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青春

2008年04月30日 11:21

青春と喪失

この一週間「喪失」という言葉が胸の底に残滓のように引っかかっている。
青が散るの主人公「燎平」は青春を、愚直に、潔癖に、他人を思いやり、王道を生き、何も喪わなかった。周囲の友は、自分をさらけ出し、素直に、自由に生き、様々失敗を重ね、何ものかを喪ってきた。しかしなにも喪わなかった自分が一番大切な何かを喪ったと言っている。この何かは「青春という何ものにも縛られず自由に向こう見ずに挑戦する心」で若者らしく様々な経験や失敗をしてのみ学ぶことの出来るある力、逞しさだと考えられる。一方、他人を思い、王道を歩み、自分の思いをぶっつけてこなかった燎平は、その結果奥に秘められている何らかの生きる力を得ることを喪った。と言いたかったのではないかと思う。英国の詩人ワーズワースの草原の輝きの詩のなかにも同じような言葉がある。

 青春は2度と帰ってこないけど、青春の時に起こした失敗や過ちを通して何か力を得ているので青春を喪って嘆くことはないと。
イギリスの詩人 「ワーズワースの草原の輝き」という詩の一節
草原の輝き、花の栄光
それは再び帰らずともなげくなかれ
その奥に秘められたる力を見いだすべし
        SPLENDOR  IN  THE  GRASS
Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind.
              William Wordsworth

振り返ってみて自分はどうであったか。青春の甘さのみを享受し、成功もしなければ大きな失敗もせず、臆病に過ごしてきた。そのため力も逞しさも得ることができず、少年のままで大人になりきれてない。いまだに、青春のころの夢見る文学少年を引きずっている気がする。それが全てが中途半端に終わってしまった人生の原因かもしれない。
写真は我が家のsuperpenpenとクマ達。

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細雪探訪

2008年04月28日 19:17

細雪と神戸

神戸ゆかりの文豪と言えば、阪急蘆屋川に住んで(昭和11年―昭和18年)文筆活動をしていた谷崎潤一郎を挙げない訳にはいかない。彼の代表作としては細雪が第一に思い浮かぶ。彼の作品には「痴人の愛」「卍」「鍵」「瘋癲老人日記」など日本女性の美を追求した耽美主義的な作品、特に女性の足に対してのフェチシズム溢れる作品が多いが、細雪は戦時中に書かれたせいか、旧家の結婚前の女性の心境と日常を扱い、耽美に流れ過ぎるということはない点、読者にも受け入れ易い。
細雪は没落しかかった船場の旧家、蒔岡家の美人3人姉妹である幸子、雪子、妙子の日常が画かれている。この3人姉妹は3番目の妻である松子の3姉妹をモデルとして書かれ、大戦の窮屈な社会や生活はこの小説の趣旨に反するのか、彼の美意識に反するのか、触れられず、日常の生活が生き生きと語られている。細雪は戦時中に中央公論に連載されたが、軍部の検閲で発禁処分とされる。それにも関わらず書き続け、戦後に出版されるという経緯をたどる。暗鬱たる白黒の時代に極彩色の絵画のような作にこだわったのは、その時代に抵抗したかのようにも思える。彼の繊細な感性の一方、剛胆さもかいま見ることが出来る。
この小説は戦前の日本の旧家の結婚前の女性の退屈な生活を題材とし、それを溌剌たる芸術にまで高めているとサイデンステッカーは言っている。日常の生活の中で行なわれていた、花見、蛍狩りなど、様々な行事を画き、ひと昔の日本には四季を楽しみ、折々の芝居や映画、絵画や音楽を楽しむ余裕があったのだと感じさせられる。この小説はまさに滅び行く日本美の挽歌だともいえる。

 細雪探索
  曇天の春の日曜の遅い朝。阪急電車に乗り芦屋川で降りる。駅を山の手側に出るとすぐに芦屋川に突き当たる。川沿いを少し上がったところの橋を渡り、少し戻った道路の川の反対側にひっそりと[細雪]とかかれた石碑が建っている。この石碑は松子夫人によって書かれたもので、力強いが女性的な優美さを持った筆致である。小説の中の重要なシーンとして花見、蛍狩りと並んで芦屋川の氾濫によって起こった阪神大水害が画かれる。芦屋川決壊跡地もここで、忘れ去られたように決壊の地の石碑が川縁に佇んでいる。芦屋川は桜も散り、新緑の衣をきた木の枝が洪水など想像できない水量の川面に張り出し、のどかな春の一日を醸し出していた。「幸子の家から芦屋川の停留所までは七八丁というところなので、今日のように急ぐ時は自動車を走らせることもあり、また散歩がてらぶらぶら歩いていくこともあった。そして、この3人の姉妹が、たまたま天気のいい日などに、土地の人が水道路と呼んでいる、阪急の線路に並行した山側の路を、よそ行きの衣装を着飾って連れ立って歩いていく姿は、さすがに人の目を惹かずにはいなかった」、と続く。また「芦屋のこの辺りは、もとは大部分山林や畑地だったのが、大正の末頃からぽつぽつ開けて行った土地なので、この家の庭なども、そんなに広くはないのだけれども、昔の面影を伝えている大木の松などが二三本取り入れてあり、西北側は隣家の植え込みを隔てて六甲一帯の山や丘陵が望まれる」と昭和の初期の風景が書かれている。
本小説のクライマックスのあの有名な平安神宮の花見の場面では。「あの、神門を入って大極殿を正面に見、西の回廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気をもみながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あ!」と感嘆の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、昨年の春が暮れて以来一年に亘って待ち続けていたものなのである。」と今年も姉妹そろって桜を見ることができたという喜びを表している。
  芦屋川と住吉川の決壊によって引き起こされた阪神大水害についても「いったい今年は五月時分から例年よりも降雨量が多く、入梅になってからはずーと降り続けていて、七月に入ってからも、三日にまたしても降り始めて四日も終日降り暮らしていたのであるが、五日の明け方からはにわかに沛然たる豪雨となっていつ止むとも見えぬ気色であった。が、それが一二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎した大水害を起こそうとは誰にも考え及ばなかった」と書き始め刻々と水かさが増し、水害の状況がひどくなって行くさまとその中での妙子の救出シーンが詳しく、かなりの頁を割いて書かれ、本作品に阪神大洪水が重要な役割を与えている。。
 谷崎潤一郎記念館は阪神電車の高架を潜り、芦屋公園を抜けた住宅街の真ん中にある。しかし展示品は少なく物足りない感じがした。
写真は 1.細雪の石碑。 2.芦屋川決壊場所の碑。3. 染井吉野の 桜が終わった芦屋川.。4. 今を盛りと咲く八重桜。5. 谷崎潤一郎記念館。6. 記念館の庭。

