハワイの司令官たちに伝えなかったこと。
2. ルーズベルトが個人的に日本の真珠湾攻撃を事前に知っており、太平洋艦隊を囮にしたこと。
3. ルーズベルトが日本からの開戦を仕向けるために挑発を行った。

こうした陰謀論が起こる背景として、秦郁彦はアメリカ側の真珠湾攻撃への屈辱、長期にわたったルーズベルト民主党政権に対する共和党系の反感、現地司令官の名誉回復を願う動きを挙げ、日本側では太平洋戦争について日本だけが悪者とされていることに不満を持つ人々が、聞こえの良い陰謀論を鵜呑みにする傾向があったと述べている。

このような陰謀がなかったにせよ、陰謀論が出てくることは、日本の暗号を解いていたアメリカがどうして真珠湾攻撃をハワイに知らせなかったのかという大きな疑問から生まれている。

 謀略は大きな歴史的事件には付き物で、日本、ドイツ、中国、アメリカ、ロシアと、事実とは異なるありとあらゆる陰謀が仕掛けられ、日本も陰謀に踊らされた。
戦争のような圧倒的に大きな事件になると、国は全力を傾けて、いかに騙して、自国に有利にするかを考えるのは当然で、謀略策略だらけである。いかにして謀略だと見抜き、反対に策を仕掛けるか、暗号解読、スパイ活動、といった情報戦が非常に重要となる。

終戦時においてもルーズベルト大統領は日本が降伏するとわかっていたのに原爆を広島と長崎に落とした。いろんな説があるが原爆の(ウラン型とプルトニウム型)の効果を確かめたかった。そのため広島と長崎では異なったタイプの原爆が投下された。というもの。また将来敵対することになるロシアをけん制するため原爆の威力を示したとも言われる。

日本降伏間際(8月9日)にロシアは中立条約を破って樺太、千島、満州へと進出し、ポツダム宣言受託後も攻め続け領土を広げた。日本は中立条約があるので安心して、関東軍も警戒していないところへ一気に攻めてきた。計画では北海道も占領する予定だったが、これは実行されなかった。条約なんて何の役にも立たず、一方的な破棄。ロシアはドイツとの戦闘に集中するため、日本は南方進出、アメリカ軍との戦いに集中するため、お互いの都合が一致し中立条約を結んで、利用しただけ。

4. 現在の情報戦

  今でも、なんでこんな情報が表に出るのかと思うような情報がネット上で、週刊誌に、新聞にすっぱ抜かれることがある。うそ、本当を交えた新たな情報を暴露することで、競争相手を陥れ、自分や会社が優位な立場に立つ。または自分に有利な情報を流すことで、いいムードを作り出し、人事上、優位に立つ、または競争相手の会社に対しての優位性をアピールし売り上げを伸ばす。

 研究においても競争相手がどこまで進んでいるか、競争に勝っているのか負けているのかは非常に気になる。一旦、論文が出てしまうと、今までの苦労が全て水の泡。一刻も早く競争相手より、論文を出すため、情報の収集は欠かせない。日本人は情報を秘密にしておくことに弱い。国際学会で、つい相手の質問に誘導され、どこまで進んでいるかを喋りがち。それに対し、欧米人は鉄壁な守りをおこない、口を漏らすことはない。
個人、会社を問わず、情報戦は日々行われ、いかに相手の情報を手にするかはどんな分野でも重要。

STAP騒動 第2幕開演

2016年05月24日 12:20

STAP細胞その後
  
 STAP細胞騒動から早いもので2年が経った。STAP 細胞論文の筆頭著者であり、STAP細胞捏造の責任をとらされた小保方晴子氏が反撃の狼煙をあげ「あの日」という本を出版した。さらにヨーロッパや米国でSTAP 細胞再現か?の論文が出された。

 1. 小保方著 「あの日」

 彼女が出した本「あの日」には詳しくSTAP細胞作成の過程、論文作成に至るまで、疑惑の出現、論文撤回、過剰なほどの彼女へのバッシングなどが書かれている。この本は彼女による主張が一方的に書かれているので、鵜呑みにすることはできないが、それなりの彼女の主張は認められる。

Natureの論文の著者は順に小保方、若山、笹井、小島、Vacanti, M., 丹羽、大和、Vacanti, CAとなっており、Corresponding authorは小保方とVacanti, CAとなっている。Contributionとして論文を書いたのは小保方、笹井となっており、小保方、若山、笹井が実験したと記述されている。そしてプロジェクトを立案したのが小保方、若山、笹井、丹羽、Vacanti, CAとなっている。
これを踏まえると、笹井氏は実験には関わったとは思われないので、実質小保方さんと若山氏がほとんどの実験をしたと思われる。実験は大きく分けてSTAP細胞の分離とES様の株価細胞(STEM Cell)確立のためのin vitroの実験とマウスを使ってテラトーマ、作成とキメラマウス作成に分けられる。小保方さんはそのうち体細胞を用いて低PHで処理してSTAP細胞を作る実験にしか関わってなく、後は若山氏がすべてやったつまりSTAP細胞研究の主導権は、途中から若山照彦・山梨大教授が握っていた、と小保方氏は主張している。
しかしすでに本実験で用いられたのはSTAP細胞から得たES様細胞ではなく、ES細胞そのものだと断定されているので、STAP細胞とES細胞のすり替えを行ったのは誰かということであるが、これまでに、それを行ったのは小保方さんだと決めつけられている。実際に小保方さんがすり替えをおこなったのであろうか?
 論文上で、博士論文に使用した図を用いたり、電気泳動のバンドに細工をしたりしていて、これは明らかに小保方さんの責任でなされたものであるので、論文不正が行われていることは明らかである。彼女はこれはあくまで図の取り違えをした単純なミスで、バンドの細工は結果が変わらなければやってもいいと思っていたと言っているが、それは理由にならない。論文においては明らかに彼女に撤回の責任がある。
 
 STAP細胞研究の主導権は、途中から若山照彦・山梨大教授が握っていた、と小保方氏は主張する。若山氏は、理研の特許部門に特許配分案を提案しているが、その内訳は、小保方氏に39%、ハーバード大のチャールズ・バカンティ氏と小島宏司氏に5%、そして若山氏自身に51%だったと小保方氏は明らかにしている。この数字を見るだけでも、誰がメインプレーヤーだったかは明らかだろう。
一方で、「私が発見した未知の現象は間違いがないものであったし、若山研で私が担当していた実験部分の『STAP現象』の再現性は確認されていた」とも主張しており、STAP現象がすべて否定されたことへの不満を漏らしている。しかし、理研の外部における検証実験でSTAP現象が確認されなかったことに対しては、なんの言及もしなかった。また小保方氏自身も再現に成功していない。

 小保方氏が毎日作って渡してた スフェア 細胞塊をバラバラにしてからキメラマウスを作ろうとしてずっと失敗し続けてた若山氏が、スフェアをマイクロナイフで小さな細胞塊にして初期胚に注入すると言い出してから僅か10日でキメラマウス作りに成功し、次いでそのスフェアの残りの細胞を ES 細胞用の培養液を使って培養することにも 成功するが、それまで幾ら小保方氏が培養しようとしてもそんな兆候は微塵も見られなかったので、小保方氏がそのことを若山氏に訊くと、若山氏は笑って 「 特殊な手技を使ってるから僕がいなければ再現は出来ない」と豪語したのだそうだ。だからこそ若山氏は、STAP 研究に疑いが生じると間もなく「 小保方氏は自分の渡したマウスを使っておらず、別のマウスとスリ替えた 」とか 「 私は小保方氏に裏切られた 」という、暴露証言を、マスメディアに対して大々的に語り始めた。小保方氏は同書の中で、STAP細胞「捏造」疑惑を仕組まれたものと真っ向から反論し、STAP細胞の作製は論文の共著者である若山氏が主導していた主張している。

 これに対して、ほとんどのマスコミは「小保方氏は自分に都合よく事実を歪曲し、不利な事実にふれていない」「若山氏に罪を押し付け、自分をマスコミ報道の被害者として演出している」と反発し「この本もSTAP細胞同様、小保方さんの妄想と捏造でつくられている」とした。
 一方、ネットでは、意外にも小保方支持が少なくない。もともと、ネット上では、一部の研究者が、マスコミ報道や若山氏の主張の問題点をしきりに指摘していたのだが、同書の出版を契機に、こうした論考も改めてクローズアップされ、「やっぱり若山氏が黒幕だったのか」「小保方さんはすべての罪を押し付けられた被害者だった」という見方も一気に広まっている。

  2. 新たなSTAP細胞作成

 何が正しくて何が正しくないのか?真相は闇の中だが、最近になってSTAP細胞に関して新たな展開が見られた。ドイツのハイデルブルグ大学のStefan WolflらはSTAP細胞様の現象を見出したというのだ。
BBRC (472, 585-591, 2016): Modified STAP conditions facilitate bivalent fate decision between pluripotency and apoptosis in Jurkat T-lymphocytes.
この論文によれば、pH 3.3(Obokata conditionでは5.7)という厳しい条件での処理でほとんどの細胞はアポトーシスをおこし、万能細胞のマーカーであるOct4の発現は見られなかった。しかし生き残った細胞では別のマーカーであるアルカリホスファターゼ(AP)の発現の確率が増していた。pH3.3での処理で細胞はアポトーシス細胞または万能細胞へと移行するのではないかと言っている。小保方実験との違いは①異なる酸性条件とバッファーを用いてpHを厳密にコントロール ②使用した細胞がガン細胞(ある程度の初期化がすでにかかっている可能性がある)。
この論文ではただSTAP細胞作成の条件を検討しただけにすぎないし、これをもってSTAP細胞があるとはいえない。日本ではSTAP細胞の特許は放棄したが、なぜかハーバード大学はしっかり、特許を申請したままである。またしつこく、STAP細胞を追求している人がいて、あちらこちらからいろんな情報がまた出始めていることは間違いない。

