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日本初の幻のジェット戦闘機

2015年11月30日 12:57

ジェット機の開発競争

  先日、国産初のジェット旅客機、MRJ(Mitsubishi Regional Jet)が飛んだ勇姿を見て、感慨深く思った人は少なくないであろう。
しかし、国産初のジェット機は、すでに70年前の大戦末期に飛んでいた。

 先の大戦の戦闘機といえば、「風立ちぬ」の主人公でもあった三菱重工の堀越二郎設計の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が有名だが、日本が悪化した戦局の起死回生を図るため、密かにジェット機を製造していたことをご存知だろうか? その名は中島飛行機の特殊戦闘ジェット「橘花(きっか)」。

 戦局悪く、敗戦が濃厚になってきた1944年、戦局を打開するため、海軍は中島飛行機に今までのエンジンとは全く概念の異なる、ジェットエンジン推進の特殊飛行機「皇国2号兵器」の開発を指令した。

海軍の開発指示を受けた中島では、松村健一技師を主務とし、エンジンの開発には山田為治技師をあてて開発に取り組んだ。機体設計については比較的順調に進めることができたが、ジェットエンジンの開発は困難を極めた。開発を進めていた遠心式ターボジェットのTR10(後のネ10)は問題が多く、作業は一向に捗らなかった。

そこで、ドイツで開発されていたジェット機、メッサーシュミット Me 262のエンジン(BMW製エンジン「BMW003」)を使うことに方向転換した。日本側はMe 262の設計図を手に入れる代わりに、ドイツ側には哨戒艇用に日本が開発した小型ボートのデイーゼルエンジンの設計図を供与するという形で合意した。

しかしすでにその当時、制海権はアメリカを始めとする連合軍が握っていたため、秘密裏にドイツの占領下のフランスのツーロン港から、日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ。輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年末頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。
ドイツから得たMe 262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。

 中島飛行機が機体を、石川島重工業(現IHI) がエンジンを設計した。日本全土で敵機の空襲が本格化する中、工場を焼かれては設計室を移しながら、わずか1年弱で開発した。石川島のジェットエンジンは「ネ20」(ネは燃焼噴射推進装置の頭文字)。以前、陸軍や海軍が独自開発しようとしていたジェットエンジンに近いものがあった。

  本機の外観はMe 262に似ているが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、Me 262の後退翼と異なり、テーパー翼を採用するなど、上記のような事情により実際にはほとんど独自設計であった。

初飛行は広島に原子爆弾が落とされた1945年8月7日に千葉・木更津にある海軍の飛行場で、松根油(松から採った油)を含む低質油で行なわれ、12分間の飛行に成功する。これが日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。それから8日後に終戦を迎える。

 終戦前には数十機程度が量産状態に入っており、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。なお完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。
修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機はメリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。その説明文には最高速度696キロ・着陸速度148キロ・離陸滑走距離は500キロの爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートルと書かれている(Wikipedia) 。

  戦後、米国やソ連は、ドイツからロッケトやジェット戦闘機の技術を採り入れ、航空大国の地位を確立していく。日本はといえば、ロケットやジェット機どころか飛行機の製造そのものも禁止され、長いブランクに入る。そして1952年春、講和条約が締結し、やっと飛行機の製造ができるようになった。しかしこの間のブランクで飛行機製造技術の遺伝子の継承がされず、また一からのやり直しとなり、大きなハンデイになった。

 国産の輸送機、YS−11が作られ、初飛行したのは1962年であった。しかしこの時使用したエンジンはイギリス製ロールス・ロイス2660馬力ターボプロップの双発機で、国産エンジンではなかった。その後は、アメリカのボーイングの傘下でのエンジン製造や、国際共同開発でのターボファンエンジンの開発を一部行ってきた。

そしてやっと純国産のジェットエンジンを積む旅客機 MRJの開発にこぎつけ、初飛行が先日行われた。
また国産初の商業用ロケットの打ち上げにも成功し、長い道のりを経てやっと宇宙、航空産業の第一歩を乗り出すことができた。
今後、技術的にも経済的にも大きな波及効果の見込める宇宙、航空産業が発展し、日本お家芸の自動車に代わる日が来るのも遠くないことであろう。