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青が散る( part 2)

2008年04月24日 11:24

青が散るの根底に流れている思想として2つを挙げた。『王道と覇道』と『自由と潔癖』。自由と潔癖ということに対し少し考えてみた。若者は自由と潔癖でなくてはならないと老教授が燎平にいう。自由とは何ものにも束縛されなず、自分の意志で決定し、責任をとること。潔癖とは辞書によれば『不潔や不正を極度に嫌うこと』とある。この場合正々堂々とへたな作を弄さずに行動するという意味で使っているのではないか。燎平は王道と潔癖さにこだわるあまりに何かを喪った。作者は最後にこう言わしめている。「燎平は夏子の目を見つめ、夏子は若さとか活力とかいったものではないもっと別な大切な何ものかを喪ったのかも知れないと思った。いや、夏子だけではない。金子も貝谷も祐子も、氏家陽介や端山たちも、自分のまわりにいた者は全て、何ものかを喪った。そんな感懐に包まれた。そして燎平は,自分は,あるいは何も喪わなかったのではないかと考えた。何も喪わなかったということが、そのとき燎平を哀しくさせていた。何も喪わなかったということは、じつは数多くのかけがえのないものを喪ったのと同じではないだろうか。そんな思いにひたっていた」と。(4月24日夕刻改訂)

 振り返って自分自身、自由を一番大切にしてきた。若い頃は自分の人生だからと自由に自分で決めてきた。年をとり、義理,人情に縛られ、多くの人の人生を背負い込むことになるとそうもいかない。潔癖さも余りに度が過ぎると、水清ければ魚すまずの例えのように、人情味のない冷たい奴だとみなされる。古来、日本人はそのあたりのバランスを絶妙にとってきた。しかし、最近ではその感性に陰りが見える。権利と自由を振り回し、潔癖さを振りかざして周りの人の人生をめちゃめちゃにしてしまう輩が増大している。これもグローバル化の影響。弱者に優しくなごやかな社会を築く東洋の知恵、あいまいさとバランス感覚がアメリカにとってのグローバル化で消えていく。

精神的豊かさとグローバル化

2008年04月23日 19:02


My faraway-Japanese spirits
日本を語る際、義理、人情、礼、恥、わび、さび、武士道といった言葉で表されることが多い。が現在ではほとんど死語となっている。現代の経済優先の世界から見れば日本は非効率的、精神論的社会とも言える。思ってもみよ。ほんの少し昔には、どこの街にも商店街があり、その辻、辻には八百屋、肉屋、魚屋、電気店があり、それらの店には温かさとか安心感があった。やがてスパーや大型電気店が進出して、大量に均一的な商品を提供し,徹底的に安さを追求し始める。庶民は当然、今まで手に入らなかった高価な品まで、安く買えるとなるとそちらに群がる。その結果、小さな非効率的な商店はやっていけなくなり、農家は農家で安い農産物が海外から大量に自由に輸入されるようになると,立ち行かなくなる。日本国民は物質的豊かさを求めるあまり、非効率的なもの、精神的なものを切り捨てた。自分たちの首を絞めていたことに最近になって気づき始めた。日本文化はあいまいなもの(白黒つけない)を大切にし、それが精神的ゆとりや社会での安心感となってきた。それを捨ててしまうことで、人間社会の潤滑油を失い、ぎすぎすした社会になってしまった。バブル以降の企業も余裕がなく、効率化を求めるあまり、直接会社に役立たない人間を切ってきた。その結果、意図とは反対に組織全体がスムースに機能しなくなった。終身雇用で安定した心の社員は会社に対しての忠誠心、組織に対しての帰属性も高く、欧米よりもいい製品を出し続けてきたではないか?アメリカの言いなりになって(ヨ-ロッパは少し異なるが)グローバル化を追求し、日本的な良さを失ってしまった。日本文化はアメリカ文化とは異なるのだから、良いものだけは取り入れて、日本的文化は残すという方向で何故いけなかったのか?心の豊かさ、おもいやり、安全、といった抽象的なものを排除した結果、が日本社会の荒廃であった。効率は悪くとも、みんなが生き残っていける社会を築くべきであった。それなのに、いまだにグローバル化と言い続けている。確かにある分野(金融、情報など)ではグローバル化は大切であるが、ものつくりには情熱をもって仕事に打ちこんでいる職人的技術が、信頼のあるチームプレイが新しい技術を切り拓くことがある。
 しかし悲しいかな研究はグローバル化にさらされている代表の一つである。確かに昔は何もしていないと思われていた教授がいた。でもこれらの教授は何もしていない訳ではなく、教育熱心だったり、学校の運営に関わり、人のいやがることを率先して社会での貢献をなしてきた。
何事にもゆとりは大切で、遊びのない機械は使えないのと同じで,ゆとりがない人間社会もストレスが強く生きていけない。日本社会は経験的にある比率で、遊びを作り、弱者にやさしい、最大多数の幸福を実現する社会を築いてきた。いかにして、全ての国民が少しづつ損をし、また全ての国民がすこしづつ徳をする昔の日本社会に戻すことができるであろうか。それは夢物語なのであろうか?

