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Steve Jobsの3つの格言

2015年01月13日 12:38

 アップルの創始者Steve Jobsが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行った名スピーチに遅ればせながら知る機会を得た。今までStay Hungry. Stay Foolish. はSteve Jobsが言った言葉だと思い込んでいた。スピーチによればそれはスチュアートブラウンと言う人の言葉らしい。

新年の始めに、感動的かつ納得させられるSteve Jobsの若者に向けた人生訓とも言える名スピーチを抜粋して紹介したい。
このスピーチは研究をやっている若い人のこれからの生き方、心構え、研究姿勢上で非常に役立つことと思う。

彼はスピーチの中で3つの話をしている。最初が「点と点を繋げる」という話で2番目が「愛と敗北」で3番目が「死」です。

1. Connecting the Dots 
人生においての様々な経験『点と点』が将来結びつく。

彼は未婚の母のもとで生まれ、直ぐに養子に出された。その時の条件が将来大学へ行かせることというものであった。その通り、彼は大学へ入ったけれど、半年で退学してしまった。そんな折り、キャンパス中に貼られている手書きの美しいカリグラフで彩られているポスターやラベルに引きつけられた。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義を学び、「ひげ飾り文字」、「文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方」を勉強し、何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得した。これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込んだ。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。
繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかないのです。

2. Love and Loss 
 探し続けること。立ち止まってはいけない。

共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。
最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。

3. Death
死は生命の最高の発明。生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す.あなたの 時間は限られている。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないこと。ドグマにとらわれてはいけない。他人の考えに溺れないこと。
 Stay Hungry. Stay Foolishに生きる。

 私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。しかし精密検査をしてみると、非常に稀な治療可能ながんだったのですが。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはずです。
私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。背表紙には早朝の田舎道の写真があり「Stay Hungry. Stay Foolish」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしいと思います。「Stay Hungry. Stay Foolish」

スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ www.nikkei.com より。
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ある科学者の死

2013年07月22日 18:32

猛暑の夏に思う
異常に暑い日が続き、それに追い打ちをかけるように局所的な豪雨が起こり、日本の気候が亜熱帯化してしまった感があります。そんな暑い一日、あがらえない運命の中で人は生きている事を思い起こさせるショックなニュースが飛び込んで来ました。
すでにTVでご存知の様に東京電力福島第一原発事故当時の所長、吉田昌郎さん(58)が7月9日、亡くなりました。メルトダウン事故で建屋が爆発し、極限状態の中で復旧の陣頭指揮を執り、官僚的な組織で凝り固まり、日本の将来、東北の将来、子供達の将来より自分達や東京電力の組織の保身のことしか考えない人が多い中で、原子炉を爆発させたら、東北が、日本が無くなるとの強い危機感を抱き、高い放射線、混乱の続く現場で不眠不休の活躍をし、東京の東電本店や首相官邸からの無理難題にも原子力の専門家として信念を持って対応し、原子炉の爆発をくい止めた。更に,その後は事態を収拾するため,現場の人たちと協力して最前線で、獅子奮迅の働きをした。しかし、病に倒れ、現場を離れなくてはいけなくなり、病院に入院し、治療の途中でついに帰らぬ人となってしまった。本人にとって道半ばにして逝かれた事は誠に無念であっただろうと推察される。運命の過酷さを思い知らされる暑い夜となった。
経緯を振り返って見ると、震災翌日の2011年3月12日、事故の拡大を食い止めるため、吉田さんは官邸にいた東電上層部の意向に反する行動をとる。地震や津波により原子炉の爆発が憂慮されるというのに首脳陣はまだその事態の深刻さに気づいていなかった。午後7時過ぎ、1号機の原子炉を冷却する淡水がなくなり、現場では海水の注入を始めた。直後、官邸に詰めていた武黒一郎フェローから吉田さんに電話が入った。「今官邸で検討中だから、海水注入を待ってほしい」。海水を注入すれば原子炉が2度と使えなくなる。この時点でも原子炉をどうにかしてまた使いたいという東電の思惑があった。本店とテレビ会議で対応を相談。本店側は中断もやむを得ないと判断したが、吉田さんは海水注入を止めれば事故が悪化すると考えた。担当者を呼んだ。「これから海水注入の中断を指示するが、絶対に注水をやめるな」とマイクに拾われないように小声で指示し、海水注入を続けた。この独断とも言える迅速な処置が原子炉の爆発を阻止した。
東電の上層部からはその不遜な態度に評判は必ずしも良くなかったが、親分肌の性格は部下や作業員や下請け業者からは慕われ、信頼は厚かった。
常に部下達の先頭に立って危険な作業の陣頭指揮をし、死を覚悟して原発事故の収拾に最善を尽くした。しかし運命とは皮肉な物で、惨事から8ヶ月あまり経った頃、食道癌が見つかり、療養で退任する事になった。更に悪い事にリハビリ療養中に脳出血を起こしてしまう。
58歳で永眠。彼の死は「人とは、人の生き様とは」をあらためて考えさせてくれたショックな出来事でした。人の命の儚さ、命を賭してでも自分の信念を貫き通さなければならないという思い。一人の科学者として懸命に生き、その生き様の壮烈さを教えられた。ご冥福を祈る。