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零戦の遺伝子

2012年08月28日 18:53

国産ステルス戦闘機「心神」
戦後国産ジェット戦闘機の製造は長い間、封印され、米国からの型落ち戦闘機を高い価格で押し付けられ続け、国産戦闘機を自主開発したいとする試みは米国によっていつも潰されて来た。
かって零戦という名機を作った遺伝子は日本から絶滅してしまったかと思われたが、名古屋の三菱重工を中心に脈々と受け継がれ、全く新しい概念によるステルス性国産戦闘機「心神」の開発に生かされようとしているーー春原剛 著「零の遺伝子」。

F35 Lightning
今年に入り、自衛隊の次期主力戦闘機(Fighter Experimental, FX)にF35Aライトニング(米ロッキードマーチン社が中心になり開発中の単発単座機、写真1)が選定された。一機あたりの機体価格は102億円で、28年度末までにまず4機分を正式契約した。最終的には合計42機を購入する計画で,国防省による米議会への報告では総額は8000億円と、一機の値段が190億円に跳ね上がっている。
このF35A ライトニングは第五世代の戦闘機と言われ、ステルス性、高運動性に優れているが価格は異常に高い。また最終的に量産型が未だ出来上がっておらず、正式な価格がいくらになるかは決まっていない。
スペックは全長15.7 m, 全幅10.67m, 全高4.328mで重量は何も掲載していない時13,290kgである。エンジンはP&W F135 1基で推力18,140 kg, 航続距離2,222 km, 最高速度1.5-1.8 マッハであるがなんといってもステルス性にその特長がある。

F22 Raptor
当初は、米ロッキードマーチン社で開発され、すでに米軍で運用されているF22ラプター(写真2)を次期主力戦闘機に採用したかったが、米国議会の許可が下りずに、F35ライトニングとなった。
現在米軍が配備している第五世代ステルス戦闘機F22は戦闘機同士が戦うdog fightにおいてfirst look, first shot, first kill能力において圧倒的優位性を持ち、目視は出来てもレーダーに映らないという高いステルス性を有す。またアフターバナーを使わなくても超音速飛行が可能で、更に、短距離離着陸可能という世界最強の戦闘機で、5機のF15に対してF22はたった1機で圧勝し、運動性能の高いF16に対しても圧倒的優位で無敗神話を作り上げている。レーダースクリーンに虫ぐらいの大きさにしか映らないF22の前では自衛隊が誇るF15と早期警戒管制機のチームプレイもお手上げであった。
F22は全長18.90m, 全幅13.56m, 全高5.09、重量19,700 kgで航続距離2963.2 kmでエンジンはF119-PW-100を2基搭載で、推力15,876 kgで最高速度マッハ2を出す。

なぜこのように圧倒的なF22でなく、F35になったのか?
F22は余りにもハイテクで秘密にしたい最新情報が詰まっていることや、これを日本の自衛隊が持つことに、中国が反対のロビー活動したため、米国議会で海外輸出が禁止されてしまったとも言われる。ただF22は1機あたり400億円にまで跳ね上がりそうな価格で、米国でさえ、当初750機生産予定が米国議会の激しい抵抗で183機に抑制されてしまった。F22の開発費は約3兆円とされ、新たに開発を進めている次期戦闘機候補のF35の開発費は4兆円にも達する。

ステルス性
第五世代の戦闘機の特長はなんといってもステルス性能の高さである。一般にレーダーの特性は対象物に電波を飛ばし、そのぶつかって返ってくる電波を受けて、対象物の方向や距離を知るところにある。レーダーに察知されないステルス性能を上げるには、この跳ね返りの電波を如何に素直に返さないかにつきる。ドップラー効果を利用して対象物の位置を探知、確認するレーダーの裏をかくには反射する電波を少なくする、あるいは散乱させればいい。そのため、機体表面に多面性を持つ構造を作り電波を散乱させたり、特殊なコーテイングをして電波反射を少なくする。最大の電波反射源はエンジンだとされる。敵レーダーが発する電波をいかにエンジンまで届かせないかが最大の問題となる。F22ではエンジン用のエアーインテイクは極力小さくし、レーダー波がエアーダクト内侵入しにくくし、内部構造も2度のクランクを持つ凸状にして電波の通り道を2度に渡って遮断している。このような複雑な構造をつくるため、どうしても重量が増してしまい、エンジンは馬鹿でかいものを積む必要がある。F22は凸構造が縦置きになっており、F35は横置きになっている。

