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生物の多様性(2)

2008年05月23日 19:29

恐竜はなぜあれほど大きくなったのか?

進化論の話しをしていた時、研究室のDai君が質問した。「恐竜はなぜあれほど大きくなったのか、サイズの限界は?」これが宿題となった。
宿題の答を「リチャードフォーテイの生命40億年史、草思社刊」より見つけた。
恐竜化石によれば、大きさのエスカレートに歯止めがかからない様が見える。まるでいったん開始されれば、決められたコースをまっしぐらという感じである。アルゼンチンの三畳紀後期の地層に見つかった最古の恐竜は、人より少し大きいくらいのサイズだった。その時期のかなり早い段階から、恐竜は骨盤の形により「鳥型骨盤」類と「とかげ型骨盤」類に分かれたが、とかげ型骨盤類からは肉食,草食とも巨大な種類が登場した。最大の草食恐竜はスパーサウルスとかサイズモサウルスとかと名が付けられているが体重50トンで体長は80メートルに達した。
サイズがどんどん大きくなった理由の一つが、食物をめぐる競争にある。頭をより高い位置にまで伸ばせるようになれば、競争者には届かない木の葉を食べることができる。また温暖な気候下では身体が大きい方がエネルギーを節約する上で有利だったこともある。ではサイズには限界はないのか? 
木の高さには限界がある。葉の表面からの蒸散作用による根からの水の吸い上げられる高さに限界があるからだ。また骨と筋肉で支えられる重量にも、力学的な限界がある。そういう訳で、最大の陸上動物にも、木がエンパイヤーステートビルにまで伸びるのを阻止していると同じ物理的法則が大きさを限定した。それ以上の大型の動物を生み出すには重力が課す設定から解放される必要がある。
という訳でサイズの限界は木の高さの限界と同じで重力に支配され、サイズモサウルスが限界であろうと考えられている。
カンブリア紀の生物種の爆発的多様化やなぜ恐竜が滅んだのか、についてはまたの機会とする。

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中原中也

2008年05月19日 19:29

私の青春に一番影響を与えたのは、中原中也であろう。
私は中也と同郷の山口の湯田で生まれた。湯田は山口市の郊外にある、小さな温泉街である。
昨年、湯田を訪れ、中也の記念館を訪ねた。以前にこの記念館ができた直後に訪ねたことがあるが、「命の時計の刻み」が気になる年齢に近づいてきて、今回は我が人生における「大切な者」へのお別れをしておこうと急に思いたち訪ねた。
 若い頃、小さな街での抑圧から解き放たれ、自由に生き、それだけでは生活できないであろう詩作を生業とするという行動と、彼のペンから紡ぎだされる、現実と幻想の間をつなぐ美しい言葉に憧れ、魅せられた。彼の作品、彼を語った文章、彼の住まいなど、彼に関するあらゆる事を調べるという、懲りようであった。一つの言葉を見つけだすための産みの苦しみと誰にも理解されない孤独と絶望。そのなかから命のろうそくを削りながら生き、それと引き換えに感動する文章を紡ぎだして生きた人生。研ぎすまされた詩を書いた代償は余にも大きい。

中原中也。
軍医であった厳格な父親謙助とやさしい母フクの長男として1907年に湯田に生まれる。中学時代から文学に凝り始め、山口中学を落第し、京都の立命館中学へ転校する。関東大震災のため京都に逃れてきていた、女優の卵、長谷川泰子と出会い、同棲を始め上京し詩作活動に専念する。小林秀雄や大岡昇平と親交を持つが、長谷川泰子は小林秀雄と奈良へと駆け落ちしてしまう。26歳のとき上野孝子と結婚し、最初の詩集「山羊の歌」を出し、長男文也も産まれ、詩作も私生活も充実したかのように思えた。それもつかの間、2才にして文也が病死する。繊細な精神は壊れ、神経衰弱を昴じ、一時千葉の療養所に入院。病状がすこし回復し、鎌倉に転居して、故郷に帰っての療養を決意するが、結核性脳膜炎を発症し永眠する。享年30才。お骨は山口市吉敷にある中原家累代の墓に埋葬される。

