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生物の多様性(5)part 1

2008年07月30日 12:40

Flying (1) --- 飛翔をはじめた生物たち
空を飛ぶということは異性との遭遇、食物の獲得、敵からにげる、など種の保存に圧倒的有利に働く。進化の過程でいつの頃から生物が飛翔という行動を獲得したのか? 真っ先に飛び始めたのは昆虫だった。古生代の石炭紀(3億3000年前)にはいると森は30メートルを越す巨木やシダで覆われ、日のあたらない森の底辺をごきぶりのような昆虫ががさごそと這い回っていた。
昆虫のなかに変化が起こり始めた。原始的な昆虫が持っていた身体の外に飛び出した膜状のもの(gill)が変化して小さな翼状(flap)のものが出来始めた。最初はジャンプするとか少し長い距離を跳ぶ(leap)だけだったが、次第に大きな翔を獲得すると、ダイブ(dive)したり滑空(glide)したりすることができるようになり、更に進化して翔を羽ばたかせ、飛ぶ能力を獲得した。初期の飛翔昆虫は現在のトンボのように翔が胴体から突き出すような形で生えていた。翔の素材は体の他の部分を覆っているクチクラと同じ成分だが、その構造は翔脈で補強され,構造力学的に強度が高められている。初期の頃はその翔脈も網の目のようになっていただけで、現在のように航空力学的な理にかなったものではなかった。飛行も現在のトンボのような自由自在の動きができるものではなく、直線的に飛べる程度であったらしい。しかし、程なくすると、カモメ大の巨大なトンボも出現してきた。このトンボの化石はイングランド地方で発見され「ボルソーバーの昔トンボ」と命名されている。決して高速飛翔に適した翔ではなかったけども、巨木の森をゆったりと飛び回っていた。石炭紀後半ともなると、昆虫の空への進出が終わって、空中も様々な飛翔する生物でにぎあうようになってきた。しかし翼竜が飛ぶ翼、や鳥が飛ぶ羽の出現にはまだまだ時間がかかった。
空を飛ぶ装置の翔(昆虫)、翼(コオモリ)、羽(トリ)の進化は全く違うようになされた。次回まずは昆虫から話しを進める。

