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再びくりくりさん

2008年06月24日 18:06

「くりくり殿下」の小栗へのふかーい思い。

小栗上野介の化身になったかのようなくりくり殿下の迸る情熱には感服いたしました。
私のようにあまのじゃく的に歴史を後から批評するのはいともた易い事。「歴史の勝者がねじ曲げたであろう史実が曇りガラスという偏見を通してでないと見えてこない」ということを考慮する必要はもちろんあります。しかし曇りガラスを透明して小栗上野介を見ようと精一杯努力して、彼がなしてきた足跡をたどるに、彼のなした改革や軍隊の近代化が近代日本の礎となったことは間違いないとして、行動が余りに秀才的で淡白で、どろどろとした人間臭さを感じないのです。くりくりさんは徳川慶喜が大政奉還し恭順の姿勢を示した際、上申書を出してそれが受け入れられなかった彼の心境を「小栗の気持ちになってみてください。まさに、断腸の思いではありませんか。あえて、事を起こさない、、、のです。」と言っています。ペンペンはそうは思わないのです。内部から腐りかけたものをそのまま放置しておくと全体にその膿みが廻り、日本全体が腐ってしまうのです。この際は徳川という腐った体制を何があっても変える必要があったのです。その当時の勤王の志士達には日本国は徳川のものではない、300年前に武力で権力を奪取して私物のように諸大名に御を着せて領地を分配しただけだという意識が強かったのです。特に土佐藩の、長宗我部家の家臣達は、大坂の夏の陣以降にやってきた山内家によって郷士としておとしめられ、数の少ない山内家の家来は全て上士として君臨するという身分制度でがんじがらめに縛られ、長州藩や薩摩藩は関ヶ原の恨みを永年持ち続け、その鬱屈したハングリーさが幕府を打ち負かしたといってもいいかも知れません。薩摩の島津久光などは自分が徳川に変わって将軍になれるものだと思い込んで、西郷隆盛にいつになったら将軍になれるのかと聞いたと言います。小栗は幕府の高級官僚の子供として、幼少の頃からの聡明ぶりを幕府の要職についても発揮させ、ある意味では庶民の貧困とか怨念とかに無縁のおぼっちゃま育ちだった。その分、欲がなく罷免されれば田舎にこもって隠居すれば平穏に暮らせるだろうとの甘い認識しかなかった?執念というものがなかった?ところが田舎者の、貧乏人の恨みは怖い。有無を言わさず斬首されてしまう。
もしということは歴史では許されないが、もし私が小栗であったなら、江戸のお膝元では戦わず、江戸を逃げ、函館まで行って戦ったであろう。その頃には新政府も余裕ができ、あれ程反抗した榎本武揚が結局許されたように、彼も許され、新政府で活躍していたであろうことが想像できる。くりくりさんの言われる如く、「小栗が残した足跡もまた、いぶし銀の如く歴史上に輝いている」ことも間違いありませんが。心情的には結果はどうあれ、どこかで「くり」のするどい「いが」をもって官軍に一刺ししてもらいたかった。
                            平平凡々のペンペン
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生物の多様性(4)

2008年06月23日 17:13

恐竜はなぜ滅んだのか?

