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意地を通して朝敵にー大鳥啓介

2017年02月01日 14:19


  大鳥圭介—死んでたまるかー 
                                         伊東潤 著 より
 先の赤松円心から下ること500年、幕末に朝敵となっても、最後まで江戸幕府側に立ち、徹底抗戦した男が、円心と同じ播磨の国赤松村に医師の長男として生まれた。大鳥啓介である。わずか149cmのチビでありながら、武士の反骨とフランス式軍学の圧倒的知識で朝廷軍を苦しめた。
 幼少期より優秀で13歳の時に岡山藩の閑谷学校に入学し、漢学、儒学、漢方医学を5年間学んだ。その後、赤穂の蘭学医の助手を2年したのち、全国より英才が集まることで有名な緒方洪庵の適塾に入学。蘭学と西洋医学を学ぶ。さらに適塾時代の仲間と共に江戸に出る。薩摩藩邸にてオランダ語の翻訳や技術指導をした。坪井塾では塾頭となり、軍学、工学に関心が移るようになる。この間、西洋式兵学や写真術を学び勝海舟とも知り合った。その後江川塾に兵学教授として招かれる傍、中浜万次郎に英語を学ぶ。

幕臣に取り立て
幕府との関わりは江川英敏の推挙により、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として出仕したことに始まる。元治2年(1865年)、陸軍所に出仕した後は富士見御宝蔵番格として正式に「幕臣」に取り立てられ、俸禄50俵3人扶持の旗本となる。
伝習隊創設を進める幕府の勘定奉行小栗忠順に頼み、同じく幕臣の矢野次郎、荒井郁之助、沼間守一らと友にこれに参加する。大鳥は歩兵隊長として士官教育を受け、歩兵頭並(佐官級)となり、幕府陸軍の育成や訓練にあたった。慶応4年(1868年)1月28日、歩兵頭に昇進。鳥羽・伏見の戦い後の江戸城における評定では小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張する。2月28日には陸軍の最高幹部である歩兵奉行(将官級)に昇進した。

錦のみ旗に楯突いて-
慶喜は薩摩討伐の令を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触をきっかけに戦闘が開始された。最初の頃は一進一退を繰り返していたが、その間に朝廷では緊急会議が召集された。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦旗を与え、薩長軍がいわゆる官軍となった。錦の御旗が掲げられると、戦闘は一転、官軍が圧倒的に優勢になる。
錦の御旗が翻るのを見て、徳川慶喜は僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。江戸城での評定において、小栗上野介、水野忠徳、榎本武揚らと徹底抗戦を主張するも受け入れられず、勝海舟と西郷隆盛の間で無血開城が決定される。大鳥圭介は伝習隊500を率いて、江戸から脱出し、市川、宇都宮、今市と転戦し会津へ至る。

蝦夷地へ、そして敗戦
土方歳三と合流、転戦し、母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ仙台に至る。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となる。箱館戦争では遅滞戦術を駆使し粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、土方歳三は最後の特攻に参加し、銃で狙い撃たれ腹部大動脈銃創で即死。享年35歳。そのすぐ後、明治2年(1869年)五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄された。

逆賊が一転、明治政府の重臣へ
薩摩の重鎮黒田清隆の助命嘆願により、命を助けられ、明治5年(1872年)に特赦により出獄後、新政府に出仕して、左院少議官、開拓使5等出仕を経て、工部大学校が発足し校長に任命される。明治14年(1881年)、工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位になる。同年、東京学士会院会員に任命される。4年後の明治18年(1885年)には元老院議官に上り詰め、男爵を授けられる。享年78。
函館の五稜郭まで行って、最後の最後まで明治政府に徹底抗戦し、岩倉具視や木戸孝允が強く反対し、死を覚悟していたにもかかわらず、榎本武揚とともに許されて、明治政府の要人となり活躍した。
 明治政府の重鎮黒田清隆が助命に奔走し、命をとりとめた。大きな理由は黒田清隆と仲がよかったとも、明治政府の実力者の大久保俊道が、新政府の実質的な支配者は誰であるかを岩倉や木戸(志半ばで西南戦争中に病死、享年45)へ教える必要があったとも言われている。五稜郭の生き残り組は明治政府での活躍の機会を与えられた。こうして見ると、明治政府の人材が不足していたためなのか、榎本武揚、大鳥圭介のように最後まで戦った幕府方トップの抵抗勢力まで許された。初期の頃に捕らえられた幕府の要人(小栗上野介などは部下共々即刻打ち首)は斬首された者が多かったのに、最後まで戦った者が許されるという結末。最初の頃は明治政府も自信や余裕がなく楯突くものに厳しく当たっていたが、五稜郭が落ちる頃は明治政府が成立、軌道に乗って、どう転んでも幕府方の勝ち目はないことが明らかになり、余裕ができた結果か?
 人の運命どこでどう転ぶか分からない。
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逆賊と言われた赤松円心

