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小説にでてくる螢

2010年08月02日 19:08


どこか幻想的で弱々しく闇夜に浮かび上がる青い光り。浮遊する光は時からの風に吹かれてふわりと舞い上がり、川面を乱舞する。その美しさの中に秘められた頼りなげさはそこはかとない風情と哀感を醸し出し、日本人にとって欠かせない夏の風物詩である。
桜といい蛍といい華やかさと無情さとを感じさせてくれるもの、月は隈なきをのみ見るものかわといい、満月もいいがそれよりちょっと欠けた月、完全でないものにわびとかさびを感じる民族の愛でる象徴としての蛍。古来より小説にも多く蛍が登場する。

一つ目は伊勢物語の行く蛍。

昔、男ありけり。人のむすめのかしづく、いかでこの男にもの言はむと思ひけり。うち出でむことかたくやありけむ、もの病みになりて、死ぬべきときに、
「かくこそ思ひしか」と言ひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、
惑ひ来たりけれど、死にければ、つれづれと篭りをりけり。
時は六月の晦日いと暑きころほひに、宵は遊びをりて、夜更けてやや涼しき風吹きけり。 蛍高く飛びあがる。この男、見ふせりて、
「行く蛍 雲の上まで 住ぬべくは 秋風吹くと 雁に告げこせ」
暮れがたき 夏の日暮らし ながむれば そのこととなく ものぞ悲しき。

その要約はこうだ。
ある身分の高い家の娘が片思いして、結婚するならこの人と思い詰めていたが、重い病にかかり死ぬ間際に、思い詰めていた人がいると打ち明けられ、親は男のもとに泣く泣く行き話をした。男は戸惑ってしまったけど、娘が死んでしまったので、家に籠って夜になり、やっと涼しい風が吹き始めた。
そこで「行く蛍 雲の上まで 住ぬべくは 秋風吹くと 雁に告げこせ」飛び交う蛍よ雲の上まで行くのなら娘にもう秋風が吹き始めているよと告げてくれと詠んだ。なかなか暮れぬ夏の日。物思いにふけって、なにかもの哀しい。

二つ目はかの有名な枕草子の巻頭の夏は夜の1編。

夏は、夜。月の頃は、さらなり。闇もなほ。蛍の多く飛び違ひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。

現代の文学では谷崎潤一郎の細雪や宮本輝の螢川や野坂昭如の火垂の墓が上げられる。そのうちの2編「細雪」の中の蛍狩りのシーンとなんとも哀しい「火垂の墓」。

まずは細雪の中のかの有名なる蛍狩りの名文。

あたりがわずかに残る明るさから刻々と墨一色の暗さに移る微妙な時に、両岸の叢から蛍がすいすいと、すすきと同じような低い弧を描きつつ真ん中の川に向って飛ぶのが見えた。見渡す限り、一筋の川の縁に沿うて、どこまでもどこまでも、果てしもなく両岸から飛び交わすのが見えた。それが今まで見えなかったのは、草が丈高く伸びていたのと、その間から飛び立つ蛍が、上の方に舞い上がらずに、水を慕って低く揺曳するせいであった。   が、その、真の闇になる寸刻前、落窪んだ川面から濃い暗黒が這い上がって来つつありながら、まだもやもやと近くの草の揺れ動く気配が視覚に感じられる時に、遠く、遠く、川の続く限り、幾筋とない線を引いて両側から入乱れつつ点滅していた、幽鬼めいた蛍の火は、今も夢の中にまで尾を曵いているようで、目をつぶってもありありと見える。
自分がこうして寝床の中で目をつぶっているとこの真夜中にも、あの小川のほとりではあれらの蛍が一晩中音もなく明滅し、数限りもなく飛び交うているのだと思うと、云いようのない浪漫的な心地に誘い込まれるのであった。何か、自分の魂があくがれ出して、あの蛍の群れに交じって、水の面を高く低く、揺られて行くような、  そういえばあの小川は、蛍を追って行くと、随分長く、一直線に、どこまでも続いている川であった。

螢の飛び交う情景をこれほど微にいり細にいり、あたかも螢の飛び交う川の縁に佇んでみているように書き、なお螢を見ている主人公の心の中の動きまでを彷彿させるとはさすがに谷崎潤一郎。

なんといっても哀しくて切ないのは「火垂の墓」でしょう。涙無しには読めません。この飽食の時代に、この神戸で餓死して死んで行った日本人がいたなんて若い人には想像できない事でしょう。冒頭から涙なくしては読めません。あの神戸の一番の繁華街を擁する三宮の駅の終戦時の荒廃した姿は想像だにできません。
終戦間際。清太14歳、節子4歳。親もなく、住む家もなく、食べるものとてなく、横穴に兄妹2人だけで暮し始める。まず妹が餓えで亡くなり、終戦を迎えてこれからという時に清太も飢えて衰弱死する。