今から6500万年前の白亜紀と第3紀の境界でなんらかの激変が勃発し、あれほど繁栄をきわめた恐竜は白亜紀末に唐突に滅んでしまった。これをKT(Kは白亜紀を意味し、Tは第三紀を意味する。)激変と呼ぶらしい。KTを境界にしてK紀の地層からは様々な恐竜の化石が発見されるが、T紀の上層からは全く発見されない。この激変の原因については様々な説がある。主なものとして1. 宇宙からきた新種のウイルス説。2. 火山の爆発説。3. 隕石の衝突説。があげられている。
そのなかで現在一番有望な学説が隕石の衝突説である。隕石の衝突によって巻き上げられた粉塵により、太陽光が妨げられ、食物は枯れ、食べ物を失った多くの動物が滅んだ。更に気温の低下はそれに拍車をかけた。
 なぜこの説が有力になってきたのであろうか。ウオルター アルバレズは1970年代末にイタリアのグッピオの地層を調べている時に、KT境界の薄い粘土層に極めて多量のイリジュウムの放射性同位体が含まれている事を発見し、父でありノーベル物理学賞受賞者のカリフォルニア大学の理論物理学者に助言を求めた。イリジュウムは地球の表面にはごくわずかにしか存在しないが、隕石中にはかなりの高濃度で含まれている。当然の帰結はKT絶滅は隕石の衝突によって引き起こされた激変であるということになり、Science誌に親子のアルバレズと化学分析を担当したアサロとミッチェルの共著で出版された。この説は最初はかなり批判的な目で見られたが、ノーベル賞受賞者というビックネームで発表されたためもあり、勝ち馬に乗ろうと、隕石の衝突で大量絶滅が引き起こされたとの証拠を出そうとする研究者が続々と後に続いた。世界各国でKT層のイリジュウムが測られ、そこでも多量のイリジュウが含まれていることが確認された。更に衝突をうらずける証拠を補完する新たな証拠としてKT境界から微小な「衝撃変成石英」が見つかった。石英はどこにでも存在するありきたりの鉱物であるが、高圧下で衝撃を受けると独特の変成をし、「衝撃変成石英」となる。これは隕石が衝突して出来たクレーター周辺で多量に見つけることができる。この鉱物がKT層で存在することの説明は隕石衝突以外では不可能であり、一気に隕石衝突が恐竜絶滅の原因であろうとする説を最有力に押し上げた。
 新しいアイデアが登場しそれがものになりそうだと分かるとそれを裏づける証拠を探しまわろうとする情熱はすごいものだ。グッピオのKT層でイリジュウムの異常値が発見されるとたちまちそれ以外のKT層にも同じ異常値が見つかったとする論文が10編近くも発表された。大切なのはそのアイデアがまだ新鮮なうちに、そこに「自分の名前も貼付ける」ことなのだ。科学を前進させる原動力は野心と競争と真の知的探求の混合物である。「一番乗りしたい、他のチームを打ち負かしたい、有名人と仲良くする事で利益をえたい」といった願望の全てが科学の発展に寄与する。ましてや恐竜絶滅の隕石衝突説は最初からビッグネーム付きで発表された。多くの学者が早く列車を乗り換えて隕石号に乗ろうとした意図はよくわかる。研究とて欲の深い人間がやっていることなのである。

格差社会と研究者

2008年06月18日 12:55

研究者として生きる。

明け方,多分明け方 夢を見た。研究室に行くと、すっかり模様替えされていて、自分の席が無くなっていた。これで研究生活も終わりかとの感慨がふーっと湧いてきた。寂しさと、不安とが胸に迫ってきた。と思ったら目が覚めた。これぞまさにいつも言っているグローバル化というもの。若くて優秀な研究者がでてくれば、駆逐されていくしかない。これはスポーツの世界でも同じ。いくらいい成績を出して、栄光を極めていたとしても、その成績が落ちればあっという間に若い人に取って代わられる。若いチャレンジャーは毎年、毎年登場し、中堅、ベテランはこれらの若手と常に競ってそれ以上の実績を出していかなければならない。研究者もその卵が毎年博士課程を巣立って何千人と出てくる。この多くの研究者の中で生き残っていくことは大変。特徴のない、専門性のない研究者は淘汰される。グローバルにどこでも生きていける能力のある人のみが研究者としての生活を享受できる。その能力がなければ、日本で今、現実に起こっている様に、日本的に生きてきた人、特別な技能も、才能もなく、専門性も持たない人たちは益々哀れな老後をたどって行くことになる。国は年金でカバーできる財力が残っていない。一人一人が独力で生きていかなくてはならない。ある程度の範囲内に入っていないと正社員すらなれない、派遣社員という不安定で、将来性のない待遇で生きて行かなければならない。昔のように、親の跡を継いで、百姓をする、商店、工場を継ぐということもままならない。まさに多くの若者が雇傭難民として世に満ちあふれ、社会を不安定にしている。
それ以上に大変なのが、世界の人口がどんどん増え、ますます国際的な競争が激化し、反対に、日本では人口が減り、日本経済が沈下し、国家が大借金を膨らませ続けていること。それにもかかわらず道路は作り続けようとしている。まさに、国破れて、山河有りというより、自然までも破壊しつくし、山河も残らない。世界人口1、2位を占める中国や、インドは経済が発展し、競争力がつき、日本がこれまで行ってきた様に、世界の富をかっさらっていくようになる。今まではマグロ、キャビア、フォアグラと高級な嗜好品を金にものをいわせて買いあさってきた。いまは中国がより高い価格で買い取っていく。将来的には人口が多いだけに、日本が過去に行なってきた比ではない。膨大に膨らんだ余剰のお金が投資へと流れ込み、実態経済を破壊するという資本主義経済の限界が見えてきた。このようになるとかえって国家戦略をもった統制経済を行なっている中国やロシアなどの国が有利となる。アメリカ経済はサブプライム問題で次第に弱小化し、中国やロシア、インドが台頭し、金にものを言わせて物資を買い占める。経済戦争に負けた日本などの国は物資の補給が十分でなくなり、2流経済国の悲哀を味合うことになる。国の格差の増大とともに、ドルや円の価値の凋落を招き、個人格差も広がる社会となる。
しかし研究者はまだいい。研究そのものがグローバルなので、日本で研究しなければいけないということはない。一人前の研究者であればどこの国でも雇ってくれる。研究できる。要は、何も考えずに、一人前の研究者になることだ。そうすれば、日本でも、もし日本で研究が出来なければ、ヨーロッパでも中国で行って生き残ればいいのだから。研究に国境はない。
最低限研究者として生きて行くための条件は「自分で発想し、計画を立て、実験し、きれいなデータをだし、論理展開に矛盾がなく、自分で英文の論文が書ける」能力。これがあればどこに行っても通用する。更に一人前の研究者になるには「人のまねをするのではなく、どんな狭い分野でもいいから独自の領域を拓くこと」。芸能界でも良く言われることだが、売り出しには大切なのは突拍子でもいいから、キャラが他人とかぶらないユニークなこと。長続きするかどうかは別にして、芸風の斬新さが重要。「グーグー」や「この豚やろう」、「裸の獅子舞」や「間違いない」,更には「get's」に至ってはその意味すらないが、それでも何万人の中から出てきて、一時期流行した。
欧米人に比べ、日本人は流行を追い求める事が好きで、そこにいないと取り残される気がする。しかし大勢の中から評価され新たなポジションを得る場合、論文の質や数も大切だが、決め手となるのは「他人にはない、他人と異なる研究をしていて、こいつは変わっている、将来面白いかも」との印象である。しばし実験の手を休めて何か突拍子で、今までの考えとは違った現象がないか考えてみよう。