Tibet問題と抗議運動

2008年04月22日 17:00

Tibet 問題 (part 3) 非武力 or 武力

チベット動乱もいつの間にか沈静化し、聖火リレー妨害も収まる気配が濃厚となっている。中国の思うつぼというか大国の保身の結果というか。歴史的にみても民族問題、独立問題はいつも大国のエゴに振り回されてきた。表面上は人権を尊重するような姿勢をみせながら、裏では自国の有利なように動いている。聖火リレーを妨害するのはおかしい、オリンピックを政治的に利用するのはいけない、と人は言う。ではチベット人が自主独立を求めて立ち上がろうとするに、ガンジーのような非暴力主義でいけばいいというのだろうか?非暴力主義はある程度の開かれた社会で、マスコミが取材できる時は有効であるが、今のチベットのように完全に隔離されていると、そのような運動は闇から闇へと葬り去られるのが落ちであろう。人口も少なく、武器もマスコミも持たず,貧しい民族は、何を利用すればいいというのか。このような状態で、暴力に訴え、マスコミに取り上げてもらう以外何かの手だてはあるのであろうか?暴力、武力に訴えることがいけないことは誰でも分かっている。しかしある目的,この場合チベットの自治、チベット宗教の存続を求める目的は、生易しい運動で獲得できるとは誰も思っていない。ほとんどの人は自分に関係ないからと常識的なことを述べているに過ぎない。

 昔インド独立に際し、ガンジーや国民会議派のような非暴力運動を繰り広げた一派とは対照的に、手段をいとわず、武力に訴えても、悪魔と手を組んででも独立を勝ち取ろうとするインド人、チャンドラボース(Chandra Bose)がいた。
 第2次世界大戦勃興後、彼は反英国運動を展開して捕らえられていたが、密かにインドを脱出し、ソ連に向かいスターリンに協力を要請する。が断られ、今度はナチス政権下のベルリンへと亡命する。ヒットラーやムッソリーニに協力を要請するが、色よい返事はもらえなかった。日本軍の真珠湾攻撃を知ると日本に協力要請を行なうべく、U-Boatに乗り、インド洋沖で日本の潜水艦に乗り換え、日本に上陸した。ボースはインド国民軍を編制し、1944年、日本軍のインパール作戦に参加。しかしインパール作戦は惨憺たる日本軍の敗北に終わり、全軍壊滅状態となった。ボースは退却する日本軍に対し、最後の一兵まで戦うことを要求したが、受け入れられず、サイゴンで日本軍の無条件降伏を聞く。更に、ボースは戦後の東西冷戦を予想し、英国に対抗するため、単身ソ連に行き事態を打開しようと、サイゴンから台北を経由して大連に飛ぼうとした。1945年8月18日、台北飛行場を離陸しようとした飛行機は飛び立った直後、落下し炎につつまれた。遺骨は杉並の蓮光寺に安置されている。現在インド国会議事堂の正面にチャンドラボース、左にガンジー、右にネールの肖像画が掲げられ独立運動の英雄として尊敬されている。彼の生まれたコルカタの国際空港はチャンドラボース空港と命名されている。
人間、立場、立場により考え方も、正義さえも全く異なってくる。国民の主権を奪われ、拉致されてもなにもできないのか?抑圧され,人権をないがしろにされても我慢しなければいけないのか?非暴力でいかなければいけないのか?とても難しい問題である。

青が散る 神戸風景

2008年04月21日 16:21

宮本輝作「青が散る」の舞台は、著者が実際に第一期生として入学した追手門学院大学である。4年間のテニス活動を中心とした青春模様が画かれている。椎名燎平という主人公(宮本輝)が様々に悩みながら、テニスと友情を通して逞しくなっていく。宮本輝は「青が散る」の中にそうした青春の光芒ののあざやかさ、しかも、あるどうしようもない切なさと一脈の虚無とを常にたずさえている若さというものの光の糸を、そっと曵かせてみたかったと述べている。
小説の中に「王道と覇道」という言葉が出てくる。王道で行くのか覇道をとるか。2流の人間はどう頑張っても王道では1流にはかなわない、覇道を持ってしなければ倒せないとも言わしめている。だけど燎平は負けてもいいから王道で生きていきたいと思う。他大学を定年し、本学にやってきた老教授に「青年は自由でなければならない。潔癖でなくてはならない」と若者の特権は「自由と潔癖」だと言わしている。この2つのテーマが本小説を貫く大きなバックボーンとなって見え隠れする。

 青が散るには神戸の街が色々な場面で登場する。マドンナの佐野夏子の洋館風の自宅が阪急六甲駅を降り、細い坂道を少し上がったところにあり、燎平は数度訪れる。さらに三ノ宮のセンター街には夏子の実家の経営するフランス洋菓子店ドウーブルがある。燎平らのテニスの試合が阪神沿線の香櫨園で行なわれる。洋菓子店の共同経営者のフランス人ペールは阪急の岡本駅を山手側に歩いたところにある尖塔の屋根を持つ木造の2階建ての古い洋館に住んでいる。燎平と夏子が訪ねていった時に、年老いたペールは「人間は,自分の命が,一番大切よ」と言い、フランスに帰ることを決意する。
夏子の誕生会が元町通りの一角を北へ上ったところにある桃香園という中華料理店で行なわれる。「港が見える。ごみごみした街の向こうに港が光っている。港では客船や貨物船が灯をともして浮かんでた。どれも動いているものはなく、街のネオンだけが雑然と輝いていたが、海は一枚の鈍い光がたちこめて静まりかえっているのだった」とそこからは神戸の港が一望できた。運ばれてくる料理を一心に食べていると「眼下の港はすっかり暮れてしまい、散らばっている船の灯が。茫々と拡がる夜の街の延長のように見えた」。と青年の心の不安さを象徴するかのごとく文章が続く。
本小説は燎平の大阪での学生生活が主な舞台であるが、マドンナを神戸に住まわせ,度々神戸を登場させることで、マドンナを気品のある、エレガントさをもった女性に仕立て上げている。これは関西における神戸の立場を物語る。

ブログの筆者は宮本輝の作品が大好きで、全ての彼の小説を読み、泥の川、蛍川、道頓堀川の河三部作。錦繍、幻の光等はなんども読み返した。文章の美しさ、うまさと底辺を流れる人間の哀感、人間愛が好き。

写真は宮本輝が青春を過ごした 1.「青が散るの舞台追手門学院大学」2. このグランドの片隅にテニスコートを作った。
宮本輝ミュージアムの内部 3-6.。後になって気づいたが、撮影禁止であった貴重な写真。 