2017年01月19日 13:02

郷土の英雄赤松円心

 兵庫県出身の偉人はと検索したら、赤松円心(則村)と大鳥啓介が出てきた。この2人は同じ村、播磨の国佐用郡赤松村に生まれ、時代こそ違うが錦の御旗を掲げた戦いに参加した。赤松円心は錦の御旗をうまく利用した側で、室町幕府の設立に関わり、大鳥啓介は幕末に錦の御旗を掲げた官軍に敗れた幕臣。

 赤松円心は播磨の国に生まれ、鎌倉幕府から室町幕府への政権交代に大きく関わった武将で、太平記に「その頃播磨の国の住人、村上天皇第七の御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松の次郎入道円心とて弓矢取つて無双の勇士あり。元よりその心闊如として、人の下風に立たん事を思はざりければ、この時絶えたるを継ぎ廃れたるを興こして、名を顕はし忠を抽きん出ばやと思ひける」とあり、武勇に優れ、功名を競う、野心的人物であったことがわかる。
 しかしここ兵庫の地でも同時代に生きた楠正成に比べてあまりにも知られていない。正成は湊川神社に祀られ、多くの参拝客に神として拝まれている。私は神社の塀に沿った楠の大木の坂道を毎日通っている。一方、赤松円心は太平記でこそ認められているが長い間、悪者として切り捨てられてきた。その違いはなんであろうか?

 赤松円心が育ったのは京から遠くない交通の要所、播磨の国で時代は鎌倉から室町にかけてであった。
 その頃の時代背景は「後醍醐天皇が天皇親政の朝廷の政治を取り戻すため鎌倉幕府倒幕の兵をあげるも、捕らえられて隠岐に流される。鎌倉幕府は後醍醐天皇に譲位を迫り、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を立てるが後醍醐天皇は譲位を認めず天皇の継承争いが起こる」という異常な状況にあった。
その後、後醍醐天皇が隠岐の島から脱出し、鎌倉幕府が足利尊氏、新田義貞の寝返りで滅びると、後醍醐天皇は即座に光厳天皇を廃し、「建武の新政」を始めた。政権内部の対立から円心は護良親王派として失脚、佐用荘に帰郷した。
 一方、後醍醐天皇の「建武の新政」はあまりにも人気なく、なかでも武士に対して、倒幕の恩賞が充分でない、知行権について態度が曖昧、など問題が多かった。その結果、自分の領地安堵を願う武士たちは、次第に足利尊氏を頼るようになり、足利尊氏は反乱を起こす。しかし楠木正成らに敗れ、尊氏は一旦九州へ逃れた。

 それまで足利尊氏は朝廷に刃向かう賊軍という立場であったが、赤松円心は一計を案じ、光厳上皇に院宣を出させるという裏技を用いた。そのことで足利軍も朝廷の認めた兵であるという、錦の御旗が掲げられ、御旗の下に多くの味方が集まり、勢いをつけた。これで一番怖い「朝敵という汚名」を被らなくて済む。さらに円心が播磨の国、白旗城で新田義貞の軍勢を釘付けにし、時間を稼いでいる間に九州で勢力を回復した足利尊氏の大軍が駆けつけた。
 楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は「湊川の戦い」で敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
さらに足利尊氏が京を制すると、後醍醐天皇は吉野に逃れて、南朝をたて、京の北朝と、南北朝分裂時代になる。尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、2人の天皇が存するという異常事態を招く。
足利尊氏はさらに北畠顕家や新田義貞を破り、征夷大将軍となり、室町幕府を樹立する。後醍醐天皇は翌年吉野で義良親王(後村上天皇)に譲位し、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52歳。しかし南朝はさらに50年以上も続く、という複雑な歴史の一話。