小栗上野介 パート2

2008年06月17日 14:22

くりくりさんの小栗上野介への熱い応援

くりくりさんは「最後まで筋を通して滅び行く者」への愛着が深い大和魂の持ち主だとお見受け致します。
小栗上野介は確かに幕末に日本の近代化に尽くしました。そして日本海軍の礎を作ろうとしたことも間違いありません。しかしなにが勝海舟と決定的に違うかと言えば、かれの言動はあくまで幕府の官僚の域を出ていないのです。戦略家は時には政治家以上に権謀術数を尽くして事態を有利に持ち込まなければならない時があります。特に重要なのは日本が植民地化されるとの危惧がありながら抗戦を貫いたことです。幕府は軍艦を40隻も持ち、さらに最新鋭艦が届く予定になっていたにも関わらず、それを使いこなす事ができなかったことも幕府がみすみす負けた原因です。まともに勝負してれば圧倒的に幕府が有利でした。大村益次郎も言っていますが、小栗上野介が官軍を叩く作戦として、それらの艦隊の大砲をもって攻め上がってくる官軍を海沿いの東海道で叩くという案を上申しますが、すでに時は遅く、徳川慶喜はひたすら恭順することを決めた後でした。言ってみれば官僚であって西郷隆盛や勝海舟のような政治家ではなかったということです。戦略的に言えばもっと早い時期に、天皇の詔勅を薩長が得る前に近代的な武器を持って動く。これが一番。また会津を含めた全く旧式の武器で、身分制度に縛られた諸藩を重用するよりも、幕府自ら率先して薩長を攻めるべきでした。しかし旗本は太平の世に慣され、腰抜け状態にあり、結局は強力な武器がありながら宝の持ち腐れにしかならなかった。くりくりさんの言ってますようにこれが明治維新の政府には非常に役立つのですけれど。時代が変わるときは必ず敵対する勢力の力が拮抗して戦いあう期間があります。信長も一向一揆や石山寺本願寺との長い苦しい戦いを調停という形でどうにか終わらせ、それ以降は破竹の勢いになります。どちらに流れが傾くかの戦い、つまりある時期をへて、それを分水嶺とよびますが、一滴の岩清水が、どちらに向けて流れ出すかの流れを作り、それがどんどん大きな流れとなり、圧倒的な流れとなって勝敗を決定づけるのです。小栗上野介も殻から出て戦っていれば勝利間違いなかったでしょう。こんなことを言うとくりくりさんからおしかりをうけるかもしれませんが、結局は小栗上野介は官僚的秀才の域をでず、八方破れの天才にはかなわなかったというべきなのでしょうか?
しかしこれとても、歴史を後からみて批評する一凡人の戯れ言にすぎませんが。