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。

これからの小説の展開を暗示するような暗い出だしの中で、幻想的な螢が荒廃しきった駅舎に飛び交う。この螢は清太や節子の魂なのであろうか。

また節子が螢を捕って蚊帳の中にいれておいたのが朝起きてみると半数近くが死んでいた時の事。
朝になると,蛍の半分は死んで落ち,節子はその死骸を壕の入り口に埋めた,「何しとんねん」「蛍のお墓つくってんねん」うつむいたまま,お母ちゃんもお墓に入ってんやろ,こたえかねていると,「うち小母ちゃんにきいてん,お母ちゃんもう死にはって,お墓の中にいてるねんてんて」はじめて清太,涙がにじみ,「いつかお墓へいこな,節子覚えてえへんか,布引の近くの春日野墓地いったことあるやろ,あしこにいてはるわ,お母ちゃん」樟(くす)の樹の下の,ちいさい墓で,そや,このお骨もあすこ入れなお母ちゃん浮かばれへん。何でホタル すぐ死んでしまうん?

こんな哀しく切ない文章が野坂昭如に書けたなんて信じられない。ただこの小説を書くにあたり、螢の墓はすでにあったタイトルなので、火垂の墓とし、螢を小説の中で登場させ、何とも切ない当時の哀感を出すために使ったということを後になって知って、興ざめしたのと同時に切ない情感を盛り上げるため、意図して螢を仕掛けたんだと感心もした。物悲しく、切ない気持ちが優雅だけどはかない螢の登場で一層かきたてられた。まさに小説家の仕掛け通りにことが運んだ。プロはすごい。

 



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坂の上の雲と松山(2)

2008年12月19日 17:00

松山探訪(2)

翌日は穏やかないい天気の日曜日、まだ人影がまばらな城趾公園を落ち葉を踏みながら散策する(写真4)。山の上に青空を背景に松山城が見える。公園の片隅にあった茶室でお茶をいただく。ロープウエイでお城に上る。お城からは松山の街が一望され、瀬戸内海も遠くに穏やかに光っていた。赤く染まった紅葉や桜の葉は陽の光を透過して鮮やかに光り、風にそよいでいた。蒼天に映える天守閣と太鼓櫓。日本独特の石垣や屋根の曲線(写真5)。
お城の中に入る。お城は火災で焼け落ち、昭和40年に入って、むかしのお城を復元したもの。全てが忠実に木造で復元されているせいもあって、お城の構造、天守閣の構造、屋根や壁の張り方などを解説した長い映画をみてよく仕組みがわかった。
讃岐うどんがこの際ぜひ食べたかったのだけど、どこを探しても伊予うどんと言われる柔らかいうどんしかなかった。隣どうしの県でこうも違うとは。近いとどうしても対抗意識がでるのであろうか?仕方なしに、伊予うどんの釜ゆでを頼んだら、その量たるや大量すぎて、食べるに手間取り時間がなくなる。前日の昼のうどんも今日のうどんも柔らかく、讃岐うどんへの思いは、ついに果たせなかった。無念。慌てて、タクシーで好古の墓地のある道後温泉に向かう。しかし運転者は好古の名前を知らず、なんていうことだ。やっと墓地にたどり着き慌ただしくお参りをし(写真6)、せっかく温泉にきたのに、道後温泉の前を素通りしてまた慌ただしく空港へ向かった。
往きの飛行機は天候が悪く、揺れて、気分の悪くなる人が続出したが、帰りは飛行機が揺れる事も無く、伊丹空港へと着陸し、無事今回の旅は終わった。
写真(1)城趾公園a-c; 写真(2)松山城a-d; 写真(3)道後温泉a-b; 写真(4)雲海 from I.