神戸ゆかりの傑物:出光佐三

2012年12月06日 18:28

「海賊とよばれた男」 百田尚樹著

百田尚樹は「永遠の0」で直木賞を受賞してブレークし、「風の中のマリア」、「モンスター」、「影法師」とたて続けに作品を発表してきた新進気鋭、と言っても50過ぎの禿げたおっちゃん作家である。長年関西地区で人気のテレビ番組、探偵ナイトスクープの作家として活躍し、一部の人には名を知られていた。テレビ番組で広範な雑多なテーマを扱って来た経験を生かして小説を書いている。「永遠の0」で特攻隊を題材にしたかと思えば、スズメバチを扱った「風の中のマリア」では雌スズメバチを主人公に据えスズメバチの生態が描かれ、更に、「影法師」では江戸時代の硬直化した身分制度により、生まれ育った家柄が何ものにもまして優先される閉塞した社会で生きる下級武士の苦悩と友情を書いている。

今回「海賊とよばれた男」を書いた。
現在の混沌とした国難の時、時代を切り拓く人物が求められる。この小説で扱った人物はまさにその様な人物で、がんじがらめの規制や官僚の抵抗また圧倒的な力を持ち業界を牛耳って来たメジャーと戦って戦争で何もかも失い自由に石油を扱うことが出来なかった戦後、純国産の石油会社、出光興産を興した出光佐三をモデルにした伝記小説である。彼の信念は「どんな事があっても家族同様の社員の首を切ることは絶対にしない」で社員一丸になって困難を乗り越えて来た。

出光佐三は明治18年(1985年)福岡の宗像郡赤間村に生まれた。子供の頃は虚弱で強度の近眼でその上神経症だったため、世の中に伍して生きて行くためには教育を身につける事が必要だと本人は思っていた。そのため、中学へ進学したかったが、明治の時代小学校を出たら直ぐに働くことが当たり前であったこともあり、進学は父親に許されなかった。やむなく、父親には内緒でこっそりと仕事の合間に勉強をし、秘密で福岡商業を受験、合格した。

すると、父親はもはや進学に反対する事はなかった。福岡商業を卒業した後は更に、商業の最高学府である東京高等商業学校(現一橋大学)に進みたいと思っていた。日本で唯一の高商である東京高商は天下の難関校として知られており、入試も旧制中学校の履修科目にそっていたため、実業学校から進学するのはほぼ不可能だった。そんなおり、日本で二つめの高商として神戸高商が設立された。神戸高商は実業学校から優秀な生徒を集めたいと考え、実業学校卒業生にも門戸を開いていた。神戸高商の初代校長の水島鐡也は学生をまるで家族のように遇し、世話をした。彼の哲学は「士魂商才」で「商売は単なる金儲けだけではない」を教育しようとしていた。その考えは強く佐三の心を打った。しかし当時は日露戦争の戦勝気分でバブルになっていて、時の神戸商工会議所の会長も「商売は銭儲けにつきる」と金儲けに徹するべきだとの講演をしたが、反発するように「黄金の奴隷たる勿れ」との言葉が学生達の間に流行し、心を捕らえていた。佐三もこの言葉が好きで胸深く刻みこみ、生涯この言葉を忘れたことはなかった。

卒業後の進路について具体的な考えは無かったが、夏休み中東北を旅行中秋田の油田を見学する機会があり、石油がこれから石炭に変わってエネルギー源の中心となって、世界を一変させるのではという漠然たる予感を抱き、石油に関係する仕事につきたいと思っていた。