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幕末の藩主たち

2008年07月28日 12:03

幕末の殿様風景

幕末の諸藩で賢公と称されるのは薩摩藩の島津斉彬、福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂が挙げられる。長州藩の毛利敬親は凡庸な殿様との評価で「そうせい候」とのあだ名がつけられている。彼には確たる定見もなく部下が具申すると必ず、「うん、そうせい」と答えたという。しかしこのような殿様のお膝元で、吉田松陰をはじめとする維新に活躍する志士たちを各も多く輩出できたのか? 彼はなまじ、切れ者の賢候でなかった故、自分の才能を過信するあまり、自己の考えを強引に押し進める藩主と異なり、家臣の意見を積極的に取り入れ、才能ある人物の採用に熱心であった。才能ある英明な若者が大好きで、私利私欲を離れて、それらの若者に愛情をかけて,育てたくなる性格の持ち主であった。松蔭一人とっても、ペリーの船での密航の企てに失敗し、幕府は長州藩に身柄をあずけるが、通常の藩であれば即死罪となるべきところ、敬親は松蔭を惜しみ、野山獄に一年間入れた後、自宅に謹慎させることにするのだが、その謹慎一年あまり間に松蔭は松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋、久坂玄瑞らの逸材を育てた。これもたった一年間の塾である。期間の長さより、いかに集中してものを行うかが大切だということを教えている。松蔭が獄死した後も、敬親は命日には供養をし、晩年になってもその日には魚を控えたそうである。そんな優しい愛情あふれた殿様であった。
薩摩の島津藩は英明な誉れ高い斉彬から実質的な実権が久光に代わり、国父、副城公と称せられ、藩政の権力を掌握する。中下級藩士からなる精忠組のメンバーである海江田信義、大久保利道などを登用するが、その中心的人物である西郷隆盛とはそりが合わず、島ながしなどの処置をした。久光自身は積極的に政治的に動き、公武合体を押し進めたが、挫折。その後ご存知の様に倒幕路線にはしり、維新の樹立に重要な役割を果たす。しかし自分の意図に反して、権力が西郷隆盛や大久保利通に移り、廃藩置県野布告が行われると激怒した。久光にしてみれば幕府を倒せば自分が徳川に代わり権力の中枢につけると思い込み、それのみを目指して運動していたのが、いつの間にか自分に絶対服従すると思っていた、部下が独走し始め、全く新しい自分の及ばない政府ができてしまった。明治に入っても政府に出仕し、左大臣にまでなるが、旧習復活の建白書を出し、取り入れられず、また政府の意思決定過程から排除されたため鹿児島に隠居する。その後も洋化政策に反対し続け、髷をきらず、帯刀和服をやめなかった。自信過剰な封建的で保守的な殿様であった。
土佐の山内容堂は14代、15代藩主が相次いでなくなったため、急遽土佐藩を継ぐ事が出来た。賢侯との声も高かったが、自分くらい才能があり、有能な藩主はいないと自信過剰な封建藩主であった。容堂は島津斉彬、松平春嶽や伊達宗城らとともに幕末の4賢侯と呼ばれ、その名声も高い。幕政に積極的に口を挟み、幕府の改革を訴えた。しかし次期将軍として一橋慶喜を推したが、時の井伊大老は家茂を将軍に据えた。容堂はこれに憤慨して隠居したが、実権はにぎったままであった。勤王の志士達を弾圧し武市半平太らの土佐勤王党は壊滅した。藩内の勤王の志士を弾圧する一方で、朝廷や幕府とうまく立ち回り、一貫した姿勢が見えず、幕末の混乱を大きくする一因ともなった。更に、権力志向が強く、身分の低い郷士出身者を取り立てる事もなく、見せかけの賢侯であった。維新において土佐の脱藩者である坂本竜馬や中岡慎太郎などの土佐出身者の役割は大きいが、もし勤王党の弾圧がなっかたなら土佐藩は長州、薩摩藩と並んで、もっと明治維新樹立への貢献をしたであろうと思われる。自分の思い通りにならないと気が済まないたちで、明治政府の執行部から外される。身分の低いものとなじめず、終生お殿様気分であった。才能はあったが大局観がなかった封建藩主といえる。
こうして見ると、毛利の殿様のさばけた人柄と人の良さが目立つ。それが長州藩をして維新への功労者を多く出した理由であろう。
薩摩では西郷隆盛や大久保利通などの家臣はワンマンな殿様を祭り上げて、うまく事を運んだことに成功の秘訣がある。
一方の土佐は長宗我部没落以降、下積み生活をしいられた、郷士達が脱藩して独りよがりで独裁者の殿様の意向とは無関係に事をなしたところに特徴がある。
歴史的な大きな出来事はそれを生み出す背景,土壌があるところに生まれる。

夏の夜のファンタジー

2008年07月26日 14:09

ある日の幻想

東京のお台場では考えられないくらい、ひっそりとした神戸のモザイク横の海辺ではあたりが暗くなり、夜の帳が降りると、対岸での光のショーが始まる。
ブルー一色のビルの光が鈍色にひかった海の面に反射しさざ波に揺られて何万、何百万の海ほたるが発光したかのような蛍光の舞踊が始まる。オレンジ色の光のタワーはまるでオリンピックトーチのように闇夜に煌々と夜空にその高さを誇り、淡い緑のメッシュ状のサーカス小屋のテントの建物もその淡い緑を海面に映し波に滲んで溶けている。対岸では青や緑や水色に混じってひと際鮮やかなオレンジの光が絡み合って、暗黒の天空と暗闇の海の中で光の乱舞の競演を行なっている。対岸の光の競演に競うかのように、モザイク横の観覧車は光の色を変えその存在感を示している。
                           
写真  1. 青の建物と水面のさざめき. 2. グリーンの輝き. 3. オレンジのポートタワー. 4. 光と闇の共演. 5. オリンピック灯火を掲げて. 6, 7.光の輪