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幕末の漂流者たち

2008年04月17日 17:00

幕末に漂流しアメリカ国籍船に救助された後、幕末、明治に活躍したふたり。
ジョン万次郎とジョセフヒコ。

ジョン万次郎(中浜万次郎)
土佐中ノ浜に1827年に生まれる。万次郎14才の時、出漁し,遭難。鳥島に漂着。143日間に及ぶ無人島生活で、同僚の漁師の多くは野菜欠乏のためのビタミン不足でなくなるが、万次郎は海藻を口にしていたため、助かり、マサチューセッツ州フェアヘブンの捕鯨船、ジョン ハウランド号に救助される。ホイットフィールド船長は助け出した5人の日本人の中でも、特に万次郎を気に入り、フェアヘブンに連れて行き、養子として育てる。学校にも通い、後にはキャサリンという女性と婚約までするが、彼女が事故で亡くなったのを機に、日本に帰ることを決意する。1851年、10年ぶりに帰国を果たすが、鎖国を破っての帰国ということで、長期尋問を受る、がやっと許され土佐に帰り着く。薩摩藩の島津斉彬はその知識に注目し何かと重用。ペリーの来航があり、万次郎の知識、通訳を必要とした幕府は万次郎を旗本に取り立て通訳とした。
伊豆の代官江川太郎左衛門にも重用されたりしたが、老中がアメリカのスパイ疑惑を持ち出したため、万次郎はペリーの通訳から下ろされる。その後、咸臨丸でアメリカに渡り、ホイットフィールド氏と再会したり、開成学校教授になるが、脳溢血を患い、その後は静かに暮らす。享年71才。雑司ヶ谷に眠る。

浜田彦蔵(ジョセフ ヒコ)
播磨の国加古郡に生まれる(1837年)。1851年江戸に向かう航海中紀伊半島大王岬沖で難破。南鳥島附近でアメリカの商船オークランド号に発見、救助される。サンフランシスコに滞在。日米修好通商条約が締結され、タウンゼント ハリスが駐日公使となったのをきっかけに9年ぶりに帰国し、神奈川領事館通訳となる。その後尊王攘夷論が盛んになると、一時身の危険を感じてアメリカに戻る。1962年に再度、領事館通訳となったが、翌年には職を辞し、居留地で商売を始める。その間、英字新聞を日本語に訳した海外新聞を発刊した。これが最初の日本語の新聞だと言われる。明治になると大阪造幣局の創設に尽力し、その後は大蔵省に勤め、国立銀行条例の編纂に携わる。1897年死去、享年61歳。外国人として青山墓地に埋葬。
写真は能福寺にある1.日本で初めての英文石碑。2. 能福寺の兵庫大仏

2人ともまさに波瀾万丈の人生を送るが、ジョン万次郎はジョセフ ヒコよりも10才年上で10年ほど早くアメリカから帰ってきているためか、はるかに著名で華々しい活躍をしてる。ジョン万次郎に特別な才能があったのは間違いないが、時代がジョン万次郎を必要としたことも、大いなる活躍ができた理由の一つに挙げられる。人間才能と、時代がマッチして初めて大きな仕事ができる。

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神戸 歴史探訪(2)

2008年04月16日 18:30

神戸事件
幕末から明治維新にかけて、大政奉還(1867年11月9日)直後の、明治政府が最初に直面した外交問題。もしこの処理が間違っていたら日本も欧米の植民地になっていたかもしれない。

今を遡ること140年前、神戸元町の大丸横にひっそりと佇む三ノ宮神社前で事件は起こった。
ことの顛末は、大政奉還の翌年、1868年1月10日兵庫県明石に宿泊していた備前(岡山)藩の家老日置氏の軍勢
約450名及び大砲方を率いた一軍が、神戸の三宮神社に差しかかった
とき、仏軍水兵2名が隊列を横切り、また英国水兵が第3砲隊に向けて拳銃をかまえ、威嚇の姿勢を示したことに始まる。そのことに腹をたてた第3砲隊長の滝善三郎正信は部下に命令。一名の隊士が水兵の脇腹を槍でつき軽傷をおわせた。この争いに呼応して諸外国隊は軍艦より陸戦隊を上陸せしめ、居留地附近の市街地を不法占拠した。このような己の傍若無人の振る舞いにも関わらず、逆に日本側の非のみをあげ、謝罪と責任者の死罪を要求した。
無理難題を突きつけられた明治維新政府は困り果てたが結局、責任者一人に罪をかぶせるという形で処理した。隊長の滝善三郎正信は一人責任を取り、兵庫南仲町にある永福寺で潔く切腹して果てた。辞世の句『きのふみし夢は今更
引かへて、神戸がうらに名をやあげなむ』を詠んだ後、恭しく一同に礼をし,静かに口を開き『過ぐる時、発砲號令せる
は、不肖正信である。公法によって御処置となり、此処に罪を謝せんがため切腹する。
宜しく篤と御検証相なりたい。』と荘重に宣言した後、割腹して果てた。享年49歳。明治維新政府は初めての外交問題として、列強とことを構えることなく、処理し、植民地になることもなく現代日本になる。日本外交資料上重要な事件の一つである。
写真は三ノ宮神社の1.事件を記した石碑 2. 備前藩の有していた大砲。
切腹した永福寺(能福寺)に建つ 3. 滝善三郎正信の顕彰碑。

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神戸 歴史探訪

2008年04月15日 09:58

須磨寺
春本番、日曜の朝、日差しが気持ちよい。ぶらりと須磨寺に敦盛の首塚を見ようとでかける。山陽電鉄の須磨寺で降り、土産物小屋や食堂の並ぶ参道を、少し上がると門が見えてくる。思いがけなくも桜の花がまだ残っていたのはうれしい。しだれ桜は満開の風情。短い石段を上がると本堂。本堂の脇に敦盛首洗い池があり、本堂をそれた小道を少し行くと敦盛首塚がある。満開のしだれ桜とこの悲劇の対比。絶頂期に滅んでいった平氏の儚さ、せつなさ、を思い画く。
写真は敦盛の首塚、首洗い池と今を盛りと咲くしだれ桜。
写真は1 . 敦盛の首塚 2. 敦盛首洗い池 3, 4,5,6,7. 本堂のしだれ桜

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研究者として生き残る秘訣?