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坂の上の雲と松山

2008年12月15日 19:55

松山探訪(1)
ある初冬の土曜日「坂の上の雲」愛好会メンバー6人で、Tuka君の送別会をかね、松山を訪れた。来年NHKドラマで「坂の上の雲」が放映されるとあって、松山にある坂の上の雲ミュージアムが混むこと必須であるとの懸念から、今年中に行こうとの愛好会メンバーの念願がやっとかなっての旅行であった。
伊丹空港からプロペラ機に乗って1時間ちょっとの旅。プロペラ機は低空を飛ぶので、瀬戸内海の島々がこれぞまさに箱庭のように眺望された。広がる雲海の途切れから、瀬戸内海の穏やかなきらめく海が見下ろせ、その中に島なみがが点在する様は絵画そのものであった。

 淡い冬の日差しに映えて舞う銀杏の葉は黄金色に染められ(写真1)、松山の街は静かなたたずまいの中ひっそりとしていた。正岡子規上京までの住居を保存して作られた子規堂には子規の勉強した机や遺品が狭い部屋の中に盛りだくさん陳列してあった(写真2)。子規は「坂の上の雲」の前半における主要な登場人物で、秋山真之と親交があった文筆家。ホトトギスを主宰し、それまでの写実的な俳句から脱皮すべく俳句革新を目指した。真之と子規との親交は明教館での小、中学を通して深められ、さらに松山市内で発行されていた文芸雑誌「風詠新誌」に二人とも和歌を投稿する間に意気投合した。子規のみならず後に日本海海戦の作戦参謀となる真之も文学少年であった。この片鱗が日露開戦劈頭に打った電文「天気晴朗なれども浪高し」にも現れてる。
二人して上京し東大予備門へ入るが、真之は経済的な理由や兄の好古が陸軍に入隊していたこともあって、19歳になって海軍兵学校へと入学する。このきっかけになったのはもう一人の松山出身の幼なじみの清水則遠が突然の病で急逝したことだった。真之は海軍士官学校入団の決意を子規に送った歌で述べている。「送りにし 君がこころを 身につけて  波しずかなる 守りとやせん」。子規はその返歌として「海神も 恐るる君が 船路には  灘の波風 しづかなるらん」と真之の行く末の平穏を祈っている。この歌を境に、二人の道は大きく分かれていくことになる。

にわかに雨が降り出すなかを、慌ただしく秋山兄弟の育った生家を復元した記念館へと入った(写真3)。秋山真之、好古の銅像が建つ庭。特に感銘したのは兄弟をよく知る親族の方が普段の兄弟を語られたビデオをみて、真之は寝ても覚めてもいつも国家のことばかり考えていたと言われたこと。真之は辞世の句「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」を詠み51歳で永眠。
この3羽とは子規と志し半ばでなくなった親友の清水則遠のことであろうと考えられている。一方、好古は近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官、教育総監を務めた後退役し、松山の中学校の校長に就任して若者の教育にあたり、71歳で世を去る。雨の中を慌ただしく撮ったため、確認を怠り、残念ながら真之の銅像の写真はぼけてしまっていた。好古の像は威風堂々と撮れた。
秋山真之、好古兄弟個人の活躍については次の回に譲るとして、ここでは松山訪問と二人の由緒ある場所を訪ねての感想にとどめた。

その後、夕方慌ただしく「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。ミュージアムは4階建ての立派な円形の窓の大きい近代的ビルで、建築家・安藤忠雄氏による設計のもとに建てられ、各階はスロープで結ばれ、ゆったりと歩きながら鑑賞できる様になっている。
中でも秋山真之の海軍兵学校での成績表があり、2番と4点差での首席であったことなど興味深いものがあった。一方、資料は無いが兄の好古は陸軍士官学校をびりから2番で出たという。また日本海海戦の劈頭でのあの檄文「本日天気晴朗なれども浪高し」の原稿(残念ながらコピー)もある。一時間ほどかけてゆっくりと館内を見学し、ミュージアムを後にした。一番楽しみにしていたミュージアム訪問であったが、どちらかというと資料よりも坂の上の雲の読者からの絵や感想文が多くて、物足りない気もした。
松山探訪(2)に続く。
写真(1)銀杏と電車 a-c; 写真(2)子規堂 a-c; 写真(3)秋山兄弟生家 a-c

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大和路

2008年11月15日 13:10

大和路に点在する古き寺院を解説した書物として和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」と堀辰雄の「大和路」があるが、なかでも大和路は平易にしかし奈良の寺院や自然にたいして、愛情に溢れた美しい文章でかかれ一番好きだ.

