研究費削減か?

2009年11月21日 13:32

研究費削減時代の到来

民主党政権が誕生して3ヶ月がたった。莫大に膨らんだ予算をカットするため行政刷新会議での事業仕分け作業が始まった。当初、研究開発予算は減額しないと言っていた民主党政権は急遽、その主旨を変え、研究開発費の予算カットにまで乗り出したようだ。

今週のNature(462: 258-259, 2009 ), Science(20:1046-1047,2009)誌はこぞってその話題を取り上げている。その概略は下記のようだ。やり玉にあがったのがSpring-8, Super Computerや海洋削掘プロジェクトだ。しかしそのような大型プロジェクトのみならず、一般の研究費までカットをもくろんでいる。

鳩山政権の公約は政府支出を「無駄なプロジェクから一般大衆に利益を与えるような(高速道路無料化)社会主義的政策にシフトする」ことだ。
鳩山首相は8月には科学研究へのサポートは減らさないと言っていたが、10月にすでに補正予算で決められていた「世界最先端研究開発支援プログラム」への予算を2700億から1000億に削減した。総合科学技術会議の後、鳩山首相は日経新聞に対し、「自分も研究をやっていたから分かるが、研究者や学術関係者は自分自身の研究に酔いしれている。新しい社会構造に相応しい学術研究を促進しなければならない」と述べた。

研究開発関係プロジェクトをチェックする第3ワーキンググループの19人は経済学者、財政戦略家、地方政府関係者、および一般代表者と少数の研究者だ。言ってみれば研究とは縁のない素人の集まり。そのワーキンググループによりSpring-8の予算は3分の1から2分の1のカット、理研のBioResouce CenterやPlant Science Centerの予算は3分の1カット、海洋削掘予算が10-20%カット。更には競争的資金で研究者のコアーの研究費である科研費も単純化され縮小されることになった。これらの案は行政刷新会議にかけられた後、財務省が最終予算をつける。大型の応用科学の予算のみならず、基礎研究の予算、しいては雀のお涙の競争資金までもがカットの対象である。今後研究予算がどうなっていくのか見守っていく必要がある。
国の科学技術関連予算の基本的な考えについては内閣府のホームページのhttp://www8.cao.go.jp/cstp/budget/index.htmlを参照のこと。

楠と悠久

2009年11月16日 18:00

しばしの別れ

雨上がりの朝。厚い雲が残り、また泣き出しそうな秋の空。車の前面に見える山の頂きに一瞬厚い雲間から一条の陽光があたる。折しも、赤や黄や焦茶のまだら模様に染まりかけた山の頂きの、陽のあたる箇所だけが切り取られた絵画のように浮かび上がる。たちまち,陽は雲に遮られ、山は元のくすんだ衣に舞い戻る。

楠の老木は相変わらず緑濃い葉を天空に風になびかせ、寒さと共にに去っていくとなりの落葉樹を見て、しばしの別れを惜しむように物悲しい葉ずれの音をだす。

友は葉を木枯らしに一斉に舞い散らし、坂道を埋め尽くす。弱々しい陽光の射す、落ち葉の絨毯を敷いた坂道を、子供が、学生が、恋人達が行き交う。

ああしばしの別れ。僕たち、楠は友の去った街路に残り、ジングルベルにはしゃぐ子供達の声を聞き、忘年会帰りの酔っぱらいの叫びを聞き、師走の寒空にそっと肩を寄せ合う恋人達の姿を見守る。

最後の北風が残った衣をすっかりはぎ取り、友は裸の枝を寒空にさらす。吹き寄せられた枯葉はふきだまりで、かさこそと音を立て、寒い朝を足早に急ぐ人に踏みつけられ、砕かれる。

ああしばしの別れ。「僕はここで、みんなが帰ってくる春を待っているよ。暖かい陽光の中、みんなで楽しく語り合える春を待っているよ」

そのうち白いものが天空から舞い降りると、僕も真っ白な綿帽子をかぶり、ちょっぴりとおしゃれをする。楠の坂道には雪に戯れる子供達の歓声が聞かれ、大人は足を滑らせないようにそっと坂道を下る。

降る雪もまばらに、寒さ和らぎ、ぽかぽか陽気に誘われ、友が帰って来る。仄かな緑の芽を出したかと思う間もなく、葉を伸ばし、白やピンクの花々を咲かす。「やあ久しぶり、元気かい。元気で帰って来てくれて、またにぎやかな街路になったよ」

ランドセルをしょった子供達が坂道を駆け上っていく。老人達は陽気に誘われ腰を伸ばし、新緑の街路樹を見上げ、新たな生命の息吹きを楽しむ。

楠の老木は悠久の時をここで生き、繰り返えされる自然界の生命のドラマを、坂道で起こる人間のドラマを、ずーと見守っている。

楠の詩人 penpen

プロジェリア症候群

2009年11月07日 15:31

老化

今日はちょっぴり専門的な話。秋の夜長に少し深刻な話を。

なぜ歳をとるのだろうか?寿命はどのように決まっているのだろうか? 人は最大120歳が寿命の限界だとされる。寿命は古来より大関心事のひとつであった。秦の始皇帝は不老不死の薬を求めて、徐福に蓬莱へ行き、仙人を連れてくるように命じたという。しかし不老不死の霊薬として丹(朱色の顔料で漢方薬として使われた)を飲みかえって寿命を縮めた。丹は朱色できれいだけども成分は硫化水銀なので水銀中毒にかかった?

早老症といわれる難病がある。この病気の特徴は生まれてすぐに症状が出始め、毛が抜け、皺が増え、身長は伸びず、若くして動脈硬化、心臓疾患が生じ、関節炎や白内障を煩い、人の寿命を早送りするかのように、早く老化し14-15歳で亡くなる。
Hutchinson-Gilford Progeria syndrome(HGPS)は一般にプロジェリア症候群と呼ばれる先天的遺伝子疾患で400万人に一人の確率で発生する。すでにTVなどでこの病気のカナダの少女、(Ashley Hegi 1991-2009この患者は最高齢17歳まで生きた)が紹介され話題になったので知っている人も多いと思う。2003年には原因遺伝子が特定され、患者のヒト1番染色体上にあるラミンA (LMNA) 遺伝子のpoint mutation(正常遺伝子と比較して構成塩基が1個入れ替わる)により、核膜に異常を来たし、老化の促進を引き起こすことが病因であると判明した。lamin Aは核内の中間径フィラメントで核膜に脂質修飾で結合し、染色体が正常に機能するのに必要である。

最近分かった事実は正常なlamin AはRBBP4/7(retinoblastoma binding protein 4/7)と結合し、さらにRBBP4/7を介してNURD 複合体(5つの蛋白質よりなる)に結合する事が分かった(Nature Cell Biol. 11, 1176-1177, 2009)。この複合体形成がヘテロクロマチン中心を保ち、正常な染色体構造保持に必要であるという。一方、プロジェリア患者のlamin A(progerinと呼ばれる)は蛋白質のC末が欠け、RBBP4/7と結合できない。そのためNURD複合体の構成蛋白質は分解してしまい、ヘテロクロマチンが消失する。結果として、DNA損傷が増加して、老化が早まる。

またprogerinはC末を欠くものの、N末側の蛋白は作られ核膜上に存在する。これが野生型のlamin AとRBBP4/7の結合を競合したり、細胞に毒性を与えるともいわれる。Rasなどのがん遺伝子産物もprogerin同様脂質修飾を受け、膜に結合している。progerinが核膜に結合できないように、脂質修飾を抑制する制がん剤をプロジェリアの患者に投与したところ、症状の改善が見られたとも言う。
このような悲惨な難病にも遅々ではあるが、少しずつ原因の解明と治療法の開発が進められている。一日も早くこの悲惨な病気から救われる治療法が見つけられる事を祈っている。

夜の楠の小径

2009年10月29日 17:28

静寂と喧噪

朝の小径。あたかも水面を照らす光が、風の起こした波紋に反射して、目を眩ますように、朝の陽光が天に伸びる楠の巨木の枝の隙間から、木漏れ日となって降り注ぎ、きらきらと目に痛い。

今は夜。海に伸びる楠の坂道を帰る。楠の大木は夜空に高く背を伸ばし、鬱蒼と黒々と、あたりを睥睨している。時折吹く風にさわさわと葉づれの音だけが暗闇から舞い降りる。 天空高くやせた弧月が架かり、月影に楠の影が歩道に浮かび上がる。
ひんやりとした秋風が頬をなで、懐に包み込まれるような慈愛の影に身を寄せると、かすかに薫るかほりに心穏やか、一時世相の雑念を忘れる。
夢想する。「ひときわ大きく枝を張った楠の下。秋の澄んだ月を愛で、豊穣を願い、楠のかほりの妖精が風にのって乱舞する」

突如、薄暗い楠の小径から光溢れる通りに出る。幻想の世界から現実の世界に引き戻される。 安らぎの心が現実に打ち破られる。喧騒うるさい駅へと急ぐ。そこにはいつものありふれた夜の街が広がっている。

乃木希典と旅順攻略

2009年10月22日 18:09

旅順

旅順をめぐっての攻防戦は日露戦争の天王山といってもよく、「坂の上の雲」にも詳しく書かれている。当時日本は日清戦争に勝利して、浮かれたのもつかの間、三国干渉により講和権益が大幅に縮小され、遼東半島も手放さざるを得なくなった。三国の中で特に強行であったロシアは遼東半島に進出し、さらには朝鮮を窺っていた。とりわけロシアの極東総督エフゲニイ アレクセイエフは強硬で日本案にことごとく反対した。日本は堪忍袋の緒を切らしロシアに宣戦布告し日露戦争が始まった。ロシア軍は日本の戦力からして,戦闘範囲を朝鮮半島に限定してくるのではと楽観していたし、アレクセイエフも日本は旅順を攻める事はない、限定した勢力を南満州に集中して,戦略を展開して来ると読んでいた。

第一軍を率いる司令官黒木大将は鴨緑江を越えて満州方面へ進出していった。その時に持っていた秘密兵器の120ミリ榴弾砲が猛烈な破壊力を発揮し、次々に侵攻していった。第2軍は奥大将を司令官に遼東半島に上陸する。更に大本営は旅順を放置しているわけにはいかないとの判断で第3軍が編成された。そしてその司令官には日清戦争後に予備役に入っていた乃木希典中将が任命され軍関係者を驚かせた。乃木は指揮官としての資質や戦争下手にも定評があり、なぜ乃木がと疑問がられた。この人事は山形有朋の意向だとされ、バランス上参謀総長には薩摩出身の伊地知幸介少将が選ばれた。

