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夾竹桃

2013年08月26日 18:15

夾竹桃の花を見ると思い出す

地獄の釜の様な熱気の日々で、誰しもがこの暑さに辟易としている。そんな猛暑のカンカン照りのなか、炎天をもろともせず夾竹桃は多くの清楚な淡紅色や真白の花をつける。あの暑い一日もそんな夾竹桃の花が満々たる淡紅色の花をつけ灼熱の太陽にあがらうかの様に咲いていた。それ以来、真夏の暑い時期、夾竹桃の花が炎天下に咲いているのを見ると、青春時代の哀しい記憶が蘇る。
留学直前の忙しい最中のこと、突然学生時代の友の訃報が舞い込んで来た。どういう事情で亡くなったのか、何があったのかも分からず、取る物も取り敢えず駆けつけ、現実とは信じる事が出来ず、茫然としたまま葬儀に出席した。読経の声など耳に届く訳も無く、友との文学談義、古寺巡りなどの思い出が走馬灯の様に浮かんでは消えていった。
最後のお別れ、暑い夏の昼下がりの炎天下、刺すような日差しを浴びながら、悄然と立ち尽くし、焼却炉から出てくる煙が風もなくまっすぐに蒼天へと登って行く様を、うつろな心で見やっていた。
ふと視線を移すと、焼却炉の裏手に2−3本の夾竹桃の樹が植わっていて、紅色の花をたわわにつけているのが見えた。 その花は夏の太陽の日差しにも負けず、霊を天国に導くために咲いているかのように思え、悲しみに打ち拉がれている心に、その紅さだけが残った。一週間後には心の整理もつかないまま、慌ただしくアメリカへと発った。
毎年夾竹桃の紅い花を見ると、この出来事が哀しい青春の思い出として蘇る。

夾竹桃の生命力の強靭さには驚かせられる。夾竹桃がインド原産と知ってやっとその理由が理解できた。原爆投下後の焦土にいち早く蘇り咲き誇ったのも夾竹桃である。
日本へは1724年に渡来。常緑の大型の低木で高さが5m近くになる。枝が多く分枝し夏の暑い盛りに淡紅色の花をつける。白い花もある。竹の葉のように細く、花が桃の花に似ているところから夾竹桃と名付けられた。夾竹桃は葉、茎、根、花、種子などすべてが有毒で、オレアンドリン、アディネリン、ギトキシゲン、ジギトキシゲンなど複数の有毒成分を含んでいる。食べると嘔吐、激しい痙攣や呼吸麻痺を引き起こす。オレアンドリン(oleandrin、C32H48O9)は、夾竹桃に含まれる強心配糖体で、分子量576.73。ジギタリスに類似の作用を持つ。 ヒトの場合、オレアンドリンの致死量は0.30mg/kgで、青酸カリをも上回る
子供大人を問わずあらゆる年齢層で事故が発生している。統計によるとアメリカでは2002年だけでも計847人の中毒事例がある。子供なら葉一枚で死に至る可能性もある。2000年のロサンゼルスで起こった中毒事故では、2歳と3歳の男児が隣家に植栽されていたキョウチクトウの葉を齧って死亡している。親(養父母)がその数日前と死亡当日の夜に彼らが葉を齧っているのを見ていたのにもかかわらず、である。子供が小枝を笛にして遊んでいただけで中毒した事例も存在する。

大気汚染にも強く強靭で育て易い事から、街路樹としてまた公園の樹として利用される。広島に原爆が投下され、焼け野原になった大地、10年は草木も生えないだろうと言われた焦土に夾竹桃はいち早く蘇って、広島市民に復興への勇気と希望を与えたとされる。絶望に打ち拉がれ明日の命さえ分からぬ身に、その清楚な白や淡紅の花が咲き乱れる様は、地獄から一瞬天国をかいま見たように覚えたに相違ない。
それ故、広島市の花として平和公園や広島大通りで、毎年8月6日の原爆の日には一斉に咲き誇る(写真)。毒性の強さとは裏腹に平和の象徴として、反原爆の象徴の花とされる。
今年も真夏の暑い盛りに夾竹桃の樹が紅色の花を咲かせた。

写真 広島平和公園の夾竹桃(今芽旬)より
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晩夏に思う

2009年08月28日 12:44

夏の終わりにー雑感―
晩夏とは夏の華やかさとは裏腹になんと物悲しい響きを含んだ言葉だろうか。今まさに晩夏。過ぎ去った夏の輝きを惜しむ晩夏と、過ぎ去った青春の挽歌がクロスするせいであろうか?

