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天空への道

2014年09月17日 12:24

至福の一刻

碧が広がる。蒼が広がる。空と海の青を切り裂いて白い吊り橋が延びる。
ここは海の道。
黄金の海、茜の空。夕日を追い、天空への道を登る。
ここは海と天の狭間。
雲間より刺し出ずる夕日、黄金の絨毯を海から山の頂へと延ばし、天国へ誘う。
ここは天国の入り口。

夕日、益々傾き、空は茜に海は黄金に、箱庭の島々。荘厳な一刻を迎える。
天国への階段に座し、黄金の輝きの中に身を委ねる。
時は止まり、永遠が支配する。ああ至福のとき。ああ満ち足りたとき。
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「方丈記」が語る平家の世と現代の類似性

2012年07月27日 17:37

方丈記

だれしも一度は鴨長明の書いた無常感、厭世感漂う名文の方丈記の最初の出しを読んだ事があるであろう。しかし方丈記を最後まで読んだという人は非常に稀だと思う。最近「自由訳方丈記」という本(新井満著)が出版されたので、読んでみた。
鴨長明が生きていたのは丁度,平家が興り、滅んで行く時代に重なり,加えて未曾有の大災害の打ち続く時代であったらしい。
現在にあっても、大地震、大津波や原発事故に続いて、竜巻や大洪水が起こり、自然の脅威に打ちのめされているところに政情不安もあって日本の将来に暗い影を落としている。現在と鴨長明の時代は大災害に痛めつけられ、閉塞感の漂う似た時代であった。鴨長明はそのように暗い陰鬱な時代を過ごし、かの有名な方丈記を書いた。方丈記は当時実際に起こった数々の大災害を記録した書でもある。

鴨長明が出家したのは、49歳の年、下鴨神社の神官になる一歩手前の河合神社の禰宜に後鳥羽院の推薦があったにもかかわらず、一族の鴨祐兼の反対にあってなれなかった、現在にもある出世競争に敗れたためであるとも、打ち続く災害や浮き世の人間関係の煩わしさが嫌になってともいわれる。4年間大原に住んだ後、日野の山中に「方丈」の庵(一丈四方(方丈)、5畳程度)を建てて暮し始め、方丈記を執筆し、62歳で没した。

世の無常、儚さを歌った書として平家物語と双璧をなす方丈記の有名な冒頭の一小節は
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし」。

常なるものは何もなく、変わらぬものなど何もない。と無常感溢れた文章だが、このような心になったのは、出世競争に敗れただけではなく、大火事、竜巻や飢饉、大地震などの災害が次から次に起こり、明日の我が身も知れないという現実があったことが大きく影響しているのではないかと思われる。方丈記の中に出てくる災害を書き連ねてみた。

大火事
方丈記によると安元の大火事(1177年)が起こり、都の東南から出た火事は、西北の方向に燃え広がり、朱雀門,大極殿、大学寮や民部省までが焼け落ち、平安京の3分の1が焼けたという。
鴨長明曰く「人間どもは愚かな事に、火災の危険が満ちている事も知りながら、性懲りも無く同じ場所に新しい家を造ろうとして、同じ過ちをくりかえそうとする」。

大竜巻
治承4年(1180年)治承の大竜巻が京の街を襲う。平安京の東北、中御門京極あたりから、大きな竜巻が起こり,六条大路のあたりまで吹き荒れた。例を見ない竜巻、未曾有の竜巻に襲われ、都の人々は不吉な予感にかられた。

福原遷都
大竜巻から2ヶ月後突然の遷都が行なわれた。遷都によって、京の都はみるみる荒廃して行った。しかし遷都先の福原の地はあまりにも狭く、市街の区画を満足に得る事もできず、不満が募った。そして何もかもが中途半端なまま、半年後にはまた平安京に戻ってしまった。平安京に戻ったところで昔住んでいた家屋敷は壊してしまった後だから、後の祭りである。
長明曰く「昔の優れた天子達は民衆を慈しあわれみ,世を救おうというのに今の時代の政治が如何に貧しくて情けないことか」