作戦は6月26日に開始された。7月25日からは旅順攻略のための本格的な戦闘が始まった。日本軍は最初7月30日までに旅順を包囲し陥落させる事ができるだろうとの甘い見通しをしていた。しかし前進する日本軍に対し、標高差を利用した機関銃による掃射が絶大な威力を発揮する。一方で日本軍は攻撃目標が分散し、一点に集中して攻撃するという事をしなかった。戦術展開に完全に失敗していたのに、ごり押しし益々被害を大きくした。更に軍司令部を戦闘地よりも遥か後方に設置し、攻撃の様子などまるで分からない場所から命令を発していた。同じような突撃を繰り返し、多くの犠牲者がでる。全く学習効果などない。確かに乃木は兵卒と同じ食事をとり、質素な家屋に寝起きするその姿は人を感銘させた。しかし軍司令官として多くの兵士の命を預かる人物ではなかった。9月17日に再度の総攻撃を命令した.同じような攻撃で、同じようなパターンで展開され、白兵戦はまたしても失敗に終わる。「兵隊を要害正面にならばせ正面からひた押しに攻撃していくという事に固執し、国民を無意味に死地に追いやっている。無能者が権力の座についている事の災害がこれ程大きかった事はないであろう」と司馬遼太郎は言っている。

その頃ようやく203高地の戦略上の重要性を両陣営とも認識し始め、203高地を巡っての攻防戦が行われるようになった.それまでは152ミリ砲が用いられてきたが、海軍からの要請で内地に据えてあった28cm榴弾砲6門が9月の半ばには旅順に届けられていた。しかし伊地知参謀長は海軍が使っていた砲でもって旅順を陥落させたとなると第3軍の面子は丸つぶれになるといい,他の参謀達も正攻法で落としてこそ陸軍の誇りが保てると、未だ面子にこだわっていた。

しかし広島の大本営では強硬にこの28 cm榴弾砲を使うように命令し、さらに6門を送り届けて来た。しかも、その威力は驚異的で152 mm榴弾砲では歯が立たなかった厚いベトンも簡単に打ち抜いてしまい、ロシア兵の恐怖のマトになった。もう季節は秋の終わりを告げようとしていた。10月の26日以降この28 cm榴弾砲が使われる事にはなったが、集中して203高地攻略に使われた訳ではなかった。この期に及んでも、特に幕僚達には海軍のいう203高地なんか論外という雰囲気であった。閥にこだわり,面子にこだわり、それによってどれだけ多くの兵士達が犠牲になったか。

それでも尚正面攻撃にこだわり,3000名の白襷隊を編制して最後の突撃を敢行する。もう季節は11月26日になっていた。そして惨敗。
このような八方塞がりの時に、総参謀長の児玉源太郎が旅順に現れる。203高地攻撃に全精力を使うように指示し、28cm砲を全て投入するように指令した。それでは面子が立ちませんと一人が強く主張した。「面子で戦争するのかね。武人としての名誉です。それを保つための時間を8月後半から3ヶ月以上君たちにやってきた。それでも落ちんではないか」
かくして203高地の総攻撃が決まった。12月5日には203高地が陥落した。そして年明けに水師営での降伏調印式へとこぎ着ける。どうにか旅順を落としたもののその代償はあまりに大きく死傷者6万人に及んだ。無能な司令官や参謀はあまりにも単調な攻撃に終始し、学習効果が全くなく、完全にロシア軍に戦術を読まれていた。また海軍に対しての異常なまでの対抗意識で、本来の目的である旅順を落とす、ことが目的なのを忘れていた。

坂の上の雲では徹底的に乃木と伊地知の無能ぶりが批判されているが、大本営も満州の軍令部も第一回の総攻撃で旅順は簡単に落ちるであろうと甘い予想を立てていたし、内地の新聞も既に旅順陥落の号外を刷っていた程であった。
後に乃木は明治天皇崩御とともに殉死し軍神に祭り上げられ、伊地知もなんら責任を取らされていない。これでは6万人及ぶ死傷者は浮かばれない。
このような無責任な陸軍の体質が第2次大戦でも同じような過ちを引き起こす.

Spider Hunter

2009年10月15日 17:04

ベッコウバチ
狩人バチとも呼ばれ、主に蜘蛛を獲物とする。蜘蛛は虫を狩るハンターであるが、さらにそのハンターがベッコウバチである。名前のように羽が鼈甲色している。英語名は蜘蛛を狩るという意味でSpider Waspと呼ばれる。Waspはスズメバチののようなミツバチ(Bee)より大型の蜂を示す。

北海道をのぞいて日本国中に分布し、神社やお宮の境内でよく見られる。大型の女郎蜘蛛やナガコガネグモを攻撃し、巣から落として、針で蜘蛛の口の周りの神経が集中しているあたりをめがけ麻酔剤を打ち込み,生きたまましびれさせ土の中の巣に運び込む。狩られた蜘蛛は仮死状態のまま幼虫の生き餌として使われる。巣に運び込んだ蜘蛛は生きたまま卵を産みつけられ、卵から孵化した蜂は蜘蛛を餌に育つ。

南米に生息するオオベッコウバチは世界最大の蜂で体長6cm以上にもなり、タランチュラホーク(Tarantula hawk)とよばれる。巨大な毒蜘蛛タランチュラ類の天敵である。大型の毒蜘蛛を見つけると急降下して襲いかかり、巨大な蜘蛛の毒牙をかいくぐり、針をさして麻痺させる。蜂は空を飛んで蜘蛛の攻撃をかわし,蜘蛛をスピードで翻弄し,疲れさせ、一撃を加え、ほぼ100 %蜂の勝利に終わる。

ベッコウバチが蜘蛛を獲物とすれば、さらにその上を行く策士がいる。上前をはねる同種の仲間や寄生バエ、寄生バチなどである。巣穴作りに夢中になっている間にちゃっかりクモを盗みだし、自分のものにする。もっとずる賢い盗っ人は、クモを捕まえたベッコウバチが産卵する前にクモに産卵する。すごいのは盗っ人の幼虫は卵からふ化し、持ち主のベッコウバチの卵を食い殺し、クモを自分の食べ物にして成長する。極め付きは「労働寄生」と呼ばれるもので、一度埋められた穴を掘り返して、クモに産卵し、埋め戻し、ベッコウバチにかわって自分の子孫を残す。

このようなことはだれが教えた訳ではないけれど、進化の過程でどんどん手を抜いて、楽に生きられるよう、ずる賢い遺伝子の進化合戦が起こり、あの手この手を考えて出し抜く奴が現れて来たのであろう。どの社会にもそのような輩はいるもので、正業に精を出さず、俺俺詐欺や、やらなくてもいいリフォームを高い金をふっかけてさせるなど、上前をかすめ取る人間社会とそっくりである。ひょっとしたらこのようなずるくたちまわる遺伝子は進化の過程の初期の頃にもう確立していたのかもしれない。

最後に科学的なことを一言。この蜂の毒はPompilidotoxin(PMTX)で、ナトリウムチャンネルの不活性化を阻害する。α-PMTXは13個のアミノ酸よりできていて、配列はArg-Ile-Lys-Ile-Gly-Leu-Phe-Gln-Asp-Leu-Ser-Lys-Leu-NH2であり、β−PMTXは12番目のLysがArgに変わったものである。両者とも作用は同じ。

写真:ベッコウバチが自分より大きな蜘蛛を狩る。

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ウスバカゲロウ

2009年10月06日 19:15

あり地獄

小さい頃、お寺のお堂の床下にあるすり鉢状のあり地獄を暇があると眺め、ありを手でつまんですり鉢の底になげこんで遊んだりした。すると大半のありはさっさと砂の丘を登って逃げ出した。中にまごまごしているありがいると、砂つぶてをありにぶっつけ、ありが落ちてくると、強力な牙で一差し。体液を吸った抜け殻は、再び大あごを使ってすり鉢の外に放り投げる。これがウスバカゲロウの幼虫だ。ちょっとしたいたずらもやった。何か獲物が来たかのように、小さいゴミを投げ入れてやるとだまされて、獲物が来たかと勘違い。せっせと砂つぶてを投げる。また砂のすり鉢を壊してやると、またせっせとすり鉢を作り始める。

ウスバカゲロウの幼虫はアリジゴクと呼ばれ、軒下等の風雨を避けられるさらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住んで迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として捕らえ、消化液を獲物の体内に注入して筋肉と内臓を溶かした体液を吸うことで有名である。幼虫は2−3年で成熟し、土中で糸を吐き、土に包まれた直径1センチメートルほどの球形の繭をつくって蛹になり、まもなく成虫となって樹林へと飛び立つ。羽化するときに、長い幼虫時代にため込んだ2−3年の宿便を一気に排泄する。こうして、やっと六月から九月にかけて天女の羽衣をまとって飛び立つのだが、その美しい姿は陽炎のたとえのように1−2週間のはかない命なのである。成虫は一見トンボに似ているが類縁は遠い。トンボより頭部が小さく、触角も太い。はねもトンボより幅広くて柔らかく、飛び方もひらひらと弱々しく、トンボのように敏捷でない。また、カゲロウの名をもつが、カゲロウ類とも分類学上遠縁で、形態も異なっている。

写真1 ウスバカゲロウの幼虫。 写真2 ウスバカゲロウの成虫

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あおもり昆虫記より10



研究者の宿命

2009年09月28日 17:14

論文と研究費

研究者は研究を始めた時から①論文を書かねばならない。②研究費を獲得しなければならない。③研究環境のいいポジションを得るよう努力しなければならない。 この3つが宿命的についてくる。

特に論文を出すことと研究費を獲得することはだれでも苦労することである。これが無ければ研究は楽しいものだが、この2つのプレッシャーで押しつぶされる研究者も多い。論文出版に関しては、特に最近はテクノロジーの発達で、ありとあらゆる事が実施可能となって来た。そのため、論文は微に入り細にいるデータが要求される。それにレフリーはかってな事を言って来る。できそうもないことでも平気でやる事を要求されるし、それはできないと言えば、落とされてしまう。直接証明できない場合は間接的に、上から見た時、横から見た時、下から見た時、との傍証を積み上げ、このようなことから結論は正しいと言わねばならない。やれと言われた実験を行う機械や手技を持っていない場合も、借りてでも、共同研究をしてでもやらないと一流紙には載せてくれない。面白さより確実さが一流紙の流行だ。そのため膨大なデータが必要とされ、そのデータを採るにはまた膨大な時間と苦労を要求される。超一流紙ではリバイスによってデータが倍にふくれあがる事も稀ではない。

昨今は研究の面白さよりもジャーナルのインパクトファクターの方が大切にされる。よっていかにしてできるだけいいジャーナルに載せるかが、研究費の獲得やいいポジションを得るのには重要になる。

研究費獲得にあたり、今まさに科研費などの申請書をかく時期になって来たが、大きなポイントは①研究計画が独創的で面白いか.②計画が実現可能であるか。③過去の実績がどのくらいあるか。に絞られると考える。研究の目的には今までのバックグランド、このプロジェクトがいかに独創的で、興味深く、画期的であるかを簡潔に書く。この際、この研究がインパクトが大きく、完成の暁には新しい領域を切り拓くとか,又はいかに社会の役に立つかを説得できれば通ったようなものである。

当然研究計画同様大切なのは過去の実績である。どんなにいい事を言っても実績がないと実現不可能とされる。実績があまり無い場合は萌芽的研究として、そのアイデアのすばらしさ,独創性だけで勝負する手もある。

研究内容は当然分かり易く、具体的に,図説しながら書く。またレフリーに頑張っているなとの印象を与える事も大切である。申請書を懇切丁寧に,図をいれ、分かり易く,なおかつぎっしりと書いてあると好印象を与える。

いずれにせよ研究費が採れないといくら研究をしたくともできない。ここは根性を入れて書き、だれか第3者に見てもらうくらいの熱意で頑張らないと獲得は難しい。採択率は20%―10%しかないのだから。Good luck!