卒業後同級生のほとんどが大きな商社や銀行に就職したのに対し、佐三は神戸の小麦粉を扱う従業員3人の酒井商会の丁稚となり、大八車に小麦粉を乗せ、売り歩いた。同級生からは大いに馬鹿にされたが,初志貫徹し、2年後に独立して門司で自分の店を持った。そこで機械油の取り扱いを商売の中心に移した。しかし、機械油の販売はすでに大きな会社が独占をしており入り込める余地などまず無かった。門司や下関は港町である。港をボンヤリと眺めているとポンポン船と呼ばれる焼玉エンジンをつんだ船が多く行き通っていた。焼玉エンジンの燃料には灯油が使われていたが、成分上大差のない軽油でいいのであれば大幅な値下げが期待できるのではないかと思った。実際、焼玉エンジンは軽油でも遜色ない性能を発揮した。軽油を販売するとたちまちの内に多くの顧客がついたが特約店に絞られて門司以外で売ることに対して文句が出た。佐三はそれではと陸上ではなく海上での舟渡しで油を売り、たちまち市場を席巻し荒しまくったので海賊とよばれる様になった。これが小説のタイトルにも使われた。

それでも風当たりが強くなり、国内での商売に限界を感じた佐三は、満州に活路を見出すことにし、満鉄の列車の車軸油に目をつけた。それまで車軸油はスタンダード石油とテキサス石油という外資系の会社が独占していた。突破口を開いたのは、徹底した性能比較であった。満州は非常に寒く厳冬期には-20度を超える。外資系の油が低温に弱い事を予想し、低温でも凍らない油をブレンドして試験に持ち込んだ。案の定、外資系の油は亟寒の環境下で凍結したが佐三が持ち込んだ油はさらさらのままであった。これ以降満鉄の車軸油はすべて佐三の油に切り替えられ、満鉄が終焉する時まで使用された。

しかし事態は日本が戦争に敗れた事で一変する。また0からの出発である。敗戦国に自由となる石油などあるわけも無く、当分の間ラヂオの修理で社員を養っていた。世の中が落ち着き、石油の需要が出てくると統制下にあった石油の自由販売を目指して、業界、官僚、GHQとの戦いを始めた。業界や官僚は既得権を守るためには何でもやった。難癖をつけ無理難題をいい、全く理論も何もあったものではなかったが、以外にGHQ(米軍司令部)は理論上正しい事は認め、業界や官僚の何の理由もない反対には強く指導してくれた。

更に欧米の大きな石油会社(メジャー)に規制されず、自由に石油扱うため、日本で初のタンカーを建造し、アメリカのメジャーに属さない会社から原油を買いつけた。しかしすぐにメジャーが嗅ぎつけ、アメリカの石油は全く入らなくなった。つぎに佐三が目を付けたのはイランであった。イランはそれまでイギリスが支配していた石油の国有化に踏み切ったときであった。秘密裏にテヘランに飛び契約を交わした時、イランは出光なんていう会社を全く信用してていなかった。

その時の交渉の描写「我々は嘘をついたりごまかしたりする会社ではない」。正昭(長男)が言った。「しかし、会社というのは、利益の追求を第一に考えるところだろう。」「国岡商店(出光)はそんな会社ではない!」武知は激しい口調で言った。「今も国岡商店は日本国のことを考え、国際石油カルテルと必死で戦っている。メジャーと手を結べば楽に利益が出せるにもかかわず、決っして提携しないでいる。そして今も危険を冒して、こうしてイランにやってきているではないか。」と自分達の立場を堂々と述べている。

佐三はイランに向かって日章丸が神戸を出港するのを見送った。その時の文章。
イギリス海軍により、封鎖されている、イランアバダン港へ虎の子の日章丸を送り込む。日章丸が出港する日、神戸で出港を見送った。
「その日は素晴らしい快晴で、六甲の山並みが朝日を浴びて光っているのが見えた。岸壁には日章丸が静かにその巨体を浮かべていた。船橋の上には日章旗が燦然とはためいている。今からこの船がはるかアラビアまで旅するのだと思うと、鐡造(佐三)は武者震いした。不意に、酒井商店の丁稚として大八車を引き、神戸港に来た日の光景が脳裏に鮮明に甦った。あれは明治42年、23歳の春だった。港に並ぶ船を見ながら、いつかは自分も船を持って世界に打って出る夢を見た。そして今その時が来た。」