千葉よりE先生を迎えて

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日向と日陰の歌人

2008年07月23日 17:35

与謝野晶子

1878年大阪堺の老舗の和菓子屋の3女として生まれた。旧姓は鳳(ほう)志よう。早熟で天才的な才能を持つ晶子は1900年に与謝野鉄幹が大阪を訪れた際に山川登美子とともに出席した、浜寺海岸での歌会、京都永観堂での紅葉狩や粟田山麓での歌会を通し鉄幹への思慕が激しく燃え上がる。山川登美子も鉄幹 への熱い思いはあったが、所詮情熱的で、才能豊かで、行動派の晶子にはかなうはずもなく身を引く。鉄幹が創立した東京新詩社に加わり明星に次々に作品を発表し、明星派の代表的歌人となる。1901年に鉄幹と結婚する。同年、みだれ髪に鉄幹への思いを込めた浪漫的、官能的なみずみずしい歌を発表し、多くの若者の支持を受けた。「前髪のみだれし額をまかせたるその夜の御胸あゝ熱かりし」や「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」などは束縛から解き放たれた明治の奔放な女性の歌として多くの非難も浴びたが、若者達の圧倒的な支持も得た。1905年には「恋衣」を山川登美子、増田雅子と出版する。日露戦争真っ只中に出した「君死にたもうことなかれ」は賛否はなはだしく、絶賛するものもいれば大町桂月は逆賊だと非難した。 後年には新新訳源氏物語を出すなど古典研究や女性の自立を求める活動を通し大きな影響を与えた。1942年65歳で永眠。多摩墓地に眠る。
与謝野晶子は生涯を自分の意思に基づいて自由奔放に生き抜いた女性として、封建時代の考えを引きずる旧態然とした倫理観を打破し、権力に対しても言うべきことを言った。明治という時代を考えるとこれぞまさにな「己のすべき事をなしと通した」女性といえよう。
これと正反対の生き方をしたのが山川登美子かもしれない。封建社会の道徳に引きずられ、家にも背けず、一歩下がって行動した。彼女にもうちに秘めたる情熱は晶子ににも劣らないものがあったが。ただ表に現れてくる行動は受け身で、どうしてもその当時の道徳観を払拭できなかった。彼女の歌は迸るような情熱は感じられないが、そこはかとない奥ゆかしさを漂わせている。与謝野晶子のような並外れた才媛で明るく前向きな女性と同時代に生きた定めか、彼女の影にかくれてしまった。違う時代に生まれ、違う分野で活躍していれば全く評価は異なるかもしれない。
いつの世でも一人スパースターが出ると、通常なら活躍できるであろう多くの才能ある人が世に出るチャンスを失い、スターの影に埋もれてしまう。これも運命の巡り合わせか?

最近の生命科学系ジャーナルの傾向

2008年07月22日 12:44

インパクトファクターと最近のトレンド

今年も新たなインパクトファクター(2007年)の発表があった。最近の生物系、生命科学系雑誌のインパクトファクターの傾向は10点以上をずらりとNatureやCellの姉妹誌のジャーナルが独占している事であろう。そしてその他のジャーナルは年々インパクトファクターを下げている。これはNatureやCellの戦略勝ちなのか?昔はNaureやCellの姉妹誌は存在しなかった。近年、此の両雑誌が競い合うように流行の分野の専門誌を出し、他の専門誌の領域を侵してきた。例えばNat Med(IF:26.382), Nat Immunol(26.281), Nat Genet(25.556), Nat Biotech(22.848), Nat Material(19.782), Nat Cell Biol(17.623), Nat Neurosci(15.664), Nat Method(15.478), Nat Chem Biol (13.683), Nat Struct Biol(11.085)であり、 一方のCell系はCancer cell(23.853), Immunity(19.226), Cell Metabo(17.148), Neuron(13.41), Mol Cell(13.156), Dev Cell(12.436), Curr Biol(10.539)となっている. それに対して、昔からの権威ある雑誌であるJ Cell Biol(9.598), PNAS(9.598), EMBO J(8.662)は軒並み10点以下に落ちている。更に悪い事にはこれら3誌の低落傾向はここ数年続いている。J. Biol. ChemにいたってはIFは5.521にまで落ち込んでいる。
NatureやCell系の雑誌とも商業誌で学会や大学が発行しているのではない。故に学会誌に比べ、自由な編集方針で、紙面の体裁などもフレキシブルに対処してきた。またこれらの雑誌の特徴は、総説を載せる事とトッピックの内容のpreview/view and newsがあることだ。総説は確実に引用され易く、インパクトファクターを引き上げる効果がある。昔若い頃、NatureやCellもあったけど、JBCやPNASなども今以上に権威があり、かならず目を通さなければいけないジャーナルであった。今は、余りにも情報量が多く、インパクトファクターが10点以上のジャーナルに目を通すだけでせいいっぱいである。あとはPub.Med.で自分の領域のキーワードを打ち込んで関係する論文を読むだけになっている。
いつの頃からかインパクトファクターが重視されるようになり、ポジションを得る場合や研究資金を獲得する場合、何点以上のインパクトファクターがないとだめだとか、インパクトファクターが一人歩きするようになった。
確かに論文がどの程度他人から引用されたかで、その論文の重要度はおし測る事ができるが絶対ではない。このシステムを考え全てのジャーナルや論文の引用回数をチェックしインパクトファクターを算出し、この情報を売って商売しようと会社を作った人のアイデアには感心する。まんまとその手に乗せられ操られてしまっている。インパクトファクター信仰は根ずよく、御三家:Nature(IF:28.751), Cell(29.887), Science(26.372)は絶対的になりつつある。たかがインパクトファクターされどインパクトファクターで、研究を続ける限りこれにふりまわされることであろう。