いつのまにかクマゼミの大合唱も聞こえなくなり、朝晩はさわやかな風が吹くようになってきた。夕べともなると、弱々しいが、確かな虫の音が道端のここかしこの草むらから聞かれる。あれ程暑かった夏も終わりを迎えようとしている。クマゼミが急に鳴かなくなったら、秋らしくミンミンゼミやヒグラシが鳴き始めると思っていたら、何の音沙汰もない。昔は晩夏にはミンミンゼミやヒグラシが鳴いて、もうすぐ夏休みも終わりだよ、夏の宴も終わりだよと告げるがごとくに鳴いたように記憶しているが。

夏休みがあと2-3日で終わる頃になると、日記をまとめて書いたり、図工や絵を慌てて描いたりした。なにしろ小学生の頃は、「天然ばか」と親たちからよくいわれていた通り、宿題なんて全くそっちのけで、ジョロウグモを戦わせたり、あり地獄を一日中眺めたり、山野をかけ巡って朝から晩までトンボ採りに夢中になっていた。日記で困るのは天気である。一ヶ月半にも及ぶ天気をどうやって調べるか。今のようにネッットがある訳でなし。これには悪知恵が働いた。測候所に行ってその日の天気を丸写しし、その後に天気にあわせて出来事をでっち上げる。しかしそうすると、同じような遊びが何日かおきに繰り返し現れる。そんな事は知った事ではない。夏休みの終わりまでにはちゃんと体裁を整えたはずであった。が先生から見れば、あちらこちらからボロがのぞいているらしく、夏休み明けに早速廊下に立たされるはめになった。
そんな廊下から校庭を眺めれば、アキアカネがいつの間にか山から下りて来て、風にそよぐコスモスの周りを、飛び始め、夏の饗宴の終わりをそっと知らせていた。子供心にもちょっぴりとしんみりした気分になった。

古来の風流人達によって、秋は夕暮れがいいと相場は決まっている。
かの有名な枕草子でも
「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いとう近うなりたるに、鳥の寝床に行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、とび急ぐさえあはれなり。まいて雁などのつられたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日いりはてて、風の音、虫の音など、はた言うべきにあらず」と秋の夕暮れを絶賛している。

また新古今和歌集のなかでもあわれなる幽玄の秋の夕暮れを歌った3首の優れた三夕の和歌が有名である。
寂蓮法師「さびしさはそのいろとしもなかりけり、槙立つ山の秋の夕暮れ」
西行法師「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけれ、浦のとまやの秋の夕暮れ」

秋の夕暮れはいつの世にあっても人の心にわびしさ、さびしさを植え付けずにはおかない。華やかできらめく夏も終わり、ちょっぴり物悲しく、落ち着いた秋の訪れ。晩夏から初秋への季節の移り変わり。皆さんはいかが秋の夜長をお過ごしであろうか?
もし心に余裕のある人がいたら、あなたの窓から、秋の夕暮れをしばし眺めて見てはいかがだろうか? 
自称詩人のペンペン

青春

2008年04月30日 11:21

青春と喪失

この一週間「喪失」という言葉が胸の底に残滓のように引っかかっている。
青が散るの主人公「燎平」は青春を、愚直に、潔癖に、他人を思いやり、王道を生き、何も喪わなかった。周囲の友は、自分をさらけ出し、素直に、自由に生き、様々失敗を重ね、何ものかを喪ってきた。しかしなにも喪わなかった自分が一番大切な何かを喪ったと言っている。この何かは「青春という何ものにも縛られず自由に向こう見ずに挑戦する心」で若者らしく様々な経験や失敗をしてのみ学ぶことの出来るある力、逞しさだと考えられる。一方、他人を思い、王道を歩み、自分の思いをぶっつけてこなかった燎平は、その結果奥に秘められている何らかの生きる力を得ることを喪った。と言いたかったのではないかと思う。英国の詩人ワーズワースの草原の輝きの詩のなかにも同じような言葉がある。