詩作
彼の詩はフランスの天才詩人、アルチュールランボー(Arthur Rimbaud)の影響を強く受けているが、ランボー程難解ではない。若かりしころRimbaudは中也とともに傾倒し、かぶれていた詩人。彼の数奇な人生はいつか日を改めて紹介したい。

ランボーの影響が色濃く出ている作品

「逝く夏の歌」の一節 昆虫の涙って?
山の端は、澄んで澄んで、金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

「骨」
ホラホラ、これが僕の骨だ、生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖(さき)。
故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて見てゐるのは、― 僕?
恰度立札ほどの高さに、骨しらじらととんがつてゐる。

幻想的であるが何を伝えたいのかが分からない詩。小林秀雄は「中原中也の思い出」の中で「彼の誠実が、彼を疲労させ、憔悴させる。彼は悲しげに放心の歌を歌ふ。川原が見える、蝶々が見える。だが、中原は首をふる。いや、いや、これは「一つのメルヘン」だと。私には、彼の最も美しい遺品に思はれるのだが」と言っている。
「一つのメルヘン」
秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらとさらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらとかすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水はさらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました

寒々とした情景と密柑の如き夕陽、欄干にこぼれたりと寂寥感が伝わってきそうな写実的な詩。、
「冬の長門峡」
長門峡に、水は流れてありにけり。寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。われのほか別に、客とてもなかりけり。
水は、恰も魂あるものの如く、流れ流れてありにけり。
やがても密柑《みかん》の如き夕陽、欄干にこぼれたり。
ああ! ――そのやうな時もありき、寒い寒い 日なりき。

あれとは何かを考えさせ,好きな詩の一つ。
「言葉なき歌」
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く葱の根のやうに仄かに淡い。
決して急いではならない。此処で十分待つてゐなければならない。
処女の眼のやうに遥かを見遣つてはならない。たしかに此処で待つてゐればよい。

 この石碑を故郷に建てるとき、「心置なく泣かれよと年増婦の低い声もする」の文章が省かれた。地下で眠る中也は嘆いているかもしれない。中也らしさが消されて。
「帰 郷」
柱も庭も乾いてゐる今日は好い天気だ。
縁の下では蜘蛛の巣が心細さうに揺れてゐる。
山では枯木も息を吐くあゝ今日は好い天気だ。
路傍の草影があどけない愁みをする。
これが私の故里ださやかに風も吹いてゐる。
心置なく泣かれよと年増婦の低い声もする。
あゝおまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

誰からも理解されず、孤独に耐えて、誰もが人生で経験する世の冷たさ。

「詩人は辛い」
私はもう歌なぞ歌はない。誰が歌なぞ歌ふものか
みんな歌なぞ聴いてはゐない。聴いてるやうなふりだけはする
みんなたゞ冷たい心を持つてゐて。歌なぞどうだつたつてかまはないのだ。
それなのに聴いてるやうなふりはする。そして盛んに拍手を送る。
拍手を送るからもう一つ歌はうとすると。もう沢山といつた顔
私はもう歌なぞ歌はない。こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない。

子供を失って、どういきたらいいのか分からない時期。奉仕の気持で生きなければとの心情に至る。「奉仕の気持ちにならなければならないという発想は、彼が生涯をつうじてみずからに課した「誠実」という倫理の最後の変奏である。ここでのこの倫理は、彼の心の内部に向かうのではなく、明らかに外部との関係でとらえられる。言い方をかえれば、多年疎外されつづけてきた生活圏との和解に向かっている。」中村稔。
「春日狂想」
愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(?)が深くて、なほもながらふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。奉仕の気持に、ならなけあならない。

大岡昇平は彼の死を聞き、「まるでドブネズミかなにかのようにぼろぞうきんが捨てられるように死んだ。」と言った。郷里に引き揚げようとしてまとめていた詩集『在りし日の歌』は、その翌年、友人小林秀雄によって出版された。彼の名は死後の出版を待ちしばらくして世に広まる。一方、長谷川泰子は長命であった。
一回では書ききれないが、中也は色んな事を考えさせ、疲れてしまう。次回くたびれなければまた書くこととする。