2008年04月14日 11:00

研究環境(2)

ブログのなかで、圧倒的に支持が高かったのが、現在の劣悪な研究環境について書いたものであった。研究者を志そうという若い研究者の卵の皆さんがいかに悩みを持っているかが分かる。
すでに15年以上にも及ぶ、バブル後の日本経済の沈滞のため、日本全体の経済的、人的な器が縮小し、日本文化の良さといえる、やさしさ、ゆとり、寛容さ、というものが排除され、全てグローバルという一言で片付けられてしまうようになった。そのため日本的な強さを発揮してきた、組織力(連合艦隊方式)が弱体化し、自分のことで精一杯になってきた。
研究にも効率性と短期の成果が強く求められ、グローバルな競争が激化してきた。あまりにも空きポストが少なく,研究者の採用が極端に少ない現状では過度の競争を生み出し、人間関係の摩擦も高まり、ストレスが溜まった社会になる。一方で、政府はと言えばやたらと博士課程の学生を増やし、需要と供給のバランスを完全に壊してしまった。そのためポスドクが増えつづけ、上位のポジションが得られず、40歳近くになってもポスドクを続ける研究者が多くなった。それに対して政府は全く手を打ってこなかった。このような現状を招かせた政府の責任は大きい。
 更に、研究者もご多分に漏れず2極化してきた。若手のエリート研究者は、博士課程に入るとすぐに学術振興会のファンドをもらい、卒業と同時に助教になり奨学金の返済も必要ない。一方では、やっと博士号を採り、任期制のポスドクに採用され、奨学金の返済の猶予もない。このような格差を生み出した一番の原因はポストの少なさと研究のグローバル化を打ち出し、競争によってポジションを獲得するという発想による。確かにこの方法は一見平等で、能力があるものが這い上がるというシステムに見える。私の持論は少なくとも研究とスポーツはフェヤーでなくてはならないである。つまり、「どこを出ていようが、また性別を問わず、3割打てるバッターは名門出の2割バッターよりも高く評価され、純粋に実績の勝負である」というものである。研究も論文の質と数という実績で評価されるべきであり、日本でもそうなりつつある。このような考えに異論を差し挟む人は少ないと思うが、問題は研究環境の格差である。大きな有名大学は良い研究者、教官を引き抜き,益々いい研究環境を作るのに対し、地方の小さな大学は育てれば引き抜かれるの悲哀を味わう。学生にとっても良い研究環境で、良い指導者の下で研究できれば、良い実績も出易い。より研究環境のいい大学へ行くということも考えられるが、この研究環境の差は学生にとってはどうしようもない。もし良い環境下での研究ができないような立場にあり、それでも研究をやりたいと思う人はどうすればいいのか? もし自信があり、信念があり、研究を続けたいと思うのであれば、卒業後欧米にポスドクとしてチャレンジする事をすすめる。私自身は日本的な良さを弱めるグロバール化が良いとは思っていないが、少なくとも中途半端な日本のグローバル化は日本的な良さをなくし、それかといって欧米のグローバル化には及ばない。こうなったらグローバル化を逆手に取って、欧米で良い成果をだし、PIとして独立していくという道をとる。しかしこの道は日本でポスドクをやるよりはるかに困難ないばらの道である。
人生はいつも競争。資本主義社会の自由競争は研究に限らず、過酷である。研究には勝者、敗者はないけれど、個人にはそれが一生つきまとう。現状に文句を言うよりはどのようにして生き残り、良い研究をするかを考えよう。
最近は要求ばかりは多くて、実力の伴わない人も多い。研究者になる素質として最低限必要なことを挙げておこう。
① 腕がきれい。実験データがクリアーで、堅実である。②客観的にテータが判断でき、論理展開に矛盾がない。③自分が出したデータに自信をを持ち、今までの論文との違い、新しさを論理的に述べることができる。④ 論文を一人で書ける、英文能力と記述力をもつ。もう一つこれはおまけ。更に上の研究者になるためには堅実さに加えて想像力豊かであること。
以上を心において目標に向かって、ひるまず、かつ謙虚に邁進して欲しい。具体的に現実を一歩先をみて行くという姿勢が今のような競争の激しい社会には大切。
たたけよ!さらば門は開かれん。叩かなければいくら優秀でも門は開かない。じっとしていても棚ぼたはない。Something will turn up if you insist in your dream.

桜、北から南(part3)

2008年04月11日 12:12

桜たより
 4,5) 国立劇場の桜、高尾山の桜
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桜、北から南(part2)

2008年04月11日 12:01

桜たより
  3,4) 姫路城の桜
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桜、北から南 (part1)

2008年04月11日 11:38

桜たより 
1,2) 長崎グラバー邸

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正気の歌と松蔭

2008年04月10日 18:34

 文天祥
 貧しさは強固な精神と肉体を生み、豊かさは精神を病め、肉体を虚弱化させる。それはいつの世も変わらない事なのだけど、南宋の最後の丞相、文天祥をご存知だろうか。20歳にして科挙を状元(首席)で合格。しかしすでに南宋は元との戦いに敗れつつあった。元との戦いに転戦するも、捕らえられるが、脱獄し各地でゲリラ活動を行う、再度捕らえられ元の都、大都(北京)に送られる。フビライはその才能を惜しんで何度も臣下になるように進めたが、断固として断り、獄中で「正気の歌」を詠む。享年47歳。処刑される。フビライは眞の男子なりと評したという。
 正気の歌
世の中はよこしまな気風がみなぎり正しい事が通らない世相になっている。しかし天地にには正気がある。正しいと思う事を貫徹し正気を貫こうとの歌。
「天地に正気あり、雑然として流形を賦す。下は河獄(かがく)となり、上は目星となる。人においては浩然の気となり、沛乎(はいこ)として蒼冥(そうめい)にみつ」と冒頭にあります。
「天地には正しい気がある、混然としてはっきりしていないが、地上では河や山となり、天に上れば太陽や星になる。人においては浩然の気となり、広がり宇宙に満つ。」

「是れ、気の磅礴(ぼうはく)する所 凛烈として万古に存す 其の日月を貫くに当たりては 生死、安(いず)くんぞ論ずるに足らん。」
この気の満ちあふれるところは凛冽として永遠の月日経て残り、生死など問題にならない。

「嗟(ああ)予(われ)陽久に遭い隷なり。 実(まこと)に力あらず楚囚 其の冠を纓(むす)び伝車もて窮北(きゅうほく)に送らる鼎钁(ていかく) 甘きこと飴の如きも之を求むれど得べからず」
ああ私は国の滅亡という大難に会いながら臣下として実のある努力が足らなかった。南宋に殉じた楚囚もいたが私は護送車で北の果てまで送られ、釜茹でさえ飴の如く甘いと思っているのにこれを求めても許してもらえず未だに死ねない」