運良くイギリス海軍の待ち伏せをかい潜って日本に石油を運ぶことに成功する。しかしこの快挙も長続きしなかった。というのはアメリカのCIAが影で操ってあっけ無くクーデターが起こり、パレビー王朝が復活することとなる。またしも石油の供給先を奪われた出光であったが、今度はガルフ石油と手を結むというしたたかさを示す。

その後も様々な嫌がらせを物ともせず、石油の統制を試みる業界や官僚と戦う。執拗な嫌がらせの原因の一つは官僚や銀行からの天下りを一切採用しなかったことにある。全て純粋に出光興産で育ってきた社員が一致団結して事に当った。出勤に際して、タイムカードも無ければ出欠簿も無く、労働組合もない会社であった。
その後、佐三は石油を自由に扱える様に規制緩和を成し遂げ、出光興産を日本で2番目に大きな石油会社までに育て上げる。そして昭和43年95歳の長寿を全うして永眠する。まさに波瀾万丈、英雄的な生き様の一生であった。

出光佐三は侍の志を持った芯の通った明治の男で、金儲けのためだけの商売はけしてしなかった。権力に重ねず、圧力に屈せず、国のため、人のためという高い志を持った商売をした。しかもしたたかで、次々に生じる難問を諦めずフレキシブルに解決して行く能力はまさに卓越している。しかし佐三だけで無くここに出てくる佐三のまわりの人物は、大きな志をもった侍たちで、佐三と同じ価値観を持ち、同じ目的に情熱を持って向かって行った。会社が利益を得る事を目標とする組織を超え、魂で結ばれた組織になっていた。佐三への絶対的信頼は信義に劣ること、心に恥じる様なことはけしってしないという侍魂と、何よりもかれの根底に流れる人間としての暖かさから生まれたのであろう。

佐三がどんな事があっても社員の首を切らない事に対して、「多くの社員を抱えるとどうしようも無い者がいるだろう。そんな人物も首にしないのか」と尋ねたところ、佐三は会社員は家族と同じである。家族の中には一人くらいどうしようも無いものもいる。だからと言ってそんな子供を見捨てる事はできるか?そんな子供程、一生懸命世話するではないか。会社でもそんな人物程は特別に世話をすると答えている。

人を騙してでも金も受けしようとする人物、権力にはペコペコして寄らば大樹の陰で信念のない人物や面倒な事や紛争を嫌がり、国の事や世の中の事を考えない人物が多い、この混沌とした現在日本、まさに出光佐三の様な人物が求められる。 裸一貫からのし上がって成功した佐三の人並み外れた決断力と実行力には驚かされる。
ひ弱で引っ込み思案、事なかれ主義が横行する現在、佐三の様なスケールの大きいたくましい侍が必要とされる。 国難の折このような救世主は現れないものか? このような傑物は非常に稀であるが、いない訳ではあるまいと思うが。

伝記「スティーブ・ジョブズ」

2012年01月11日 18:01

スティーブ・ジョブズ
[Steve Jobs :The Exclusive Biography] by Walter Issacson 訳 井口耕二を読んで

  アップルコンピュターで有名なスティーブ ジョブズが昨年の10月5日に亡くなった。レオナルドダビンチに匹敵され、今世紀最大の科学技術革命を起こし芸術的センスもあったの巨星落つ。享年56歳という若さであった。

 話ではスティーブ ジョブズは傲慢で、鼻持ちならないくらいの自信家で暴君であったそうだが、apple computer という全く独創的なパソコンの仕組みを考え、更には世紀の大発明とも言える、iPod, iPhoneやiPadを開発した天才でもある。彼くらい個性が強く、独裁者でないとこのような画期的な発明は出来なかっただろうとは誰しも認める。ジョブズ自身、自分を特別な人間だと考えていた。選ばれた人間、悟りを開いた人間だと。近くにいれば、鼻持ちならぬ嫌な奴でも、世のため、人類のためには役立つ独創的な大発明をした。天才とはそんなものだろう。
 だれしも彼のやった事には最大の賞賛をするが、人間性には最悪の評価を下す。同僚だった2人の評価「他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいた。(ジェフ・ラスキン)」
 スティーブはまさに刺激的な存在だ。放漫で、暴虐で、激しく、無い物ねだりの完全主義者だ。彼はまた、未成熟で、かよわく、感じやすく、傷つきやすくもある。そして精力的で、構想力があり、カリスマ的で、さらにおおむねは強情で、譲らず、まったく我慢のならない男だ。(ジョン・スカリー)
 