 今はもう晩秋。山々の紅葉が漸く麓におりてきて、都会の街路樹も色づき始めた。秋の宵。まばらになった樹々の葉が雨に打たれ、街路灯にひかり、わびしい佇まいを見せている。そんな夜、蒼天の大和路を訪ねることを夢想している。人がまばらになった古い寺院の境内や民家の白壁越しに覗く取り残された熟した柿。すでに刈り取られた稲田。小川に沿って繋がる小道の樹々も黄色や朱色に変わりかかる。山里全体が真っ赤に染め上げるような派手さや、きれいさはないが小さな赤く熟れた木の実を見つけただけで幸せな気分になれる。これぞまさに日本古来の風景。「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」だ。

大和路 堀辰雄

 私の最もお気に入りの寺院は浄瑠璃寺だ。正確に言えば奈良と京都の境にあり、大和とは言い難いかもしれない。浄瑠璃寺は吉祥天女像で有名なお寺だが、観光コースから外れているため、存外、人は少なくひなびた昔の佇まいを残している。晴天の晩秋、浄瑠璃寺から岩船寺に抜ける山道を歩くのが最高。春もまた秋とは全く違った佇まいを浄瑠璃寺は見せてくれる。堀辰雄が浄瑠璃寺を訪ねたのは、早春馬酔木の花がさき誇っていた頃だ。

「この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた」
「そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった」

最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。」と浄瑠璃寺を紹介している。

堀辰雄は秋篠寺のことはこう書いている。「秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱(あか)い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香(こう)にお灼(や)けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた」と親しみをもって伎芸天女の印象を述べている。
 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。

こんな紹介を読むと、思いが胸の中でどんどん膨らみ、このいい季節に行ってみようとの願望が膨らむ。枯れた寂しい冬の柔らかい日差しの中、訪れるのもいいかもしれない。

たまには日常の忙しさ、生活から逃れて、古寺を訪ね、田舎路を歩いて、心に溜まった残滓を洗い流すことをお勧めします。

一つの発明が歴史を変える

2008年11月06日 16:00

下瀬火薬と伊集院信管

司馬遼太郎著「坂の上の雲」のフアンは東郷元帥率いる連合艦隊がバルチック艦隊を殲滅出来た一因に下瀬火薬があると教わった。

現在の火薬の主体はTNT (2,4,6-trinitrotoluene)であるが、明治時代にはその原料のトルエンが得られず、石炭から造られる石炭酸(フェノール)を材料とし、それをニトロ化したTNP (trinitrophenol)が火薬として使われた。別名ピクリン酸と呼ばれる。ピクリン酸は金属腐食性が強く、すぐに金属と反応してしまうため砲弾につめることができなかった。海軍技師下瀬雅允はその点を解決するため、砲弾の内側に漆を塗り、さらにワックスをもってコートした中にピクリン酸をつめ、このピクリン酸の欠点を克服した。炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いられた。下瀬火薬と呼ばれ、日露戦争に使われたことで有名である。敵船体を貫通する能力こそ低かったが、破壊力の高さと化学反応性の高さから、敵兵と艤装に大きな打撃を与えた。明治38年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を粉砕できた一因は下瀬火薬である。「下瀬火薬は黒煙を発生せず、速射が可能であり、帝政ロシア海軍は黒色火薬を用い視界が遮られ、速射が不可能であった」とは坂の上の雲でも述べられているが、実際は下瀬火薬は砲弾発射の火薬には用いられていない。発射薬にはコルダイト(無煙火薬:ニトログリセリンとニトロセルロースに安定剤のワセリンを混ぜたもの)が用いられた。ので実際は違うらしい。
黒色火薬は可燃物として木炭と硫黄それに酸化剤として硝石(硝酸カリウム)の混合物で火薬としては最も古く、現在でも花火などに使われている。小さい頃この黒色火薬を作り、アルミでできた鉛筆のキャップにつめてロケットとして飛ばして遊んだ。

日露戦争は開国からわずか50年足らず東洋の新興国日本が、大国ロシアを破ったことで、ヨーロッパ列強諸国にも大きな衝撃を与えた。下瀬火薬はその日露戦争における日本の主要な勝因の一つにあげられている。下瀬火薬は優秀な火薬であるものの取り扱いが難しいという欠点もある。旗艦三笠が1905年に佐世保に帰港した際、艦内弾薬庫の下瀬火薬が誘爆し爆沈、着底する事故を起こした。この事故での死者は699人であり日本海海戦の日本軍死者総数110人を遥かに上回る大惨事となった。

一方伊集院信管は伊集院五郎海軍大佐が考案した信管で明治33年に採用された。砲弾が飛んでいるうちに、尾部のネジが回転して安全装置をはずすのが特徴で、日露戦争で広く使用された。非常に敏感であり、砲弾がどこに命中しても爆発したと言われている。下瀬火薬と伊集院信管があってこそ日露戦争に勝利できたともいえる。一つの科学の進歩が歴史を動かし、国の興廃を決定する。現代の戦争は科学的裏付けがあってこそ、勝敗がきまる。ステルス戦闘機やミサイルには槍や鉄砲では敵わないし、闇雲に精神論だけで特攻をやるのは具の骨頂である。



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