大飢饉
平安京に都を戻した翌年(1181年)養和の大飢饉が起こりその飢饉は2年続いた。春と夏には日照りが続き、秋と冬には大風が吹いた。洪水もおきた。作物は全く実らず、京の街路のそこここに餓死した無数の死体が転がっている。

大地震
養和の飢饉からさほど経たない頃、今度は凄まじい地震(マグニチュード7.4)が起きた。元暦の大地震(1185年)で、山は崩れ、河川をせき止め、津波が押し寄せて来た。平安京は多くの寺院や神社が建ち並んでいるが、ことごとく崩壊した。激しい揺れは間もなく収まったが、余震が3か月も続き生きた心地がしなかった。
地震の直後こそ平安京の人々はこの世が無常であること、儚い事を思い知らされ、煩悩もいくらか薄れたかのように思われたが、人の心は歳月が過ぎるとともに、もとに戻ってしまった。

 平清盛が太政大臣になったのが1167年でそれから10年後、1177年に大火事があり,これを境に次々に大災害が起こり、あれよあれよと言う間に平家は滅んでしまう。1180年には竜巻が起こり、その年に福原遷都し、また京都に戻り、その年に平清盛が亡くなる。1181年と1182年に養和の大飢饉が起こる。その翌年の1183年には平家は都落ちし、源義仲入京。1185年には壇ノ浦の合戦で平家は完全に滅亡する。

平家が治めていた時代、未曾有の天変地異が続き、人心が乱れに乱れていたことも、平家の滅亡を速めた。
翻って現在を見てみると、妙に方丈記の時代と相通じるところがある。想定外の地震,津波、竜巻、洪水という大災害が打ち続き、それに追い打ちをかけて原発事故という人災、更には政治が全く当てにならない。
このような大混乱の時代、昔は源氏が台頭し、平家に取って代わったように、リーダーシップをとって舵取りをするカリスマが現れるものであるが、それは橋下さん or 石原さん それともだれ?

「永遠のO」とコルベ神父

2011年12月21日 19:23

 
クリスマスに思う

もうじきクリスマスを迎える。クリスマスは多くの日本人にとってキリスト教的意義が薄れ、楽しむという商業的意味合が強くなっている。クリスマスを迎えるにあたり、少し「無私の愛、絶対の愛」を実際したコルベ神父の行動と百田尚樹著「永遠の0」を考えてみたい。