都内の庭園

2008年05月16日 18:03

芝離宮、浜離宮恩賜庭園の花、花、花

おだやかな春の休みの一日。お昼時、浜松町で降りて芝離宮恩賜庭園に向かう。藤棚の藤の花がまだ咲き残っている。水仙の花は満開。遠くに東京タワーが望める。
汐留の方に向かってしばし歩いて行くと、浜離宮恩賜庭園にぶっつかる。この庭園は将軍家の鷹狩場として作られたが、6代将軍家宣の時代に改修され、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園となった。更に明治に入ると、皇室の離宮となり浜離宮名付けられる。戦後東京都に下賜され一般公開される。広大な敷地に塩入の池とお茶屋があり、庭内には季節季節の花が咲き乱れる。5月の初旬には盛りを過ぎたボタンがうなだれている。

写真は 1、2、藤棚。3、水仙。4、すみれ。5、手の届くところに東京タワーが見える。6、海水の出入りが悪く藻が生えた池。7、8、9、牡丹。10、11、高層ビルがすぐそばまで忍び寄っている。
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三笠写真(補選)

2008年05月14日 11:07

旗艦三笠の写真の追加。

一度には載せきれなかったので、追加して写真を載せる。明治にこんな大きな軍艦があったなんて信じ難い。「坂の上の雲」の愛読者は来年、NHKの大河ドラマが始まる前に、一度見にいったら。来年になると、大勢押し掛けて、じっくりと見れないよ。毎年5月27日に三笠前の公園で日本海海戦記念式典が開かれているそうです。これも興味のある方はどうぞ。
敵前で取りかじ(左)大回頭だから、右舷の大砲が一斉掃射?

写真 1、左舷大砲。 2、長官ベット。3、長官バス、トイレ。4、右舷大砲。5、機雷、旅順港閉塞に使用。6、甲板。7、艦橋デッキ(指揮所)。8、艦全長。9、東郷元帥像拡大。
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高杉晋作

2008年05月13日 13:06

山口の湯田で生まれた後、小学、中学を下関で過ごした。そのせいか、妙に高杉晋作と乃木希典に親しみを覚えた。

高杉晋作と革命

「おもしろき こともなき世を おもしろく」と書いて力尽き、これが高杉晋作の辞世の句となった。臨終を見守っていた望東尼はそのあとに 「すみなすものは 心なりけり」と続け晋作の顔の上にかざした。晋作はそれに答えることもなく、「面白いのう」とつぶやき事切れた。不治の病、結核であった。高杉晋作享年28才。師の吉田松陰の生涯よりも更に1年短い。そしてその死は松蔭が亡くなって8年後のことであった。晋作はこの短い8年の間に命の時間を人よりも10倍速く回転させ、疾風怒濤の活躍をして、旧体制幕府を倒すという革命を起こした、明治維新樹立の最大の功労者である。墓は下関郊外の吉田郷に建てられ、墓碑には東行墓とのみ書かれていたが、明治になって彼の奇兵隊の同士、伊藤俊輔が 「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と墓碑に書き入れた。

革命の条件
司馬遼太郎は「世に棲む日々」の中で革命が起こるためには3段階の過程が必要だと述べている。 まず革命の初動期には思想家が現れ、「偏癖」の行動をとって、世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。これが吉田松陰にあたる。革命の中期には卓抜な行動家が現れ、奇策縦横の行動をとって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本龍馬がこれにあたる。これらの多くも死ぬ。次にそれらの果実を採って先駆者の理想を容赦なく捨て、処理可能なかたちで革命の世をつくり、おおいに栄達する。伊藤博文がこれにあたる。松蔭の松下村塾は世界的に見ても極めてまれなことに、この3種類の人間群を備えることが出来た。そこに明治維新の成功がある。