  我々はまさにマッキントシュやマイクロソフトという、パーソナルコンピュターの開発の時代を生きて来た。
我々が研究を始めた頃はパソコンどころかワープロもなく、論文はタイプライターで打ち、修正がある場合は、打ち直すか修正インクで消して打ち直すということをやっていた。当然、データが保存できる訳でもなく、カーボン紙を挟んでコピーを取っておく程度であった。その当時のタイプライターの最上級はIBM社のもので、印字の型が丸い球形の表面にあり、自由に取り外せ、イタリックやギリシャ文字などにも対応していたが、価格が高く裕福な研究室にしかなかなかった。そのうちに、ワープロなるものが登場して来た。一番人気があったのはNECのもので、内容を保存でき、修正も可能であったが、欠点は今の様に画面上では操作できず、functionキーを使って改行や特殊な文字を打つ操作が必要だったことと、価格がその当時でも1000万くらいした事であろうか。しかし1980年半ば頃になると、日本でもapple IIが発売され、研究者達が好んで使った。何しろ、マウスを使って画面上で操作でき、フォントも様々なものが登場して、一気に論文作成が楽になった。しかし爆弾マークがでて、フリーズしてしまう事もしばしばあった。
ジョブズはApple社を立ちあげ、それまで専門家にしか扱えなかった、大きな会社などでのみ使用されていたコンピュターを素人に、個人で扱えるものとした。その結果、IBMなどの巨大な企業が独占的に製造していたコンピューターが小型化し日常誰でも使えるものとなった。その恩恵にまずあずかったのが我々研究者である。我々は文章を書くのと、図形の作成をする必要があった。文章のみでなく作図でもマッキントシュの優位性はジョブズの好敵手であるビルゲイツがウインドウを発売するまでは歴然とあった。

Steve Jobsが世紀の天才で大発明家である事には間違いない。彼はシリア人の男性とアメリカ人の女子学生の間の子として1955年に産まれるも、女子学生の父親が結婚を認めなかったため、ジョブズ夫妻に養子として育てられた。高校生になったジョブズは、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。容姿も性格も正反対の2人であったが、すぐに意気投合した。この2人の出会いが後のアップル設立のきっかけとなった。大学時代は彼はヒッピー思想や禅に心酔し、インドへ数ヶ月の放浪の旅にも出た。極端な菜食主義でもあった。リード大学へ進学したものの長続きせず、やめてパロアルトに帰り、ウオズとアップルコンピューターを設立する。ウォズは、アップルに注力するために、ヒューレット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始した。処理能力向上とディスプレー表示のカラー化、拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発した。
その経緯に関して本では「感動的な回路基板とそれを動かすソフトウエアは、個人の手によるものとして20世紀有数の発明だが、この歴史的偉業はウォズニアックの業績である。しかし、ウォズニアックのボードを電源やクールなケースと組み合わせ、フレンドリーなパッケージにまとめたのはジョブズである。ウォズニアックのマシンを中心に会社を興したのもジョブズである」と言っている。

ジョブズの最大の転機はゼロックスのパロアルト研究所(通称PARC)の見学を機に訪れる。PARCはマイクロソフトを興したビルゲーツにも決定的な影響を与えた。
1979年、ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件として、ジョブズの要請により当時ゼロックス管轄の研究所であったPARC見学が行われた。その際、ビットマップディスプレイ(文字や図形情報をコード化せずにドット(画素)に分解して画面のドット単位に表示・非表示が制御できるディスプレイ。)の存在を知った。かつては文字のみを表示するキャラクターディスプレイや、プロッタのようにベクタデータを直接表示するベクタディスプレイが存在したが、現在ではグラフィックと文字の両方を表示できるビットマップディスプレイが主流となっている。ゼロックスはこのビットマップディスプレイとマウスを前提とする「Altoというゼロックスのコンピュータ試作機」を作成し、現在行なわれているGUI(graphical user interface)をすでに実現していた。graphical user interfaceでは、コンピュータの画面上に、ウィンドウ、アイコン、ボタンといったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスをマウスなどのポインティングデバイスで選択する。