赤松円心は稀代の策士で、その功績で播磨国守護職に任ぜられ、各地で後醍醐天皇を奉じる南朝方と戦う一方、苔縄城の麓に法雲寺を建て、臨済宗の高僧・雪村友梅を招いて開山とし、後に同寺に播磨国の利生塔を建立、戦乱の犠牲者たちの鎮魂につとめるなど、幕府の重鎮としてふるまった。墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院、木像が生まれ故郷の兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺にある。享年74歳。

このストリーの難しいのは、どの天皇に正当性があるのかということ。鎌倉時代に天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂し、天皇継承を巡って内輪もめを繰り返したのがその根本原因。後醍醐天皇(大覚寺統)が「鎌倉幕府打倒」を叫び、尊氏が「持明院統」を担ぎ出したことから話はややこしくなる。明らかに劣勢なのに後醍醐天皇は吉野にこもり三種の神器を携え自分たちの正当性を主張する。天皇は絶対で、だれも廃することができない。足利幕府の内部抗争もあって、南朝もダラダラと50年続くことになる。

 歴史的には長い間後醍醐天皇が正当で、尊氏は反逆した逆臣とされていた関係から、尊氏の覇業に大いに貢献した円心も逆賊の頭目の1人で大悪人と見なされてきた。そのためか全く知られていない。忠臣と言われ後醍醐天皇に尽くした楠木正成は大楠公と称えられ、神として祀られている。雲泥の差。
 

飛燕に見る戦時中の日本の技術力

2016年12月05日 14:17

蘇った飛燕の勇姿

 川崎重工が創立120年を記念して、第2次世界大戦中に開発製造した三式戦闘機「飛燕」を修復、復元し公開した。早速、見に行ったついでに「飛燕」の活躍ぶりを調べてみた。
 戦時中の日本の戦闘機といえば、「零戦」が有名で、そのコンセプト、技術が優れ、実際大活躍したため後継機の出現が遅れた。「零戦」以降の戦闘機はどうであったのか、特に「零戦」の一方的な優位性が失われてきた終戦時の状態はどうであったのか?
零戦は軽戦闘機として、徹底的に軽量化され運動能力、機敏性、対戦闘機性能など抜群であったが、戦局が進むにつれより重装備に耐え、防弾性に優れた重戦闘機の開発が行われた。

 1942年、川崎飛行機(現川崎重工)は、ドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造された航空機用液冷V型12気筒エンジンDB601を、ライセンス、国産化した「ハ40」を搭載した三式戦闘機「飛燕」の製造を開始し、終戦まで約3000機を製造した。
 DB601はメッサーシュミットBf109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンで、過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用した、先進的なエンジンであった。DB601を積んだ「飛燕」は空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持っている(写真)。
 エンジンは倒立V型気筒で発動機中央に機銃が通せる構造や、側面に装備されたフルカン式継手(流体継手)を用いた無段変速の過給機、ローラーベアリングの多用など、非常に高度で複雑な機構を多数採用されていた。
 防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮したが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では並の戦闘機になり下がり、特に上昇速度の遅さが目についた。アメリカ軍には零戦に比べ「与し易い戦闘機」という印象を与えた。

 しかしながら「飛燕」は他の日本の飛行機にはないターボチャージャーを備えており、空気の薄い高高度での飛行性能に優れ、米軍機の迎撃や特攻に使われた。

 1. 日本の工業力不足
 DB 601は基本的には優れたエンジンであるにもかかわらず、日本の基礎工業力では生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったことや、複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼし、また故障が相次いだ。
 概して機体の設計には優れていたが、エンジン製造ではドイツ、アメリカの性能に追いついてなかった。
 その故障の大きな要因にローラーベアリングの不具合があった。エンジンの力を回転力につなげるクランク軸のコンロッド接続部(レシプロエンジンのピストンとクランクシャフトをつなぐパーツ。エンジンが起こすピストンの動きをクランクシャフトに伝え、回転運動に変換する。車を動かすための重要なパーツの一つで、軽量かつ頑丈さが求められる)のローラーベアリング(ころ軸受け)はドイツ製のものと比べて相当に精度が低く、クランク軸の破損に繋がった。
当時の日本の基礎工業力は、ボールベアリングのボールの精度でも表面の凹凸がヨーロッパのSKF社製(スウェーデンにて1907年に創業し、軸受(ベアリング)および軸受ユニットなどを製造)のものは0.001mm以内に収まっていたものが日本製のものは0.012 - 0.015mmと桁違いに悪かった。生産上の主要なネックはこのクランク軸ピンの不具合であったが、それを克服する技術的蓄積が日本ではまだ足りなかった。