旧体制の打ち壊し
幕末、攘夷を叫べば世間は熱狂したし、幕府はペリー提督に屈して開国したがため、その動きに戦慄した。吉田松陰は長州の攘夷思想のカリスマであった。しかし松陰の死以後、弟子達、高杉晋作や井上聞多にとっては攘夷はどちらかと言えばスローガンか幕府の体制を揺さぶるための戦略材料となっていた。
 まず最初に晋作や聞多がやった幕府に対しての揺さぶりは御殿山にあるできたばかりの英国公使館の放火である。御殿山焼き討ち事件は幕閣を驚愕させ、世間には広く喧伝された。長州者のしわざらしいとの推測はついたが、幕府は長州藩とことを構えるのをいやがり、断固たる態度に出ることに臆病だった。この時、断固たる態度に出ていれば長州藩は壊滅し、維新の成業はなかったであろうと品川弥二郎は明治になって回顧している。この時をもって、維新という湧き水が滔々と流れだし、大河となってうねりだす。
また晋作は小塚原の刑場で斬首された松蔭の遺骸を引き取り埋葬するため、世田谷の毛利邸(現在松蔭神社)に向かう途中、将軍家代々の廟所である寛永寺の将軍のみに許された出入り口、御成門の手前にある忍川の中央にかかる将軍専用の御成橋を遺骨を抱き、馬に騎乗のまま押し通った。その辺りの様子が司馬遼太郎の「世に棲む日々」に書かれている。橋の番人はそのまま押しとおれば天下の大罪となり、即刻首を刎ねられぞと叫んだが、晋作は「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放った。「橋番さがれ勅命である」。「何が勅命」訳を聞こうと番士が応じた。訳は家茂(時の将軍)に聞けと渡りきってしまった。番人は更に追いすがって「名をなのれ」とわめいた。晋作は馬上ふりかえりざま長州浪人高杉晋作といった。この御成橋騒ぎもすぐに幕閣に通報されたが、表立っての沙汰はなかった。更に、このような話しは続く。これらの事件で長州に呼び戻される途中でも箱根の関所で「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよいか」と関所破りをして通った。江戸300年、将軍を沽券にし、白昼堂々関所破りをしたのはこの男だけである。

奇兵隊組織
晋作は革命家でその行動も破天荒である。しかし怖いものが一つあった、長州藩主の毛利家に対してである。この男程毛利家に対しての忠誠心の激しい男はいないと司馬遼太郎は述べている。そのような男が、長州藩を幕府と決戦させ木っ端みじんにくだけさせ、その過程で300諸藩を大混乱に陥れ乱世を引き起こし、長州も滅ぶ代わりに幕府もほろび、どろどろとした混沌の中から新しい秩序を打ち立て、今までにない日本を作り上げる。「その日本こそ列強の侵略に耐えうる新生日本である」との信念で長州藩と幕府を無理心中させようというのだからまさにその思想的苦痛は悲壮を通り越したものであった。長州藩を火中に放り込む以外に日本革命の方法はないとの信念であった。
長州は藩をあげて気が狂った。攘夷を唱えるうちに列強を相手に宣戦布告し、関門海峡を通過する外国船に砲撃を加え始めた。当然のように、完全武装した軍艦が大挙して下関にやってきた。うろたえにうろたえた長州藩は困ったときの神頼みとばかりに高杉晋作に馬関防衛を委任してしまう。しかし、間抜けなことに藩の軍事組織の全権を与えなかった。やむなく晋作は藩の正規兵に大して奇兵という身分を問わない雇傭兵を新たに作り初代の奇兵隊長になる。藩はこの功労に対し、晋作を政務役という藩の重職につけた。この時の晋作程短期間に大出世をして、藩の中枢権力を握ったものはいないという。しかし、晋作はいとも簡単にことが終わるとあっさりと辞めて浪人になってしまう。
この奇兵隊が後々の藩の主流であった旧守攘夷派を殲滅するときも、長州に四境から攻め入った幕府軍を打ち破る際にも主役を演じる。

革命の申し子
晋作は一旦ことあれば精神が高尚し、迅速に後の時代から見ても考えうる最大限の活躍をする。 しかし戦い終わり、精神が鬱になると、さっさとその職を辞し、呑み屋に沈殿する。というまさに革命の申し子といえる人物であった。晋作のやり方は、「一旦潮流(攘夷とか佐幕とかの)が流れ出せばそれを止めることは不可能である。潮時の変わるまではひたすら、逃避に徹し逃げ回り、潮流の変わり目と見るや、一気呵成に事をなす。」とむやみに勤王を唱えて死んで行った志士達とは異なる。それが狂気の行動でありながら成功した秘訣かもしれない。いずれにしろ、「高杉晋作の8年間の狂気が現代日本を作った」といっても過言ではない。
キューバ革命を起こしたチェゲバラに通じる所がある。彼も革命のみに専念した。カストロは伊藤博文に似る。