いつの間に「春過ぎて夏来にけらし」

2016年05月13日 14:14

日常に流され感動が少なく
 
ここ数週間の季節変わりの速さに体は追いついていけない。桜の花が散ったかと思ったら、ハナミズキや辛夷、木蓮の花が忙しげに咲き、散っていき、今や道路沿いにはツツジが満開で、薔薇もちらほらと咲いて初夏の佇まい。

 山肌を露わにしていた六甲山もいつの間にか新緑の絨毯で覆われ、浅葱色、萌黄色、深い緑へと、遠くから見るとパッチワークのように華やいだ装いで、毎日少しづつその化粧を変えていく様子に、生命の息吹を感じる。

 このところ、日常の生活の忙しさにかまけて山や空をじっくりと見上げることはほとんど無い。毎日道端に咲く花や、六甲山や、山の上にかかる雲や空は見ていても、ただ見ているだけで心に残らない。「心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」のことわざ通り。心がそこへ集中してなければ、たとえ目線がそこに向かっていても何も見ていないのと同じ。
 集中していなければいくら勉強しても頭に入っていかない。時間ばかりかけても集中していなければ効率が悪い。毎日同じような研究をやって集中や感動に欠けると、惰性に流され、ついつい隠されている大きなことを見落としてしまう。まさに視えても見えずである。

  歳をとると義理とか人情とか人の儚さには涙もろくなるが、何気ない自然には感動を覚えなくなっている。忙しい日常の中で、そこかしこに、ありふれて存在する花や樹や山を見て、生命に思いを馳せ、心を揺さぶられることが少ない。心が日常に慣らされてしまっている。研究も予想できる結果を追い求め、新しいデータを採ることに汲々とする。
 少年の頃は、星々や宇宙の神秘に心を動かされ、火山や地震、台風など自然の脅威に慄き、昆虫の形の不思議さに驚き、深海の未知なる世界に興味深々、と心踊ることがたくさんあった。それが今や、感受性や創造性に乏しく、好奇心も薄れ、感動を覚えることが少ない。
こんなことで研究を続けてもオリジナルでユニークな研究成果はでてこない。ぼちぼち潮時かなと思う。

ロッキード事件はアメリカの謀略?

2016年04月22日 13:08

石原慎太郎著 「天才」を読んで

石原慎太郎は現役の議員時代、田中角栄を金権政治の悪の権化のように追及していた。その慎太郎が何を思ったか田中角栄を持ち上げる小説「天才」を書いた。田中角栄の行動力、破天荒ぶり、まさに超人のように書かれているが、その中で一番興味があるのは田中角栄の起こしたロッキード事件は実はアメリカ政府陰謀だというものだ。ロッキードを導入するに際し、巨額な賄賂を受け取ったという話は、田中角栄を陥れようとしたCIAによる謀略か?
1976年に発覚したロッキード事件はアメリカが田中角栄潰しのために仕組んだ陰謀である可能性が高いそうだ。ロッキード社は、全日空の旅客機に自社の「トライスター」を導入させるため、合計30億円のカネを日本政界工作に使ったといわれている。そのうち5値円を総理大臣だった田中が受け取ったとされ、田中は収賄容疑、外為法違反容疑などで逮捕された。
 元首相で、田中角栄と同時代を生き抜き、いまは数少ない戦後昭和政治の生き証人となった中曽根康弘が、当時をふり返ってこう述べている(私と角栄氏とキッシンジャーの言葉、中曽根康弘)
「田中内閣が発足して2年目の1973年秋、第4次中東戦争をきっかけとしてオイル・ショックが起こる。ペルシャ湾岸の石油産出国6カ国は石油価格を21%引き上げ、OPEC10ヵ国石油担当相会議が5%の生産削減とアメリカなどイスラエル支持国(アラブ非友好国)に対する石油輸出禁止を決めた。仮に日本への石油輸出が5%削減された場合、日本経済は翌年3月には立ち行かなくなることが目に見えていた。」
「オイル・ショックの頃から、田中君は日本独自の石油資源外交に積極的な姿勢を取り、アラブ諸国から日本が直に買い付けてくる「日の丸石油」にまで色気を見せていた。さらに、渡欧の際には、英国の北海油田からも日本に原油を入れたいと発言し、ソ連・ムルマンスクの天然ガスにも関心を示して、独自の資源獲得外交を展開しようとした。これがアメリカの虎の尾を踏むことになったと私は想像する。
世界を支配している石油メジャーの力は絶大である。いささか冒険主義的だった田中君の資源外交戦略が淵源となり、「ロッキード事件」が起こったのではないかと考えることがある。」「田中君が逮捕されてから間もなく、日本を訪れたキッシンジャー氏と二人きりで話していた折のことである。氏は、「ロッキード事件は、間違いだった。あれはやりすぎだったと思う」と、密かに私に言ったことがある。キッシンジャー氏は事件の本質、真相をおそらく知っていたに違いない。」

なぜロッキードが仕組まれた事件であるのか。ここにもまた、岸の盟友である右翼の大物・児玉誉士夫が介在する。ロッキードからのカネは、日本におけるその代理人であった児玉を通して分配されていた。児玉は「コンサルタント料」として個人で21億円のカネを受け取っていたといわれている。つまり30億円のほとんどは児玉個人に渡っているのだ。ところが、捜査やマスコミの関心は田中に流れた5億円ばかりに集中し、児玉が受け取ったカネについてはまったく解明が進まなかった。

実はロッキード社の狙いは旅客機ではなく、軍用機のほうにあったといわれている。ロッキードの日本側代理人である児玉は、岸や自民党の人物たちに働きかけ、ロッキードの戦闘機F−104を自衛隊機に選定させるよう工作を行なっていたのだ。また、ロッキード社のP3C対潜哨戒機導入という大問題もある。当時の防衛庁長官だった中曽根康弘、官房副長官たった故・後藤田正晴などをはじめとする有力な自民党議員のほとんどすべてが、P3C導入をめぐって賄賂をもらっていたといわれている。 つまり、事件の本丸は民間機ではなくて軍用機なのである。自衛隊がロッキード社の軍用機を採用すれば、動くカネは旅客機と比較にならないほど大きい。田中は日中国交回復や、独自のエネルギー政策を提唱するなど、明らかにアメリカから距離をおく自主外交路線を選択していた。アメリカにとってそれは非常に気に食わないことでもあった。だから、この機に乗じて田中だけを潰そうという狙いもあったのではないかといわれている。それが田中の5億円だけを取り上げて、児玉に流れた30億円の大半について解明がまったく進まない理由の一つである。

石原新太郎は最後に 「いずれにせよ、私たちは田中角栄という未曾有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだった。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実はかけがえのないものだったということを改めて知ることは、けして意味のないことではありはしまい」と締めくっている。

大なり、小なり謀略はいつの世にもある。アメリカのCIAは最大の謀略機関である。膨大な兵器、関連機器を製造、輸出しているアメリカにとって、世界が平和だと商売が成り立たない。アフガニスタンへ武器供与しての戦闘支援、ありもしない核兵器との言いがかりをつけイランのサダムフセイン体制を滅ぼした戦争。結局はそのため中東情勢が不穏になり、テロリストの横行する地域を作ってしまった。イランやシリアは常時戦闘状態に置かれてしまった。これも全てわかってやった陰謀?

兵庫散策(高砂神社、御着城址、加古川城址)

2016年04月12日 10:50

高砂って?

1.高砂神社
結婚式で歌われる「高砂」は誰でも一度は聞いたことがあるめでたい歌だとは知っているが、どのような背景があって歌われるのかあまり知られていない。
神戸から30−40分くらい西に車で行くと姫路の手前に高砂市がある。そこの高砂神社を訪ねた。
能「高砂」発祥の地で、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐめでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。
 「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」と歌われる。

 能によれば九州阿蘇宮の神官が播磨の国、高砂の浦にやってきた。春爛漫の春風に浜辺の松が美しい。遠く鐘の音も聞こえる。そこに老夫婦が来て、木陰を掃き清める。老人は古今和歌集を引用して、高砂の松と住吉の松とは相生の松、離れていても夫婦であるとの伝説を説き、松の永遠、夫婦相老(相生にかけている)の仲睦まじさを述べる。そして老夫婦は自分達は高砂・住吉の松の精である事を打ち明け、小舟に乗り追風をはらんで消えて行く。
神官もまた満潮に乗って舟を出し(ここで『高砂や…』となる)、松の精を追って住吉に辿り着く。
 高砂神社このは相生の松がある。1つの根から雌雄2本の幹をもつ松が境内に生えた。この松は、尉と姥の2神が宿る霊松とされ、相生の松と称された。
初代相生の松は天禄年間に、2代目は兵火によって天正年間に枯死したと伝えられている。現在は5代目の松が枝を張る。
 その長寿の松は多くの和歌に詠まれ、百人一首にも「誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに」高砂は松や尾上にかかる枕詞。とか
「高砂の 尾の上〔え〕の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」
などがある。