「永遠の0」を読んだのは夏前であった。何気無しに書店で手に取り、買って帰って読み始め、初めて0の意味を知った。始めの取っ付きは悪かったが、すぐに話の展開におやと思うようになり、そしてどんどん引き込まれて行った。
長崎に布教に来たこともあるコルベ神父がアウシュビッツ収容所で妻や子供がいるから死にたくないと泣き叫ぶポーランド人の身代わりに処刑を志願したのとこの小説の主人公の宮部が身代わりで特攻に志願したのとがだぶって、頭のなかでぐるぐると回っていた。
まず小説「永遠のO」
戦後60年経ち、戦争が忘れかけ始めたある夏の日、佐伯健太郎と姉、慶子は特攻で亡くなった祖父、宮部について調べるため、生き残った戦友たちを訪ね歩き、祖父がどんな人物だったかを知ろうとする。 そして次第に驚きの事実が明らかになってくる。
当時「お国のため、天皇陛下のために命を捧げる」ことが当然なこととされ、また戦争に疑問を持っていた若者でさえも家族のため、国のため、と軍の方針に逆らわずに命を投げ出していた異常な状況の中で、宮部は「私は死にたくない。絶対に死なない。生きて妻と娘のもとへ帰る。」と堂々と言い放ち、自分の部下にも「絶対に死んではいけない。」といつも言っていた。「俺は絶対に特攻に志願しない。妻に生きて帰ると約束したからだ」「今日まで戦ってきたのは死ぬためではない」「どんな過酷な戦争でも、生き残る確率がわずかでもあれば、必死で戦える。しかし必ず死ぬと決まった作戦はもはや作戦ではない」「お前が特攻で死んだところで、戦局は変わらない。しかし-お前が死ねば、お前の妻の人生は大きく変わる。」といつも言い続けていた。
そんな事を言う宮部は周囲では臆病者、卑怯者、非国民と罵られ、上層部からは疎んじられ、暴力を振るわれ、物腰柔らかな態度や話ぶりに、自分より下の階級の兵隊には馬鹿にされていた。しかし、一度ゼロ戦の操縦桿を握るとその飛行技術は神懸かり的で、何機もの敵戦闘機を撃墜した天才的な戦闘機パイロットであった。また戦闘にあっては異常なくらい用心深く、同僚達が相次いで撃墜される中で、激戦を唯一人生き残った。すべては「生きて妻のもと、子供のもとへ帰る」というただ一つの目的のため。何年間も過酷な戦いを続け、周囲の罵詈雑言にも耐えながら生きのびることに固執した宮部.しかし、最後は神風特攻隊に志願し敵空母艦へと体当たりしその命を終える。それは終戦の一週間前だった。彼は最後の最後に生き残れるチャンスを自ら捨てたことになる。 
宮部が戦死した後、宮部が託した外套をまとった大石(宮部が代わった特攻隊員で後に松乃と結婚し、2人の祖父となる)が宮部の妻だった松乃に会いに来た日を、松乃は回想する。「私は、宮部が生まれ変わって帰ってきたのだと思いました。」必ず松乃の元に帰ってくると約束をしたのに、終戦一週間前に大石の身代わりに特攻で散ってしまった宮部。
読み進めていてあれ程、生きて帰る事に執念を燃やしていた者が、身代わりになって特攻を志願するであろうかという大きな疑問が読み終えても解けなかった。読後半年経っても、その疑問は解けていない。ふと同じように身代わりでアウシュビッツ収容所で処刑されたコルベ神父を思い出した。
コルベ神父
コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は、ポーランド人のカトリック司祭。アウシュヴィッツ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなった事で知られ、「アウシュビッツの聖者」といわれる。コルベ神父(本名ライムンド・コルベ Rajmund Kolbe)は1894年1月8日に当時ロシア領であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた(Wikipedia)。
1907年に、ライムンドは兄のフランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、ロシアとオーストリア・ハンガリー帝国の国境を越えてルヴォフにあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学した。その後、ローマで哲学、神学、数学及び物理学を学んだ。1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、そして1919年には神学の博士号を聖ボナベントゥラ大学で取得した。
コルベ神父は当初、中国での宣教を考えていたが、日本へ布教活動に行くことになった。当時ローマに留学していた神学生里脇浅次郎(後の長崎教区大司教及び枢機卿)との関りによるものであった。里脇神学生は「中国は政情が不安定だから、しばらく日本で待機したらどうですか」と日本行きを勧め、長崎教区の早坂久之助司教宛てに紹介状を書いた。
1930(昭和5)年2月26日にポーランドを出発。同年4月24日、長崎に上陸。町はずれの山の斜面に修道院とルルドを開き、「無原罪の聖母の園」と名づけ、フランシスカン的な清貧生活を営みながら、聖母の騎士誌の発行と学園教育に専念した。
(現在、同敷地内に教育施設として聖母の騎士高等学校と幼稚園がある。)


1936(昭和11)年5月に長崎港からポーランドへ帰国しニエポカラノフ修道院の院長なったが、やがて第2次世界大戦が勃発し、ゲシュタポに4人の神父と共に逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所へ入れられた。
1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる。死にたくない」と叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベ神父は全く毅然としており、他の囚人を励ましていていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec)は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、当局はコルベを含む4人はまだ息があったため、病院付の元犯罪者であるボフを呼び寄せてフェノールを注射して殺害した。
1982年10月17日、マキシミリアノ・コルベ神父は、教皇ヨバネ・パウロ2世によって聖人の列に加えられた。教皇は彼のことをこう呼んでいる。「愛の殉教者」。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)コルベ神父は文字通りこの言葉を実行したのだ。彼は自分が身代わりとなることでひとりの命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選んだ。彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々の友であった。そして、彼の名は永遠に全世界の人々に記憶されることになった。彼に与えられた聖人の日は8月14日、聖母被昇天の前日である。
いずれにしても宮部にもコルベ神父にもなれそうも無い。この強い愛、力は何所から産まれるのであろうか?コルベ神父は宗教に基づく無私の愛である事は理解できるが、宮部の場合は?深く考えさせる一冊であった。
このクリスマスを機に「永遠のO」を読まれたらどうであろうか?またその本とコルベ神父に流れている何も求めない絶対の愛についてのコメントが頂ければ幸いである。