東郷神社と青山霊園

2008年05月12日 17:56

東郷神社と青山霊園
数日遅れて、旗艦三笠の艦長で連合艦隊司令長官であった東郷平八郎元帥を祭ってある東郷神社にも詣でた。東郷神社は現代風の衣装で着飾った若者達でごった返している原宿の竹下通りを抜け、左に曲がったところにある。境内は竹下通りの賑わいが嘘のように静まり返り、明治へと時代が戻った感がした。
坂の上の雲に頻繁に登場し、日露戦争で活躍した秋山真之、好古のお墓には以前からいつかは詣でようと思っていた。しかし、秋山真之のお墓は鎌倉霊園と距離的に遠いところにあるので、別の機会に訪れることにして、東郷神社からそれ程遠くない青山霊園に眠っている好古の墓を訪ねた。大体の場所は前もって調べていたものの、青山霊園は余りにも広大で、かなり熱心に探したが、ついに見つからなかった。しかしその途中で北里柴三郎の墓を偶然にも見つけた。明治期に活躍した人々の古い立派なお墓の向こうに六本木ヒルズが覗いていた。
日頃、仕事に、私事にと忙殺され、風景や四季を楽しむ余裕のない人々。時折目をあげ、周囲を眺めてみよう。東京都内に何気なく明治と平成が隣り合っている。季節が変わり、自然を背景にした時代が変わって行く姿を眺める余裕を持とう。
写真は 1、東郷神社の門柱、2、鳥居。 3、本殿。4、北里柴三郎のお墓。5、青山霊園から見れる六本木ヒルズ。

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三笠と東郷平八郎

2008年05月12日 17:28

 旗艦三笠の見学
天気晴朗なれども波たかし。皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。の訓令で始まった日露海戦の我が連合艦隊の旗艦三笠を横須賀に見に行った。前に見た時は何の気なしに見て,記憶に残っていなかったので、「坂の上の雲」の愛読者としてはじっくりともう一度見ておこうと思ってことだ。天気予報では晴れることになっていたが、雨が残り、昼近くになっても霧のような小雨が風に舞っている。横須賀中央駅で降りた頃には雨も上がり、薄日がさしてきた。米軍の基地の方に向かって歩く。以前、桜の咲く頃基地公開で基地の内部を見に来たことがあったがそれ以来である。基地のゲートを右折し、海岸に突き当たるとそこに三笠が陸上にあげられ繋留されている。入場料500円。思ったより船体が大きく、全長をカメラに収めることができなかった。
写真は 1、三笠艦首。2、三笠中央部分。3、三笠艦尾。4、艦戦歴。5、艦長室、東郷元帥の書いた興国の荒廃の書が見える。6、砲の発射風景。7、艦首の主砲。8、東郷元帥や秋山真之が実際に指揮した艦橋。9、翩翻と翻る日章旗。 10、東郷元帥像。
 
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夜の東京タワー

2008年05月12日 14:38

東京タワー
ゴールデンウイークの祭日の朝。夜来から降り続いている雨は明け方になっても止まず、久しぶりのまとまった雨となる。大地は雨水を吸いきれず、所々水たまりができ、樹々の葉から水滴がしだれ落ちる。この前までは、窓から見える樹々も寒々と、空に幹や枝を曝していたのに、今では萌黄色やら、深緑やらの葉っぱの衣をまとい、堂々とした大木を誇っている。桜の樹々も今や、花を散らし、華やかだった面影もなく、青々と葉を茂らし、雨に打たれている。公園に人影もなく木のベンチやブランコも雨に濡れ、寂しげにたたずんでいる。
夕方に数人の友と歓談するため都心に出かける。京急を三田で乗り換え御成門で降りる。道ばたに本殿と離れて増上寺の古い門が厳重に囲まれた垣の中にあった。東京プリンスの向こうにはイルミナーションをつけた東京タワーが煌煌と輝いていた。
写真は 1-2, 増上寺の門. 3, プリンスホテルの彼方に見える東京タワー. 4, 東京タワーをバックに. 5, 続東京タワー.