長宗我部と土佐

2008年07月15日 19:00

なぜ土佐の名門長宗我部家は滅んだか?

戦国時代の藩の生き残りは関ヶ原の戦いでどちらについたかによるところが大きい。西軍についた大藩は厳しい処分を受けたが、しかし殆ど生き残った。120万石を誇っていた西軍の総大将毛利輝元の領地は大減封となり、20万石程度の長州と周防2国に押し込められたが存続。一方の雄藩島津は本領を安堵し、宇喜多秀家一門は八丈島に流罪。上杉影勝も結城秀康などの取りなしで、改易を免れ会津120万石から直江兼続の領地であった米沢30万石へ減封。しかし土佐の雄藩長宗我部盛親は部下の讒言で兄の津野親忠を殺害するなどの行為が家康の逆鱗に触れ、所領没収され、一命はとりとめ京都で浪人、寺小屋を開く。戦国の世にあっては藩主の一挙手一投足が何万の藩士の運命を作用する。

土佐と長宗我部家
長宗我部元親:
長宗我部元親は1539年長宗我部家の20代当主 長宗我部国親の長男として岡豊城で生まれる。土佐を統一した後、織田信長と同盟を結び、伊予,阿波や讃岐へと侵攻していく。しかし信長は長宗我部家による四国統一をよしとせず、土佐と阿波の所領を安堵し信長に従う様に迫るが、元親はこれを拒絶したため、信長の援護により十河存保らの侵攻を受け、1582年には神戸信孝を総大将とする四国征伐軍が編成され存亡の危機を迎える。しかし信長が本能寺にて暗殺されたため、征伐軍は撤退し、危機を脱する。元親は其の機に応じて阿波、讃岐を侵略、配下におさめる。その後、豊臣秀吉の天下になっていくが、1583年の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と組んで豊臣秀吉に対抗し、小牧,長久手の戦いでは小田信雄や徳川家康とくんで秀吉に対抗する。1585年には四国全土を統一することに成功した。しかし1585年には豊臣秀吉により四国征伐が行われ、秀吉の弟、羽柴秀長を総大将とする大軍が派遣され、元親は阿波白地城を本拠に阿波、讃岐、伊予の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抵抗する。しかし秀吉はさらに大勢の軍勢を送り込み土佐方の城を次々の落としたため、結局元親は降伏することになる。長宗我部家は阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵された。豊臣政権下で九州征伐に嫡男の信親とともに加わり、島津との戦い中に信親が戦死してしまう。信親の死後元親の行動は生彩を欠き、長宗我部家滅亡の遠因ともなった。朝鮮戦争にも従軍し、秀吉の死後一年(1599)してこの世を去る。享年61歳、4男の盛親があとを次ぐ。元親の不幸は天下を争う戦いに間に合わなかったことである。彼が四国を統一しようとした頃には、信長は全国を殆ど切り取り、圧倒的な勢力をなしていた。その後は秀吉の膨大な軍事力の前にはなす術がなかった。