シニアー研究者からの助言。

アヘン戦争

2009年09月18日 16:09

林則徐
ここに男の中の男。常に清廉潔白,私事を顧みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた人物「林則徐」を紹介しよう。
福建省侯官に生まれる。父は科挙に挑戦して悉く失敗したため、貧しい教師生活をしていた。林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、1811年、27歳の時に科挙に合格し進士となる。
ちなみに最終試験の筆頭合格者を状元、2位を傍眼、3位を探花という。林則徐は7位合格。北京の翰林院に入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。

当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺するという卑劣な手段をとった。
しかしあまりにアヘンの被害が大きいのと、大量の銀が流出していくのを抑制するため、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて焼却処分した。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。そこで、クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出してひき止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にイギリス本国の議会でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後の首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は林則徐の位階を剥奪、罷免し、イギリスに対する政策を軟化させた。
林則徐は新疆に左遷され、万里の長城の最西端にある嘉峪関から単騎新疆に向かった。 その時に詠んだ歌。「一騎 わずかに過ぎれば即ち関を閉ず
 中原首をめぐらせば涙痕潸(さん)たり」と
林則徐「出嘉峪関感之賦」
1849年に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。しかし任地に赴く道中に病死した。

西洋事情の調査を積極的におし進め、その資料を友人の魏源に送り、魏源はその資料を基に大著「海国図誌」を上梓した。この本は西洋化への転換を促したもので、日本に伝えられ、明治維新の原動力ともなった。また民衆の力量を信頼しこれを対英戦力に編成して長期遊撃戦態勢を整えたことなどは、高杉晋作の奇兵隊の発想につながる。。

清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。この戦争の発端となった恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。
阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。それまで異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた幕府は、この戦争結果に驚愕し、薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる。この幕府の及び腰が、やがて明治維新という大きな流れとなり、日本を近代国家へと生まれ変わらせる事となる。アヘン戦争は醜い帝国主義の卑劣さを露呈し、それが他山の石となって日本は欧米列強に備える事ができた。
林則徐は正義を通そうとして、孤軍奮戦、力の無い正義は武力ある邪悪には敵わず、新疆への追放の憂き目に遭う。歴史に翻弄され、国家に翻弄されたが己の信念を貫いた一生であった。

家の中の小さなハンター

2009年09月10日 12:50

ハエトリグモ
節足動物門クモ綱クモ目ハエトリグモ科に属するクモ類の総称。正面の2個の大きな目が目立つ小型のクモ。その名の通り、ハエ類を含む小型の虫を主食とする益虫。捕獲用の網を張らず、歩き回りながらハンティングをする徘徊性のクモである。一部の種は都市部や人家にも適応しており、日常よく出会うクモでもある(Wikipedia)。餌を発見すると、そっと近づき、十分な距離に達すると、前列眼で距離を見極め、一気に跳躍して飛びかかることができる。
ハエトリグモたちの狩りを可能にしているのは、優れた跳躍力と優れた視力である。頭の前方に付いているヘッドライトのような大きな目を見れば、その優れた視力に気づく。この2つの目のことを主眼と呼び、主眼は他のクモにはない、長い円筒形の構造をしていて、獲物との距離を正確に把握できる望遠鏡のような仕組みを持っている。このため、獲物の様子を見て距離を測りながら忍び寄ることができる。また、色の識別もでき、雌雄の色が異なるハエトリグモの仲間は色によって雌雄を区別していると考えられている。

 ハエトリグモの目には特殊な主眼以外に副眼と呼ばれる、他のクモが持っている目と同じ目もある。副眼の役目は獲物の動きを追いかけることで、色は識別できないと考えられている。優れた眼を持つハエトリグモは、クモの中で最も優れたハンターであると言える。

机の片隅に現れたり、壁を這っていたりと日常家の中で一番よく見られるクモ。目がくりくりと大きくかわいい。ペットとして飼おうかと思ったこともあったが、妙に馴れ馴れしく、周りをうろつくので自由に放し飼いにして、時々ハエの餌をごちそうして上げた。

江戸時代にはハエトリクモを飼ってハエを採る様を見て楽しむという遊びが流行したらしい。また飼育する人が自分のハエトリクモをもちよって、同じかごの中に離し、どのクモが一番早くハエをとるかを賭ける博打もあったらしい。またハエトリクモを売る商売も成立していたというから驚き。江戸時代にはハエトリクモの事を鷹のようにすばやく狩りをすることから「座敷鷹」と呼んでいた。
家の中で見つけたらむやみに追い払わないで、よく観察してみると以外にかわいい事に気づく。最後に家の中の虫を食べてくれる益虫なので絶対に殺したりはしないことをお願いします。

写真 ハエトリクモ
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空飛ぶクモ 雪迎え

2009年09月03日 13:11

陽光を銀色に反射してクモが飛ぶ

今の季節にはまだ早いが、晩秋から初冬、初雪がちらちらと落ち始める頃、殆どの幼いクモは糸を出し、風に乗って、タンポポの種ように空を飛び、住処を変える。これをバルーンニングという。樹の上へと登り、風の吹き具合を確かめ、お尻から糸を一本、二本と出し、吹いて来た風にうまくのって離陸する。初冬の小春日和の穏やかなある日、何百何千というクモが、糸を太陽にキラキラ反射させながら銀色に光って空を飛んでいくさまはえに言われず美しく、一度見たら虜になってしまうこと間違いない。これを東北庄内地方では「雪迎え」という。
風に乗って遥か彼方にまで、洋上の島にたどり着くクモも稀ではなく、上昇気流にのって高度数千メーターという高いとこを飛んでいる姿も観察されている。雪迎えは幼クモの繁殖手段として風にのり生息地を広げる役割を果たしている。
イギリスでは同じ現象を「ゴッサマー」と呼び、中国では「遊糸」と呼んでいる。

宮本輝の小説「約束の冬」の冒頭でも「空を飛ぶ蜘蛛を見たことがありますか?ぼくは見ました。蜘蛛が空を飛んで行くのです。十年後の誕生日にぼくは二十六歳になります。十二月五日です。その日の朝、地図に示したところでお待ちしています。お天気が良ければ、ここでたくさんの小さな蜘蛛が飛び立つのが見られるはずです」と空を飛ぶクモの話が出て来る。 晩秋から初冬の穏やかな一日、「雪迎え」を見に庄内平野に行ってみませんか?

晩夏に思う

2009年08月28日 12:44

夏の終わりにー雑感―
晩夏とは夏の華やかさとは裏腹になんと物悲しい響きを含んだ言葉だろうか。今まさに晩夏。過ぎ去った夏の輝きを惜しむ晩夏と、過ぎ去った青春の挽歌がクロスするせいであろうか?

いつのまにかクマゼミの大合唱も聞こえなくなり、朝晩はさわやかな風が吹くようになってきた。夕べともなると、弱々しいが、確かな虫の音が道端のここかしこの草むらから聞かれる。あれ程暑かった夏も終わりを迎えようとしている。クマゼミが急に鳴かなくなったら、秋らしくミンミンゼミやヒグラシが鳴き始めると思っていたら、何の音沙汰もない。昔は晩夏にはミンミンゼミやヒグラシが鳴いて、もうすぐ夏休みも終わりだよ、夏の宴も終わりだよと告げるがごとくに鳴いたように記憶しているが。

夏休みがあと2−3日で終わる頃になると、日記をまとめて書いたり、図工や絵を慌てて描いたりした。なにしろ小学生の頃は、「天然ばか」と親たちからよくいわれていた通り、宿題なんて全くそっちのけで、ジョロウグモを戦わせたり、あり地獄を一日中眺めたり、山野をかけ巡って朝から晩までトンボ採りに夢中になっていた。日記で困るのは天気である。一ヶ月半にも及ぶ天気をどうやって調べるか。今のようにネッットがある訳でなし。これには悪知恵が働いた。測候所に行ってその日の天気を丸写しし、その後に天気にあわせて出来事をでっち上げる。しかしそうすると、同じような遊びが何日かおきに繰り返し現れる。そんな事は知った事ではない。夏休みの終わりまでにはちゃんと体裁を整えたはずであった。が先生から見れば、あちらこちらからボロがのぞいているらしく、夏休み明けに早速廊下に立たされるはめになった。
そんな廊下から校庭を眺めれば、アキアカネがいつの間にか山から下りて来て、風にそよぐコスモスの周りを、飛び始め、夏の饗宴の終わりをそっと知らせていた。子供心にもちょっぴりとしんみりした気分になった。

古来の風流人達によって、秋は夕暮れが風流でいいと相場は決まっている。
かの有名な枕草子でも
「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いとう近うなりたるに、鳥の寝床に行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、とび急ぐさえあはれなり。まいて雁などのつられたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日いりはてて、風に音、虫の音など、はた言うべきにあらず」と秋の夕暮れを絶賛している。

また新古今和歌集のなかでもあわれなる幽玄の秋の夕暮れを歌った3首の優れた三夕の和歌が有名である。
寂蓮法師「さびしさはそのいろとしもなかりけり、真立つ山の秋の夕暮れ」
西行法師「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけれ、浦のとまやの秋の夕暮れ」

秋の夕暮れはいつの世にあっても人の心にわびしさ、さびしさを植え付けずにはおかない。華やかできらめく夏も終わり、ちょっぴり物悲しく、落ち着いた秋の訪れ。晩夏から初秋への季節の移り変わり。皆さんはいかが秋の夜長をお過ごしであろうか?
もし心に余裕のある人がいたら、あなたの窓から、秋の夕暮れをしばし眺めて見てはいかがだろうか? 
自称詩人のペンペン