フビライがどのように説得しても意思をかえず、自ら正気を貫き通した文天祥は3年の幽囚の後、ついに処刑される。
幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。

 江戸に送られ死と向き合った吉田松蔭は高杉晋作に宛てた手紙の中で「死は好むべきものでもなく、また憎むべきものでもありません。世の中には生きながら心の死んでいる者もいれば、その身は滅んでも魂の生き続ける者もいます。死んで己の志が永遠になるのなら、いつ死んだって構わないし、生きて果たせる大事があるのなら、いつまでも生きたらいいのです。人間というのは、生死にこだわらず、為すべきことを為すという心構えが大切なのです。」と書き送っています。
 松蔭は獄中で文天祥の正気の歌と同じ心情を読んだ遺書「留魂録」を弟子たちに残しました。そして最後にこう結んでいます。
私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのならそれは私の播いた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう
辞世の句 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
この大和魂は幕末の志士たちに引き継がれ、近代日本の魂の礎になっているのです。
 昨今は正気が片隅に追いやられ、大和魂も忘却の彼方の感がありますが。乱れた末世だけにこのような崇高な魂が心を打つのです。

奢れるもの、奢侈にながれるもの

2008年04月09日 12:23

今までのブログを読んだ方は、私が平家大好き人間だと思われるかも知れない。実は平家は好きではないのです。平家物語や平家の公達たちの儚い美しさは好きだけれども、何故いとも簡単に滅んでしまったのかを考えると、あまりの情けなさに心が苛立つのです。成り上がると有頂天なり、うぬぼれ、華美に溺れ、楽な生活を求め、耳に心地よい言葉を聞きたがるようになるのは人の習性です。平家は武士の出であるにもかかわらず、京の公家文化にどっぷりとつかり、野生の荒々しさを野蛮なものと軽蔑し、一族だけの権勢を求め、栄華を求めるようになります。いつの世も衣食たりて礼節を知るの言葉の通り、粗野で礼を知らないような人間が命知らずで圧倒的にたくましく、強い。平家はそのような坂東武者たちにかなう訳もなく、たちまち滅ぼされてしまうのは自然の理。那須与一が屋島の戦いで平家の船の上に掲げた扇を弓で射落とすという逸話は有名ですが、見事撃ち落とした後に、水夫までも射殺してしまい、しらけてしまったということは余り知られていません。風流さは戦場では何の意味もないのです。元寇の時も鎌倉武士は名乗りをあげてから攻めたのに対し、そのような礼儀は元の兵士には通用する訳もなく、いきなり射かけられ、大勢で一人に向かって攻めかけ、当時の日本では卑怯だと忌み嫌ったことが全く通用しなかったと言われ。ます。残酷なことだけど戦争は人と人との殺し合いであり、勝つ事が目的なのです。源頼朝は平氏の轍を踏む事のないように、京文化に取り込まれる事のないよう、わざわざ鎌倉の地に幕府を開いたといわれます。何故平氏にこのような単純な道理が分からなかったのか?理解できない。清盛は現在の親ばかに通じる?、自分の子供に甘かったのか?清盛一代の栄華にしてなんと儚いことか。
 清盛は大輪田泊(神戸港)を開き、南宋との貿易で莫大な利益をあげたことが、平家隆盛の一因であると言われます。その当時高度な文化を発展させた南宋も金に攻められ弱体化し、ついにはモンゴルのフビライによって滅ぼされます。南宋が滅びる間際にひときわ異彩を放ち、元に徹底的に抵抗し、捕らえられ、刑死した、最後まで自己を貫いた人物、文天祥。彼の生き様を読むと己の血が騒ぎ、堕落し、汚れた身がきりっとするのです。

明石海峡パート3

2008年04月08日 12:36

先日の明石海峡の日の入りに間に合わなかった時のお気に入りの載せるのを忘れていた写真。
日没とともに、対岸の淡路島の遊園地の観覧車のネオンが輝き始めた。
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明石海峡の夕陽 パート2

2008年04月08日 09:34

前回明石海峡の夕陽を撮り損なったので、確実に間に合うように姫路城への花見帰りによった。今回は日の入り予定時間の40分前に明石大橋の麓にたどり着いた。
日中は薄日も射していたせいか、ぽかぽかと暖かな絶好の花見日和であった(花見の話しは後日)。しかし太陽が傾き日没近くになると気温は低くなり、寒さに震えながら日の入りを待った。今回は日の入り、夕景を克明に写す事が出来た。その写真がこれ。
1. 日没10分前 2.日の入り寸前 3.日の入りの瞬間 4.指先に夕陽が沈む
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個人と組織

2008年04月07日 13:21

 今朝の雨は散り行く桜の行く末を見届けるかのように激しく、濡れた路面に花びらを散り敷き、流し去った。花がある時は目立たなかった芽吹いた新緑の葉が木を覆い始め、毎年春とともに始まり繰り返す命の営みを始める。