国産戦闘機(心神)の開発
第五世代の国産戦闘機を製造するに際し、そのステルス性能を考えた場合、どうしてもエンジンの大型化が避けられない。ステルス性能の向上には内部に凸凹の曲がり形状を持つ複雑なエアーダクト構造を採用する必要があり、F22などは双発のエンジン各々が15,000 kg以上の出力を持つのに、現時点で開発された実証機に搭載するXF5はたったの5,000 kgであり、この出力で複雑なエアーダクト構造を採用すれば,飛行中にエンスト状態に陥るおそれがある。実証機を経て日の丸ステルス戦闘機を開発するには、大型のエンジンの開発から始めなければならない。
計画ではジェットエンジンとしてXF5(IHI, XF5-1アフターバーナー, 推力5,000 kg)を2基搭載し、重量13t, 全長14,174 m, 全幅9,099 m, 全高4.514 mとF22やF35と比較してかなり小ぶりであるがマッハ2をだせる。この点も零戦の遺伝子を継承しているのかもしれない。

日本の国産戦闘機を語る際、エンジンの悲劇は常に影のようにつきまとっている。日本が誇る零戦は出力1,000馬力未満の栄エンジンという弱点を抱えていた事は有名だ。零戦は極限まで軽量化が行われ、運動性能がすぐれ、ドックファイトに強い玄人好みの戦闘機であったが、エンジン出力が弱く新たに装備を充実させる余裕が無かったのに対し、零戦に対抗するために作られたグラマン社製のヘルキャットは2,000馬力のエンジンが積まれ、不格好ではあるが余裕を持って装備がなされ、固い鋼鉄で守られた操縦席という安全で使い勝手の良い戦闘機であった。

かって次期支援戦闘機(FSX, Fighter supporter-X)開発の際に日本が泣く泣く「日米共同開発」を飲まされた背景に、国産のジェットエンジンが無く、「どうしても自主開発に固執するのならエンジンは供与しない」と言われた。このため、国産実証機「心神」の開発に携わっていたエンジニアの中には「本当に日の丸ステルス機を開発したいのなら本格的な国産エンジン開発にまで踏み込まなければならないという声が根強くあった。にもかかわらず日本ではF22並みに13トンから15トン前後の大型エンジンの開発には二の足をふみ続けてきた。その大きな理由に大型エンジンの開発には莫大な経費が必要で、費用対効果の面からも躊躇され、米軍から供与を受けた方がいいとする意見も多く、今まで開発されないで来た。実際3−4兆円にも及ぶ予算を一つの戦闘機開発にあてる余力は今の日本には無い。

しかしながら零戦を開発した遺伝子は脈々と三菱重工や防衛省の一部のエンジニアにより引き継がれ、安上がりしかし小型高性能機の開発を目指し防衛省は「次世代ハイパワー、スリムエンジン」という開発コンセプトを明らかにし、国産エンジンの開発に乗り出そうとしている。

そのエンジンの特長として①世界最高レベルの温度レベルの耐熱材料である鍛造デイスク材を使った高圧タービンデイスク②世界最高温度レベルの耐熱材料である単結晶材を使った高圧タービン翼③日本でのみ製造可能な素材を使った耐熱セラミック材を使ったエンジンノズルの三要素を列記している。これらを組み合わせる事で世界に類を見ない高性能エンジンを目指すとした。しかしこのエンジンを搭載した実証機(写真3)の実現は東北大震災による津波で松島基地に置かれていた18機のF2が水没したため、その修復が終了する5年後となってしまっている。