2. 黒田官兵衛
 高砂神社の近くの姫路に黒田官兵衛ゆかりの御着城跡がある。赤松氏の一族で西播磨最大の領主だった小寺政隆が築き、本城とした。
官兵衛は、小寺政職にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えた。あれほどブームだった官兵衛も今やすっかり真田人気にとって変わっている。城跡と言っても何も残ってなく、今や公民館に使われている。
黒田家の墓所は福岡に存在し、兵庫には残ってなく、御着城跡公園内には、黒田官兵衛の顕彰碑が建立されている。
 加古川城は今は跡形もなく、称名寺というお寺が立っている。しかも工事中であった。信長の命を受け毛利征伐のため秀吉は播磨に入り、加古川城で播磨国内の城主を集め毛利征伐の軍議(加古川評定、1577年)を開いた。しかし三木城主別所長治の代理で出席した叔父の吉親は名門意識が強く、百姓から這い上がってきた秀吉を見下すところがあり、秀吉の不興をかい、その腹いせに別所長治を信長より離反させ、三木城の干ぼし作戦(食料を断つ)が始まる。12代加古川城主の糟谷(内善正)武則は、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え三木合戦二参加した。加古川城には、織田信雄、信孝兄弟に、信長の弟の織田信包、それから細川藤孝、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、佐久間信盛といった信長の重臣たちが一堂に会し戦略を練ったとされる。

写真 高砂神社 1−4、相生の松 5−6、御着城跡 7-10、加古川城跡 11-12
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研究費と論文の数と質

2016年03月18日 12:55

研究費の額と論文数は相関する。

 1. 大学間格差と運営費交付金
 昨年文科省は大学を3種に分類し、すべての国立大学にどこかに属するように指令した。そしてその分類ごとに実績を評価し運営費交付金学を査定するとした。その最初の査定による配分が行われた。
 分類は「世界で卓越した教育研究」と「全国的な教育研究」に「地域に貢献する教育研究」で、自分の大学がどこに属しているかは知っているであろう。
「世界で卓越した研究教育」には16大学が、「全国的な教育研究」には15大学がそして「地域貢献教育研究」には55の大学が属している。
今年の配分が決まり、その結果もすでに新聞紙上で公表されているので、自分の属する大学がどの程度頑張って、評価されているのかは分かる。
運営費交付金は全体で1兆1000億円にのぼり、国立大学の収入の3−4割を占めるのでこの額の多少は大学にとって生死を決定する大問題である。 今年度はその中の100億円を評価によって重点配分した
そのうち「世界」には59億円、「全国」には6億円で「地域」には29億円の配分となった。
世界で卓越のグループでの配分は 高評価で前年度の110.3%の配分が(京都、神戸、九州)の大学で、100.2%が(北海道、東北、筑波、東京、一橋、名古屋、大阪)、90.2%が(千葉、東京農工、東京工業、岡山、広島)で もっとも評価が低かったのが80.2%の(金沢)となっている。
どのような評価を行なったのか定かではないが、今後この傾斜配分の額がどんどんと増えていき、大学間での格差が益々つくことになるのは間違いない。

2. 研究費と論文数・質
ところで日本の大学の世界的な評価と研究レベルの現状はどうなっているのであろうか?
詳細に調べたレポートが発表されている。
国立大学協会 政策研究所のレポートで鈴鹿医療科学大学の学長の豊田長康氏によるものだ。

結論は「日本の研究力は低迷し、先進国では最低」。
主要国の中で唯一日本のみ論文数が停滞、減少している。人口あたりの論文数は35位で台湾は日本の1.9倍、韓国は1.7倍の論文を産生。その上、注目度の高い論文数も26位と低迷。
なぜこのように日本の研究が急速にダメになっていったかの理由が面白い。
理由に挙げられるのが 1. 人口あたりの正規の研究者数が先進国で最低。2. 人口あたりの公的研究資金の投入が先進国でもっとも低い。もっとも高いシンガポールは日本の4倍以上。主要6カ国の中でも最も少なく、約半分にしか達してない。
 調べてみると論文数は研究者数や研究費と綺麗に正の相関をするそうだ。

もっとも面白いデータは大学などの研究教育機関よりも国の研究機関に資金を投入しいている国ほど論文数が少ないのだそうだ。最低は中国で日本はそれに次ぐ。日本では研究資金の52%が公的政府機関に投入され,大学へは39%となっている。日本は国の研究機関への資金の投入が膨大に膨らみすぎ、大学への資金の投入が極端に減少、コントロールの効かない大学の研究を軽視したため、研究の量・質とも低下した。
 日本の論文の国際競争力は2002年をピークに低下。これは1998年頃から始まった公的研究資金の減少から4年経った2002年頃から顕在化した。G7の他の国に対しての競争力はピーク時の60%から45%へ10年間で15%低下した。日本の学術論文の80%が大学から産生されており、その停滞が日本の停滞の大きな原因となっている。
  結論として国立大学の論文数の減少をもたらした主な原因は(1)正規 の研究員の減少、(2)運営費交付金削減に基づく基盤的資金の減少に加え、(3)重点化と称して偏った研究への資金の投入(国の機関への)が上げられる。日本のレベルをピーク時までに回復するためには25%,韓国に追いつくには1.5倍、G7諸国や台湾に追いつくには2倍の研究資金が必要である。 これがレポートの要旨。

  なんのことはない、常勤ポストの不足、ポスドクの就職難、研究費不足、論文数減少、注目度の高い論文の減少、国際競争力の低下。これらはすべて政府(文科省?)がもう少し予算を大学教育、研究に回し、研究者のポストを増やせば解決することではないか。
 政府は日本は資源も乏しく経済成長を維持し国際的に生き残るには、研究開発を重点的に進めるより手がない。財政困難にもかかわらず、研究開発への予算は別枠だと言っておきながら、この体たらく。実態と言っていることのギャップのひどさ。
 これでは少子化問題だけではなく、国際競争でも日本は死ぬわ。

ゲノム編集技術の応用が始まった

2016年03月09日 16:07

遺伝子改変が簡単に(いい面と悪い面)

今までの品種改良は偶然に生じる遺伝子の変化によって、長い間かけて少しづつ改良を重ねていくということで行われてきた。しかし最近開発されたCRISPR/Cas9系ゲノム編集技術を持ってすれば目的の遺伝子を狙い撃ちにでき、それも短期間で破壊、修復できる。当然動物や植物の品種改良への応用はすぐにはじまるだろうとは思っていたが、より大きい魚、病気にかかり難い鶏神戸牛のような牛、より甘い果物、美味しい野菜といくらでも品種改良に応用がきく。
 日本でもタイやフグに応用され、1.5倍の大きさの魚が得られている。
実際には筋肉の成長を抑える遺伝子「ミオスタチン」の破壊をゲノム編集で行っただけ。この「ミオスタチン」を破壊した魚をクローン化すれば、永久に大きくて味のいい魚が得られる。
他にも収穫量の多い米、腐らないトマトとかおとなしいマグロを作り出すことがすでに行われている。日本での研究はまだ可愛らしいものだが、アメリカでの研究は一歩進んですでに臨床応用もされている。27年前にエイズウイルスに感染し、発症を防ぐため毎日複数の大量な薬を飲んでいるマットシャープさんは長年飲んでる薬の副作用でめまいや下痢が起こり、それでも免疫力はだんだん低下してきた。
そこで行ったのがゲノム編集。エイズウイルスはリンパに侵入し、リンパの機能低下を起こし、免疫能を弱らせることがわかっている。リンパ球をとり、エイズウイルスが細胞に侵入するときにくっつく細胞表面にある受容体CCR5を破壊し、リンパ球を体に戻してやるというやりかたで治療を行った。実際にデルタ32-CCR5の変異を持っている人はエイズに耐性で、この骨髄を移植したエイズ患者は完全に正常の状態になり、エイズウイルスの検出も不可能になる。同様に、ゲノム編集すると免疫力が大幅に上昇し薬を飲む必要もなくなった。いまやHIVは完全に治る病気になったとゲノム編集を行った企業サンガモバイオサイエンス社(Sangamo BioSciences Inc)のCOEエドワードランフェイエ氏は述べている。
それどころではない。アメリカのブロード研究所(Broad Institute of Harvard and MIT)では人間のすべての遺伝子2万余をすべてゲノム編集できるようにしようとして将来の戦略に備えようとしている。
今の所、変異している遺伝子がわかっている患者から採った細胞をゲノム編集してさらに修復して元に戻すという方法がとられている。この方法は修復した細胞を体に戻したときに組織に入っていけるか、器官を作ることができるかという大きな問題があるが倫理的問題は少ない。
しかしこれが受精卵を使ってゲノム編集をするとなると、人造人間を作ることにもつながりかねない、危険な技術でもある。しかし受精卵を用いてのゲノム編集がすでに中国でなされたという。
中国のBoyalife Groupはゲノム編集以前にまずはクローン化した犬や食肉牛の生産を開始した。そして2020年までに200万頭の牛の生産を目論んでいる。将来は人のクローン化に進もうとしている。それに並行して人の受精卵の遺伝子のゲノム編集をして、基礎的データを積み上げ将来に備えている。しかしその過程でだれかが隠れて遺伝子操作をした卵を母体に戻して、遺伝子が改変された人を作り出さないとも限らない。
日本でも早急に使用指針を作成する必要がある。世界に共通のガイドラインの策定が望まれる。

追記
上で書いた魚のミオスタチン遺伝子を破壊して、大きな魚を得ようとするばかりか人にも応用しようとする動きがあるらしい。シャラポアの例で有名になったが、スポーツ選手は規制の目をくぐり抜けて、ドーピングしようとする。その主たる目的は筋肉強化だ。今までは男性ホルモンが主に用いられたが、規制が強化されたため、様々な薬物に逃れた。シャラポアはメルドニウムと言う抗虚血薬だ。この薬は血流を良くして疲れにくくする。
ドーピングの最終兵器として持ち出されたのが遺伝子ドーピングだ。実際にミオスタチン遺伝子に異常がある人がいて、その人の筋肉量は通常の人の倍近くあるそうだ。というわけで、ミオスタチンを破壊した筋肉細胞を選手に戻し、筋肉量をアップさせようという試み。おれおれ詐欺と一緒で、悪智慧の働く人は、次から次へと規制逃れの手段を考え、新たな規制ができると規制にかからない方法を考える。まさにいたちごっこ。