 国の基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。例えば外国機エンジンが油漏れを起こすことは滅多になかったが、日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。
「ハ40」の性能向上型である「ハ140」のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内にエンジン無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。

 2. 革新的爆撃機の出現。
1944年7月7日にサイパンが陥落、その後日本本土は本格的な空襲にさらされた。
特に大型爆撃機を開発して、B29などを用いて10000m 以上の高度から爆弾を落とすという作戦を始められると、手も足も出なくなる。10000m以上では空気が薄くてエンジン出力が極端に低下して、B29に追いつけない。この作戦で日本のほとんどの大都市が焦土と化す。高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要であった。しかしB-29は現在の旅客機のように、室内を高度約1,000mと同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備し、インタークーラーターボチャージャーをつけた高出力エンジンを持っていた。
「零戦」も10000mの高度まで上がれないが、ようやく上がって射撃してもB29はその程度の射撃ではビクともしない。そこで体当たりするが、それでもいいとこに当たらない限り、落ちない。というジレンマをかかえていた。そこで「飛燕」のようなターボチャージャーを積んだ重装備の戦闘機が開発されたのだが、これまた10000m以上の高高度には急速に上がれない。その空域では浮いているだけで限界といった状況であり、迎撃方法としてはあらかじめ侵攻方向上に待ち構えて一撃を加えるのが精一杯であった。

 高性能で迎撃が極めて困難なB-29実戦投入の事実はドイツ空軍をもあわてさせ、革新的なジェット戦闘機の新規開発を急ぎ、Ta183ホッケウルフが開発された。Ta 183は画期的な概念の翼、40度の後退翼を持ち、機首に空気取り入れ口があり、ジェットエンジンを胴体後部に収納する新世代のジェット機であった。Ta 183は1944年末期に、16機の原型機製造が発注され、初飛行は1945年5月から6月の予定であったが、1945年4月にイギリス軍がフォッケウルフの工場を占領したことにより、1機も完成しないまま終戦を迎えた。

 3. 技術革新
よく言われることだが、開戦当初は日本軍も「零戦」など一部の兵器の優位性があり頑張れたが、基礎的な科学水準や持続のための工業力がアメリカに追いついてなかった。 
 さらには新たな技術革新が起こり、大きく戦局が変わったが、それについていけなかった。
 アメリカとの対戦を予想して、大和や武蔵といった巨大戦艦の建造に力を注いだが、思い描いていた巨大戦艦同士の戦いは起こらず、飛行機からの魚雷により、浮沈艦と言われた戦艦があっけなく沈み、役に立たなかった。
ちょうど戦略や科学技術が転換期にあった。飛行機が発達し、重要な武器になるだろうと予想した軍人もいたが、戦闘にこれほど重要に関わるとは思った軍人は少なかった。
第2次世界大戦では飛行機の役割が圧倒的な立場を占めたが、飛行機の急速な発達の中での新たな技術開発や水冷エンジン、ターボチャージャーという技術もまだ日本に根づいてなかったのも敗因の一つだろうか?

戦後、飛行機の教訓が車作りに生かされ、ベアリング製造のような基本的な技術から、燃料噴射装置、水冷エンジン、ターボチャージャーとすべての技術でアメリカを凌ぐようになったのはなんという皮肉。

写真 1、2: 飛燕機体;写真3:飛燕エンジン;写真 4:飛燕コックピット
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真田信繁の生き様 (2)