ジョブズがゼロックスのPARCで将来の開発方向を決定する事になったこの革新的技術に出会ったさいの感想を後に次のように言っている。
「デモには3つのポイントがあった。ひとつはコンピューターのネットワーク化、もう一つはオブジェクト指向プログラミングだった。しかし、ジョブズはこの2点には殆ど注意を払わなかった。3番目のポイント、GUIとピットマップスクリーンに心を奪われていたからだ。「あの時は目からうろこがぼろぼろ落ちたよ。そして、未来のコンピュターのあるべき姿が見えたんだ」。このアップルのゼロックスPARC見学は、往々にして業界史上最大の強盗事件だとされる。ジョブズは言う。ピカソも「優れた芸術家はまねる、偉大な芸術家は盗む」と言っています。我々は偉大なアイデアをどん欲に盗んできました。ゼロックスはコピー機にしか頭になく、コンピューターとはどういうものなのか、なにができるのかが分かっていなかった。だから、コンピューター業界の最大の勝利を目前に大敗を喫したんだ。いま、彼らがコンピューター業界の頂点に立っていてもおかしくなかったんだけどね」と。

一方、ビルゲイツ率いるマイクロソフトはDOSと呼ばれるオペレーテングシステムを開発し、IBMやIBM互換機にライセンスしていた。これは「C¥>----」のような画面にユーザーが対応しなければならない従来型コマンドラインインターフェースで使い勝手が悪かったため、マイクロソフトがマッキントシュのグラフィカルなアップローチを真似するのではないかとジョブズは心配していた。その予感通り、ゲイツも今後はGUIの時代になると信じていたし、ゼロックスPARCで開発された技術をアップルがコピーするなら自分たちもしても良いはずだと考えていた。そしてゲイツはウインドウやアイコンを持ちマウスが使えるGUIオペレーションシステム「ウインドウズ」を開発した。

その際、ジョブズはゲイツをなじって「おまえがしているのは盗みだ。信頼したというのにそれをいいことにちょろまかすのか」。ゲイツはちょっと甲高い声で伝説となる一言を投げ返す。「なんというか、ステーブ、この件にはいろいろな見方があると思います。我々の近所にゼロックスというお金持ちが住んでいて、そこのテレビを盗もうと私が忍び込んだら、あなたが盗んだ後だった。――むしろそういう話なのではないでしょうか」と。これにはジョブズも何も言えなかった。

発表された「Macintosh」は、当時存在したあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたものであり、再び時の人となった。しかし、本人の立ち居振舞いで敵ばかりになりアップルの役員達から社内でのすべての職を剥奪された。 しかし1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却することで復帰、1997年には、暫定CEOとなった。

2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後立て続けに革命的な技術革新と斬新な概念を持った新製品iPod・iPhone・iPadを販売する。iPodは携帯型デジタル音楽プレイヤーでその革新性はCDを用いないで直接本体の記憶装置に音楽を保存できるようにした事と音楽を直接ネットからダウンロードする方式を開発したことである。それによりSONYのウオークマンの牙城は一挙に崩れさってしまった。続いてタッチパネル方式のiPhoneやiPadを作りアップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させ、世界の頂点に立つ企業に押し上げた。その矢先、ジョブズの訃報を聞く事になる。

基本は禅から学んだと言われる、出来るだけ無駄なものを削ぎ落としシンプルな美を追求することと誰にでも簡単に使える製品を出すためには妥協を許さず、徹底的に最高なものを追及するに集約される。その思想はコンピュターやiPodなどの使い勝手の良さのみならず外形の美しさからも見てとれる。

ゼロックスはコンピュターの基本概念においては最も革新的なことを開発していたが、複写機市場を席巻していた大企業であったがため、とてつもない有望な芽が出ている事に気づかなかった。またSONYはiPod開発を一緒にやろうと持ちかけられていたが、ウオークマンでの成功に酔いしれていたためか、旧来の方式にとらわれてしまった。

大成功は人を保守化させ、企業が大きくなればなるほど組織は官僚化、硬直化する。これは人の世の性なのであろうか?日本人として残念なのは本来ならばSONYが開発していなければならなかった、iPod, iPadなどのユニークな製品開発で完全に遅れをとってしまったことだ。
SONYと言うやんちゃで自由な発想を持っていた子供が成長するに伴い、礼儀正しい、常識的な大人になってしまったということだろう。衣食足りて礼節を知るの通り、裕福になってStay hungry Stay foolishを実戦するのはいかに難しいか。







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