播磨の法隆寺と言われる鶴林寺

2016年02月26日 16:01

鶴林寺
播磨平野を横切り、播磨灘へと注ぎ込む加古川、その河口付近に聖徳太子が開いたとされ、西の法隆寺と称される天台宗の古刹、刀田山鶴林寺がある。
広い境内の中には本堂、太子堂、三重の塔、常行堂、鐘楼、行者堂、新薬師堂や護摩堂などの多数の伽藍が点在している。
崇峻天皇2(589)年、聖徳太子が16才の時、播磨の地にいた高麗の僧恵便のために秦河勝(はたのかわかつ)に命じ、仏教をひろめる為の道場として建てられた。
 白鳳時代に造像された聖観音像があり青銅に金箔を押した金銅仏で、すらりと立っている。その昔、盗人がこの仏像を盗み出し、溶かして一儲けをたくらんだが、「アイタタ」という観音の声に驚いて、像を返し改心したという伝説が残っている。本堂本尊の薬師三尊像は平安時代初期の木造古仏で、本尊の薬師如来は平安中期の作品である。その他に、日光菩薩、月光菩薩、持国天、多聞天(いずれも重要文化財)をこの本堂で祀っている。これら5体の仏像はいずれも秘仏で、宮殿と呼ばれる大きな厨子に納められていて、60年に1回しか開帳されない。

戦国時代には近隣の書写山が戦火に巻き込まれたが、姫路領主だった黒田孝高(官兵衞)の説得で信長派となり、戦火を免れた。官兵衛ゆかりのものとしては、天文9(1540)年ごろの官兵衛の父・職隆の書状や天正16(1588)年の官兵衛直筆の書状、信長や秀吉が鶴林寺への乱暴狼藉を禁じる禁制の文書のほか、織田勢に降伏した高砂城主・梶原景行が寄進した県指定文化財の机などが残っており、官兵衛と鶴林寺とは深いつながりがある。
 国宝としては本堂と太子堂がある。本堂は室町時代の入母屋造の本瓦葺きで、内部には秘仏の薬師三尊像と二天像が安置されている。
太子堂は平安時代に建てられ、堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は法華堂と呼ばれていた。
2002年、韓国人窃盗団により宝物館から高麗仏画と聖徳太子絵伝が盗まれた。聖徳太子絵伝の方は翌年に取り戻されたが、高麗仏画、阿弥陀三尊像については韓国内で見つかったものの、返還されていない。

写真:
 1. 寺院山門 2. 案内 3. 4. 本堂 5. 太子堂案内 6. 太子堂 7. 薬師三尊 8. 三重塔

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高杉晋作の子孫

2016年02月16日 13:22

 
 晋作は辞世の歌に「おもしろき事も無き世をおもしろく」と詠んだところで事切れ、その後を看病していた野村望東尼が下の句として「すみなすものは心なりけり」と詠んだことは、一晋作フアンとして当然知っている。
 高杉晋作(本名春風)は幕府の長州征伐による四境戦争(1966)において,周防大島おきでの幕府艦隊の殲滅や小倉城攻略で活躍したが、肺結核が重くなり野村望東尼に見守られて死去。享年29歳。という話も有名だが、高杉晋作に子供がいたことは余り知られていない。
実は高杉晋作には妻・雅子との間には東一(とういち)という実子が一人いた。
 幼名は谷梅之助。明治20年(1887)に高杉東一と改名。
 東一は父・晋作と死別後、祖父・小忠太、祖母・道と母・雅子の手で育てられる。外交官としてホノルルやウィーンなどに駐在勤務。大正2年(1913)7月11日、48歳で死去。

 更に東一と妻・茂との間には二男二女があり、長男・春太郎が跡を嗣ぎ、戦時中は陸軍主計少尉として、満州やシンガポールを転職、戦後は商社マンとして要職に就き、昭和32年(1957)、54歳で死去。その跡を嗣いだ晋作の曾孫である高杉勝氏(大成建設に勤務、2010年に77歳で死去)と続いている。高杉勝氏は一男(力)と一女(明子)をもうけ、現在につながっている。

晋作の父高杉春樹(通称小忠太)からたどると高杉春風(晋作)、高杉東一(幼名梅之介)、高杉春太郎、高杉勝、高杉力と連綿とつながっている。この名前で思うのは高杉家がなんと洒落た風流味のある一家だろうということ。春樹(父)、春風(晋作)、梅之介、春太郎と男なのに春に関係した名がずらりと続く。また晋作の本名が春風だとは知らなかったが、都々逸を好み型破りな彼の生き様にぴったりの名前。

最近、現高杉家の当主の高杉力氏の話題が新聞に載った。
それによると晋作の日記や愛用していた三味線などの遺品を、晋作所縁の地である山口県萩市と下関市に寄贈すると発表した。 遺品をめぐっては、晋作の墓がある寺「東行庵」(下関市)と高杉家などとの間で所有権の争いが続いていたが高杉家が勝訴したのを機に遺品を寄贈した。この日、萩市の萩博物館で記者会見した力さんは「遠回りをしたが、父の生前の願いがかなって、ほっとしている」と話した。
 萩市に寄贈されたのは、高杉家の家紋入りの産着など。江戸遊学に旅立つ晋作を吉田松陰が激励した手紙や、萩から江戸に約2カ月かけて軍艦で航海した際の日記「東帆録」が含まれている。
 一方、下関市には、愛用の三味線などが寄贈された。奇兵隊の軍旗や療養生活中の和歌などもあり、下関戦争から死に至るまでの激動の人生をたどれる。

 高杉家の血が脈ミャクと遠い過去から現在までつながれている。その長い歴史の一瞬、晋作は維新という時と長州という場所とを得て、疾風雷神の大活躍をした。
 

青魚の脂肪が肥満を予防する

2016年02月01日 12:26

青魚の脂肪(オメガ3脂肪酸)の効能

従来より青魚に含まれるオメガ3(ω-3)の脂肪酸が動脈硬化を抑制するとか血液をサラサラにするといった報告が数々なされてきた。

それは主に青魚に含まれるオメガ3脂肪酸のエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)による。脂肪酸は2重結合の位置で大きく分けてω-6系列とω−3系列に分けられる。ω-6脂肪酸は肉などの通常の食物に多く含まれ、リノール酸やアラキドン酸などがあり、炎症性物質であるプロスタグランジンの前駆体ともなる。一方、ω−3脂肪酸にはα-リノレン酸やDHA, EPAがあり、これらの脂肪酸には抗炎症作用があり、体脂肪の減少や脂肪細胞での脂肪の蓄積を抑制する。

 摂取した食物を消化して作られたエネルギーの消費は、筋肉で多くなされるので、痩せるためには運動が推奨されるが、割と多くのエネルギーを消費するのが、生命の維持に必要な体温の維持である。体温調節には脳下垂体と褐色脂肪組織(BAT)が重要な役割をする。つまり脳下垂体の指令を受けて褐色脂肪細胞のミトコンドリアのUCP1というタンパク質が活性化して、エネルギーの消費(温度上昇)を高める。冬場は特に体温を奪いやすいので、BATでの熱量発生を多くして、体温の保持に努める。冬場には恒温動物は常に同じ体温を維持するために体脂肪を燃やして体温を高めている。

 オメガ3の脂肪酸の摂取はこの系を活性化して、体脂肪を燃やし、熱として放出し、消費することで抗肥満効果を持つことがわかってきた。
ではいかにして効くのであろうか?これらの脂肪酸は交感神経を刺激し、BATにあるbeta3 adrenergic receptor(3β-アドレナリン受容体) を活性化し、ミトコンドリアのUCP1を活性化してエネルギー消費を高める、ことで効くと考えられる。この作用は唐辛子の辛味成分、カプサイシンの受容体(TRPV1, transient receptor potential vanilloid1)を消失させたマウスでは効果がない。
TRPV1受容体はカプサイシンの受容体として働くのみならず、43 度より高温の熱湯、pH5.3以下の酸、マスタード、わさびや様々な炎症性物質によっても活性化され, 痛みや燃えるような発熱感覚を生じる。辛味は増していけば痛みとなり、辛味、痛み、熱は同じ刺激になる。
 この受容体は様々な刺激で痛みを発生するので、現在多くの製薬会社が新規鎮痛剤をつくるため受容体の拮抗薬の開発でしのぎを削っている。

ではなぜ同じ受容体を利用している炎症性物質とオメガ3脂肪酸が一方は炎症、痛みを発生させ、一方は抗炎症効果があるのはどうしてであろうか?
その詳細は不明であるがカプサイシンなどの受容体が皮膚や口などの抹消の感覚神経にあって暑さや痛みを感じるのに対し、オメガ脂肪酸は中枢に効いて、神経を介して褐色黄脂肪組織を活性化して発熱を生じるのではないか?
そのためオメガ脂肪酸の摂取は抹消の組織では抗炎症作用を発揮し、褐色脂肪組織では発熱を促すという、いい効果のみを与える?
何れにしても青魚の摂取は抗炎症効果を持ち、血液をサラサラにして動脈硬化の抑制をおこなうのみならず、肥満の抑制効果も持つといいことだらけ?
鰯や鯖や秋刀魚などの青魚は安いしこれを食べて健康になるということは庶民の健康法にうってつけ。