2代目長宗我部盛親
長宗我部盛親は1575年元親の四男として生まれる。九州遠征で嫡子の信親が戦死すると,世子に指名され跡を継ぐ。しかし元親が亡くなったのは1599年で受け継いだ時期が悪かった。翌年の1600年に関ヶ原の戦いが起こる。徳川家康率いる東軍に6600の軍兵を率いて、参加しようとするが、家康とよしみを結ぼうと送った使者が長束正家の支配する近江国水口にて行く手を阻まれ、どうしても東軍と連絡が取れず、やむなく西軍に加わった。さらには関ヶ原では家康に内通した吉川公家を擁する毛利軍が全く動かず、そのため戦機を逸してしまい、その間に西軍は壊滅してしまった。戦わずして破れた長宗我部軍は戦場を脱し、追い打ちかける東軍を打ち払いつつ大阪まで撤退した、そのときには兵は500余にまで減っていた。土佐に帰り、井伊直政を通じて家康の沙汰を待った。その沙汰は大阪まで自ら参れというものであった。直政は盛親のため、弁明につとたが、家康は首をたてに振らなかった。その結果、土佐一国は山内一豊に与えられ、一命だけは免じられた。即刻22万石の大名から浪人へと転落し、京都で寺小屋を開いた。この時から土佐は少数のよそ者が支配する2重構造社会になった。山内藩の藩士は上士として支配者階級を形つくり、土着の土佐藩の藩士は郷士として下層に押し込められることになる。この絶対体制は幕末まで続き、このエネルギーが坂本龍馬や中岡慎太郎につながっていくことになる。盛親自身は厳重な監視下、京都で浪人をしていたが1614年、豊臣秀頼からの依頼を受けると、大阪城に入城する。最後の戦い、大阪夏の陣では長宗我部隊は藤堂高虎隊にうちかかり一気に槍を構えた兵を突撃させた。そのため高虎隊は壊滅状態に陥り、敗走した。翌日、既に敗北を予感した盛親は最終決戦には参加せず「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を誓って戦列を離れた。しかし京都八幡近くに潜んでいるところを蜂須賀家野の家臣に見つかり、見せしめのため2条城の柵に縛りつけられ、六条河原で斬首,三条河原に曝される。「死に及んで、いささかも怯じたる気配なし」が最後の言葉。享年41歳。

運命の皮肉:
負けるのが分かってなぜ大阪方に見方したのか?秀吉には攻め滅ぼされた恨みはあるが、それほどの恩義はない。さらに長宗我部は土佐一国を毛利、島津、伊達などと同じく自らが切り取ったもので、家康や秀吉から拝領した訳でもないとの思いが強かった。2代目として自分の采配のまずさで、土佐22万石を取りつぶし、一族郎党を路頭に迷わせたという後悔が意地となって現れ、お家の再興を図りたかったのか?ただ土佐っぽの意地を見せた方のか?
真田昌幸、幸村父子も関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、徳川方についた兄信幸に嘆願され一命をとりとめ、高野山に蟄居させられる。秀頼からの使者が幸村のところにきたときには父昌幸は既になくなっていたが、幸村は一子大助とともに大阪方に駆けつけ、盛親と同じような運命をたどる。「自らの生き方に筋を通し、負け戦と分かっていても、潔く死んでいく」このような人間に「くりくりさん」は「深く心を揺さぶられる」ことでしょう。
「潔い人物は魅力的かつ義理に熱い」として尊敬される人物ではあるが、その背後に控えている藩士やその家族の将来のことを考えるとあくまで筋を通すのがいいとは限らない。藩主は商人と同じであり、お家存続(暖簾存続)のためには這いつくばって、土を食べても恥をしのばなければならないと司馬遼太郎の本のどこかに書いてあった。99%の人間は弱者なのである。理想と現実は異なる。長宗我部家は父の元親が一代で土佐一国を苦労の末切り取った。跡を継ぐはずだった長男が亡くなり、4男の盛親が跡目相続をすることになったのが敗因かもしれない。彼はほとんどを京で育ち、父親たちの苦労を知らない。家康の手練手管、権謀術数にかかればそんなボンボンなど赤子の手をひねるようなものであろう。
日本人が大好きな「判官びいきの心情」。その男のなかの男、真田幸村についてはそのうち取り上げたい。