闇夜のハンター

2009年08月21日 19:12

フクロウとミミズク

フクロウは今から一億年前の白亜紀に昼間の激しい競争を嫌って、夜の舞台へと引っ越し、闇夜での生活に完全に適応すべく進化して来た特殊な鳥だ。

フクロウとミミズクにははっきりとした区別はないらしい。頭部の上方に突き出た耳のようなものを羽角というが、羽角があるものをミミズク(耳付く)、ないものをフクロウと呼ぶ。フクロウといえば目が特徴的であるが両目が頭部の前面に位置し、フクロウの眼球は眼窩に固定されており、眼球を動かせない。その代わり、首をまわして、頭を真後ろに向けたり、上下に反転させたり、自由になる。フクロウの目の感度は人の100倍にもおよび、夜目がきき、両目が正面にあるため立体視が可能である。暗闇に強い目と驚異的な聴力で、暗闇でのハンテイングが可能となる。

フクロウは夜行性の鳥で、肉食で小型のほ乳類(特にネズミ)や鳥または昆虫を食べる。さらにフクロウの羽毛は柔らかく、風切羽根の周囲に綿毛がはえ、羽ばたきの音を消し、闇夜でそっと獲物に襲いかかる事ができるように進化した。この原理はJR西日本の500系電車のパンダグラフに応用され、空気抵抗の低減が計られている。フクロウの飛行速度は72 km/hでゆっくりとしている。一番速いグンカン鳥はなんと418 km/h をたたき出す。まるで飛行機並みだ。闇夜で獲物に襲いかかるのにはゆったりとした飛行の方が望ましい。フクロウが闇夜で、目を光らせ、耳をそばだて、獲物に音も無く飛びかかる姿を想像しただけで、フクロウが森の精と思われているのもうなずける。
写真1−3 ミミズク 写真4 フクロウ 写真5 ミミズク 写真6−10 フクロウ

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おお関西

2009年08月13日 12:32

関西気質

東京から神戸にやって来て2年が経ってしまった。月日の経つのは速い、光陰矢の如し。李白曰く「光陰は百代の過客なり 而して浮き世は夢の如し」とさらに芭蕉に続く「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」。それを嘆いて小野小町は「花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに」また在原業平は「「月やあらん花や昔のはなならん我が身ひとつはもとの身にして」と。

なんだか高尚な書き出しになってしまったが今日のお話は関西についての印象である。

関西に来て、カルチャーショックはまずエスカレーターの右側立ち。なんすんねん。東京は左。どうしてこうなったん。名古屋は左。どこから右なんや?滋賀県がその境?どっちでもええねん。どっちかにしてくれっていってんねん。

次はなんであんなに語尾を延ばすねん。電話での応対。ありがとうございますーう。おせわになりますーう。ええいじれったい。さっさか言えよ。江戸っ子じゃあないけど気が短いのです。

3番目。赤信号無視。危ないやんケー。赤信号でもどんどん渡って来る。これにはすぐに慣れた。慣れてしまえば自分も赤信号無視。待たなくていいがな。信号に引っかかってもイライラせずにいけるがな。自分の性に合ってるんちゃう。

4番目。電車の乗り降り。待ってくれゃ。降りるのが優先や。降ろしていな。降り終わらなくて、続々と乗って来る。降りる人と乗る人のガチンコ勝負。入り口に立たんといて。邪魔なんや。奥に入りーな。奥はガラガラ。入れんがな。

5番目。少しは格好つけろや、見えをはれや。武士は食わねど高楊枝だろうが。なんぼのもんやなんてなんでも金に換算するなよ。清く,貧しく,美しくという生き方を知らないのか?

6番目。訪問販売やキャッチセールスがめっちゃ少ない。関西のおばちゃんはうるさい。好奇心が強い。どんどん質問しよる。「勘弁してーな。俺たち、おれおれ詐欺やキャッチセールスが反対にやり込められてどうするんや。だから関西はいやや」と詐欺師達はつぶやく。だまされ易いこの私にとって、その恩恵にあずかれて嬉しい。なにしろ街を歩いていて声をかけられる回数が少ない。渋谷のセンター街でも歩いてみろ。怪しげなお兄さん、お姉さんにしょっちゅう声かけられる。これでだまされ不愉快になる事もない。関西ってめっちゃいいとこや。変な奴が訪ねてこない。新聞の押し売りもNHKも訪ねてこない。マンションの押し売り電話もない。
東京にいる時にはよくだまされたもんや。人がいいのか馬鹿なのか親子ずれの珍味売りの訪問販売にはころっとだまされた。子供がいかにも貧乏で何も食べてないふりをするんや。子供を出だしに使うなんてひどいやないか。

関西のおばちゃんは気さく、すぐに話しかけてくる。人情味溢れてる。しかし話が長い。今急いでると言うてるのに?しかし「まあ兄さん聞いていな」と人の鼻の下をくすぐるのもうまい。結局遅刻。おお関西。

などなどいいくらでも出て来るが余り言うと関西に住めなくなるのでこれくらいに。

日本の僻地と世界の僻地

2009年08月04日 19:29

行ってみたーい日本と世界の僻地

日本の僻地
場所はみんな島。日本では小笠原と薩摩硫黄島と南大東島が当面行きたい最有力目標だ。
小笠原諸島には是非行かなくてはと思っているがなかなか果たせない。小笠原では固有の生物相を見たい。ただ行くのに25時間半かかるので同じ船で行ってその船で帰って来るらしく、1週間の行程がいる。
薩摩硫黄島「鬼界が島」は西行が生きていた頃に起こった平家打倒の鹿ヶ谷の変に連座して俊寛僧都が流された島。平家物語にも詳しいが、流罪になった3人のうち藤原成経と平康頼はやがて恩赦で放免されるが、俊寛だけが許されない。俊寛は半狂乱になって、食を断ちやがて死んでいく。俊寛の墓はいまも硫黄島にあるという。
しかしこの島はもはや僻地ではないかもしれない。日本では43年?ぶりといわれる7月22日の皆既日食が島で見られるため(すでに終わって、大雨で見られなかったけど)、本土から人が押し掛け、全ての宿、すべての民宿は1年前から予約済みだそうだ。その日は、大勢の観光客で溢れかえることが予想される。皆既日食を狙ったgoodsもさまざま販売されていて、もはや一観光島?
南大東島は子供の頃NHKの天気予報で台風のたび、南大東島がでてきたので興味を持った。南大東島には船が接岸できる岸壁がなく、クレーンで人も荷物もつり上げての上陸らしい。飛行機もある。
この3僻地が日本で行ってみたいところ。まだ秘湯もあるけど。


世界の僻地
世界に目を向けると、行ってみたい所は10指に余り、分野別となる。

海峡
まずは南米南端の難所中の難所で全ての船乗りが一度は行ってみたいと念願する、マゼラン海峡。2番目はアフリカとヨーロッパを隔て、ハンニバルが像をつれて渡ったスペイン最南端で地中海への入り口ジブラルタル海峡。
3番目はアジアとヨーロッパを隔てるトルコのボスポラス海峡。この海峡は
地中海から黒海に入る入り口である。この海峡を隔てて対峙していたキリスト教国であるビザンチン帝国(コンスタンチノーブル)がイスラム教国オスマントルコによって滅ぼされた様を書いた「コンスタンチノーブル陥落」(塩野七生著)を読んで一度は行きたいと思っている場所である。


まずはガラパゴス。当然生物をやっている者としては是非行ってゾウガメ、フィンチ、イグアナやペンギンに会ってみたい。次は南極。南極に行ってペンギンに会いたい。そしてセントヘレナ島。アフリカの沖、太平洋上に浮かぶ絶海の孤島。ナポレオンの流刑地、亡くなった場所。

僻地
パタゴニア半島。南米アルゼンチンとチリにまたがる広大な荒れ野。いつも強い風が吹き、寒い。嵐の大地と呼ばれる。氷河が無数に走る。パタゴニア鉄道に乗って北から南に縦断してみた。
シッキム王国へ行ってダージリンヒマラヤ鉄道に乗りたい。
チベットのラサへいってその後のチベットがどうなっているか、自分の目で確かめたい(今や鉄道もできたし、秘境とは言えないかもしれない)。


ギアナ高地から流れ落ちるエンジェルホール。南アメリカ北部に位置する、アマゾンの支流。
イグアスの滝。アルゼンチンとブラジルにまたがる世界3大瀑布の一つ。
ビクトリアの滝。アフリカのジンバブエとザンビアの国境に位置する瀑布。

このうちどれくらい行く事が可能であろうか。これぞDream Dream。
 だれか一緒に行ってくれる人を募集。

続 蝉のはなし

2009年07月28日 12:46

蝉の嗜好

今日も朝早く蝉の大合唱で起こされた。天気のいい日は夜が明けるのを待ちかねて一斉に鳴き始める。 うるそうて寝られへん。こりゃあ地獄。えんまはんも逃げ出すっちゅうねん。蝉が鳴かない日はベットでうつらうつらしながら今日は雨なんだと安寧の一眠りをむさぼる。極楽、極楽。

今日になってふと気がついた。アパートの前の通りは大きな楠の並木になって多くの緑したたる楠があるのに、よりによってクマゼミの大軍団が鳴いているのは部屋の前にあるたった一本のケヤキの木ではないか。
なんちゅうことすんねん。なんで一本だけケヤキを植えんねん。よりによって俺の部屋の前に。なんか恨みでもあるっちゅうんか。
一匹一匹の鳴き声というより、何百、いや何千の鳴き声が共鳴してワーン、ワーンとうなりとなってケヤキの木から聞こえる。まるで部屋のまえに大きなスピーカーを置いて,大音響で流しているみたいなものだ。めっちゃうるさい。クマゼミの声はシャーシャーと大声で鳴くだけで風流もへったくれもない。せめてヒグラシのようにカナカナカナと切なくなくとか、ツクツクホウシのようにツクツクホーシ、ツクツクホーシスイッチョンとメロデイーをつけて鳴けよ。
 
歩いてくる途中観察してみた。確かに湊川神社横の楠の並木道でも、楠でないているクマゼミはごくわずかしかいない。多く鳴いているのは桜の木であったり、ケヤキであったり。よく考えてみれば楠の樹液なんかおいしいはずがない。楠が殺虫剤の原料になるくらいなのだから。蝉にしてももっと甘い、糖をたくさん含んだ樹液をなめたい。蝉はすべからく甘党なのである。しかし樹液を食するため飼育は不可能だそうである。蝉の種類によって好む樹が違うらしい。東京で主流のアブラゼミは桜の木やトチノキが好きなんだそう。関東の蝉は濃いのが好きで、関西の蝉は薄味が好きということはあるまいが。
 樹木の植生と蝉の分布とで蝉が好む樹木が決まっとん? 面白いがな。
いずれにしても、はようおっちゃんの安眠を返してっちゅうてんねん。
    Revised by native Kansai-ben speaker(8/1/2009)