山崎豊子と神戸(関西)

2008年06月16日 12:37

山崎豊子ワールド:緻密な取材と小説
山崎豊子は大阪にうまれ、毎日新聞で井上靖のもとで、記者としての訓練をうけた。「暖簾」や「花のれん」を執筆してプロの作家となる。彼女の作風は初期の頃は船場や吉本興行を題材にした作品である「暖簾」、「花のれん」、「ぼんち」や「女系家族」を通して、船場や旧家の慣習やその確執などが女流作家らしく、女性の豪華な着物や料亭の食事の華やかな様子を所々にちりばめながら現実のドロドロした人間が描かれている。特に「女系家族」では船場の旧家に婿養子として入り、一生嫁に頭が上がらず、耐え忍び、3人の子供も全て女という女系家族の中の唯一の男性が、最後に遺言でその鬱憤をはらすというストーリー展開も面白い。
「白い巨塔」の頃から社会現象に目を向け、大学病院内、会社内での権力闘争をテーマにするようになった。「白い巨塔」、「華麗なる一族」や「沈まぬ太陽」がこれにあたる。「沈まぬ太陽」は日本航空の社員、恩地元を主人公に日航で実際にあった内部紛争と日航機墜落事故をモデルとした小説である。
日航幹部社員、労働組合と監督官庁である運輸省のエゴと私利私欲むきだしの権力闘争の前には個人や社会正義等はいかに無力であるかが分かる。私はこの本を読んで日本航空には2度と乗るまいと誓った。
陸軍の超エリート参謀として活躍した瀬島龍三のシベリア抑留や帰国後の伊藤忠商事での活躍を描いた、「不毛地帯」、アメリカの捕虜収容所の日系2世を扱った「二つの祖国」、中国残留孤児と新日本製鉄による日中共同プロジェクトによる大製鉄企業の設立を扱った「大地の子」は第2次世界大戦に発する大きな社会問題を扱った、スケールの大きい読み応えのある小説である。山崎豊子の小説は必ずと言っていい程、そのモデルがある。社会問題化した内容を知って小説を読むと裏が理解できて一層興味が出てくる。その反面、資料に忠実なあまり、いずれの小説においても盗作疑惑が持たれている。私はストリー展開の巧みさとそのバックにうごめくドロドロした人間模様をうまく織り込む巧みさにはほどほど感心している。

神戸が舞台の『華麗なる一族』

山崎豊子によって書かれた「華麗なる一族」はTBSでドラマ化され, 木村拓哉が万俵鉄平を演じたことで有名である。山崎豊子の小説にはかならずそのモデルが存在する。本作品中の万俵大介が頭取を務める阪神銀行は神戸銀行で、大介は20年間オーナー頭取として君臨していた岡崎忠(岡崎財閥)であるとされる。神戸の岡崎といえば神戸銀行、同和火災海上保険に君臨する一族として有名で須磨離宮公園の植物園が旧岡崎邸。
息子の鉄平が社長を務める阪神特殊鋼は山陽特殊鋼がモデルである。山陽特殊製鋼(株)は神戸銀行がメインバンクの大手特殊鋼メーカーであったが、過剰の設備投資により1965年倒産する。この倒産は戦後最大の倒産として注目を集めた。倒産をきっかけに粉飾決算が明るみにでて経営陣は詐欺容疑で起訴される。万俵鉄平のモデルはその際、管財人から唯一会社に残るように指名され、再建に努めた常務の上杉年一だとされる。一方、神戸銀行は大口融資先に問題があり、背伸び経営が大蔵省から指摘され、また経営陣は優雅な趣味三昧で経営には向かないとのレッテルを貼られ、山陽特殊鋼倒産の2年後に岡崎は詰め腹を切らされる形でやめ、大蔵次官経験者の石野信一が頭取に就任する。その後太陽銀行と合併し、さらに三井住友銀行になり、神戸の痕跡は跡形もなく消えてしまう。体のいい大蔵/財務省の乗っ取りで芝居が終わった。
山崎豊子の小説からの教訓:権力(官僚)は企業内のトラブルに付け込み、足をすくい、勢力を拡大する。