ハンニバルの革命と挫折から学ぶ
 4月の桜の花と前後して入学、入社して、新たな組織に属するようになる人も多い。昔から個人と組織の関係に興味をもって考えてきた。その結果でた結論(?)は個人は組織にはかなわないのか?である。
 古来個人は組織に対し様々に戦いを挑んできた。しかし、最終的にはほとんど個人(小さな組織)が破れている。ハンニバルという天才的な戦術家も最終的にはローマに勝利することができなかった。ハンニバルは敵の裏をかきカルタゴの傭兵をつれ象とともにアルプス越えをし、ローマ軍を急襲して第2次ポエニ戦争が始まった(BC218-201).
いとも簡単にトレビヤの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いに圧勝し、カンナエの戦いで完膚無きままにローマ軍を打ち破り、ローマに迫ったのに、あまりの幸運に疑心暗鬼になり、ローマ突入を見合わせてしまった。本の数日間、天が運命を与えたのに受け取らなかった。騎兵隊長のマハルバルはあなたは勝利を得る事は出来るがそれを活用することを知らない」とローマ攻撃にこだわったという。ただハンニバルはローマを滅ぼすというよりもローマの友好都市国家との関係を断裂させ孤立させたかったのだという説もある(塩野七生著ポエ二戦争)。それを契機に勝利はしたが、2度とローマを落とすようなビッグチャンスは訪れなかった。ローマは体制の立て直しのため、マクシムス、ファビウスを独裁官とした。彼は積極的にハンニバルを攻める事はせず、徹底的に消極戦、持久戦に持ち込んだ。ハンニバルの勝機はここに潰え、彼の部隊は徐々に衰退していく。最後はザマの戦いで大敗した後、ローマ軍からの追撃を逃れるため、クレタ島から遠く黒海沿岸のビテユニア王国まで流浪していき、その地で自害するすることになる。ハンニバルはカルタゴでは特別に傑出していた人物であったため全てを個人で決定し戦ってきた。それに対し、ローマは後年スキピオのような戦術家はでてきたが、執政官を中心とした組織として戦い消耗戦にもちこんだ。
 このような個人対組織の戦いの場合、長引けば長引く程組織が強くなる。個人は深く静かに潜航し、水面に出た時には乾坤一擲、徹底的にそれまで考え抜いてきた作戦を遂行する。これしか勝ち目はない。長引けば長引く程総合力に勝る組織は、じわじわと国力(組織力)を発揮しはじめる。個人の場合、最初に行なった時は革命的でも、時間とともに陳腐な作戦となり、先を読まれるようになってしまう。こうなると個人の勝ち目はない。革命的な考え,作戦は次から次に出てくるものではない。ひとたび兵を起こしたら最後まで完遂するしかない。
 日本人は桶狭間の戦いのように、「寡を持って衆を絶つ」ことに美学を感ずる人が多いが、よほどの僥倖に恵まれない限り、大海戦(大会戦)になれば小は大にはかなわない。太平洋戦争の戦いもしかり。大成功とはいえど、最初の真珠湾攻撃を中途半端な形で終えたがため、総合力で圧倒的な優勢に立つ、米国の早い立て直しがなされ、日本は時とともにじり貧になっていった。真珠湾攻撃以後、最初の一撃が予想外にうまく行ったためか、消極姿勢が軍部内で優勢となり、米国艦隊が出てきたら連合艦隊で叩こうとする作戦に変わり、その間に戦局が大きく変わっていき勝機を逃した。連合艦隊山本五十六司令長官は戦略、戦術に長けていても、義理人情に厚かったため(日本ではこの傾向の人が好かれるが)、最後まで、航空に疎い南雲中将を解任できなかった。
 様々なことが敗因としては考えられるが、言いたいのは「その当時圧倒的に劣勢だった日本が米国という大きな組織、国家を打ち破るには、革命的な戦略で真珠湾を攻めたのであれば、犠牲を考慮せずに革命的に任務を遂行するより方法はない」ということである。山本五十六に児玉源太郎のような芸ができれば。精神力よりも画期的な武器,兵器の開発に力をいれていれば。最初の目的を初志貫徹していたら。などなど言いたい事はあるがこれらについてはまたそのうち述べたいと思う。
 研究においても個や小さなグループが欧米の精鋭部隊の研究室や大研究室に勝つためには目標を決めたら、画期的なアイデアで出し抜き、一気呵成にそのまま突っ走るよりない。並の研究室においては機動力は常に有力な武器であり、これを活用しない手はない。努力すれば誰でも機動力を発揮できるようにはなれる。将棋でも攻め始めたら最後の歩一個になろうとも、攻め尽くすしか勝ちはない、一旦休息すればたちまち形勢が逆転し、攻め滅ぼされる。

季節の移り変わり

2008年04月05日 15:10

桜の花ももう満開かと思ったら、散り始めている。日本人が桜を愛するのは散り際がいいからだという説もある。確かに風に吹かれて散り急ぐ様は武士の心、潔さに通じるのかもしれない。川沿いの花吹雪の小道を一人歩くと、自分が額縁の中の絵になったような錯覚され覚える。桜が散り始めると、つつじや五月が咲き始め、dog woodの木も蕾をふくらし始める。街路樹の若芽はめまぐるしい早さで小豆色から萌黄色へと色彩を変え、深緑となって葉を伸ばす。吹く風が肌に心地よい、さわやかな季節もあっという間に日差しの強い日々に取って代わられ、やがて厳しい暑さの到来となるだろう。今のうちに木陰でそよ風に吹かれて一時の休息をとり、厳しい季節の到来に備えよう。
 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一人は もとの身にして(業平)

無常

2008年04月03日 10:51

神戸は平家一族の本拠地、福原があったのと一の谷の合戦が行なわれたこともあって平家ゆかりの地が多い。平家といえば誰でもが栄枯盛衰の物語、平家物語を思い浮かべる。
特に冒頭の一文。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
は誰でもが一度は目を通した,日本人の心の中に流れる無常を的確に言い表したものである。平家物語の敦盛最後の章は涙なくしては読まれない。若干16歳の平家の公達であった敦盛は一の谷の合戦で破れ、船に乗り、逃れようとしたところを熊谷次郎直実に呼び止められ、引き返し切り結んだ結果,討たれる。打ち取った直実も敦盛が我が子と同じくらいの歳の薄化粧した美少年である事が分かり、世の中の儚さのあまり出家した。敦盛は横笛の名手として知られ、討たれたときも鳥羽院より賜った青葉の笛を所持していたという。敦盛最後の場面は後に能、幸若舞、謡曲、歌舞伎の題材として取り上げられる事となった。
信長も幸若舞の敦盛の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」の歌を愛し、己の心情、生き方を現したものとしてよく敦盛を舞ったと言われている。
西行法師は命の儚さ、世の無常さが分かり、出家して世を捨てたが、信長はだからこそ人生を自分の思った通りにできるかぎりやってみようと行動したのであろう。だから本能寺で光秀の謀反を聞いて、逃れられぬと分かるとただ一言「是非もなし」と死に赴くことができたのであろう。
日本人の血の中には生きとし生けるものへの慈しみ、生の儚さを感受する遺伝子が流れ、外人には理解し難い、日本人感を構築している。