荒木村重の城

2016年01月19日 14:22

数奇な運命の荒木村重

戦国の武将で信長を裏切った、(明智光秀の行為同様に謀反だと言われるが別に信長を暗殺しようとしたわけではない)荒木村重に関しては圧倒的に嫌いな人が多いであろう。信長を裏切り、黒田官兵衛を土牢に押し込めた人物として知られる。
荒木村重は1535年 荒木義村の嫡男として生まれた。荒木家は池田城主、池田長正の家臣であったが、荒木村重は池田長正の娘、だしを娶って池田家の一門に加わった。
村重は武名をとどろかせる豪傑で、権謀術数にも長けていて、主家の池田家を乗っ取る。その後、織田信長に仕えるようになり信任も厚く、摂津37万石を任され、伊丹城を改修して有岡城と改名した。現在、有岡城址はJR伊丹駅の真ん前にある。

 村重は思いの外、線の細い人情家で、敵城主を殺害せずに追放したり、裏切った家臣の人質も殺害せず、命を助けている。 反対に織田信長は平気で敵城主や裏切り者の処刑を命じ、村重はその板挟みで悩んでいたと思われる。

 織田信長の命令で石山本願寺の顕如と和睦交渉を行うが、失敗。その上、配下の中川清秀家中のものが100石の兵糧を敵の顕如に渡してしまう失態も起こす。また羽柴秀吉が攻め取った上月城を守っていた尼子勝久や山中鹿之助が毛利の大群に包囲された際に、荒木村重に救援命令が出たが、積極的に行動せず、結局尼子一族は上月城陥落とともに滅亡する。更には、滝川一益、丹羽長秀と神吉城攻めに参加した際、荒木村重は命令に反して降伏した敵将を逃したりした。このような幾たびかの失敗や命令違反を犯し、信長からきついお咎めがあるであろうことを恐れていた。
更にその上、決定的なことは羽柴秀吉の軍に属していたとき、信長の命令に背いて突然前戦線を離脱して有岡城へと帰ってしまい、硬く城を閉じてこもってしまった。
 高山右近や黒田官兵衛が説得に行くが、何しろ頑なで、官兵衛は逆に捕らえられて土牢につながれる始末。村重は過去の例からして信長という人物は一旦裏切った者は絶対に許さない、皆殺しにされると思っていた。有岡城に籠城し一年にあたり徹底抗戦したが、次第に状況が不利になると、一族郎等、部下を見捨て単身、「唐草文染付茶器銘荒木」という名茶器を携え、有岡城を脱出し嫡男の村次の居城である尼崎城に移ってしまう。現在、尼崎城址は阪神尼崎駅のすぐ横にあり、本居宣長と並び称された国学者契沖の記念碑もある。
信長は尼崎城と花隈城を空け渡せば妻子は助けると約束したが、村重にはその言葉は信用できなかった。
そのため信長は見せしめのために荒木家の家臣の妻子122人を鉄砲や長刀で処刑した、女中388人や下士124人は、家屋に閉じ込め生きたまま焼かれた。更に村重一族とその重臣の家族36人は大八車に縛り付けられ、京都市内を引き回されたのち、六条河原で斬首された。
だしは村重に「霜枯れに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくずに」私は霜に枯れた道草の雑草のように、難波の海底の水屑となるだけです、を送り、村重は「思ひきや天の架け橋ふみならし なにわの花も夢ならんとは」これまで築き上げてきたものが夢のように儚く壊れてしまうとは思いもしなかった、と返した(写真5)。
 
 信長は余程村重に対しての怒りが収まらないとみえ、八つ当たり気味に処罰した。この状況を見て京の人はみな震えあがり、「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記している。
このような信長の苛烈さ非情さが後の光秀の謀反にもつながったと思える。
しかし村重本人は一族郎等、妻子を皆殺しにされたのにもかかわらず、村次と共に更に荒木元清のいる花隈城へと逃れ、最後には毛利のもとへと亡命し、尾道に隠遁した。
その後、信長が本能寺で打たれると、堺に移り住み茶人として余生を送った。出家して道薫となお改め、1586年52歳でこの世を去る。
本人は自分の人生をどのように思ったのか分からないが、自分のみが可愛かったのか、それとも精神的に子供で、ただ怖くて現実から逃げ出しかったのか、武士の魂「義理や人情」にとらわれず、今で言えば普通の自己本位な未成熟なおじちゃんであったのかもしれない。

今や伊丹城(有岡城)や尼崎城は石垣の一部しか残っていない。当時を偲ぶよすがもない。
有岡城址、写真1−4;だし辞世の句5;尼崎城址 写真6−8;契沖碑9
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2015年ベストサイエンス

2016年01月05日 12:44

ゲノム編集技術 (Genome Editing Technology)

画期的な発明でノーベル賞間違いなしと言われる技術がゲノム編集を行うCRISPR/CAS9だ。Science誌は2015 breakthrough of the yearとしてCRISPRを選んだ。
ゲノム編集とはゲノムの任意の場所を削除したり置換したり、新たな遺伝子を挿入する技術で医学的、生物学的応用の非常に大きい技術。
ゲノム編集技術は過去にも色々と開発されてきた。その一つがTALENS(transcription activator-like effector nucleases)で、DNAを識別する34アミノ酸が繰り返し構造を持つタンパク質とFokIヌクレアーゼよりなるが 、操作が煩雑でコストがかかる。一方CRISPR/CAS9技術は簡便で安価に誰にでもできる手法で、たちまち応用が広まった。

 この技術開発のきっかけは古細菌がウイルスからの感染を防ぐために獲得した免疫防御システムで石野良純氏(現九州大)によって見つけられた。細菌のCRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)システムは侵入したウィルスのDNAをCAS (CRISPR associated) タンパク質ファミリーによって30bp程度の断片に切断し、断片を細菌のCRISPRに挿入する。
 その際、CASタンパク質は外来性DNAのproto-spacer adjacent motif(PAM)と呼ばれる塩基配列を認識して、上流の標的部分を切り取ってCRISPR配列に挿入する。そうすることで、それぞれの種類のウィルス特有DNA塩基配列は感染の記憶バンクに貯えられることになる。記憶されたCRISPR 配列はRNAへと転写され、Cas6によって切断され、外来配列を含むRNA断片cr-RNAs となる。
 2度目の感染のときに,cr−RNAは外来侵入DNAに結合し、これがガイダンス分子となってCas9ヌクレアーゼをリクルートして外来DNAを切断する。これが細菌のウイルス感染防御のメカニズムである。

 本発明は、このアイデアを利用して、従来のゲノム編集技術の困難さ複雑さを取り除いて、哺乳動物をはじめとする高等生物のゲノムの改変(ゲノム編集)をより簡便に行う技術である。このCRISPR/Cas9システムの長所は、ゲノムDNA上の狙った場所の塩基配列をもとに、これに対応する塩基配列をもつRNA鎖を簡単に設計でき、合成できることだ。
従来、ゲノム編集ツールとして使用されていたZFN(zinc finger nuclease)やTALENでは、酵素がDNA塩基配列を認識していた。酵素はタンパク質であり、これを特定のDNA配列を認識するように設計するのは、非常に手間と時間がかかる。CRISPR/Cas9で使われるRNA鎖を設計するのはこれに比べて格段に簡単である。

Jennifer Doudna (Univ California, Berkeley) とEmmanuelle Charpentier (Max Planck Inst. for Infection Biol., Berlin)はこの原理を利用して高等生物の遺伝子の改変ができるように改良とシンプル化を試みた。

CRISPR/Cas9システムを利用してのゲノム編集を実際行うにはPAM配列、ガイドRNAにCasタンパク質(Cas,Cas9)が必要とされる。PAM配列に隣接した標的部位に対し、DNAに相補するガイドRNA(gRNA)を設計し、細胞にCasと一緒にプラスミドやウイルス粒子を用いて導入する。Cas複合体は標的とする遺伝子に結合して、確実に遺伝子を切断する。さらに切断されたゲノムDNAが修復/組み換えされることを利用して、遺伝子のノックアウト(削除)やノックイン(挿入)を行う。
こうして確立されたこのゲノム編集技術CRISPR/Cas9システムは、様々な生物の遺伝子を改変することを可能にした。この技術は植物や動物の改良や難病の治療やガン治療に至るまで応用が非常に大きい。
この技術の開発はより品質のいい植物や動物への改良、難病やがんへの応用と様々な分野への波及効果が望めるが、一方で生命への挑戦とか性の問題やこの世に存在しない動物の創生などに簡単に応用できるようにし、倫理的問題も多く抱えている。
良かれ悪かれ、生命が営々と築いてきた遺伝子を簡単に改変できる時代の到来がそこまで来ている。


ゲノム編集(CRISPR/Cas9システム) コスモバイオゲノム編集より

genome editing

龍田川、三室山の紅葉

2015年12月22日 13:09

 和歌に詠まれた紅葉

 平安時代の庶民にはもみじを愛でるという風習はなかったようだ。もっぱら桜を見る、花見が盛んだったようです。しかし、貴族の間では秋になると山野に出てもみじを鑑賞し、和歌に詠むという風流が流行った。
平安時代よりもはるか昔から紅葉の名所としてその名を馳せていたのは斑鳩の里にある龍田川とすぐそばの三室山。現在は龍田公園として整備され、紅葉や桜の名所として有名。

多くの和歌にも読まれ、百人一首にも在原業平と能因法師の2首が載っている。

在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれないに 水くくるとは」(古今和歌集)
神代の昔から聞いたことがありませんよ。龍田川が散り敷いた紅葉の鮮やかな紅色によって一面に染められているというのは。