生物の多様性(3)

2008年06月11日 11:45

カンブリア紀での生物の爆発的進化

カンブリア紀に生物種がなぜ爆発的に増えたのか?その最大の理由は自然界における競争原理の導入である。
カンブリア紀初期の地層からは、先カンブリア紀には見られなかった有殻微小化石なるものが突如出現し始める。この事は殻や骨格をそなえた動物が現れはじめたことを意味する。生物圏において体のサイズが重大な意味を持ち、大きな体を作るにはそれを支える支持構造(骨格)が必要である。殻はリン酸カルシウムで出来たものや、現在の動物の殻として一般的な炭酸カルシウムでできたものもすでに存在した。一旦骨格が形作られると、大きな生物が、ほとんどは節足動物が出現してきた。その代表が三葉虫だ。さらに大切なのは、カンブリア紀になると何よりもそれまでの共存共栄の関係が崩れ、食物連鎖の関係が始まり、がつがつと食らう動物が出現し、補食という行為が始まったことである。これ以降、地球上では力による序列、弱肉強食が横行するようになる。カンブリア紀に進化した動物達は迫り来る捕食者をさけつつ、子孫を残す懸命な努力をする。生態的関係に競争が導入され、動物達はお互いに競い合い、適応度を高めて行った。捕食者が現れると、非補食者側に防御用の外骨格が進化した。それがさらに優秀な捕食者の進化を促し、それがさらに頑丈な殻をもった生物の出現を促し、一種の軍備拡張競争が続いた。骨格を獲得したがため、それまでは数ミリ程度しかなかった節足動物の、サイズがどんどんと大きくなれるようになった。一方で、カンブリア紀になると酸素濃度がある一定以上に達し、大型動物の呼吸が可能となった。これらがカンブリア紀に爆発的に生物種が増えた主な理由である。
カンブリア紀には骨格を備えた動物が出現し、それが連鎖反応のように、次から次へと変化が起こり、生物界で「食うと食われない」の進化の競争が起こった。現在の人間社会でも起こっている競争原理の導入による効率化と技術革新の促進と同じ原理が自然界においては命をかけた進化競争へと駆り立てて行った。競争は人間社会においても自然界においても緊張感を高めて、ある目的に向かって動物(人間)を駆り立てる最大のブースターだ。その最大のものが戦争である。

幕末の人物交流(2)

2008年06月09日 17:03

二人の幕臣:勝海舟と小栗上野介
勝海舟は1923年幕府旗本の子として江戸に生まれる。海舟は渡米して、目の当たりに巨大な軍事力と産業力をもつ欧米列強をみて一日も早く、列強に対抗しうる国力を身につけなければ植民地化されるとの危機意識が強くした。海舟は幕臣でありながら、幕府体制の身分や家柄に捕われ、保身に走る官僚的体制はどうしようもないと感じていた。彼自身は、幕府の重臣になっても気取る事もなく、お供もつけず、非常に開放的かつ日本が植民地化しないようにする事ができるなら幕府はつぶれても良いとの考えに至った。坂本竜馬や西郷隆盛などとも友好関係を結び、江戸を無血開城し明治維新へ導いた。幕臣であるため積極的に倒幕には動かなかったが、倒幕を見守ったと言える。幕府が長州討伐の派兵をした際、坂本竜馬が一番恐れたのは、海舟が圧倒的に強力な幕府艦隊を率いて攻めてくることであっったが、実際は官僚的で、優柔不断の老中小笠原長行が全権を持って攻めてきたことも、長州にとっては幸運なことであった。
勝海舟は坂本竜馬が世に出るきっかけを作り、西郷隆盛とともに、江戸城の無血開城を行ない、幕府軍が新政府に抵抗することにも反対した。海舟は隠れた明治維新の立役者と言える。海舟なくば幕末の歴史の流れは大きく変わっていたであろう。