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宮本輝 錦繍

2008年05月02日 18:05

宮本輝作 「錦繍」

香櫨園に住む勝沼亜紀は障害をもつ息子に満天の星を見せてあげようと思い立ち、紅葉の真っ盛りの蔵王山に行く。
「蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラリフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした」の書き出しではじまる錦繍は宮本輝が終生背負っているテーマ「人の哀しさ、愛おしさ、生きるとは、命とは」を考えさせる作品でもある。ゴンドラの中で「私は見事な紅葉をみたくてゴンドラに乗り込んだのに、片時も樹林に目を移すことなく、目前の一人の男性を凝視しつづけていたのです」と有馬靖明と再会する。

 下りのゴンドラは親子だけでゴンドラ外にみえる真っ赤な紅葉と悲しく波立つ心とで「全山が紅葉しているのではなく、常緑樹や茶色の葉や、銀杏に似た金色の葉に混じって、真紅の繁みが断続的にゴンドラの両脇に流れさっていくのでした。それ故に、朱い葉はいっそう燃え立っているように思えました。何万種もの無尽の色彩の隙間から、ふわりふわりと大きな炎が噴きあがっているような思いに包まれて、私は声もなく、ただ黙って鬱蒼とした樹木の配色に見入っておりました。私はあの烈しい紅葉の色合いに酔ったまま、確かに、何かしら恐ろしいものを、しかもしんと静まった冷たい刃に似たものを、樹木の中の炎に感じたのでございます」と亜紀は心情を吐露する。
  夜になり旅館を抜け出してダリヤ園のベンチに清高と座っていつまでも宇宙のきらめきに見入っていると、「ああ、それらの星々のなんと寂しかったことでございましょう。そしてそれら星々の果てしない拡がりが、なんと途方もなく恐ろしく感じられたことでございましょうか。私は、あなたと十年振りに、突然みちのくの山中で再会したということが、なぜかとても悲しい出来事であったように感じられて仕方ありませんでした。私は顔をあげて星を眺めつつ、悲しい、悲しいと心に中で呟いてみました。するといっそう悲しさが募ってきて、十年前のあの事件のことが、スクリーンに映し出される様に甦って来たのでした」と十年前に幸せな結婚生活をしていたこと、さらに別れる原因になった心中事件にと触れていく。現在、亜紀は勝沼という大学講師と再婚し、8歳の障害児をかかえているが、夫とは冷えきった結婚生活を送っている。一方で、有馬靖明は絶望にうちひしがれているところを令子という逞しくて明るい女性に生きる力を与えられる。
 有馬靖明は中学時代を東舞鶴で過ごした。「東舞鶴は私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした。実際、東舞鶴は京都の北端の、日本海に面した閑散とした町でした。冬は雪、夏は湿気、それ以外の季節はどんよりしたあつい雲ばかり」といううら寂れた町であか抜けて、美しく、大人びて、不良がかった、華やかな瀬尾由加子に惹かれていく。その由加子に京都で再会し深い関係になり、無理心中へとつながる。「なぜ由加子が自らの命を絶ったのか、なぜ彼女が私をナイフで刺したのか。私と由加子の間に、唯人も立ち入ることのできない烈しい秘密めいた愛情というものが実際に存在したかどうかも、曖昧模糊としたもので、烈しかったのはあの舞鶴での少年時代だけのことであった」と自分の心情を述べている。別れ話をもちかける。「私の中にふたつの心がありました。やはりあぶくみたいに湧いてくる嫉妬、それと安堵でした。これで何のトラブルもなく別れられるという身勝手な安心感が、私に妙に大人ぶった鷹揚な態度を取らせていました」。由加子の計った無理心中の結果、彼女は一命を落とす。靖明はかろうじて一命をとりとめ、亜紀との離婚を余儀なくされる。亜紀はその話を聞き、「涙が涸れるほどいつまでも泣いていたのでございます。私は悲しかったのでありません。これから、何か不幸なことが始まって行きそうな気がして、烈しい恐怖に駆られていたのでした。私は帰宅を急ぐ勤め人の群れに混じって。黄昏の御堂筋をまた帰っていきました。泣いたあとの顔を伏せて歩きながら、私は離婚の決意をしました。行きたくもないのにむりやり船に乗せられてしまい、すうっと岸壁から離れてしまった、そんな思いがしました」。愛しているのに無理矢理別れさせられた不幸と、悲しさと、不安が入り交じった心境がよく現れている文章です。
ドッコ沼のリフトで再会し、靖明は「あなたと、松葉杖をついた息子さんが、ゆっくりとした歩調で通り過ぎていくのを眺めていました。林のところを過ぎ、山道を右に曲がって、完全に姿が消えてしまってからも、私は長いことその場に立ち尽くして、おふたりの消えていった道の曲がり角を見ていました。その道に降り注いでいる金色の木漏れ日が、かって自分の人生で一度も見たこともない寂しい荒涼とした光の刃となって、私の汚れた垢まみれの心に突き刺さってきました」と再会時の思いを表現し、その時の心の動揺がよめる。
 「彼女はとても十四歳の少女とは思えぬ媚態で、私にほほをすり寄せ、唇をはわせた。十四歳にして、何のためらいもなく、男にそのように振る舞えることが、瀬尾由加子という人間のもっていた一つの業といえるのではないか。由加子の体の感触を、私は自分の心のあちこちに感じました。私は死んでいる自分を見つめていたもう一つの自分に、がっしりとまとわりついて離れていこうとしなかった「あるもの」の正体がなにであったのか、おぼろげに判り始めたような気がしてきました」。宮本輝特有の「あるもの」との抽象的な表現。それをこう説明しています。「己のなした全ての行為と、そればかりではなく、行動にあらわぬまでも、心に抱いただけにしか過ぎない恨みや怒りや慈しみや愚かさなどの結晶が、命そのものにくっきりと刻みこまれ、決して消えることのない烙印と化して、死の世界に移行した私を打擲していたのではあるまいか」。
うーむ、難しい。このように哀しい命の営みが、美しい風景を背景に、ちりばめられ、いっそうその哀しみをそそる。
 宮本輝の「心根のやさしさ、人間愛」がこの哀しさ、寂しさに救いをあたえる。亜紀には靖明と離別後に再婚した勝沼との間に清高という障害児がいる。その清高が亜紀の生命の火となり、靖明にとっては令子という逞しい女性が生命の杖となって新たな道を踏み出すことを決意させて小説は終わる。
宮本輝の小説は奥が深く、人生を考えさせてくれる。必ずと言っていいほど、人の死があり、悲しみがあり、それを北陸地方の寂しい、陰鬱な情景がいっそうその情感を深め、明るい華やかな情景として神戸がでてくる。最後には、宮本輝独特の人間愛がでてきてすくわれる。よほど、香櫨園が好きなのか、本作品では香櫨園に由加子がすんでいることになっているが主な舞台は秋の蔵王である。この小説は全て手紙のやりとりという、形式で進められていく。何遍読んでも心を打つ、しかも奥の深い小説である。好きなだけに愛着があり、省略することができず、長い長い解説になってしまった。