遺伝子の戦略

2008年07月13日 20:16

アリとハチ そのヒエラルキー社会

アリとハチは女王を頂点とした絶対君主的な集団生活を営み、働きアリ(ハチ)、兵隊アリ(ハチ)と役割が分化している点など類似している。しかし、これらが動物学上の分類においても非常に近いことには驚いた。アリは昆虫網、ハチ目、スズメバチ上科,アリ科 (Formicidae)に分類され,あの獰猛なスズメバチと分類上近いことが分かる。日本に生息するアリの多くは毒針を持たないが、その場合毒液を敵や獲物の体表に付着させたり、飛ばしたりして攻撃する。ハチと同じ様に針を持つアリは毒液を注入する。その際の毒の主成分は蟻酸(formic acid)である。しかし海外に生息するアリの強力な毒はハチ同様、酵素類(Protease:蛋白質分解酵素, PLA2やPLC:細胞膜を構成するリン脂質を分解し、細胞を破壊する)よりなる蛋白混合成分やペプチド性(マストパランなど)の生理活性物質の混合物であり、スズメバチに刺されたのと同様の激しい症状を示す場合もあり、アナフィラキシーショックにより死に至ることさえある。
 アリの社会は女王アリを頂点とし、働きアリ、兵隊アリ、雄アリ、処女女王アリが存在し、個体の役割が明確であることが知られている。年に一度、成熟した巣から羽を持つ処女女王アリと雄アリが多数飛び立ち、結婚飛行を行い、空中で交尾する。空中で交尾した雄アリは死んでしまうが、女王アリは雄アリから得た一生分の精子を貯精嚢に貯蔵し、地上に降り立った後、羽を落とし、巣作りをして最初の産卵行動に入る。アリはハチと同じように受精卵からは2倍体の雌が、未受精卵からは半数体の雄が生まれる。女王アリは産卵時に有精卵、無精卵を生み分けることができると言われている。初期のコロニーでは雄が生まれることは少なく、有精卵が産み落とされ、雌ばかりが誕生する。与えられる餌やフェロモンによって働きアリになるか処女女王アリになるかが決定される。働きアリは通常、女王アリからのフェロモンによって、不妊の状態に制御されているが、女王アリが欠けた場合には卵巣が発達して産卵を開始することがある。
 アリやハチは進化の過程で女王という出産を専ら行う機械を作り出し、自己とは異なる近縁の遺伝子を残すため、己を犠牲に永々と子孫を残す努力をするシステムを完成させた。女王というコンピューターが社会を管理し秩序を保っている。しかし厳密に社会秩序が保たれているように見れるが、働きアリの中で一生懸命働いているのはたかだか20%で他の80%は怠け者でうろうろしてあまり働いていないらしい。しかし20%の勤勉なアリを取り除くと、残りの怠け者の中から20%が懸命に働き始めるという。人間の組織(大きな会社でも小さな会社でも)においても一生懸命働いているのは20-30%であることを思うと、生物とはそんなものらしい。どのような組織もflexibilityを保ち、組織の危機に備えている。これも生物のdiversityの一種であろう。
アリやハチの社会は子孫を残すという生物の最大の目的を果たすため究極の効率を求めて進化した結果かも知れない。進化の行き着いたところがアリやハチ。生物は自己の遺伝子を残すため涙ぐましい努力をしてきた。鳥の雄が雌を獲得するために、色鮮やかな羽を発達させ、踊りをおぼえ、歌を歌い、雌の注目をあつめるよう努力する。ゴジラやチンパンジー、アザラシに至っては雄同士が戦って、一番強い雄が雌を引き連れハーレムを形成する。人間だって猿と同類である。権勢を極めると、やることは猿とおなじ。TVでは江戸時代の大奥を、絢爛豪華にはなやかに描いているが、これも所詮ハーレムに過ぎない。権勢が代われば一夜にしてハーレムの主は代わる。
生物は自己の遺伝子の中にできるだけ強い遺伝子を残すようなプログラムを組み込んで、己の遺伝子を繁栄させてきた。進化も遺伝子自身の利己的な性質に操られてきたのであろう。
人間の遺伝子は他のどのような生物よりも欲が深く、神になりたいと思わない雄はいない。その欲を押さえるため法律を作り、お互いに競わせ合い、openにして監視させ、悪いことをさせないようにさせている。民主主義だ。それでも腐敗はおこる。アリのような夢のない社会も嫌だが資本主義社会の強欲な社会も行き過ぎだと思う。
                        penpenのぼやき

