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大和古寺散策4-般若寺-

2012年08月14日 17:24

般若寺
般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂に位置する(Wikipedia)。高句麗僧慧灌(えかん)の創建と伝える古刹で、654年蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が孝徳天皇の病気平癒を祈願して伽藍を建立、さらに735年(天平7)に聖武天皇の勅命により行基)が堂塔を造営、鬼門鎮護の定額寺に定められた。

東大寺の近く、奈良坂を登った所に般若寺はあり、境内は草木がぼうぼうと茂り一見廃墟かと見まちがえるが、これがこのお寺の特長で、草花が乱雑に咲き誇る中にぽつんぽつんと本堂や楼門や石造13重の塔が点在する。訊ねたのが7月の初旬であったけど、すでにコスモスが見渡す限り咲き乱れ、風に揺れ、その向こうにお堂が佇んでいた。
野仏かと思われる石像が迎えてくれ(写真1)、コスモスが一面に咲いている(写真2)。国宝の楼門は街道に面して建てられているのだけど、その下を通って入る事は出来ない(写真3−5)。コスモス畑の向こうに本堂が見える(写真6−7)。石造の十三重塔もコスモスの中に立っている(写真8)。コスモス畑の彼方に楼門が見える(写真9)

整然と掃き清められ、よく整備された京都や鎌倉のお寺と違い、古い歴史ある大和の寺に相応しい情緒溢れるお寺である。決して荒れ果てているのではないけれど、広い荒れ野のコスモスの中に点在するお堂や仏塔という演出は長い苦難の歴史に耐えて残って来たお寺という感じを与えてくれる。東大寺に近いにも関わらず、訪れる人が少ない、穴場であり、季節外れにコスモスが咲き乱れ、その中に古びたお堂が調和して佇むさまは一見の価値がある。

古来、奈良と京を結ぶ交通路として京街道があったが奈良に入るのには木津を経て東部の奈良坂越,西部の歌姫越が利用された。奈良坂を下れば、般若寺があり、更に進むと東大寺転害門の前に出る。奈良山を挟んで般若寺と浄瑠璃寺があり、歩いて行ける近さにある。ここは東に行けば伊勢、南に下れば奈良に通じる古代の交通の要所であり、戦略的に重要な地であったため、多くの戦火をくぐり抜け、源平の戦いで、完全に全ての建物が焼失してしまった。鎌倉時代に入り石造十三重塔(重要文化財)が造営され、さらに叡尊(えいぞん)が本堂を再建、1267年(文永4)に文殊菩薩像を本尊として安置した。楼門は鎌倉時代の遺構で国宝である。
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長谷寺詣で

2012年03月24日 14:20

初瀬詣で

初瀬詣で(長谷寺詣で)は平安時代、貴族のみならず庶民にも人気が高く、長谷寺は多くの人々の信仰を集め、特に女性に人気のあるお寺だった。
長谷寺は奈良県桜井市にある真言宗豊山派総本山の寺で本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧侶の道明とされる。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、当寺は古くから「花の御寺」と称されていた。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学に登場し、その人気ぶりが偲ばれる。

「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
玉鬘は頭中将と夕顔の間に生まれた娘で、幼名は瑠璃君といった。母夕顔は頭中将の正妻に脅され姿を隠していた時に源氏と出逢い、逢瀬の途中に不慮の死を遂げる。しかし乳母たちにはそのことは知らされず、玉鬘は乳母に連れられて九州へと落ちる。そこで美しく成長し、土着の豪族大夫監の熱心な求愛を受けるが、これを拒んで都へ上京。そして「長谷寺参詣の途上で偶然にも夕顔の女房、右近と劇的な再会を果たしたのが、京から徒歩で4日目に泊まった椿市(つばいち、海柘榴市)であった。京から長谷寺まで約72キロの道のりで当時牛車で2日、女性の足で3-4日かかった。
その再会を契機に玉鬘は昔、母の夕顔に仕え、今は光源氏に仕えている右近の世話で源氏の邸宅・六条院に養女として引き取られる事となる。

 源氏物語での長谷寺詣ででの一文。
 前より行く水をば、初瀬川といふなりけり。
右近、
「ふたもとの 杉のたちどを たづねずは ふる川のべに 君をみましや」
うれしき瀬にもと聞こゆ。

玉鬘、
「初瀬川 はやくのことは 知らねども 今日の逢う瀬に 身さへながれぬ」
とうち泣きておはするさま、いとめやすし。

一方、紫式部となにかと張り合っていた清少納言も長谷寺に詣でて、「枕草子」に「辰の市・里の市・椿市、大和に数多ある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにやと心ことなり」と長谷寺の事を描写している。