 青春は2度と帰ってこないけど、青春の時に起こした失敗や過ちを通して何か力を得ているので青春を喪って嘆くことはないと。
イギリスの詩人 「ワーズワースの草原の輝き」という詩の一節
草原の輝き、花の栄光
それは再び帰らずともなげくなかれ
その奥に秘められたる力を見いだすべし
        SPLENDOR  IN  THE  GRASS
Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind.
              William Wordsworth

振り返ってみて自分はどうであったか。青春の甘さのみを享受し、成功もしなければ大きな失敗もせず、臆病に過ごしてきた。そのため力も逞しさも得ることができず、少年のままで大人になりきれてない。いまだに、青春のころの夢見る文学少年を引きずっている気がする。それが全てが中途半端に終わってしまった人生の原因かもしれない。
写真は我が家のsuperpenpenとクマ達。

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精神的豊かさとグローバル化

2008年04月23日 19:02


My faraway-Japanese spirits
日本を語る際、義理、人情、礼、恥、わび、さび、武士道といった言葉で表されることが多い。が現在ではほとんど死語となっている。現代の経済優先の世界から見れば日本は非効率的、精神論的社会とも言える。思ってもみよ。ほんの少し昔には、どこの街にも商店街があり、その辻、辻には八百屋、肉屋、魚屋、電気店があり、それらの店には温かさとか安心感があった。やがてスパーや大型電気店が進出して、大量に均一的な商品を提供し,徹底的に安さを追求し始める。庶民は当然、今まで手に入らなかった高価な品まで、安く買えるとなるとそちらに群がる。その結果、小さな非効率的な商店はやっていけなくなり、農家は農家で安い農産物が海外から大量に自由に輸入されるようになると,立ち行かなくなる。日本国民は物質的豊かさを求めるあまり、非効率的なもの、精神的なものを切り捨てた。自分たちの首を絞めていたことに最近になって気づき始めた。日本文化はあいまいなもの(白黒つけない)を大切にし、それが精神的ゆとりや社会での安心感となってきた。それを捨ててしまうことで、人間社会の潤滑油を失い、ぎすぎすした社会になってしまった。バブル以降の企業も余裕がなく、効率化を求めるあまり、直接会社に役立たない人間を切ってきた。その結果、意図とは反対に組織全体がスムースに機能しなくなった。終身雇用で安定した心の社員は会社に対しての忠誠心、組織に対しての帰属性も高く、欧米よりもいい製品を出し続けてきたではないか?アメリカの言いなりになって(ヨ-ロッパは少し異なるが)グローバル化を追求し、日本的な良さを失ってしまった。日本文化はアメリカ文化とは異なるのだから、良いものだけは取り入れて、日本的文化は残すという方向で何故いけなかったのか?心の豊かさ、おもいやり、安全、といった抽象的なものを排除した結果、が日本社会の荒廃であった。効率は悪くとも、みんなが生き残っていける社会を築くべきであった。それなのに、いまだにグローバル化と言い続けている。確かにある分野(金融、情報など)ではグローバル化は大切であるが、ものつくりには情熱をもって仕事に打ちこんでいる職人的技術が、信頼のあるチームプレイが新しい技術を切り拓くことがある。
 しかし悲しいかな研究はグローバル化にさらされている代表の一つである。確かに昔は何もしていないと思われていた教授がいた。でもこれらの教授は何もしていない訳ではなく、教育熱心だったり、学校の運営に関わり、人のいやがることを率先して社会での貢献をなしてきた。
何事にもゆとりは大切で、遊びのない機械は使えないのと同じで,ゆとりがない人間社会もストレスが強く生きていけない。日本社会は経験的にある比率で、遊びを作り、弱者にやさしい、最大多数の幸福を実現する社会を築いてきた。いかにして、全ての国民が少しづつ損をし、また全ての国民がすこしづつ徳をする昔の日本社会に戻すことができるであろうか。それは夢物語なのであろうか?



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