能因法師の「あらし吹く 三室の山の もみじ葉は 龍田の川の 錦なりけり」
(後拾遺和歌集) 
晩秋のあらしによって舞い散った三室の山の真っ赤なもみじ葉が龍田川の川面いっぱいに覆い尽くし錦織りのようになっている。

この他にも古今和歌集には
「もみじ葉の 流れざりせば 龍田川 水の秋をば だれか知らまし」
坂上是則
「龍田川 もみじ葉流る 神なびの 三室の山に 時雨ふるらし」詠み人知らず などの和歌がある。

 先日、すこし盛りを過ぎたもみじを奈良龍田公園に見に行った。すでに12月も中旬にさしかかり、人もまばらでじっくりとこの和歌の雰囲気を味わうことができた。川の流れのすぐそばに紅葉の木があり、今年は暖かい日が続いたせいか、多くの紅葉がすでに散ってしまっていたが、中には今を盛りにと樹全体の葉を真っ赤に染めて柔らかい日差しの中に佇んでいる紅葉もあった。真っ赤になった葉の間から陽光が漏れ、折からの風で揺れ落ちて、地面で踊っていた。
三室山は標高82mの小さな山で神南備山とも呼ばれる。聖徳太子が斑鳩宮を造営するにあたり飛鳥の土産神をこの地に勧進されたのが由来。頂上には1.9mの五輪塔があり、能因法師の供養塔とされる(写真)。龍田川と三室山は現在龍田公園として市民に開放され。紅葉、桜の名所として親しまれている。

写真
1:龍田川公園紅葉1;2:龍田川1;3:龍田川2;4:紅葉2;5:紅葉3;6:紅葉4:7:龍田川を読んだ和歌の碑;8:能因法師の供養塔
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逆賊と言われた明智光秀の墓

2015年12月15日 14:28

明智家の菩提寺、西教寺

  明智光秀は主君織田信長を本能寺の変で暗殺し天下を掌握しかかったが、毛利攻めからとって返した豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れあえなく自害。三日天下に終わった。
光秀がなぜ謀反に走ったのかの説には様々あるが、それはさておいて、逆賊として扱われた光秀の遺体は死後どうなったのか?墓はあるのかなど疑問が多くある。
 光秀は山崎の合戦で敗れ、近江坂本城に逃げ帰る途中、伏見区醍醐の小栗栖にさしかかった時、落ち武者狩りの百姓に竹やりで刺され、傷が重く自害したとされる(現在小栗栖中学校が立っている)。享年55歳。首は丹波亀山の谷性寺に葬られたとも(光秀首塚がある)、坂本の明智の菩提寺西教寺に葬られたともいわれ定かではない。

 明智光秀の本拠地とも言える近江の坂本にある西教寺には明智一族の墓があり、正室煕子の墓もある。また高野山の奥の院にも明智光秀の墓所が伊達政宗や石田三成の墓と並んである。このように多くの墓が作られているがいずれに本物の遺体が埋葬されているのであろうか?

西教寺は明智一族の所領の城、坂本城のすぐそばにあり、明智光秀にとってなじみの深いお寺である。
西教寺は天台宗真盛宗の総本山であり、聖徳太子が創建し、のちに天智天皇から西教寺の勅願を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源が、続いて横川の源信が庵を結んで修行道場としたと伝えられている。その後、長らく荒廃していたが、室町時代末期に真盛上人が入寺して、不断念仏の根本道場として再興した。 以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられている。

  この西教寺は明智家の菩提寺なので遺体が葬られたとしても不思議はない。しかし逆賊とされていた光秀がすんなりと菩提寺に葬られるだろうか?
  織田信長が比叡山を中心に近江国の寺院を焼き討ちした際にこの寺も焼かれてしまったが、その後明智光秀が坂本城を築き、坂本城主として坂本の復興に尽力し、この西教寺の大本坊を増築し、仮本堂を完成させて現在の本尊を迎えた。光秀との由縁はふかく、1573年2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(凞子[ひろこ])の供養もされ、墓が安置されている。
天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。
内室の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については本物であると断言されてない。光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。
西教寺は光秀本人の首である事を確認してこの墓に葬った訳ではないので、光秀の墓であるとは断言できない。
いずれにしても今日、明智一族は西教寺という深淵なる自然に佇む古刹に葬られ、毎日欠かすこともない念仏によって弔われている。

参考写真1:西教寺門 2:参道 3:西教寺由来 4:一族の墓 5:明智夫婦




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日本初の幻のジェット戦闘機

2015年11月30日 12:57

ジェット機の開発競争

  先日、国産初のジェット旅客機、MRJ(Mitsubishi Regional Jet)が飛んだ勇姿を見て、感慨深く思った人は少なくないであろう。
しかし、国産初のジェット機は、すでに70年前の大戦末期に飛んでいた。

 先の大戦の戦闘機といえば、「風立ちぬ」の主人公でもあった三菱重工の堀越二郎設計の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が有名だが、日本が悪化した戦局の起死回生を図るため、密かにジェット機を製造していたことをご存知だろうか? その名は中島飛行機の特殊戦闘ジェット「橘花(きっか)」。

 戦局悪く、敗戦が濃厚になってきた1944年、戦局を打開するため、海軍は中島飛行機に今までのエンジンとは全く概念の異なる、ジェットエンジン推進の特殊飛行機「皇国2号兵器」の開発を指令した。

海軍の開発指示を受けた中島では、松村健一技師を主務とし、エンジンの開発には山田為治技師をあてて開発に取り組んだ。機体設計については比較的順調に進めることができたが、ジェットエンジンの開発は困難を極めた。開発を進めていた遠心式ターボジェットのTR10(後のネ10)は問題が多く、作業は一向に捗らなかった。

そこで、ドイツで開発されていたジェット機、メッサーシュミット Me 262のエンジン(BMW製エンジン「BMW003」)を使うことに方向転換した。日本側はMe 262の設計図を手に入れる代わりに、ドイツ側には哨戒艇用に日本が開発した小型ボートのデイーゼルエンジンの設計図を供与するという形で合意した。

しかしすでにその当時、制海権はアメリカを始めとする連合軍が握っていたため、秘密裏にドイツの占領下のフランスのツーロン港から、日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ。輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年末頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。
ドイツから得たMe 262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。

 中島飛行機が機体を、石川島重工業(現IHI) がエンジンを設計した。日本全土で敵機の空襲が本格化する中、工場を焼かれては設計室を移しながら、わずか1年弱で開発した。石川島のジェットエンジンは「ネ20」(ネは燃焼噴射推進装置の頭文字)。以前、陸軍や海軍が独自開発しようとしていたジェットエンジンに近いものがあった。

  本機の外観はMe 262に似ているが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、Me 262の後退翼と異なり、テーパー翼を採用するなど、上記のような事情により実際にはほとんど独自設計であった。

初飛行は広島に原子爆弾が落とされた1945年8月7日に千葉・木更津にある海軍の飛行場で、松根油(松から採った油)を含む低質油で行なわれ、12分間の飛行に成功する。これが日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。それから8日後に終戦を迎える。

 終戦前には数十機程度が量産状態に入っており、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。なお完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。
修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機はメリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。その説明文には最高速度696キロ・着陸速度148キロ・離陸滑走距離は500キロの爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートルと書かれている(Wikipedia) 。

  戦後、米国やソ連は、ドイツからロッケトやジェット戦闘機の技術を採り入れ、航空大国の地位を確立していく。日本はといえば、ロケットやジェット機どころか飛行機の製造そのものも禁止され、長いブランクに入る。そして1952年春、講和条約が締結し、やっと飛行機の製造ができるようになった。しかしこの間のブランクで飛行機製造技術の遺伝子の継承がされず、また一からのやり直しとなり、大きなハンデイになった。

 国産の輸送機、YS−11が作られ、初飛行したのは1962年であった。しかしこの時使用したエンジンはイギリス製ロールス・ロイス2660馬力ターボプロップの双発機で、国産エンジンではなかった。その後は、アメリカのボーイングの傘下でのエンジン製造や、国際共同開発でのターボファンエンジンの開発を一部行ってきた。

そしてやっと純国産のジェットエンジンを積む旅客機 MRJの開発にこぎつけ、初飛行が先日行われた。
また国産初の商業用ロケットの打ち上げにも成功し、長い道のりを経てやっと宇宙、航空産業の第一歩を乗り出すことができた。
今後、技術的にも経済的にも大きな波及効果の見込める宇宙、航空産業が発展し、日本お家芸の自動車に代わる日が来るのも遠くないことであろう。

大腸ガンの特効薬にビタミン C?

2015年11月17日 12:25

ポーリングの予言が当たっていた?