再度山からの夜景

2008年05月01日 12:36

神戸の夜景 2

再度山の展望台からの夜景。六甲山からの夜景と違って目の前に神戸の灯の光がある。

写真は1-3
[再度山からの夜景]の続きを読む

六甲山からの夜景

2008年05月01日 12:11

神戸の夜景

「昭和の日」の祭日の夕方、神戸の夜景を撮るべく車で六甲山に上った。ゴールデンウイークの始めとあって、道が混んでいるのではないかと懸念して出かけたが、思ったより短時間に山頂に到着した。山頂から見る神戸の街は春霞に煙っていた。撮影に良い条件だとは思われなかったが、日没をまつ。まだ時間が一時間以上あったので、お茶を飲みながら日が沈むのを待つ。7時過ぎると、あたりは薄暗くなり、神戸の街の灯りが一段と輝きを増してきた。7時10分あたりが十分暗くなったところで、店を出る。
展望台から眼下に神戸の町並みが広がり、光が所々かたまり、あるいは線のように伸びて繋がり、赤と青色のネオンがビルの上にきらめき、光の海が大阪の方にまで伸びていた。
帰りに立ち寄った再度山の展望台からは、神戸の街が手が届くような近さで、光の渦となって目に飛び込んできた。ポートタワーの赤い光の塔が目前に見え、三ノ宮の高層ビルの窓の明かりが一つ一つ見えた。

夜景をとるための三脚を持って行かなかったので、手ぶれの写真が多く、固定したつもりで、撮ったものも,いまいちのqualityであった。
その中から、見るに耐えるものを選び出した。
写真は 六甲山からの  1.春霞みの神戸. 2.夜景 3.夜景
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