いずれにしても、零戦を開発した遺伝子「軽量かつ運動性能が抜群で、フォルムの美しい」を継承する国産戦闘機「心神」の開発が行なわれようとしている。裾野の広い航空産業における「心神」の開発は、産業界への波及効果が非常に大きく技術立国日本の復活に一役買うことであろう。


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技術革新競争の勝者が生き残る

2012年02月27日 17:47

 第2次世界大戦のレーダーの開発競争に学ぶ


一つの発明が大きく時代を変えると、常々言ってきたが、激しい開発競争は戦時下では平時よりも一段と加速され、勝敗の決定的要因に成る事もある。第2次世界大戦にあって、レーダーの開発は戦局を作用する発明の一つと言っていいだろう。

 熾烈なレーダー技術開発競争

 電磁波を利用して航空機や船舶を探知するレーダー技術はいくつかの国で秘密裏に研究開発が行われていた。世界で一番早かったのは英国での開発で、終始英国が開発競争のトップに立ち続け、これが後に言われるBattle of Britain での英国本土へのドイツ空軍戦闘機、爆撃機来襲への迎撃で優位たて、ドイツ軍に英国侵攻を諦めさせた大きな理由である。レーダーには大きく分けて、地上用の敵機の襲来を察知するための警戒レーダーと敵機への射撃を誘導する迎撃レーダーと機上用レーダーがある。

地上用警戒レーダー
英国のレーダー技術はドイツ空軍の空襲を察知するために1934年から行われるようになり、1935年には本格研究が始まり、秋には早期警戒基地が完成した。レーダー基地が1939年までに英国東沿岸全域に作られ、レーダー網を完成させ、Battle of Britainで防空作戦に大きく寄与することとなった。戦争勃発時には20の監視所の鎖、チェーンホーム(CH)ステーションが完成した。CHは背の高い送信用と受信用の塔型アンテナを持ち、高度・機数の推測も可能で、凡そ160kmの探知距離をもっていた。またチェーンホーム・ロー(CHL)は、高度1.5km以下で飛来する機影を専門に探知するためのものであった。この技術は1940年に米国に伝えられ、日本との太平洋を挟んでの戦争で、米国の勝利にも大きく貢献した。

 一方、ドイツはレーダー技術で遅れをとったが、開戦時に地上用警戒レーダー「フライア」が実用化されていた。ゲマ社製のフライアは回転式で小型であることはCHよりも進んでいたが、探知距離は最大120kmと短かった。
一方、地上用迎撃レーダー「ヴュルツブルク」は1940年に入って量産に入った。1940年5月、エッセンに直径3mの皿型リフレクターを有するヴュルツブルクが、初めて据え付けられ、その威力を知ったドイツ軍は、よりシステマチックなレーダー迎撃システムの構築に着手した。完成したシステムを「ヒンメルベット」といった。42年春からはより高性能のヒンメルベットが開発された。迎撃レーダーヴュルツブルクは、リフレクターを直径3mから7.6mに伸ばした「ヴュルツブルク・リーゼ」に変わり、探知距離も70kmに伸びた。
フライアも世代交代し、アンテナを横に伸ばしたFuMo51「マムート」に代わった。これは最大索敵距離300kmであった。さらに、新警戒レーダーFuMG402「ヴァッセルマン」が配備された。最大探索距離190km。これは第二次世界大戦最良の警戒レーダーと言われたが、すでに時遅しであった。

 機上レーダー

 機上用レーダーでもイギリスは進んでいた。AI(空中邀撃)兵器と呼ばれ、機上用迎撃レーダーAI?型が1939年7月からブレニムに搭載された。イギリスの、より小型化された機上用迎撃レーダーAIIVは、探知距離240mから6.4kmに改良されていた。
 一方ドイツでは、機上用レーダーとしては不完全な電波高度計「リヒテンシュタインB」が実用化しようとしていた。本格的機上レーダーは1941年7月に完成したFuG202「リヒテンシュタインBC」が最初であった。しかし、これでも旧式化していた英国の機上用迎撃レーダーAIIVより劣っていた。
この頃になると英独両軍で、サーチライトは不必要なものになりつつあった。