2016年10月28日 17:55

真田丸築城

 打って出るか籠城するかの議論が紛糾したのち、淀殿や大野修理の専断で籠城が決定すると、幸村は大阪城での籠城戦をシュミレーションしてみた。大阪城は東は湿地、北は天満川、西は難波港という天然の要害に囲まれているので、徳川の大軍が陣を張るのは南だと予想し、南側に最も防衛力を集中する必要があると考えた。そこで幸村は城の南側の弱点を補うものとして、三の丸の南、玉造口の外に、東西180mほどの半円形の真田丸という出城を築き、5000人の兵で守備することとした。
 大阪城は周囲の長さが8Kmにも及ぶ総構の難攻不落の巨城として名を馳せており、徳川家康は力づくで大阪城を落とすのは難しいと考え、城内にスパイを配置して、敵の切り崩しにかかるとともに、攻撃のチャンスを窺い、無断で攻撃することを禁じていた。
 一方、幸村は戦闘開始から数日経っても敵が攻めてこないので、敵は功名を焦り始め、さぞイライラしていることだろうと考え、徳川方に心理戦を仕掛けた。真田丸の前列に布陣していた前田利常隊を挑発した。真田丸前方200m先に小山があり、この山に少数の鉄砲隊を配置して、前田隊を連日狙撃した。前田隊に死傷者が出たが、家康はまだ突撃を許さない。小山の鉄砲隊を追い払おうと前田隊は小山に出撃したが、すでに真田隊は撤退した後であった。真田隊から、それをからかわれ、嘲笑された前田隊はその挑発に我慢ができず、突撃命令が出る前に、真田丸を攻撃、それを見ていた井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊もつられて真田丸に殺到した。まさに幸村の思う壺、できるだけ引きつけての鉄砲の一斉射撃を行った。徳川方は甚大な損害を被り、これを機に真田丸には迂闊に近寄れなくなった。家康もこのままでは拉致があかず、長期戦になってしまうことを嫌い和議に持ち込むことにした。
 秀頼は最初は和議に反対していたが、連日大砲の弾が打ち込まれ、母淀君の神経が参っていたところに、その一発が居室を直撃し、侍女8名が即死するに及んで、淀君が強硬に主張して和議が結ばれた。ここでは家康の心理戦が効を奏する。
 和議を結ぶことが決まった時点で、秀頼の敗北が決定的になる。豊臣方は徹底して籠城するという作戦を立て、近隣の米を全て高い金で買取り、徳川の大軍がすぐに兵糧が尽き、また冬の厳しい寒さでの野営で士気が下がることを予想した戦略を立てていたのに、戦のわからぬ淀殿の言い分で和議。これでは何のために立てた戦略だったのか、戦わずしてすでに負けている。孫子の兵法でも戦いの上策は戦わずして勝つこと(百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり)と書かれており、戦わないことの重要性が説かれ、家康の作戦勝ち。

夏の陣
 和議が結ばれ外堀、内堀が埋められた時点で、大阪城は裸城となり、外からの攻撃を防ぐことはできなくなっていた。
こうなってしまっては、幸村といえども家康を打ち破る作戦があるわけでなく、あとは死に場所を求めての戦いになった。策があるとすれば、奇策しかない。ただただ家康の首を取ること。茶臼山に陣取っていた幸村は赤い旗に真っ赤な鎧(真田の赤備え)に身を包んだ赤い軍団の真田隊3000を率いて、家康の首のみを目指して一丸となって突撃した。家康の前面にいた、越前松平軍1万3000を蹴散らし、家康本陣へと殺到した。本陣前では旗本隊が必死に防戦、真田隊の猛攻を受け、壮絶な乱戦となった。真田隊の討ち死にが相次ぐが、隊列を整えて、3度本陣への突撃を試みた。そしてついに家康の「馬印」が引き倒すまで進撃した。家康にとって馬印が倒されるほどの激戦は「三方原の戦いで武田信玄に大敗した時と真田に攻められた今回の2度だけである。家康は腹を切ることを覚悟したが、側近に止められた。
 しかし真田勢は多勢に無勢、次第に消耗し追い詰められ、撤退をやむなくした。幸村は疲労困憊し、四天王寺に近い安居神社で傷口を治療してる時に、越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され、討ち取られた。思う存分に暴れ、十分戦い尽くし、疲労困憊の幸村は西尾に「自分の首をとり、手柄にせよ」と言ったという説もある。後日褒美を与えるため西尾に面会した家康は、西尾が自分が討ち取ったという話を聞いて、お前なんかに幸村が打ち取れるはずがないと言ったという。幸村、享年48歳。

 家康は冬の陣の折、信濃10万石を条件に徳川方につかないかと持ちかけたが、幸村は即座に断っている。また幸村の家臣はどんな不利な戦況でもだれも降参せず、粛々と最後まで戦ったとされる。なぜ幸村は負けるとわかっている戦いにうってでたのか?なぜ幸村の軍隊が一丸となって無謀とも言える突撃をおこなえたのか?想像するしかないが、当時の武士はかぶき者と言われ、目立って派手に振る舞い、後世に名を残すことが誉であるとの価値観を持っていたので、武士の意地、潔い死に場所を求めた? 後藤又兵衛は確かにそうだったかもしれないが、幸村はそれよりも圧倒的に不利な状況下、自分がどれだけできるか、自分の力を試したかった?男として大名の息子として生まれ、父親ゆずりの自分の才能に自信のあった幸村は、家康という大きな壁をぶち破り、困難であればあるほど、自分の実力を天下に示したいという欲求があった?
 第二次世界大戦時、山本五十六は戦争に反対し、米国とは絶対に戦えないと主張しておきながら、命を賭してまでは反対せず、真珠湾攻撃を企画したのと似ている。彼も軍人として、大きな敵であればあるほど胸のどこかに、自分の持てる全ての力を試してみたいという気持ちがあったのかもしれない。