靖国問題 

2008年04月02日 11:09

映画「靖国」が問題になっている。実際に見た訳ではないので一般的な事しか言えないが、どのような思想によって作られた映画にしろ発表の機会を奪ってしまう事はまずい。靖国神社に詣でるごくわずかな極右的な言動をする人のみを捉えて一般化しようとすることも問題ではあるが、それは主義、主張をより誇張してみせるということで誰でも大なり小なりやっていることである。
日本の教育は昔も今も詰め込み記憶中心。真の教育とは個人が様々な事実を知って,または学習して(この場合は歴史的な事実)、自分自身で判断し、独自の意見が述べられる能力を養う事である。これらの素養を養うためには歴史、地理、文化、民族、宗教など個々の民族、国家が抱えている背景を知る必要がある。これらのことを全て学ぶのは大変であるけれども、少なくともある問題が生じた時、その背景を自分で調べ、自分自身で判断できる能力を養うのが肝要であると思う。今の受験勉強の弊害は、一般成人の受験に関係ない教科の知識が驚く程低いことである。理系の大学生(大学院生)には日本の歴史や地理どころか、日本語の文章がまともに書けないものが多く、研究以前の状態を呈していることも事実である。小学校低学年にゆとり教育はいらない。基礎の基礎は詰め込み、強制されて覚える社会生活に必要なルール。当用漢字や九九を知らなければ社会生活にも事欠く。よってルールたる読み書きそろばんとごくありふれた常識くらいは身につけて欲しい。その上に立って初めて自己の確立、専門性の確立ができる。さらにその上に思想や人間としての情愛、いたわり、哀感などまさに論理では割り切れない愛、義理、人情といった心の問題がでてくる。これは人間の一生のまたは永遠のテーマとなる。
 個人個人の生い立ちの背景が違う以上考え方も、思想も異なるのが当然で、様々な議論がされるのも当然である。しかし論争の場に主観的な主張や正義はということを持ち込まれるとそれ以上の議論がなくなる。日本人は主観的に考えがちで客観性が乏しい面もある。いつも神風が吹くと思うと大間違いである。
靖国に話しを戻すと。靖国神社に対しての考えも個々に違って当然。靖国に祭られている遺族とその他の家族では全く考えも異なるであろう。どうあれ、どのように思うかを議論する事は大切である。
 なにかと議論のある靖国神社の遊就館を見た。巷間言われているよりは控えめだと思った。戦没者をバックにしての神社の戦争記念館であるのだから当然かなりの主観的主張に満ちてはいたが、この程度の事は他国の戦争博物館に行っても誇張的に主張されている。自分たちの主張をこのような場所で押し進めるのは当たり前のことで、ハワイのパールハーバーの記念館や中国の戦争記念館ではこれ以上の事が平気で言われ、展示されている。これらの展示を見て個人個人が様々な印象を得、議論すればそれで良いと思う。日本人から見る目、中国人が見る目、アメリカ人が見る目、また個人個人の目、当然異なってしかるべき。
例えば100歩譲って日本が真珠湾をだまし討ちをしたとしよう。だからといって原爆を広島、長崎に落として大量の一般市民を虐殺して良いとは言えないだろう。昔アメリカにいた時、ワシントンのスミソニアン博物館にエノラゲイ(Enola Gay 原爆を落とした爆撃機)が展示され操縦士たちが英雄として祭り上げられれいるのを見て、日本人として複雑な心境になったことを覚えている。一方、原爆を落とした機長Paul Warfield Tibbets Jr大佐は国家からの命令とはいえ、何の謝罪もせず2007年に92歳で天寿を全うした。
とあれ正義は国や宗教によっても変わる。卑屈にならずに言うべき事は言って、日本人としての尊厳と誇りだけは見失わないような教育をして欲しい。
 
[倭は国のまほろば、たたなづく青垣山 こもれる倭し うるわし]

      
             (歳をとり愛国心に目覚めたぼけ)

桜、桜、桜

2008年04月01日 15:22

数日来の雨も上がり、朝から青空が広がっている。京急の駅に立つと桜の花びらが風に乗り、あるものは舞い上がり、あるものは舞い落ち、そのひとひらがホームに立つ自分の足下に落ちた。
東京の街には桜の木が多く、車内から学校、公園、神社、お寺の場所がピンクがかった白さで浮き上がって分かる。新幹線の車窓から川沿いの桜並木や民家の庭の桜、道路沿いの桜、山の中腹の桜、富士山を背にした桜が流れていき、如何に日本人が桜を愛で大切にしてきたかが分かる。
一方、大阪から神戸に入ると白く浮き上がる景色が極端に少なくなる。六甲の山並みは新緑前の瑞々しさは保っているものの桜の花の色も見当たらない。また神戸が地形的に山が海に落ち込んだ所に出来た街のせいか、空き地が少なくそのため桜の木も少ないのかも知れない。公園にも数本の若い桜が薄すらと花を咲かせているだけで物足りない。
 関西の人は東京の人間ほど桜に浮かれる事がないのか花見シーズンになってもそわそわすることもなく、お花見、お花見と浮かれないみたい。桜という花を妙に尊重するのは武家社会をひきずる江戸っ子気質からくるものなのか?平安朝に愛でた桜の文化、太閤の愛した醍醐の桜、吉野の全山を覆う薄墨の山桜の優雅さは薄れてしまったのか?太閤秀吉は権勢を極めた絶頂期に徳川家康らを引き連れて吉野を訪れ花見をし、絢爛豪華な花見を醍醐寺で行なったのは有名である。醍醐の花見での疲れのためか、それから5ヶ月後にはなくなっている。京都には神社、仏閣が多いせいかしだれ、染井吉野、八重とさまざまな桜が咲き乱れ、長い期間かけ桜が楽しめる。京都と大阪、神戸の人の桜に対する感受性は異なっているのか? 関西といっても、京都、大阪、神戸は独自の文化を持ち、価値観や考え方も少しずつ異なっている事はなんとなく分かってきたが。

 平忠度卿は
     行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし
 西行法師は
     願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃

  と たおやかな心を望んで桜を詠んだ。がそれは所詮願望に過ぎなく、実際は厳しい現実であった。忠度卿は神戸で討ち死にし、西行法師は北面の武士を捨て出家して、全国を流浪した。
  後白河法王が大原の建礼門院を訪ねたときに詠んだ歌 「池水に みぎわの桜散り敷きて波の花こそ 盛なりけれ」は人の無常、はかなさを呼び起こされる一首として好きである。


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