山川登美子

2008年07月07日 15:05

 七夕に思う

明治の歌人山川登美子をご存知だろうか?
与謝野鉄幹を思慕したが、与謝野晶子のような才知あふれ、明るく奔放で、ひまわりのようにいつも注目を集めていた女性に所詮かなう訳もなく、身を引いた女性として、また薄幸の女性として興味本位に風聞されている。その点ばかりが強調されて、また晶子との比較から彼女の詩歌に対しての評価は不当に低いものとなっている感がする。

山崎登美子は1879年福井県の小浜市に、代々小浜藩の重臣であった家系の4女として生まれた。高等小学校卒業後、16才(1895)で大阪の長姉の婚家先に寄宿し、梅花女学校に入学した。1897年に邦語科を卒業し一旦は小浜に帰るが1900年に再び大阪に出て、今度は梅花女学校の英語科の研究生となった。同年、この大阪の地で明星の主筆であった与謝野鉄幹や類い稀なる才媛で、後に鉄幹の妻に収まる鳳晶子と会う事となる。登美子の歌が明星に初めて載ったのは創刊の次の号(1900年5月)であり、それ以降、作品を毎号に渡り発表していった。その頃はむしろ和歌よりも絵画に興味を抱き、美術学校へ進学したいと思っていたが父の同意が得られず、悩んでいた。しかしこの夏鉄幹が大阪を訪れたことで、鉄幹や晶子との交際が始まり、秋の京都永観堂での紅葉観賞や粟田山麓での鉄幹、晶子との同宿で、一気に恋慕の感情が盛り上がり、恋に歌にと雲の上に舞い上がるような心境であった。一方では、父親により同郷の山川駐七郎との結婚話がかってに進められ、すでに断りきれない状態になっていた。その年の明星の11月に出版された8号にその頃の心情を読んだ「それとなく紅き花みな友にゆずりそむきて泣きて忘れ草つむ」が載る。翌年の春に上京して結婚、新居に落ち着き、その後9ヶ月間は歌の発表はなく、しばし心の落ち着きを得る。その間晶子は旧来の和歌の形式にとらわれない奔放で自由闊達なロマン的歌集「みだれ髪」を刊行して世の注目を集め、妻滝野と離別した鉄幹と結婚している。運命とは残酷なもので登美子の夫は結核が再発し、2年弱の結婚生活で他界してしまう。夫の死に直面し読んだ挽歌は「君は空にさらば磯回(いそま:磯の入組んだ場所)の潮とならむ月に干て往ぬ道もあるべし」。翌年(1904年)寡婦となった登美子は再び上京して日本女子大学の英文科生となった。その機会を捉え、明星を主宰する鉄幹は与謝野晶子、山川登美子、増田雅子の3人の共著で明星の地位を更に不動のものとしようと図った。一方晶子は鉄幹の正式の妻となりながらも登美子の再登場に心のどこかで怯える心境であった。1905年初頭には旅順のロシア軍が降伏したがそれと時を同じくして山川登美子、増田雅子、与謝野晶子の共著で詩歌集「恋衣」が刊行され、有名な晶子の「君死にたまふことなかれ」の詩もおさめられた。しかし山川登美子の安らいだ時間は長続きせず、夫からうつった肋膜炎を煩い京都で療養するはめになる。彼女は死の影に怯えることになり、「わが死なむ日にも斯く降れ京の山しら雪たかし黒谷の塔」と白雪の黒谷を読む登美子は諸々の過去を込めて自分自身への挽歌をすでに読み始めている。1908年に父の禎蔵が亡くなった。しかも父の重態を聞いて京都から小浜に駆けつけた時には、症状も悪化して回復も望み難い体にあった。生家の病床からも明星に自分自身への挽歌「人知れず終わりの歌は書きてあり病いよいよよからずもあれ」を書き送った。「わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく」が明星に載った最後の歌となった。
病床の登美子は「父君に召されていなむとこしえの春あたたかき蓬莱のしま」と書いた巻き紙を弟の山川亮に渡し事切れた。享年29才9ヶ月。小浜市の生家で病死。なんと薄幸の短い人生。与謝野晶子のような才能あふれる奔放で太陽のような女性と常に比較され、いつも身をひくばかり、鉄幹への情熱も歌の才能にも晶子には及ばず、結核までもうつされ夭折してしまう。不幸を絵に描いたような人生であった。鉄幹がその死を悼んで読んだ歌「君なきか若狭のとみ子しら玉のあたら君さえ砕けはつるか」。小浜市伏原の発心寺の山川家の墓地に眠る。一度訪ねて行った時にはよく調べて行かなかったせいか行き着かなかった。
 一方、晶子は文学の世界ではなばなしい活躍をしつつ、母としても鉄幹との11人の子供を育て、浮気性の収まらない夫をあやつり家庭を治め、65才で永眠。全てにおいてすごい女性としか言いようがない。
しかし山川登美子の病重くなってからの歌は晶子にはない,どこか醒めて自分を見つめている目が感じられ、違う意味でこれもすごいと感じるのは詩歌の分からないペンペン故なのであろうか?
与謝野晶子と山川登美子および与謝野鉄幹の人間関係を次の機会に書きたいと思っている。