淡路島かよう千鳥

2009年07月23日 13:12

源氏の配所、須磨

「淡路島かよう千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」は淡路島から渡ってくる千鳥の物悲しい鳴き声で幾度目覚めたことかと須磨の関守の心情を歌った源兼昌(平安末期の歌人)の和歌で百人一首にも選ばれている。

須磨は源氏が流され、蟄居し、明石の君に会った場所。その当時の須磨は侘しい、うらぶれたといった感じの寒村で源氏物語にも
「おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり」とある。
更に「須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり」や「御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ」と須磨の生活の侘しさがうかがえる。

さらに続いて「月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、
 「ただ是れ西に行くなり」
 と、ひとりごちたまて、
 「いづ方の雲路に我も迷ひなむ
  月の見るらむことも恥づかし」
 とひとりごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。
 「友千鳥諸声に鳴く暁は
 ひとり寝覚の床も頼もし」となる。
この源氏物語の一節があって冒頭の「淡路島かよう千鳥」の和歌が詠まれた。
かくに当時の須磨は物寂しい場所でそこに西国への出入りを監視する関所があった。

淡路島
須磨にまでくると淡路島は手に取るように真近に見える。昔は須磨から淡路島に船で渡った。須磨―淡路島ルートは古来より阿波の国(徳島)へいく交通の要所で、淡路島は都の出来事も早く伝わり、今と異なり、想像以上に開けた地であった。
今では明石大橋ができ、車で簡単に行けるため四国への通り道になり、忘れ去られかけている感がある。

秋田からのお客を連れて淡路島の名所,数カ所と明石海峡を訪れた。
①神戸―淡路大震災の爪痕の野島断層。
大きな風車が駐車場の真上にありぶんぶんと風を切りながら廻っていた。当日は強風の荒れ模様の天候で、今にも羽が折れて飛んでくるのではないかと恐怖にかられた。この断層は一万年に一回の頻度でずれているらしく隆起と横ずれの両方が起こると家や立ち木や塀がどんなことになるのかがよくわかる。科学は進んだとはいえ、自然の力は未だそれを凌駕するものがある。科学者は真摯に自然と向き合う必要がある。

②あわじはなさじき。
ここのお花畑はいい。丘の上に作られたお花畑は壮大で、遠くに海と大阪。紀伊が臨まれる。海が無ければ富良野、美瑛と間違えそうなくらい壮大。曇天で時折スコールのような雨が降ってくる。厚い雲の合間から遠く大阪の地が臨まれる。

③明石海峡
岩屋からみた須磨と帰りのたこフェリーからの風景
のんびりと岩屋から明石まで明石海峡をフェリーで帰る。明石大橋の真下を通って明石までいく20分間の船旅。素朴。暗雲たれ込めた空を割ってかかる明石海峡と淡路島。

写真 1風力発電 2 断層 3 地震あとの台所 4 はなさじき1 5 はなさじき2 6 はなさじき3 7 はなさじき4 8はなさじき5  9明石を望む 10 須磨がみえる 11 明石大橋 12暗雲立ちこめる明石海峡

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かなわんわ 蝉がうるさくて

2009年07月16日 12:54


蝉の声で目が覚めた、まだ朝の4時半である。ちょうどアパートの前の通は楠の並木があって、夏の暑い日差しから貴重な影を供給してくれる。数日前までは鳴いていなかった蝉が楠で大合唱を始めた。

めっちゃうるさい。やってられへん。睡眠不足でかなわんわ。そんな朝はやくから鳴かんとき。睡眠不足で肌が荒れたらどうしてくれんの。

クマゼミの大音量の声にこれから毎朝悩まされる事になる。クマゼミは九州や中国地方南部など比較的暖かい気候の地で生息していた蝉である。それが近年は関西地区で大量発生している。

蝉はあの臭いカメムシ科に属し日本で見られる種類としては30種にも及ぶらしい。西日本と東日本で生息する蝉の種類は異なり、小笠原や南西諸島には固有種が存在する。
私が子供の頃よくとった蝉は夏のはじめから鳴き始め小さいニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミ、ツクツクホウシ、やミンミンゼミやヒグラシである。ニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミなどはありふれていて採っても嬉しくないし、騒がしいだけの蝉。私が育った西日本ではミンミンゼミやヒグラシは余り平地には生息せず、山間部や高地に分布し、なかなかお目にかかれない蝉であった、これらの蝉が捕れると嬉しかった。特にヒグラシはもうすぐ夏休みも終わり、夏の宴も終わりだよと告げるがごとく悲しげにカナカナと鳴き子供心に侘しさを感じたものだった。

今、蝉の生息分布が変わりつつあるという。クマゼミは今や関東南部から西日本全体に分布する。これも地球温暖化の影響か?昔は特に九州などの温暖な地に分布している蝉であった。しかし 南西諸島にも生息するが奄美の喜界島、奄美大島と徳之島の3島には生息しない。周辺の沖永良部島や与論島ではごく普通に生息するが上記の3島にだけはなぜか分布していない。その理由はわかっていない。
クマゼミのせいで睡眠不足の夏がまた始まる。私の眠りを返してください。神様どうにかしてください。

いずれアヤメかカキツバタ

2009年07月11日 15:12

カキツバタとアヤメと花菖蒲
いずれアヤメかカキツバタと歌われるくらい区別がつかないこの2種に加え花菖蒲を入れた3種を見分けることができる人がどのくらいいるであろうか?
いくら説明され見分け方の文章を読んでも未だにできない花音痴の私です。

下記がその違いの説明。

      花の色   花の特徴           適地
アヤメ   紫     網目模様外側に黄色い模様   乾いた所
カキツバタ 青紫、白  網目無し           水中、湿った所
花菖蒲   紅紫、紫  網目無し           湿った所
簡単に言うと花びらの基のところに、花菖蒲は黄色、カキツバタは白、アヤメは網目状の模様が、それぞれあることで区別できる。野生状態では、アヤメは乾燥する日当りのよい草原に、ノハナショウブは高地の湿原に、カキツバタは低地の湿地水辺に、ヒオウギアヤメは寒地や高地の湿原に生えるのが普通である。

カキツバタ/アヤメ科
植物学者の牧野富三郎博士によれば、カキツバタとは「書き附け花」から転じたもの。「書き附け」とはこすりつけることで、この花の汁を布にこすりつけて染める昔の行事に由来する。アヤメ属共通の特徴は花被片は6個、外側の3個が大きい。裂片は平たく、花弁のように広がる。
カキツバタはアヤメの仲間ではもっとも水湿を好み、水辺に群生することが多い。かきつばた(紫)の花言葉は、幸運。だそうである。これで初めてカキツバタの語源が分かった。
カキツバタで有名なのは伊勢物語の東下りの一文に
 「むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて行きにけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきにけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下りいて、乾飯(かれいい)食いにけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすえて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
「から衣  きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」
 とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。」とあるカキツバタにちなんだ話は有名である。

アヤメ/アヤメ科の多年草
アヤメは山野の草地に生える(特に湿地を好むことはない)。葉は直立し高さ40~60cm程度。花は5月ごろに径8cmほどの紫色の1-3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名のもとになる。花茎は分岐しない。北海道から九州まで分布する。葉が並列して立っている姿が文目(あやめ)(紋様)をなすとみなされ、アヤメの名の由来とされている。アヤメにホトトギスは良く似合うとされ古来より和歌に詠まれて来た。
アヤメ(文目=道理)も知らぬ恋。「ホトトギスなくや五月のあやめぐさ あやめも知らぬ恋もするかな」詠み人知らず、古今集
アヤメとホトトギスと雨。「うちしめり菖蒲(あやめ)ぞかをるほととぎす 鳴くや五月の雨の夕暮れ」 藤原良経、新古今集

花菖蒲/アヤメ科の多年草
野生の野花菖蒲を原種として改良された、国産の園芸植物。 葉が菖蒲に似ていて美しい花が咲くことから「花菖蒲」と呼ばれる。カキツバタがすでに『万葉集』のなかで詠まれているのに対し、花菖蒲ははるかに遅れ、鎌倉時代の『拾玉集』(1346)の慈円僧正の歌に初めて名をみせる。
「野沢潟 雨やや晴れて 露おもみ
 軒にそよなる 花菖蒲かな」
これでアヤメ、カキツバタと花菖蒲を間違えることはない?
追記
学生時代から樋口一葉のたけくらべの最後の文に出て来る信如が宗門に入る日に、美登利住む家の格子戸にそっと置いて去った花は花菖蒲だと思い込んでいた。よくよくよんでみると花水仙であったことが判明。思い込んでいるといつまでも違いに気づかない。
「龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説(うはさ)をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象(さま)に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林(がくりん)に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。」
写真1、2 :カキツバタ  3、4:アヤメ 5、6 花菖蒲
7、8 花水仙

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インパクトファクターから研究の潮流を読む

2009年07月04日 13:40

インパクトファクター

今年も恒例の研究専門誌のImpact factor (2008) の発表があった。昨年と傾向に変わりはなく生物分野(臨床医学を除く)のトップグループをNatureとCellの姉妹紙が独占している。Nature, CellとScienceはいつもながら上位に位置し、Nature (31.434), Cell (31.253), Science (28.103)である。 Natureの姉妹紙は軒並み高くNat Genet (30.259)を筆頭にNat Med (28.103), Nat Immunol (25.113), Nat Material (23.132), Nature Biotech (22.297), Nat Cell Biol (17.774), Nat Neurosci (14.164), Nature Method (13.651), Nat Struct Biol (10.987)とImpact factor 10以上にNatureを含め10誌を数える。一方のCellの姉妹紙はCancer Cell (24.962), Immunity (20.579), Cell Metabo (16.107), Neuron (14.17), Mol Cell (12.903), Dev Cell (12.882), Curr Biol (10.773)とCellを含め8誌に及ぶ。Nature やCell出版社以外のジャーナルでImpact factor 10 以上はJ Exp Med (15.219), Circulation(14.595), Gene Dev (13.623), Plos Biol (12.903), Blood (10.432), Genome Res (10.176) とAm J Human Genet (10.176)くらいなものである。完全にNatureやCell 誌の戦略勝ちである。これらのジャーナルは商業誌であるのに対しScienceは学会誌のために幅広くジャーナルを出すという事ができないというジレンマを抱えている。実際ScienceのEditorはそうこぼしていた。