 地上表示レーダー(地上のレーダー表示 画面上に航空機の識別、高度並びに緊急事態の発生等を表示するレーダー)H2Sは1943年1月30日から使用されたが、早くも1943年2月2日のケルン夜間爆撃の折り墜落した英パスファインダー機「スターリング」の機内からH2Sが発見された。これはベルリンのテレフンケン社に送られた。H2Sは波長10cm以下のマイクロ波を用い、PPI(平面位置表示器)に映し出す方式で、ドイツ技術者を驚かせた。直ぐに、H2Sの機上用逆探「ナクソス」と、地上用逆探「コーフー」が開発されることになった。だが、3月1日のベルリン空襲でテレフンケン社工場の被災でH2Sも破壊されてしまった。ところが、このとき改良型H2Sを積んだハリファックスが墜落し、最新のH2Sがドイツ軍の手に渡ってしまった。それを参考にドイツの機上用レーダーリヒテンシュタインBCも改良され、索敵角度も70°に広がった。ヒンメルベット運用にもなれ、43年7月にはリヒテンシュタインBCの普及率は80%に達した。

ウインドウ

 レーダーが発達し、それを使った戦闘が有効だとなると、レーダー技術を無効にする技術が登場する。
ドイツ軍は、1943年7月24日、791機の大編隊によるハンブルク爆撃で突然、ウィンドウを使用された。「ウインドウ」とはレーダーをかく乱するために撒かれたアルミ箔のことでイギリスによってドイツの捜索レーダー「フライア」、射撃管制用測距レーダー「ウルツブルグ」や航空機用機上レーダー「リヒテンシュタイン」を妨害するために開発された。夜間爆撃では電波妨害装置と共に使用されてドイツ軍の高射砲や迎撃機の回避に大きな成果を上げた。
この頃になると、ドイツは完全に制空権を連合国に握られ、それを取り戻すためゲーリング元帥は、飛行機の生産重点機種を戦闘機にするよう航空次官のエルハルト・ミルヒに指示、更にミルヒも「ウィンドウ」の影響を受けないレーダーの開発を、電波兵器メーカーに要望した。(ミルヒは大戦後、軍を離れてからルフトハンザの社長まで上り詰めた人物)その結果、開発されたのが、「ヴュルツラウス」で、ドップラー効果を応用して高速で移動する飛行機と、いったん散布されれば動きがごく緩慢になる「ウィンドウ」とを区別し、前者だけをスコープに映す仕組みで、もう1つは「ニュルンベルク」と云い、機体および「ウィンドウ」に当たって戻る両反射波の差を音で表現する装置だった。

 機上用には90MHz(3.3m)の長周波数を用い、電子妨害の影響を受けにくいFuG 220 リヒテンシュタイン SN-2を配備し始めた。しかし非常に巨大化した4本のアンテナ支柱が機首を占領し、さらに各アンテナ支柱に4つのダイポールアンテナを備えていたために、ヒルシュゲヴァイ(牡鹿の角)と呼ばれた。これは周波数3段切り替え式でウィンドウを無効にできた。索敵範囲も左右120°、上下100°と広く、最大探知距離は4kmであった。

 更に、イギリス空軍爆撃機に装備されたH2S地形表示レーダーの電波に感応するテンフケン社FuG 350 ナクソスZと、ドイツ夜間戦闘機の接近を知る「モニカ」後方警戒装置の電波を捕らえるジーメンス社FuG 227 フレンスブルクが、それぞれ実用段階に達した。両方とも敵の発した電波を捕らえる電波探知装置(ホーマー)で、相手の電波を逆手にとって敵を見つける装置だった。

 ツァーメ・ザウ

 44年夏には、新警戒レーダーFuMG404「アークトシュロス」が登場し、ツァーメ・ザウを支援した。「ツァーメ・ザウ」はレーダーで捕捉した敵機の群に対し偵察機が接近。敵機の大編隊に張り付き、その動向を常に連絡。 その情報を元に敵機を迎撃する戦法である。暗い夜間戦闘と違いレーダー網から抜けた敵機や、「ウィンドゥ」によってレーダーが攪乱された場合にも正確に接敵でき各所に配置された迎撃機が次々に襲いかかれるメリットがあった。こうした「ツァーメ・ザウ」戦法は以後、夜間航空団(NJG)の主戦法になり、敗戦に至るまで継続して用いられた。