小説の書き出し

2010年12月10日 18:21

小説の冒頭

川端康成と夏目漱石

小説の書き出しは、これから起こるであろう出来事を暗示させ、小説の導入として重要である。
小説の冒頭部分が美しく洗練された文章の作家として思い浮かべるのが川端康成だ。まずは川端康成の有名なシーンから。

川端康成の文章でも特に美しいとして有名なのが中学校の教科書にも頻繁にでてくる? 雪国の冒頭と伊豆の踊り子の冒頭シーンであろう。

 雪国
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

文章が簡潔で、正確に表現するというよりは感覚的に、絵画的に語られ、一度読めばそのシーンが網膜に焼き付けられる名文である。

 伊豆の踊り子 
 道がつづら折りになって、いよいよ天 城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい速さ でふもとから私を追って来た。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり紺がすりの着物にはかまをはき、学生カ バンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に 出てから四日目のことだった。修善寺温 泉に一夜泊まり、湯ケ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って 来たのだった。重なり合った山々や原生 林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私 は一つの期待に胸をときめかして道を急 いでいるのだった。

小説のイントロダクションにふさわしい書き出しで、あたりの情景と自分の感情が入り交じり、今後の展開をほのめかすかのような書き出しになっている。イントロダクションはこうありたいものだとの教科書にふさわしい書き出し。

一方、漱石の書き出しは美しい情景ではなく、人物描写から始まる事が多い。
有名な坊ちゃんの冒頭では主人公の性格の説明から書き出している。

坊ちゃん
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

自分の性格を現すための出来事を最初に持って来て、後々の小説の展開の中心となる「短気でかたくなな江戸っ子気質」を暗示している。

それから
誰か慌たゞしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空から、ぶら下つてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覚めた。
 枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた。


 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。

のどかな日常の描写から書き出し、どのような展開になるのか予想させない。そこにあるのはすでに何かが起こった後の静なのか、これから何かが起ころうとする嵐の前の静けさなのか?

どんな小説家も導入部はそれなりに苦労して書いている。物語を展開するにあたって読者をどのように引き込んで興味を持たすかが小説家の力量だ。川端康成は主人公の周りの情景描写から入り、夏目漱石はありふれた日常から入る事が多い。

秋思賦

2010年11月29日 18:33

晩秋の夜に思う 2題


金木犀
秋の夜長、誰もいない深夜の街を散歩する。澄んだ冷気がほほにかかる。
月もない闇夜、外灯だけが浮かび上がる暗がりの小径をしばし歩く。

ふと立ち止まると、甘酸っぱい、金木犀のかほりが闇から漂ってくる。
どこにあるのかは定かではないが、たしかにかほりがその存在を主張している。
寝静まった深夜のしじま、熟した豊満なかほりが暗闇から忍び寄る。
見る者も嗅ぐ者もない深夜、かほりが真っ暗な闇夜を支配する。


幽愁
深い悲しみや嘆きに耐えられない時には、一人でじっと暗い小さな部屋で膝小僧を抱えて我慢するか、誰一人いない浜辺で、わんわんと泣き叫ぶしかありません。打ち寄せる波の音で泣き声がかき消されるまま、涙枯れるまで泣けばいいでしょう。無上に美しいはずの、夜光虫の蛍光も、満点の星の輝きも、遠くの漁り火も無機質な絵のよう、なぜ挽歌になってくれないのでしょう。

これら美しきものはみな命の輝きを彩り、失なわれし者には何の彩りも与えません。鈍色に光る海面。広がる闇夜。潮騒の音。ただひたすら時間の通り過ぎるのを待つだけ。泣きつかれるのを待つだけ。大切な人を失った者に残されたものには。




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