一方、小栗上野介は1827年に新潟奉行小栗忠高の子として江戸に生まれる。アメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米。そのときの随行艦の咸臨丸に勝海舟が乗っていた。帰国後、外国奉行,勘定奉行を歴任。幕府の財政立て直しに活躍すると同時に、フランスのバックアップのもと、横須賀製鉄所(海軍工廠)を建設した。更に、陸軍奉行となり、海軍同様フランス式の近代軍隊の設立に努力する。余りにも早く近代化を急ぐあまり、フランスに依存しすぎたため、フランスと蝦夷地の譲渡や開港を約束していたとの説もある。徳川慶喜が大政奉還した後、鳥羽伏見の戦いを経て、主戦派と恭順派の議論が繰り返されたが、上野介は主戦論を貫く。1868年に罷免されると、現在の高崎市の権田村に引きこもる。同年官軍により捕縛、斬首。享年42才。小栗上野介は埋蔵金を赤城山の麓に隠したとの埋蔵金伝説で有名であるが、人物に対しての歴史的評価は2分されている。官軍に対し、徹底抗戦を叫んだため、処刑され明治になってからも正当に評価されなかった傾向にある。

坂本竜馬や西郷隆盛は幕府がフランスの後ろ盾で、圧倒的な軍事力を持つ事を、非常に恐れていた。そのため、フランスの影響力が強くなるのを喜ばない英国の援助を得て、新式兵器をそろえ、幕府の軍事力が強化される前に、倒幕の兵を進めたかったので、小栗上野介は官軍にとっては取り除きたい存在であった。これが官軍の海舟と上野介の処遇の仕方に現れている。小栗上野介は斬首されたのに対し、勝海舟は明治後も生き続け、参議兼海軍卿などの要職を得たが積極的に政治に関与する事はなかった。伯爵を授与される。76才で永眠。最後の言葉は「これでおしまい」であったという。

幕末の人物交流(1)

2008年06月07日 12:57

幕末の人物交流(1)
神戸誕生の原点、神戸海軍操練所の話し
1864年、当時の神戸村に坂本竜馬を塾頭とする幕府の海軍訓練所が勝海舟によって設立される。塾生に後の外務大臣睦奥宗光や初代連合艦隊長官の伊藤祐亨らがいる。
幕末の人物交流で坂本竜馬や勝海舟について書く前に、その二人が設立に深く関わった神戸海軍操練所について述べる。この設立がきっかけで神戸の街が出来、発展して行く。
龍馬が江戸の千葉道場の師範代で凄腕の剣客であったことは有名である。丁度江戸にいた頃、攘夷で凝り固まった千葉道場の跡取り息子の千葉重太郎が西洋かぶれの幕府の軍官奉行、勝海舟を斬りに行こうと誘い、二人で海舟の家を訪ねることから二人の交流が始まる。竜馬は北辰一刀流の、海舟は直心影流の免許皆伝で江戸の剣術道場では名を知られる存在。海舟はその意図を知りながら二人に面会し、司馬遼太郎の竜馬がいくによれば「俺を斬りにきたのかえ」といい、世界で日本のおかれている現状について滔々と述べます。海舟は咸臨丸でアメリカに行き、実際に見て、その国力の巨大さを実際に肌で感じています。このままだと日本は隣国の清同様植民地化されてしまう。植民地化を逃れるためには開国して、軍事力、経済力を高め欧米に負けない国力を持たなければならないと説得しますが、重太郎には通用せず、刀を抜こうとする。突然、竜馬は海舟に「弟子にしてください」といい、あっけにとられた重太郎は刀を抜くチャンスを逸してしまいます。海舟は幕府の重鎮であり、自らは幕府を倒すような行動はできません。そこで一介の浪人である竜馬に自分の知識や考えを伝え、軍艦に乗らないかいと誘います。この時の二人の会合がなければ英雄坂本竜馬の誕生はなかったでしょう。
海舟は竜馬のため神戸の生田に、当時の神戸は全くの寒村で小さな村であったが、幕府の神戸海軍訓練所を創り、竜馬に運営を任せます。海舟は塾生や村民に将来の発展を見越して、そのあたりの土地を買うように勧め、これが神戸という街の誕生の原点になった訳です。
神戸海軍訓練所は幕府の訓練所であるのにかかわらず、様々な藩からの脱藩者が集まり、池田屋事件に加わった人物も出て、そのせいで、海舟はお役御免となり、竜馬は独自の運営する亀山社中を長崎に設立します。
神戸海軍操練所は竜馬にとって切っても切れない海運や軍艦所有といった彼の生涯を方向づける第一歩になったわけです。



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