Natureを出版しているNature Publishing Groupはどん欲で今やNatureという名前がつくジャーナルを20誌出版し、review誌を14出版している。またその領域も生命科学を初めとし、医学、物理、化学、テクノロジー、地球、環境とありとあらゆる方面に及んでいる。Review誌も軒並み高いImpact factorを持ち、Nat Rev Mol Cell Biolの35.423を筆頭に上位を占めている。そのため昔からあったTrendやCurrent Opinion誌などのreview誌はその立場を蹴落とされている格好だ。

昔からあった学会誌や専門誌の凋落ぶりはもっとひどい。PNAS (9.38), J Cell Biol (9.12), Embo J (8.295)。これらは数年前まで10以上のImpact factorを誇っていた。MCB は5.94, JBCに至ってはまさに長期低落で今や 5.52である。

もう一つの傾向は生化学や分子生物学と名をうったジャーナルが敬遠され、がんのような病気を扱った基礎医学誌が軒並みImpact factorを上げている。昔はJBCより低かったCancer Res (7.514)やOncogene(7.216)は今やはるかに上位を走っている。

Impact factorの傾向は世の中の研究傾向を映している。一昔前までは生化学や分子生物学が若者を引きつけ、華やかに脚光を浴びて来た。いまや生化学は古い学問のように思われ、敬遠されている。実際生化学会の会員は年々減少しつづけている。日本では分子生物はまだ頂点を維持しているが、諸外国では完全に機能を扱った細胞生物学や神経科学などにその座を明け渡している。学校での新しい研究室の名も生化学とか分子生物とか言った一般名がつく事はなくなり、より具体的に発生、形態形成とか再生、神経などといった名前が多くなって来た。もう一つの潮流はNat BiotechやNat Methodで象徴されるように新しい技術の開発が注目をあつめていることであろう。

これらのことから時代の流れを読み取る事ができる。研究も人がやることであり、多くが税金を使ってやるということから研究の流行という潮流から逃れる事はできない。研究費の投入もポジションも潮流にのった船にだけに与えられるからである。昔は全く潮流から外れ、漂流していても毎年支給される固定のある程度の額の予算がきた。今はその予算も削られ、潮流に乗れない船の船員は餓死を待つしかない。Impact factorを裏読みすると実に現在の研究のトレンドがうかがわれる。

これから何を学ぶかであるが、航海図の整った流域の潮流にのって、リッチなしかし大勢の中の一員としての研究生活を送るか、難破船となってでも潮流から外れて、新たな航海をして新大陸を見つけるか、それとも餓死するかの冒険の旅に出るのを選択するのは、若者の特権である。
へそ曲がりのおじさんとしては今一度ボロ筏に乗って新たな地を目指して冒険をしてみたい。大きな浪にのまれてしまう可能性は高いが。

楠正成と神戸

2009年06月29日 18:01

楠正成
楠木正成はこの戦いに敗れて自刃するのだけれど、その当時の地形は今は殆ど残っていない。肝心の湊川も大きく西の方に曲げられ会下山を掘削し地下を通っている。この川は川床が平地より高く、土手で囲まれ、たびたび氾濫を繰り返す暴れ川であったらしい。今は湊川公園になっている。湊川は、天王谷川と石井川が合流し、長田港、苅藻島付近で海へと注ぐ。この湊川は過去に2回付け替えられており、古い順に和田岬(大和田の港)へ流れる古湊川、川崎町(現在のハーバーランド・神戸港)へ流れる旧湊川、苅藻川と合流し長田港へと流れる新湊川と呼ばれる。
会下山は楠正成の陣どった山である。行ってみて分かった事であるが、以外と海からは急勾配になっている。

戦いは戦わずして撤退した後醍醐天皇方の完敗であり、国際的に取り上げられMinatogawa Battleと言われている。
Battle of Minatogawa
Date:1336
Location: near the Minatogawa river
Result: Ashikaga victory
Belligerence Ashikaga rebels : Imperial forces
Commanders: Ashikaga Takauji: Kusunoki Masashige and Nitta Yoshisada
Casualities: Masashige commits suicide

今回湊川神社、湊川公園と会下山へ行って来た。
湊川神社は楠正成を奉ったお社である。その名にふさわしく楠の生い茂った神社内で、時折、ひとが訪れてお参りしている。この神社には水戸黄門自筆の墓碑「呼忠臣楠子之墓」がある。
湊川公園には楠正成の馬上姿の銅像がある。
会下山は海側からは結構急な勾配の山で、海に至るまでが一望できる。大和田の岬に上陸してくる足利軍を迎え撃つには最適の場所であろう。会下山の中腹で思いがけないものを見つけた。世界的植物学者で日本に自生する植物を体系的に整理し、多くの名前をつけた牧野富三郎博士の研究所跡があった。
尊敬する一人である牧野博士は小学校しか出ていないのに、東京帝大教授、博士となった人物である。牧野博士についてはまたとりあげるとする。
頂上は思ったより広く、今は公園になり、桜の木が多く神戸の花見の名所になっている。この山が楠正成の陣した所だと分かるのは唯一「大楠公湊川の陣跡」の石碑のみ。
写真 1. 湊川神社の本殿 2. 水戸光圀が墓碑を書いたという碑 3. 大楠公の墓 4. 神社の正門 5. 正成の騎乗姿の像 6. 湊川跡の石碑 7.牧野富三郎研究所跡の石碑 8. 正成陣跡 9. 会下山からの風景 10. 初夏の夕焼け

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My faraway

2009年06月24日 17:38

無情

大学で知り合って無二の親友となったHKは理系の学生では珍しく万葉集がとても好きでした。そのせいもあって妙に文学好きの僕と気があい、よく奈良の万葉の里を訪ねて歩き回ったものだった。その頃のぼくはどちらかというと万葉集よりも古今集や金塊集などの和歌の方が洗練されているようで好きだった。

午前中で学校を抜け出し、奈良へ急いだある日の夕方。「あああれが天の香具山でこれが畝傍山か耳成山か」などそこここに見える山や川全てが万葉の舞台。中大兄皇子の歌「香具山は 畝火雄々しと 耳成山と 相争ひき 神代より かくにあるらしいにしえも しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」を思い浮かべながらとぼとぼと日の暮れかかる大和路を歩いた。時は晩秋、麓にはすでに夜陰が忍び寄り、急に肌寒く感じられるようになって、残光が山の頂を茜に照らし出し、その神々しさにうっとりとしたものだった。その残光も色褪せてあたりが夜の帳に包まれ始めると、なぜか急に寂しく、物悲しくなり、二人は無言で家路を急いだのでした。

その彼が突然、死んでしまった。30歳を目前にしての自殺でした。残暑の残る暑い暑い夏の終わりでした。僕はおそ巻きながらやっと人生の方向を決めて、研究で身を立てようと決心し、秋からアメリカに留学するという一ヶ月前の出来事でした。そのため、今やっている仕事を片付けようと夜遅くまで必死で働いていて、自分のことばかりで精一杯、彼がわざわざ死のひと月前に東京に訪ねて来てくれたときも、自分のこれからの夢や抱負ばかりを一方的に話したに違いありません。もう少し彼が何を求めているのか、わざわざ訪ねてきた訳を察してあげる事ができたらと悔やまれてなりません。それからほどなく、突然の電話で、慌ただしく徳島に飛び、葬儀にでることになりました。身体も魂もふぬけになったように、その時のことは余り覚えていません。ただ火葬場での煙が風もない昼下がりの暑い中を、まっすぐに上っていくのをじっと見つめ、魂もあの煙とともに昇っていくのかなとぼんやり思っていました。夏の終わりを惜しむかのように蝉の鳴き声だけがあたりを包み、いっそう暑さを増していました。僕は流れ落ちる汗を拭きながら、炎天下に立ち尽くす事しかできませんでした。

一見、彼は周りからは公私ともに順調にいっているように見えました。同級では一番の出世頭ですでに助教授になっていましたし、結婚も予定されていました。なぜ死んだのか遺書がなかったので、その理由は今となっては分かりようもありません。全く自殺する理由など考えられないくらい、うらやましいくらい傍目からは順調に見えました。
突然、心におおきな穴がぽっかりと空き、例えようのない侘しさを感じました。人生の無情、不条理を感じました。

そんな彼が好きだった歌 「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和しうるはし」や 「あおによし奈良の都に咲く花のにおうがごとく今盛りなり」をどこかで耳にする度、未だに心がきゅんと縮こまり、人って何だろう?生きるって何だろう?と心が叫びます。

その後、すぐに留学をし、お墓に参る機会がなかったので、帰国してとるものもとりあえず墓参りをしました。彼の実家は北九州の小倉にあり、ご両親と弟さんとの3人家族でした。ご両親に会って何を話したかは定かではありませんが、朝日新聞の記者をされていた厳格そうなお父さんは「亡くなった親孝行なHとはできが違い、どうしようもない弟は早稲田を出た後、ぶらぶらしていたけど、今は落ち着いて予備校の先生をやっている」とすこしあきらめたようなそれでいて許しているような寂しげな顔で話された事だけを覚えています。

墓は父親の実家のある山口県の田布施の田園地帯の真ん中の灌木の生い茂った丘の麓にありました。夕暮れまじかで、日が落ちるのとの競争でタクシーを乗り付けての慌ただしい墓参りでした。実家は父親の兄が跡を継ぎ、農家を守っておられました。墓参りを終わるとあたりはまさに漆黒の闇に包まれ、ぽつんと田んぼの中に建つ一軒の農家の明かりが妙に明るく輝いて感じられました。
あれからもう30年以上になります。もう一度、最後のお参りをしなくてはと考える歳になってきました。



田舎のたこと都会のたこ

2009年06月22日 17:10

田舎のたこと都会のたこ

研究室に明石から通っている女性がいる。生まれてこのかた30数年、旅行以外明石から出た事がないという。一年前に当研究室に勤めたのが初めての明石以外の地だという。神戸と明石では電車で15分の距離。それでも明石を出ての大冒険らしい。じっと同じ所で、周りを見ないようにして生きていく。自分の慣れ親しんだ環境で、親や兄弟と気心知れた人たちと心地よく、過剰な刺激が無いように暮す。たこ壷に入って自分でふたをしてできるかぎり、あたりを見ないように、なにも聞かないようにする。
その女性に言わせると「たこ壷からでえへんで!明石はたこだけではあらへん。鯛もあるで、魚貝類もおいしいで。明石は極楽や」となる。

一方で、北陸の片田舎から出て来た女性もいる。彼女は反対に地方の人間社会、同一の価値観にがんじ絡めに縛られた社会から飛び出したい。そんな閉鎖社会の鎖を解きはなして、「私自由に生きたい。干渉されたくない」確かにそうなのよ。「田舎はすぐにあそこの家の長女はまだ結婚しないのか, 女の子が大学院まで行ってどうするのとか」そんなの大きなお世話。「村の人は、他人には興味ない振りをして、耳はダンボの耳。人の生活を覗き見して、ひそひそと噂するのが楽しみ。それしかやることがないのよ」確かに!「そんな所に今更帰ってみなさいよ。どんなことになるか」確かに! 「親も兄弟もいるから楽は楽なんだけど」確かに!となる。