長谷寺の古い参道(写真1)は、東の谷二本の杉辺りから椙(すぎ)坂を登ったけど、正面から本堂(写真3)へ登る道が開けたのは、第66代一条天皇の時(1千年頃)、勅願によって仁王門(写真2)が移築され、春日社の社司中臣信清が子(信近)の病気平癒を感謝し、回廊を建立してから、牛車で石段の下に乗り付け、「初瀬などに詣でて、局(つぼね)する程、くれ階(はし)のもとに車ひきよせ立てたるに、帯ばかりうちしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)と云ふものを履きて、いささかつつしみもなく、下り上るとて、・・・」と云い、坊さんがさっさと登廊(写真3、4)を上がり下りするのに驚き、彼女は手摺に掴まってゆるゆると登り、本堂(写真5、6、7)では灯明が沢山あがって、「仏のきらきら見え給へるは、いみじうたふとき・・・」と書いてる。本堂には清水寺と同じように舞台があり、境内が一望される。色鮮やかな五重の塔(写真8、9)もいい景色を醸し出している。

古今集の紀貫之の有名な歌も長谷寺詣ででの花の宿を訪れた際に作られた。
   人はいさ 心も知らず ふるさとは
   花ぞ昔の 香ににほひける
詞書に「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家の主人、「かく定かになむ宿りは在る」と言ひ出して侍りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める」とあり、昔は初瀬の長谷寺へお参りに行くたびに泊まっていた宿にしばらく行かなくなって、何年も後に訪れたら、宿の主人が「お宿は昔のままでございますというのに、あなたは心変わりされて、ずいぶんおいでにならなかったですね」と言った。そこで、その辺りの梅の枝をひとさし折ってこの歌を詠んだ。

と言う具合に長谷寺には当時の文化人達もこぞって訪れ、和歌や小説の題材に取り上げている。平安時代にはすでに街道が整い、宿場宿もにぎわっていた事がうかがわれる。
東京在住のものにとって長谷寺といえば鎌倉の大仏のあるお寺を思い浮かべる方も多いと思うが、鎌倉の長谷寺は奈良の長谷寺の僧侶が鎌倉で開いたとされる。
ボタンの寺として有名だけれど、桜の季節もまた格別、これから長い冬も終わりシーズンとなる。ぜひ一度訪れてみてはいかがであろうか?
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大和古寺散策(2)

2011年11月04日 18:25

秋篠寺と唐招提寺を訪ねて

秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされている。
「東塔・西塔」などを備えた伽藍規模の大寺院秋篠寺だったが、平安時代に兵火により、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は残念ながら今は偲ぶことができず静かな佇まいの寺院となっている。
秋篠寺の東門(写真1)を入ると境内へと続く細い道がある。その傍らには苔が植えられていて、緑の絨毯(写真2)となり、折からの陽が濃い緑の上に樹々の葉影を落とし、絵も言われぬ、美しさを醸し出している。境内は狭くこじんまりとしている。国宝の本堂(写真3)があり、堂内には本尊の薬師三尊像が中心に据えられてはいるが、なんと言ってもお堂の花形は技芸天立像。本堂に一列に並んでいる仏像の中で、左側に少し離れて置かれている。技芸天の「かすかな微笑とその肢体の妖婉さ」はずーと見ていても見飽きることがない。

 堀辰雄は大和路の中で秋篠寺と技芸天を次のように画いている。
「いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある技芸天の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい」。

唐招提寺
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基は鑑真である。井上靖の小説「天平の甍」で広く知られるようになった唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」として日本に招請された。遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は既に66歳になっていた。琉球を経て753年12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌年の2月、ようやく難波津に上陸した。その鑑真が開き、晩年を送った寺だけに、境内も広く伽藍も重厚で、どっしりとした佇まいを見せる。
唐招提寺と書かれた新しい石碑(写真4)の横の門を入ると広い境内が広がっている。天平時代に建てられたという金堂が正面(写真7)に見える。その背後にはこれまた天平時代に建てられた講堂(写真5、6)が建っている。境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、本願殿、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝、写真8)、新宝蔵、東塔跡などがある。本金堂内には9体の像が安置されている。中央に盧舎邦仏坐像と左右に千手観音立像と薬師如来立像の3尊仏が置かれ、更に回りに小振りの梵天・帝釈天、四天王像が置かれている。金堂には中央に本尊・廬舎那仏坐像が向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の大きな像が安置され、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像が置かれている。講堂の堂内には本尊弥勒如来坐像と、持国天、増長天立像が安置されている。