 日本でのレーダー開発

日本は、理論的研究では遅れをとってはいなかった。イギリスが捜索レーダーに用いた指向性アンテナは昭和10年に八木秀次博士が開発した八木式空中線だった。日本では全く反響が無く学会からも無視された。しかし欧米では大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを使用する短波帯の「CHレーダー」により、複数地点より観測して目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した。八木アンテナは戦後主に家庭のテレビアンテナなどとして広く使用された。


海軍の電波兵器

艦載のレーダーは、要求される生産数の少なさと、大型化しても問題ないことから、比較的はやく実用化した。
対水上艦艇用レーダーは、対空用と違ってビームの発射角度が浅く、海面や波、島の乱反射の問題がある。
これには波長の長いメートル波ではだめで、マイクロ波レーダーが必要になる。海軍はマイクロ波の研究がはやかったので、艦載の射撃用電探試作品2号2型はミッドウェイ海戦で戦艦日向に付けられていた。 この22号は、波長10cm。実用性は低かった。3号2型射撃用レーダーは22号と同じ波長10cmを使用し、尖端出力2kw(合衆国のマーク8型射撃用レーダーはその8倍の出力)、30kmの探知距離を誇った。だが、このレーダーは5トンと、22号の3倍も重かった。このためもあって、1942年8月にはドイツの新型「ウルツブルグ・レーダー」の入手を計画して伊号第三〇潜水艦で輸入を試みたが、シンガポールで機雷に接触して沈没した。
日本海軍がレーダー開発でもたもたしている内、アメリカ海軍は、サボ島沖海戦やビラ・スタンモーア夜戦で、レーダーを活用して日本海軍を相手に勝利をおさめた。補給路を脅かす潜水艦に対してもレーダーは有効に働き、連合軍の海上輸送路の防衛に大きな役割を果たした。

機上用レーダー兵器

 飛行機に積むレーダーは小型化が求められる。飛行機用捜索レーダーの実用化も海軍の方がはやく、昭和17年5月には97式飛行艇に積んで実験が行われた。8月には改良型が仕上がり、略称H-6と言われた。H-6の重量は110kg、波長2mで最大探知距離は対船団で100km、対飛行機で70km、浮上潜水艦は20~30kmであった。
飛行艇や艦攻にまで用いられ、昭和18年の生産台数は300台だった。陸軍は、重爆撃機用電波警戒機タキ1号の試作品を昭和18年3月に完成した。タキ1号は対艦船用のものは重量150kgで、波長1.5m、最大探知距離は大型艦で100km、浮上潜水艦は20kmだった。
 機載邀撃レーダーは、海軍は昭和18年夏から機上射撃用電探として開発に着手、陸軍も同年4月から機上電波測定機の名で研究をはじめた。しかし偏狭なセクショナリズムに邪魔されて、両軍の邀撃レーダーはFD-2(18試空6号無線電信機)、タキ2号として実用化され、一部の夜戦に搭載された。

地上の電波兵器

海軍は昭和16年秋から「射撃用電波探信儀」として、陸軍は17年初めから「電波標定機」として研究をはじめていた。だが、合衆国やイギリスの電探のほうが遥かに高性能だったので、合衆国の邀撃レーダーSCR-268をコピーして「電波標定機III型(タチ3号)」が陸軍の手で昭和18年11月に完成された。海軍の4号1型射撃用電探の配備は18年8月からで、陸軍のタチ3号、4号ともメートル波を使っていた。それぞれ対編隊の最大探知距離は40km、測距精度±100mであった。

戦局の悪化で本土防空戦が始まり、高性能な対空レーダーも必要とされたが、当時の日本軍のレーダーは「電波警戒機甲型」という名称のドップラー・レーダーで探知性能は極めて低かった。本土防空用に早期警戒システムを整備したり、レーダー搭載の夜間戦闘機も開発したが、情報を管理するシステムに問題があり、戦闘機の数自体も不足していたため、終戦まで有効に機能することはなかった。ドイツのヴュルツブルクのコピーを製作中に終戦を迎えた。

 何故日本ではレーダーの開発が出来なかったか?