さてさて都会のたこ壷と田舎のたこ壷、あなたはどちらがお気に入りですか?
都会のたこは誰もだれがとなりのたこ壺にはいっているかには目もくれない、孤独な社会。気が向いたらつぼから出て行って、刺激を求めればいい、慰み合えばいい。生活の糧を得るために最小限の閉鎖社会とつきあって、あとは個々の日常にもどればいい。小さなたこ壷が無数あり、だれがどの壺に入っているか知らない、都会。
一方、壺の数が少なく、お互いにどの壺に誰が入っているかのみならず、その壺にすむ人々の容姿、性格から経歴にいたるまで個人情報は筒抜けの小さな街や村。どちらをお好みであろうか?
私はたくさんあるたこ壷にまぎれて、ひっそりと自由にくらせる都会のたこ壷の方が好きだった。最近は歳をとり、田舎で少々の人間関係の煩わしさにも少しは耐えられる自信ができ、田舎での晴耕雨読にも憧れている。そんな生活にあこがれてブログのタイトルに「たおやかな生活」とつけたが、すぐに間違いに気づかされた。日々の研究活動をする限り、そんな事はあり得ないと。「テンションを上げて、頑張っていい成果を、面白い成果をあげるぞ」。と自分に言い聞かせないと脱落してしまう社会だ。社会はすぐに言う。「お前達はいい気なもんだ、税金で趣味の研究をし、生活まで面倒を見てもらえる」と。そんなのは遠い昔の研究者。今の研究者はすぐに評価され、悪ければキックアウトされ、研究費ももらえない。
この競争社会一生懸命働き、ストレスも受ける、いやなこともやる。つき合いが嫌いでも人と付き合いネットワークを作る、論文もうまく書け、英会話もできるように、プレゼンテーションもうまくする、研究者だからといって研究だけに没頭できるわけではない。時間がいくらあっても足りない。これが普通だ。だからブログのタイトルも改訂版から「たおやかな生活を夢見て」と変えた。何人の人がお気づきであろうか?
現在の研究者はたこ壷に潜んでいる訳にはいかない。否応無しに壺から引っぱり出される。壺の外でのたこ踊りが一人前にできないたと生き残れない。これが研究者の現実。

環境と感受性

2009年06月17日 12:40

幻の光


この宮本輝の小説は人生に大きな大きな影響を与えた。この本を読んで無性になみだがとどめなく流れ、せつなかった。哀しかった。人の世の不条理が心に焼き付いた。

「きのう、わたしは32歳になりました。兵庫県の尼崎から、この奥能登の曾々木という海辺の町に嫁いできて丸3年が過ぎたから、あんたと死に別れて、かれこれ7年にもなるんです」という書き出しで始まる。

「どん底の貧乏生活の幼少期を過ごした尼崎の阪神国道沿いの木造アパートに小学校6年のときあんたが後添いの連れ子として引っ越ししてきた。私はそのとき以来頭がよく、格好いいあんたが好きになった」
お互いに中学校をでると働きはじめ、あんたは鉄工所の見習い工員になった。二人は大人になるのを待って結婚し、初めての子供を産んで3ヶ月後に、わたしは理由も判らん自殺というかたちであんたを喪ったんでした。それ以来、もぬけの殻になって生きてきた。幸せの絶頂期、なんであんたは自殺したんやろ。その理由はいったいなんやろとわたしは呆けた頭で考えに考えてーーそれでも分からなかった。
なんの理由も見つからぬ自殺という形で、愛するものを喪った地団駄をふむような悔しさとわびしさ。

まわりの人の勧めで子連れで人のいい子持ちの板前と再婚して能登の片田舎で幸福な生活をおくれるようになった彼女に、今なお前夫への思慕が噴きあがることがある。なんでこんな理由も分からぬ不条理な不幸が自分の身の上に降り掛かるのだろうか。考えれば考える程,分からない。この絶望感と寂寞感。
そんななか、夫やまわりの人々の優しさに次第に新しい人生をがんばろうと思う様に次第になる。この小説の希望は幻かもしれないが光が差し込みそうな将来を予感させて終わることだ。

この小説を読んだ時ほどショックを受けたことはない。涙が次から次へと溢れ、人生の哀しさ、不条理、明日知れぬ運命が心に刻み込まれた。何故これほど哀しいのか理由もなく、ただ哀しかった。この小説が性格形成、思想形成に大きな影響を与えたことは間違いない。

しかしまたずーと後になって読み返した時にはそれ程のショックは受けなかった。小説を読む「歳やおかれた環境とそのときの精神状態」によって全く受けとる印象が異なる。昔感激した映画を期待してもう一度見たけどそれほどではなかった。逆に昔は何にも感じなかったが、今度見たときはすごく感激した。という事は往々にしてある。人間はその時々の環境に左右されて、価値観も変わる。優しくなったり、冷たくなったり、寛容になったり、厳しくなったりして生きている。
しかし未だに最初に読んだ時のショックは忘れない。


Dream, Dream, Dream

2009年06月13日 16:25

夢の又夢

夢をみた。多分明け方だと思う。しっかりと内容を覚えているから。港に白い客船が数隻係留されている。防波堤の向こうは、晴れているのに大きな浪がうねっている。風が妙にきつい。大きな浪のうねりの合間にクジラの尻尾が見える。目を転じて左手をみれば、島があって、そこの造船所のドックには3隻の大型客船が係留されている。海峡に面して、島の突端に白亜の洋館がみえる。屋根はモスグリーンで塗られ、尖塔が海峡を睥睨している。
島の山の頂きには大きな枝を四方にはった樹がみえる。となりにいた誰かが言った。「よく学校を抜け出して、あのような大きな樹の下の秘密の基地で、よくホーン漂流記(こんな本はない)や15少年漂流記を読んだなあ」夢の中の自分が言う。「今だってやろうと思えばできるじゃあない。少年の頃の夢の実現が」見てもないホーン岬の風景が夢で出てきたのは昔「impossible voyage」という本を読んだ時の、印象が強力であったためかも、マゼラン海峡の方がもっとすごく感じたんだけど。いずれにしても夢の中、そんなに筋が通っているはずもない。
ホーン岬は南米最南端の岬でドレーク海峡に面している。岬を通過する経線をもって太平洋と大西洋の界とする。それより南は南極大陸だ。
少し北にあがるとマゼラン海峡がある。 この海峡は大西洋と太平洋の潮位の差により、いつも海峡は潮が渦巻き、幾多の暗礁、狭いが上に流れも速い。天候はいつも荒れていて、屈指の航海の難所。大西洋と太平洋を結ぶ重要な航路であるが、難所故に南のドレーク海峡を大回りする船も多かった。マゼラン海峡を自ら操縦して通った船長は船乗り仲間からは畏敬の念で見られ、相手が司令官でも足を机の上に投げ出したまま、話してもいいとさえ言われる。今ではほとんどがパナマ運河を通る。

湊川の戦い

2009年06月11日 12:19

楠正成

今朝方から雨も本降りとなり、梅雨に突入した。窓を開けているとひんやりとした風に肌寒い。時折車が雨を轢いて走る音を聞きながら仕事をするのが好きだ。車のたてる喧噪が雨音にかき消されて、雨をはねる音だけが聞こえてくる。

楠の通りに面して湊川神社がある。湊川神社は楠木正成を奉った社である。
後醍醐天皇方の楠正成と新田義貞の連合軍はここ神戸の地、湊川で足利尊氏と足利直義の軍を迎え撃った。
足利尊氏は一時期新田義貞や楠木正成らに破れ、九州に落ち延びていた。楠正成はこの有利な折に尊氏と和睦する事を進言するが、後醍醐天皇の聞き入れることとならず、新田義貞に追討を命じ、正成は国元での謹慎を命ぜられる。しかし義貞が播磨の国の白旗城の赤松則村を攻めあぐねている間に、足利方は体制を立て直し、京都に攻め上がってきた。危険を感じた義貞は兵庫まで撤退し、この地で立て直しを計った。後醍醐天皇は正成に救援を命じた。ここで湊川の戦いと称する戦いが勃発する。

新田軍は本陣を和田岬と会下山の中間地点の2本松におき、和田岬にも軍勢を配して足利軍の上陸に備えた。楠軍は湊川の西の会下山に陣を敷いた。足利直義を司令官とする主力部隊は西国街道を進み、和田岬の新田軍には少弐頼尚が側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する

ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
神戸駅から歩いて5分の所に、楠木正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。

楠の通り

2009年06月09日 18:43



インフルエンザ騒動もいつのまにか立ち消えになり、またもとの静かな神戸に戻った。
梅雨に入りそうで,入らない少し湿り気のある風が吹く、坂道を神戸駅から歩いてくると楠の大木が道の両側に植えられた50m程の道に行き着く。ちょうど今の時期は葉が萌葱色から薄緑そして深いみどりへと通るたびに変わる、一年で一番美しい時期である。
楠は常緑高木で関東以西に自生し,高さ30m直径5mにも及ぶ大木となる。春の終わりに、白く小さな花をつけ、その木は防虫,防腐効果にすぐれ、家具などに使用される。昔は楠から樟脳という防虫剤を抽出し衣服の虫除けに使っていた。この樟脳の成分はカンファーと呼ばれる二環性モノテルペンケトンで、楠の葉や枝などのチップを水蒸気蒸留することで結晶として容易に得られる。かってはカンファーの名の如く、カンフル剤「強心薬」としても使われていた。さわやかな香りがする。
 
そんなことを考えながら楠の大木の下を歩いている。楠の葉の合間から漏れてくる陽光が風に揺れ、足下に光のさざ波を作る様を見ても、科学的なことを思い浮かべたがる一生物研究者の興ざめた頭を片隅に押しやり、できる限り自然の美を味わうようにしている。
暑くなる夏までの枝葉を大きくはって威風堂々と,それでいて枝と枝の間隔が密でなく風が吹くと一斉にその葉を揺らし、さわさわと音を出す今の楠が一番好きだ。