唐招提寺の境内には、松尾芭蕉が詠んだ句碑が立っている。芭蕉は貞享5年(1688年)の春に唐招提寺を訪れ、鑑真大和上像に拝し、「若葉して御目の雫拭はばや」(この柔らかい若葉で鑑真和上の見えなくなった目の涙を拭ってあげたい)を詠んだ。「笈の小文」には、「招提寺鑑真和上来朝の時、船中70余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹き入りて、終に御目盲(しい)させたまふ尊像を拝して」と記している。
堀辰雄も大和路の中で天平時代の雰囲気の色濃く残った唐招提寺について次のように記している。「いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木かな」という秋桜子の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢も楯もたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日がいっぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽やかさだ。此処こそは私達のギリシアだ。もう小一時間ばかりも松林のなかに寝そべって、そんなはかないことを考えていたが、僕は急に立ちあがり、金堂の石壇の上に登って、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたっている。そしてそこには殆ど色の褪めてしまった何かの花の大きな文様が五つ六つばかり妙にくっきりと浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはそのときがはじめてだった。いましがた松林の中からその日のあたっている扉のそのあたりになんだか綺麗な文様らしいものの浮き出ているのに気がつき、最初は自分の目のせいかと疑ったほどだった。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさわってみようとしかけて、ためらった。おかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であってくれればいいというような気もしていたのだ。そのうちそこの扉にさしていた日のかげがすうと立ち去った。それと一緒に、いままで鮮やかに見えていたそのいくつかの花文も目のまえで急にぼんやりと見えにくくなってしまった」。

天平時代を思わせる大伽藍を仰ぎ見つつ境内を散策すると、秋の夕べの暮れなずんだ藍色の空がみるみる墨色に変わり、ひんやりとした風が、人もまばらな境内の裏隅の小径(写真9)を吹き抜ける。ああここは鑑真和上が仏教普及のため命をかけてやって来た異境の地だ。

秋篠寺東門(写真1)、 苔むす庭(写真2)、 本堂(写真3)、唐招提寺石碑(写真4)、講堂(写真6、7)、金堂(写真5)、経堂(写真8)、境内の小径(写真9)
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大和古寺散策(1)

2011年10月06日 17:56

浄瑠璃寺と当麻寺を訊ねて

一向に秋の気配が見えない天候であったが、さすがに10月に入ると漸く涼しくなって、朝晩は一気に肌寒く感じられるこの頃である。気づかなかったが、身辺に秋がいつの間にか忍び寄り、深まっている事を思い知らせてくれる。
秋の澄み切った晴天の中、雑踏を抜け出しぶらりと古いお寺を訊ねて、ひと時心の洗濯をしてみませんか?

まずは浄瑠璃寺。浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」で取り上げられたことでも有名である。

秋の高い蒼天に映える柿のみがなる農家の間を抜け、数件の土産物屋のある参道を進むと小さな山門が見える。
農家の門のような構えで、浄瑠璃寺(写真1)と書いていなければこの向こうに有名な吉祥天女像を奉ったお寺があるとは想像できない。堀辰雄は「最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである」と書いている。その清楚に佇んでいる山門をくぐると、すぐに宝池に行き当たる。そこからは左手の小高い丘に3重の塔(写真2)が、池を隔てて右手に本堂(写真3)が見えてくる。京都や奈良の市街から遠いこともあり、境内は訪れる人もまばらで、田園風景の中に溶け込んでひっそりといく時代を過ごした景色が現れる。このお寺は堀辰雄が「浄瑠璃寺の春」で書いているように可憐な花をつける馬酔木が参道や境内に咲き乱れる春は圧巻であるが、熟した柿が空の蒼さに映える秋に訪れても都会の喧噪を忘れ、日常の事も忘れ、仕事のことも忘れ、心和むことであろう。
浄瑠璃寺の程近くに人の訪れない岩船寺(写真7)がある。小さなお寺で境内も狭く、3重の塔(写真8)以外見るものもないが、山裾にひっそりと佇む。

次に当麻寺。當(当)麻寺は、奈良県葛城市にある飛鳥時代創建の寺院。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。創建は白鳳時代に聖徳太子の弟・「麻呂子王」が創建した大阪河内の寺院を当麻の地に
移されたとのことである。「弥勒仏」、「本堂」、「東塔」、「西塔」、「当麻曼荼羅厨子」などの計七件の国宝指定物が
ある古刹だがお寺までのアクセスが悪いので訪れる人はまばらで、奈良では一番
自然に囲まれた静かな佇まいのお寺。


両側に土産物店のある参道を突き当たると、仁王門があり、左右に仁王像(写真9)が出迎える。この山門がなければ何所から敷地か分からないくらい開かれたお寺である。当麻寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、白鳳・天平様式の大伽藍を有し、「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」だそうだ。現在の當麻寺には、南を正面とする金堂・講堂と、東を正面とする本堂(写真10)が相接して建っている。これらの南方には東西2つの三重塔(写真11-12)が建つが、金堂と東西両塔の間には後世に中之坊、護念院などの子院が建っている。なんと言っても見所は奈良時代に建てられた西塔と東塔の2基の三重塔であろう。この境内を散策し、講堂の弥勒菩薩に対面し、本堂で当麻曼荼羅を見て、西南院の庭園から西塔を仰ぎ見れば、まさに極楽浄土。

写真 1)浄瑠璃寺山門 2)入り口から見た五重の塔 3)本堂 4)三重塔 5)秋空に生える紅い実 6)ススキ越しに見える三重塔 7)岩船寺 8)岩船寺の三重塔 9)当麻寺の仁王像 10)本堂 11)東塔 12)東塔と西塔 13)西南院 14)本堂遠景
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