Vitamin Cといえば化学結合やたんぱく質の構造解明で1954年にノーベル化学賞をもらったLinus Paulingが思い出される。また核実験反対を唱え1962年のノーベル平和賞も受賞している。
ポーリングは後年、vitamin Cの研究を行い、様々な病気に効くというvitamin C万能説を唱え、風邪にも癌にも効くと報告していた。

しかし1970年終わりから1080年初頭にかけてMayo Clinicで錠剤投与(経口投与)による癌の大規模な臨床試験が行われた。その結果、効果が認められなかったことから、急速にvitamin C フィーバーは冷めていった。

しかしごく最近、vitamin Cの大量投与が大腸がんに効果があるとの動物実験での結果が出され、その理論的根拠も明らかにされた。
Jihye Yunは数年前にJohns Hopkins大学の大学院生であった時に、KRAS や BRAF (Ras familyのガン遺伝子)の変異で起こさせた大腸がんはGLUT1 というグルコースを輸送するたんぱく質の発現が亢進していることを発見した(Science 18, p1555, 2009)。GLUT1はグルコースだけではなくvitamin Cの酸化型であるdehydroascorbic acid (DHA)も細胞内へと輸送する。

そのYunが今度はLewis Cantley (PI 3-kinaseの発見者)研究室のポスドクとなり、vitamin CがKRASやBRAFの変異で癌化している大腸がんに効くという論文を出した。ちょっと医学、生物学に馴染みのない人には難しいかもしれないがその論文を紹介しよう。
Jihye Yun, Lewis C. Cantley, et.al.
「Vitamin C selectively kills KRAS and BRAF mutant colorectal cancer cells by targeting GAPDH」Science Reports 5 November 2015 on line
(解説:Vitamin C could target some common cancers, Science, 350, 619, 2015)

KRASやBRAFは人の大腸ガンで各々40 % 及び50%のが変異見られる最大のがん遺伝子である。BRAFはKRASの直接のターゲットとして下流のMAP kinaseを活性化し細胞増殖作用を起こすことがすでにわかっている。
KRASやBRAFの変異した大腸がんではグルコースを輸送するGLUT1が上昇しており、グルコースの取り込みが増加していた。Vitamin Cはsodium vitamin C cotranspoter (SVCTs)によって細胞内へと運ばれるが、酸化されたvitamin Cのdehydroascorbate (DAH)はGLUT1によって細胞内へと運ばれる。細胞内へ入ったDHAはglutathione (GSH), thioredoxin, NADPHを使ってvitamin Cへと還元される。
実際、KRASやBRAFの変異した大腸がん細胞でのvitamin Cの取り込みは明らかに上昇していて、vitamin Cによりがん細胞の増殖やcolony formationは著しく阻害された。その際、生理的なグルコース濃度(5-10 mM)の条件下で、10 mMのvitamin Cで十分な効果が得られたという。
しかしGLUT1を過剰発現させてもvitamin Cの取り込みは増すが、vitamin Cへのsensitivityは増さないことから、vitamin Cはoncogeneによって引き起こされる代謝変化に関わる酵素のどれかに効いているのであろうと推察された。
次に、実際にマウスで大腸がんへの効果を調べた。Vitamin CはKRASやBRAF変異で生じた大腸がんには著明な効果があったが、その他の原因で生じた大腸がんには効かなかった。
では「どうしてvitamin CがKRASやBRAF変異を持つがんに選択的に毒性を示すのか」という作用機序を明らかにするためメタボローム解析をした。
Vitamin Cで処置していない変異細胞では解糖系やペントース経路の代謝産物が増加したが、vitamin C投与でglyceraldehyde 3-phosphate dehydrogenase (GAPDH)より上流の代謝産物が蓄積し、下流の産物が減っていた。このことはvitamin CでGAPDHが阻害されていることを示す。
  DHAの取り込みでGSHやNADPHが減少し、細胞内の活性酸素 (ROS)が上昇し、そのtargetのGAPDHの代謝変化を生じる。実際、vitamin C 投与でKRAS 及びBRAF変異がん細胞でGAPDH活性は50%抑制されていた。

  結論として、KRASやBRAF変異のあるがん細胞ではvitamin C-induced ROSの上昇が起こり、GAPDHを阻害して、エネルギークライシスを引き起こし、細胞を死滅させると考えられた。
しかし問題はvitamin Cは経口投与では血中濃度が10mMに達するのは困難で、注射による投与が必要になる。このことが初期に行われた臨床試験で全く効かなかった原因かもしれない。
今後、大腸がんやKRASやBRAFの変異が起こっている他のがんへの大量投与による臨床試験が行われる予定である。
「火のないところに煙は立たぬ」と言うが、vitamin C 説もあながち嘘ではなかったことになる。

大阪の陣で大坂城を陥落させた大砲

2015年11月04日 14:17

大阪冬の陣、夏の陣から400年。

大坂城は天下の名城として、難攻不落、どんな敵でも攻め落とすことができない城と考えられていた。

しかし大坂冬の陣では大筒の玉が淀君のいた天守閣を直撃し、数人の腰元が亡くなり、淀君は恐怖のあまり、家康と和平を結んだとされる。そして頼みの綱としていた外堀を埋められ、夏の陣の時には大坂城は要塞としての意味合いをなくしていたので簡単に落ちた。このことは誰でも知っている。

しかしその際に使われた大砲がなんであったかなどは知られていない。NHKで徳川家康と英国のつながりの特集をやっていた。それによると、意外とも思えるが、家康と英国とのつながりが思いの外深い。そのきっかけはアダムスミスの乗ったオランダ船リーフデ号が関ヶ原の戦いの半年前に豊後の国、臼杵に漂流したことに始まる。その際、乗組員の処分に関し豊臣秀頼に指示を仰いだ。一方、すでに日本にいたイエズス会の宣教師は豊後を訪れイギリス人やオランダ人の即刻の処刑を要求した。しかし5大老首座の家康は最初は海賊船ぐらいに思っていたが、話を聞いているうちにヨーロッパで起こっている、カトリック国とプロテスタント国との確執をしり、アダムスミスを江戸に住まわせた。その後、日本名を三浦按針とし、幕府の外交顧問として、家康に取り立てられ、旗本になった。カトリックは豊臣方に保護され、プロテスタントは家康に保護された。家康は三浦按針から様々な情報を手に入れ、大型船の建造や大砲の鋳造などを行っている。家康は按針との縁でイギリスから大型の最新の大砲を手に入れ、堺に移り住んでいた根来衆の鉄砲鍛冶の芝辻清右衛門・理右衛門に、同じような大砲を作るように命じた。イギリスからはカルバリン砲4門、セーカー砲1門、カノン砲12門を購入した。カルバリン砲は砲身長3mを超え、長い射程(6km届いた)を誇る中口径砲だ。またそれを参考により射程距離の長い小口径の芝辻砲を大量作らせ、これを大坂冬の陣の戦闘に活用した。

 このカルバリン砲はイギリスがそれまで世界に覇権を握っていたスペインを撃退するきっかけとなった武器である。それまでスペインは屈指の海洋国家として世界の7つの海を支配していた。その覇権を奪ったのはスペインの無敵艦隊をネルソン提督の率いるイギリス艦隊が迎え撃ったトラファルガーの戦。その際に英国海軍は射程距離の長いカルバリン砲で敵の大砲の射程外から砲撃し、敵艦隊を殲滅した。という曰く付きの武器を家康はイギリスから買って大坂の陣で使用した。家康が新式の大砲を使用したのに対し、豊臣方は旧式の青銅製のフランキ砲が主力だった。

大砲が時代を変えたとも言える戦闘として思い浮かべるのはまずビ東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルの鉄壁の城塞を打ち砕いたオスマン帝国の大砲(塩野七生のコンスタンチノーブル陥落)、幕末にイギリスから購入して各藩が使用したアームストロング砲(司馬遼太郎のアームストロング砲)がある。大村益次郎はこの砲を用いて、上野の彰義隊や会津の若松城を攻めた。

これらたった一つのすぐれた兵器の出現が時代を大きく回転させ、新たな時代が生まれるきっかけともなった。
一つの画期的な発明がそれまでのpower balanceを乱し、新たな時代を作り出したとも言える。

和歌に詠まれた逢坂の関

2015年10月23日 12:31

逢坂の関

 逢坂山とは京から大津(滋賀)に向かう途中にある標高325mの小高い峠である。山の高さはそれほどではないが、勾配がきついため昔から難所として有名で、さらに都と東国、北国を結ぶ北陸道、東海道、東山道(後に中山道などに再編)が交わる交通の要所でもあり、京都防衛のため逢坂の関がおかれていた。不破関や鈴鹿の関とともに天下の3関と称されている。
 この逢坂山は名前からして大阪の近くにあると勘違いされやすい。しかし平安時代から度々「人に逢うと人通さぬ峻険なる山の二面性」から和歌にもよく読まれている。

 百人一首に記載されている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」とか清少納言の「夜を込めて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」や、紀貫之は「逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒」などと名だたる歌人が逢坂山を読んでいる。

 清少納言は「枕草子」の作者としてあまりにも有名だが、一条天皇の時代、正暦4年(993年)に私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、殿上人と才気ある受け答えをして宮廷社会に溶け込んでいた。そんな折に関係があった男性の一人が藤原行成で、彼は一条天皇の蔵人頭として抜擢され、天皇と執政の藤原道長の両方から信任され、書がうまく三蹟の一人して数えられている。

 清少納言の百人一首の歌は彼への歌で中国の孟嘗君の故事に基づいている。秦の昭王に命を狙われた孟嘗君は、秦国から脱すべく、夜間に函谷関に至った。しかし関は、鶏の声が朝を告げるまで開かない取り決めになっていた。そこで孟嘗君は、食客の一人に鶏の鳴き真似をさせ、函谷関を突破したという。「史記」に載っている話。

「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」

 「嘘の鶏の鳴き声などでは、私の恋の関は開きませんよ。しっかりした関守がいますからね」と、強く突っぱねた歌。

 それに対して行成の返歌は
「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」

 「逢坂の関は誰でも越えやすい関で、いつも開け放って待っているのだと聞きますが」とひどい返歌に清少納言は怒ったとか。

 一方、蝉丸は醍醐天皇の第4皇子との説があるが定かではない。蝉丸は生まれつき盲目で琵琶の名手として有名で琵琶の名器、無名を愛用し、逢坂の関に庵を結んだ。彼にいつわる話は色々と取り上げられている。