神戸インフルエンザ騒動

2009年05月25日 17:55

インフルエンザと生物進化

伝搬の速さ、進化の速さ、次々と起こる新たなウイルス感染症。ブログ休止中に生物学的に面白い事件が世界で起こったので、ブログをぼちぼち再開した。


なぜ国内初の新インフルエンザが神戸の高校生に発症したのかは分からないが、科学的には興味深いことではある。このウイルスがメキシコからやってきたのだとすれば、メキシコ帰りの誰かが感染したが発症せず、検出不能のままキャリヤーとして国内に入り、これが高校生にうつったと考えるのが妥当であろう。しかしなぜ高校生や年少のものにかかり易いのか,実はこれと似たウイルスがいて昔、流行ったのだけど、毒性も低くだれも気づかずに治り、その抗体をある年以上の者は持ったためだとかいわれるがその詳細は定かではない。今回流行ったのはそのウイルスが変異をおこして少し毒性をあげたため、騒がれたのかもしれない。

交通が発達せず、人の行き来が少ない時代、様々な菌やウイルスはある特殊な動物に寄生して生きてきた。豚や鳥や猿または犬や牛に感染し、個体に悪影響を与えず、長年これらの動物の体内でローカルに生き続けてきた。通常は人にはかからないのだけど、それらの動物と人とが近くで住み初め、菌やウイルスが人と接触する機会が増え、感染するような変異を獲得すると一気に人に感染し、更には悪性度を増した菌やウイルスとなる。エイズウイルスはアフリカの一地方に住んでいた猿が持っていたウイルスであるが、土地が開発されて猿の近くに人が住み始め、接触が始まると、人に移るように変異し、それが全世界に広まったとされる。

そのような変異は進化の過程での、生物が変異を獲得して変わっていく様と同じで、菌やウイルスにとっても変異が感染に都合のいいものだけとは限らない。何億やなん兆もの個体が偶然の変異によって様々に変わり、自分たちの生存に都合のいい変異を獲得した個体だけが、優位に生き残れる。菌やウイルスにとっても自然に淘汰され、あっという間に消えてしまうものもある。サーズはどこにいったのであろうか?
インフルエンザ一つをとってみても、生物は未だに進化/変異を続けている事を実感させられる。またそのスピードの速さには驚かされる。

ブログ休止

2009年04月21日 17:37

個人と組織

個人と組織の関係は諸葛孔明、真田幸村、秋山真之や山本五十六を述べる際に、常に彼らの前に立ちはだかった問題であった。いくら優秀な個人でも優秀な組織を動かす事ができなければその能力は生かされない。有能なリーダーと組織の方向性が噛み合い、歯車がうまく廻って、思いがけないような大きな仕事がなしうる。
WBCでの侍ジャパンの活躍と世界一のタイトルの獲得も、個人が個を押さえて、組織のために尽くした結果、なし得たものであろう。それに対し、アメリカやキューバは組織というより、個人が優先され、個人の個々の能力は侍ジャパンのメンバーよりも秀でていたかもしれない。しかし個人プレーが行き過ぎると組織が目的に向かって一団となりにくくなる。いびつな歯車になり、スムースに回転できない。その点、日本や韓国のチームは歯車に徹し歯車をスムースにまわす事を心がけた。そして、大きな回転力が生まれた。

近年、日本は従来の慣行を破り、個人を重視し、個々の自由競争に任せる方向に舵をきった。いわゆるグローバルスタンダードである。その結果、格差が激しくなり、社会がぎくしゃくしてきた。個をたてるか組織をたてるかは国によって、文化によって考え方は全く異なる。日本人はどちらかというと、個を消して集団に溶け込み、組織の歯車となって、集団として大きな仕事を成し遂げるという、古来からの日本人の精神構造にあった生き方をしてきた。個を滅する代わりに、個の面倒は組織が一生みてきた。
近年、国中がこぞってそのような社会を、アメリカ的な個を主体にして能力のある人間は、無い人間を踏み台にしてどんどん上がっていくという方式に変えようとした。

どちらがいいのかは一概には言えないが、日本国民全体を考えると、みんなが協力し、落ちこぼれを無くし、集団で大きな仕事をなそうというシステムの方が日本の幸せに向いているのかもしれない。し。WBCを見ながら真田や秋山や山本の嘆きを考えてみた。彼らはみんなこのような組織があったならとつぶやいたことであろう。しかし往々にして個人と組織が噛み合わず、力が分散され、おおきなベクトルにならない。これほど始末の悪いこともない。個人と組織の関係は古来より古今東西を問わずいつも難しい問題である。

昨年の3月にブログを初めて一年が経った。初めは身の回りに起こった日常を記すつもりであったが、どんどんとマニアックに流れ文章も長くなっていった。文章を書く感を取り戻すのを目的で始めたブログだったので、初期の目的を達せたのと、これ以上続けてもマンネリに陥りそうなので、この辺でひとまずこのブログは一時休止しようと思う。またぼちぼちと関係ない下品なことがコメント欄に現れ始めるようになったことも休止する理由の一つ。今後は、もっと長い文章を少し、時間をかけて書くか、日記的なブログとし、タイトルも全てリニューアルしてどこかで再デビューしたい。

秋山真之の憂い

2009年03月26日 19:16

日露海戦後の秋山

秋山真之は日露海戦でバルチック艦隊粉砕のための全面的戦略を立て、縦列に突入して来るバルッチック艦隊の前面で、古来よりやっては成らないとされていた敵前回頭を行い、丁字戦法を採り、大勝した事は有名である。我々も「坂の上の雲」などで日露海戦の時の秋山真之の行動は良く知っている。しかし彼の晩年のことについてはあまり知らない。

秋山真之は松山中学では10番あたりをうろうろしていたが、卒業の年になり、東京へ呼んでもらうために、一番になると決めるとその目標を達成した。また海軍兵学校(江田島)も首席で卒業した。成績優秀者は海外留学組に選ばれる。5名の成績優秀者(1番から3番まで)がえらばれアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスおよびロシアへ留学したがただロシアへ留学した広瀬武夫は例外的に席次が低く64番であった。彼は人が目を付けないロシア語を会得し、当時の列強の一つであるロシアに早くから目を付けていたのが認められた。広瀬武夫は後に旅順港閉塞作戦で壮烈な戦死を遂げる。秋山はアメリカに渡ると戦術戦略の大家マハン大佐に師事し海軍戦略を研究する。

ちょうどタイミングよくサンチャゴ海戦がおこり、実地に視察する幸運に恵まれた。この戦いはアメリカとスペイン海軍の戦いで、サンチャゴ港閉塞作戦、ダイクイリ上陸作戦、両海軍艦隊の海上決戦と行われ、アメリカ海軍が太平洋上での覇権を握るようになった戦いである。秋山真之はつぶさにそれらの戦闘を観察し、10章にも上る長文の報告書を帝国海軍軍令部に提出した。極秘情報118号とされたこの報告書は正確で広汎な観察と独創にみちた分析で、日本海軍の歴史上空前絶後の傑作とたたえられ、彼の天才ぶりを一気に高めた。秋山真之31歳。
その後、英国をまわって帰国した秋山は常備艦隊参謀をへて、海軍大学校の教官となり、戦務、戦術、戦略の講義を担当する。この名講義ぶりも彼の名を高らしめる。その戦術の講義では明治の時代に「現時すでに頭角を現し来たりたる軍用軽気球、又は潜水艇などが益々発達し、巡洋艦が空中を飛行し、戦闘艦が海中を潜航するに至ったと想定してみれば、もはやこのときの戦場は平面ではない。立体的である。戦術のみではなく現時全盛の海軍なるものも無用の長物となった、空軍万能の時節となりましょう」と予言している。しかし彼の予測があり、山本五十六の主張で真珠湾での空軍の大活躍があったにもかかわらず、日本海軍は結局、大鑑巨砲主義から逃れる事ができなかった。秋山真之は飛行機や潜水艦という実態を見ずとも予測できたにもかかわらず、昭和の海軍は実際に目の前で空軍の活躍を見ていても、それを認めようとはしなかった。そこに秋山や山本の深い深い憂いがある。

バルッチック艦隊を殲滅するため、連合艦隊が出撃した。その時「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動しこれを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」という名文を打電して出撃。さらに東京湾に凱旋し,天皇陛下へ凱旋の報告も秋山真之が書いた。「客歳2月上旬、連合艦隊が、大命を奉して出征したる以来、既に一年有半、今日再び和平の秋に遭い、犬馬の労を了へて大とう(天皇旗)の下に凱旋するを得たり」さらに続けて「天佑と神助により我が連合艦隊は5月27、28日敵の第2第3艦隊と日本海に戦いて殆どこれを撃滅することを得たり。我が連合艦隊が能く勝を制して奇跡を収め得たるは一に天皇陛下御稜威の致すところにして固より人為の能すべきにあらず。特に我が軍の損失死傷の僅少なりしは歴代神霊の加護によるものと信仰するのほか無くさきに敵に対し勇進敢戦したる麾下将卒も皆この成果を見るに及んで唯感激の極言言う所を知らざるものの如し。」と
連合艦隊解散の辞では「武人の一生は連綿不断の戦争にて、時の平戦に由りその責務に軽重あるの理なし、事あれば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本文を尽くさんのみ。――――神明はただ平素の鍛錬に力めたたかわずしてすでに勝てる者に栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に案ずる者より直ちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」とこの名文に感激したT. ルーズベルト大統領は全文を翻訳して陸海軍に配ったとされる。

天下の名参謀は名文の持ち主で、人を文章でも感動させる。諸褐孔明の出陣に臨んで奉った「出師の表」も名文として名高い。先帝劉備の遺徳を偲んで、自分が受けた恩、その時誓った漢王朝再興へ向けて、魏を滅ぼさなければならないとの思いの深さが切々と書かれている。

秋山真之は海軍大学校教官にもどった。その後音羽艦長、伊吹艦長と艦隊勤務を歴任。大正2年同期のトップをきって少将となっている。軍務局長に任じられた頃から、海軍戦略を越えて国家の外交に関心を持ち始め、孫文の運動を助けた。しかし、ときの外務大臣加藤友三郎は政治的介入を嫌い、秋山を更迭する。

秋山は海軍兵学校を首席で通し、その後も同期のだれよりも早く出世し、日本海軍の英雄となった男が、その炯眼が世に入れられなくなり、組織から浮き上がっていく運命は、壮絶かつ悲壮的である。
秋山も、幸村も強いては孔明も山本五十六までも結局はその才能、能力が周りの人間より、あまりにも秀でていため組織から浮き上がり、真意を理解できる能力の者がいない。それがこれら歴史の勇者を孤独にし、深い憂いを持たせる原因となっていった。
大正6年海軍中将に昇進。その頃から病床にふけるようになる。病床の秋山は戦略を説き続け「海軍は飛行機と潜水艦の時代になる。その研究発達に万全を期せられたい。」「米軍とことを構えてはならぬ。さもないと、日本は大変な苦境になる」と言っていた。

辞世の句 「不生不滅明けてカラスの3羽かな」49歳11ヶ月の人生であった。




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