 八木博士が指向性の高いアンテナを開発していたにもかかわらず、実用的なレーダーの開発が出来なかった理由として。
 一つ目は日本の軍部を含めた政府全体の開発体制の不備、セクショナリズムである。
第2次世界大戦時、日本のレーダー開発は3つの組織が携わっていた。海軍、陸軍、そして政府(技術院)である。 終戦までにレーダー開発に軍部は一定の成果を収めたが、技術院を始めとする政府系開発機関は、全く成果を生むことなく敗戦を迎えた。
 二つ目は、より難しいマイクロ波レーダーの開発を進めた事である。当時から、波長の短い電波を用いたPPIスコープ(マイクロ波レーダー)が波長の長い電波を用いたオシロスコープ(デカメートル波レーダー)より勝っている事実は、日本海軍の軍人達も百も承知であり、これの開発を望んだのである。問題は、それを早期実現できる可能性を楽観視していた点にある。
 当たり前の話であるが、レーダー開発では電波の波長が短ければ短いほど、クリアすべき技術的な課題が多くなる。ドイツ軍や日本陸軍は、極めて短い波長のマイクロ波レーダー開発に手を出さず、(ドイツ軍は波長50センチ以下のレーダーを新型真空管マグネトロンを、撃墜したイギリス空軍爆撃機から鹵獲してから開発開始)アメリカでさえマイクロ波レーダーの自力開発が出来ず、イギリスからの技術供与(新型真空管マグネトロンの供与)によって何とか開発できた。
 三つ目は、海軍中央は八木アンテナやレーダーの効果よりも、自ら電波を出して敵に発見される危険性の方を重視したため、開発には消極的であった。また第二次世界大戦の最初期では、まだレーダーはそれほどの性能を持たなかったため、戦局は日本が優位に進められた。しかし、時代が進みレーダーの性能が加速度的に進化した結果、レーダーを用いた戦術の威力が増し、日本軍は多くの戦いでアメリカ軍に苦汁を飲まされる事となった。
四つ目がレアメタルの不足である。 第2次世界大戦時の日本が生産した真空管は、非常に信頼性が低かったことは知られているが、これの原因が銅の不足にある。真空管のリード線は銅を用いるが、銅の代用品として、鉄線を用いていた。本体の銅に鉄線をハンダ付けするが、その際に酸を使用するため、腐食して切れてしまう。
 さらに日本海軍の使用する真空管は、ガラス真空管を主用した陸軍と異なり、全て金属真空管だったため、ニッケルやコバルトの不足が直撃し、容易ならざる事態に追い込まれた。

 いずれにしても最大の敗因は開発初期のレーダーが実用にならなかったため、その将来的な重要性を見極め、新しい芽を育てようとする眼力のある優秀な技術者が日本にいなかったことであろう。

 近年の会社の興亡を見ていると、ものすごい勢いで技術革新が行なわれ、その波にうまく乗れたものは隆盛を極め、その波を掴み損ねると転落していくという傾向が顕著である。その例として、今までに何度もあげて来たのが、勝ち組としてはアップルやサムソンや富士フイルム。一方の負け組はSonyやコダックや多くの日本の家電メーカー。多くの場合、負け組は大発見の萌芽を見落とした、又はなめて対応しなかった。勝ち組はその芽が将来大きな樹になると予想して手をうって来た。
 ある会社が新製品をだせば短期間の間に、それを凌ぐ製品が競合相手から出され、それを受けてまたそれに勝る製品の開発とめまぐるしい競争である。どのように優秀な製品(飛行機、兵器)を開発したとしても、それに取って代わるものが必ず開発されるのが世の常である。新しい芽を積極的に育てるとともに、どんな勝者であっても常に、変化し続けなければ勝者の地位を守るのは難しい。


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