写真1、2:真田丸跡にある三光神社、写真3:大阪城と繋がっていると言われる抜け穴、写真4:真田幸村像、 写真5:茶臼山戦場跡、 写真6:安居神社、 写真7、8:幸村最後の地、
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真田信繁の生き様 (1)

2016年10月24日 15:54

九度山幽閉
  1600年、関ヶ原の戦いが始まると、父昌幸と弟信繁は石田三成方の西軍につき、兄の信之は徳川方東軍に加わって参戦。勝負はあっけなく6時間あまりで決し、徳川家康が勝った。昌幸、信繁父子は死罪となるところを信之や本多忠勝の必死のとりなしで、高野山の麓の九度山へと蟄居させられる。真田父子の戦いでは2度とも徳川軍を相手に上田城で戦い、勝利を収めたにもかかわらず、関ヶ原の大戦で西軍が負けたため、局地戦では勝ったが、勝負に負けるということを味わった。もし真田昌幸が関ヶ原に行って参戦していたら、勝敗はどうなっていたであろうか? 昌幸は関ヶ原の戦いのような多くの大名が集まり戦う大会戦ということから、1日や2日で決着がつくとは思っていなかった。まさに自分の描いていた戦略とは懸け離れた決着をしてしまい、徳川の威光に屈するようになった悔しさは計り知れないものがあった。
それから14年間貧乏のどん底を味わい、真田紐を売ったり、兄信之の差し入れにより糊口をしのいだ。今も九度山に真田庵という真田父子が過ごした田舎家が残っている(写真 )。どん底の生活を送っていたことが垣間見れる。徳川からの恩赦をひたすら待っていた父昌幸はその最中、1611年に九度山で亡くなる。関ヶ原へ向かう道中、上田にて足止めを食らい、戦闘に間に合わず、家康から大目玉を食らった徳川秀忠の真田への怨念は強く、絶対に許そうとしなかった。

  大阪冬の陣
何と言っても14年間という長い幽閉の思いが一気に大阪冬の陣に向けて吐き出される。
九度山を宴会の最中に抜け出し、大阪城に入った真田繁信改め幸村は秀頼より総大将の就任を依頼されたが、目立ちたがり屋で大法螺吹きの後藤又兵衛や毛利勝永などに拒絶され、また馳せ参じた浪人たちのまとめ役の秀頼の側近、大野修理の優柔不断さもあって、議論は空回り。結局は実績よりも大言壮語の人物が自分の軍を率い、総大将は秀頼がなるという、統率のとれない軍隊とは言えないような組織となる。これでは家康が「烏合の衆の大阪方が何万人居ようとも怖くない、ただ真田だけが心配だ」と言ったことは理解できる。
 鉄砲や大砲が発達してきた関ヶ原以降の戦闘では昔と違って個人対個人の戦いでなく、統率のとれた集団として動くことが大切。いくら勇猛果敢な豪傑であっても単独での活躍はあり得ない。後藤又兵衛などはすでに時代遅れとなっていることに本人は気づいていない。
そのような状況下、幸村の大阪城から打って出るという積極策は取り入れられず、籠城策となる。しかし射程距離の長い大砲が開発され、巨大な大阪城と言えども城の外から攻めることができる時代には無意味とも言える籠城であった。これ以降遠くから距離を置いて攻めることができる戦闘での籠城策は意味をなさない。明治維新時の会津鶴ヶ城(若松城)も、兵を持っての攻めには随分抵抗もできたが、向かいの山の上からのアームストロング砲には手も足も出なかった。
 幸村は守りと攻めを兼ねた、真田丸砦を築き、徳川軍を迎え撃つということになった。ここまでが先週の真田丸の放映。これからが真田丸のクライマックス。

九度山の写真 写真1:真田庵 写真2:真田庵由緒 写真3:貧乏生活 写真4:昌幸墓


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