 平家物語の「海道下」には一の谷の戦いに敗れ生捕りになった平重衡(たいらの しげひら)が、京都から鎌倉へ護送される場面が描かれている。
「四宮河原になりぬれば、ここは延喜第4皇子蝉丸の関の嵐に心をすます、琵琶を弾き給いしに、博雅の三位と言いし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨のふる夜も降らぬ夜も、三年があいだ、歩みを運び、たち聞きて、彼の三曲をつたえけん わら屋のとこのいにしえも、おもいやられてあわれ也。逢坂山踏み越えて、瀬田の唐橋駒もとどろにふみならし、——」。と書いてある。管弦の名人であった源博雅が、逢坂の蝉丸のもとに三年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授されたという伝説が重衡の鎌倉への護送という悲運の場面をもり立てる様に引用され、益々哀れさを掻き立てられる。

今や、逢坂山は京都と大津を結ぶ国道1号線として昔の面影はありませんが、それでも狭い谷間の道を京阪電車が車がひしめき並行して走っています。その京阪電車の小さな無人駅「大谷駅」のすぐそばに蝉丸神社や逢坂の関跡がある。

蝉丸神社の写真

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平忠度の腕塚

2015年10月13日 12:24

平家に親しみを感じる神戸

 震災により壊滅的打撃を受けた長田の街の海寄りに奇跡的に被害を免れた狭い路地の入り組んだ町家がある。その一角に平忠度の腕塚があり、町内の人により代々大切に世話をされている。

 平家物語の平忠度の都落ちは平家物語の中でも哀愁漂う章として愛好者が多い。忠度は武芸にも歌道にも秀でた平家の若公達として、有名であったが、平家がいよいよ都から西を目指して落ちていくとき、今までの一連の和歌を書きつづった巻物を藤原俊成卿に手渡し、「今や朝敵になった者の和歌を勅撰集に入れるわけにもいかないでしょうが、もしいい和歌があったなら勅撰集に入れていただければ草葉の影でありがたく思います」と言い残し、「前途程遠し思いを雁山の夕暮れの雲に馳す」と高らかに口ずさみ去っていった。
 その後世が鎮まって千載集を編纂した時、朝敵となった人であるので、俊成は詠み人しらずとして「故郷の花」という題で読まれた和歌一首「さざなみや滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」を入れた。

 その後、一の谷の合戦で馬に乗って逃れようとしたところ、岡部六弥太忠純に呼び止められ、組討ちになったところに、六弥太の家来が駆けつけ忠度の右腕を根元から切り落とした。そこで忠度は観念して首を切り落とされた。六弥太は相手の名前を知らなかったが、箙に結び付けられている文を見ると「旅宿の花」という題で「行きくれて木下蔭を宿とせば花や今宵の主人なるらん」忠度と書き記してあった。

 その時失われた右腕の塚「腕塚」が神戸の長田の海に近い昭和の原型を残す駒林町、入り組んだ道が迷路のように回る、民家の片隅にひっそりと祀られている。長田といえば阪神大震災で壊滅的な被害を受けた地域であるが、この一角は奇跡といえる街並みが震災にあわずそっくり残っている。このような迷路のように入り組んだ家と家とが密集した部落がそのまま昭和の姿を残していることだけでも訪れる価値がある。こんな小さな信仰の場所を何百年も守って来られた地域住民の心意気に感謝。
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夢のやせ薬の末路

2015年09月28日 12:18

  運動しなくても痩せる薬。

  運動や寒さによって骨格筋から血中に放出され、白色脂肪細胞を褐色脂肪細胞に転換する遺伝子を活性化させる
「irisin,イリシン」というホルモンが2年前にHarvard 大学のスピーゲルマン教授らによって発見された。
 『A PGC1α-dependent myokine that drives browning of white fat and thermogenesis』 Nature 481, 463–468 (2012)

発見当初は夢のやせ薬として、激しい運動をしなくても同じような効果が得られる「運動ホルモン」ともてはやされ、夢の薬の出現として多くのベンチャーも飛びついたが、今ではその効果や存在そのものまで疑われ、ベンチャーキャピタルも撤退した。
白色脂肪細胞が、余剰エネルギーの貯蔵庫であるのに対し、褐色脂肪細胞は、脱共役蛋白(uncoupling protein-1, UCP-1)を介してエネルギーを消費し、熱を産生する機能を有する。イリシンは、白色脂肪細胞の膜表面にあるレセプターと結合することにより白色脂胞の UCP-1を活性化し、褐色化 (ベージュ脂肪細胞)を誘導するという働きを有している。運動によってイリシンの前駆体であるFNDC 5 (fibronectin type III domain containing 5) 蛋白質の発現を高めることで、血中へのイリシン分泌が増加し、脂肪細胞におけるUCP-1の mRNA 発現量が亢進し、同時に酸素消費量も上昇して、体重の減少、インスリン抵抗性の改善がみられると言う.
 イリシンの産生は、運動によって増加するPGC-1α (peroxisome proliferator receptor γ coactivator-1α)依存的に行われる。よって、運動によってPGC-1αが上昇し、イリシンの産生が高まり、血中へと放出され,白色脂肪細胞に働いて褐色脂肪細胞に変えるということになる。
実際、マウスに3週間の自由なでの滑車運動を行った結果、イリシン分泌量は65%上昇し、人でも10日間の持久性運動により、イリシン分泌量が2倍増加したという。
 
  これまでの実験結果ではギリシャ神話の虹の女神イリスに因んで名付けられたホルモンのイリシンが、運動の筋活動に伴って脂肪組織に移動し、脂肪を貯蔵するのではなくエネルギーとして燃焼するように働きかけるとされていた。また、これらの発見によって、イリシンが肥満や糖尿病に対抗する重要なカギとなる物質ではないかという期待が高まり、将来的にはイリシンの飲薬で運動しなくても運動をしたのと同様な脂肪燃焼効果が実現できるのではないかと期待もされていた。

 しかしながら、最近、イリシンの測定法そのものに誤りがあることが発見され、170余りの論文が出されているが、今までのデータは全て信用がならないことが分かってきた。

  米国デューク大学の研究チームは、ネイチャーの姉妹紙『サイエンティフィックレポート』に掲載した論文で、2012年のハーバード大のスピーゲルマン教授らの論文に真っ向から反論した。研究を率いた生化学者のエリクソン教授は「ハーバード大学の研究チームの論文は、イリシンを検出する方法が間違っていた」と説明した。また英国キングスカレッジロンドン大学のシステム生物学のティモンズ教授も学術誌『サイエンス』とのインタビューで、「イリシンが人間にpositiveな役割をするというデータは存在しない」と話した。

  結局、結論は血中のイリシンを測る際に用いられたイリシンの抗体が実はイリシンを認識しないで、ごく少量紛れ込んでいたタンパク質を認識していることがわかった。つまり運動によって上昇するとしていたイリシンは実はイリシンではなかったということになり、今までのデータは全部信用できないとされた。またその上、人にはそもそもイリシンは存在しないか、したとしてもごくわずかであることも分かってきた。

  イリシンを研究してきた多くの研究者の無駄な努力、ベンチャーキャピタルの投資の大損、あまり笑えない話である。
 昔から夢の癌特効薬としてセンセーショナルに出現し、すぐに立ち消えてしまった例は数多くある。うまい話はお金の儲け話だけではなく科学の社会にも潜んでいて、乗ると大きな痛手となることがある。

  あまりにも有名になった贋作・捏造の例として世間を騒がし犠牲者も出したSTAP細胞がある。最近、漸くSTAP細胞の検証が終わってその結果が最新のNatureに掲載された。
STAP revisited. 525,426 (2015)
This week, Nature revisits one of the most controversial scientific episodes in recent years: the now-retracted discovery of a claimed new way to reprogram cells, stimulus-triggered acqui¬sition of pluripotency (STAP). On our website we publish two Brief Communications Arising (BCAs) that relate to the retraction.
Nature 525, E4–E5 (24 September 2015):STAP cells are derived from ES cellsとNature 525, E6-E9(24 September 2015):Failure to replicate the STAP cell phenomenonの2報が出され、STAP細胞は全てES細胞の混入によるものだと結論づけられた。この混入が意図的なものか、偶然なのかは明らかにしていない。何れにしても非常に多くの研究者や企業がこの不正(捏造?)論文に振り回され、大迷惑を被った。

 イリシンの発見の誤りは意図的になされたのではないにしても、有名な論文不正事件として、ベル研究所のヘンドリック シェーンによる常温で超電導を観測したという常温超電導事件(シェーン事件)や ソウル大学黄禹錫教授のES細胞論文捏造事件やSTAP細胞事件と、捏造、不正は止まるところを知らない。「なぜ人はすぐにバレるとわかっていて捏造したり、嘘をついたりするのであろうか?」これは科学研究の問題だけに限らず、東芝の虚偽の経理発表、ごくごく最近のフォルックスワーゲンのデイージェルエンジンの排気偽装と超一流の世界的企業でも行われた。企業内でのプレッシャーが強すぎて、一時的にも逃れようとした結果なのであろうか?企業間、個人間の競争の激しさのあまり、逃れようとしてなされたのだとしたら、あまりにも悲しい虚栄に満ちた社会ではないか。
 ほとんど個人が主体となる研究論文の不正にしても組織の関与する企業の不正にしても、いつもポストや研究費の獲得にあくせくしているストレスフルな研究者や、上司からいつも厳しいノルマや課題を突きつけられているストレスのかかった企業人と、生き残るのにタフな社会が産み出した副産物なのであろうか?ただストレスが大きいからと言って不正することは絶対に許されることではないが。


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