幕末人物交流(3)

2008年07月05日 18:18

坂本竜馬

幕末の人物交流を書いてきて、坂本竜馬をぬかす訳にはいかない。竜馬は交通の発達していないしかも往来が制限されている幕末にあって、全国を飛び回り敵味方隔てず様々な人物と交流して、多くの人に影響を与え、幕府体制の崩壊に導いた。高杉晋作のような革命家とは異なり、実際に戦闘に加わる事は余りなかったが、自分の信念に基づき行動し、スーパーネゴシエーターとして大政奉還を成し遂げた。

坂本竜馬は1835年土佐藩の郷士の息子として生まれる。少年時代は寝小便をたれ、塾でも落ちこぼれる等、他の勤王の志士達の多くが才能あふれていたのに反し、秀才タイプの人物ではなかった。江戸に出て小千葉道場で剣術を学び北辰一刀流免許皆伝。師範代を務めた。剣客としても有名。脱藩。勝海舟に師事し、世界の情勢を学んだころから、倒幕して富国強兵に務め、近代国家を樹立しなければ、列強に植民地化されてしまうとの考えを持ち、古い体制を打ち破り、武士も町人も百姓もない議会制民主主義による近代国家の建設に向かって人生を賭ける事になる。海舟のもとで神戸海軍操練所の建設。長崎に貿易会社と政治結社を兼ねた亀山社中を、後に海援隊を結成。薩長連合を斡旋し、船中八策を策定する。これが明治政府における議会制の基本概念となった。更に大政奉還の成立に尽力した。岩倉具視は武力鎮圧を優先させ、倒幕の詔勅をとったが、その直前に竜馬の画策により、徳川慶喜による大政奉還宣言が2条城でなされ大きな混乱を防げた。竜馬は大きな目的を果したが、それからほどなくして京都河原町の近江屋にて中岡慎太郎とともに暗殺された。享年31才。墓所は京都東山霊山護国神社にあり中岡慎太郎ととなり合って眠っている。一度訪ねたいと思っていたが、未だ果せていない。
坂本竜馬はあまた輩出した幕末の志士の中で、一番人気のある人物であろう。気さくで、敵、味方を隔てず誰からも愛され、身分や家柄にとらわれず人物を登用し、なすべき事をなすように全力を尽くす人生を送った。幕末に何をなさねばならないかが一番分かっていた人物。当時の世界情勢に明るく、列強の植民地にならないために、開国、富国強兵を勧めた。内乱状態にせずに、西欧につけ込まれないような形で大政奉還させ、船中八策をもって議会民主主義を主体とする国家の確立を目指した。倒幕の最大功労者にもかかわらず、維新後の明治政府の要職にはつく気がなく、生前西郷隆盛には維新後は世界を相手に貿易したいと言っていた。権力に執着しない姿勢も当世人気のある理由か?

横浜夜景

2008年07月03日 20:43

横浜で学会があり、3日間インターコンチネンタルホテルに缶づめになった。
27階の部屋は山の手側に位置し、横浜の市街地が望まれた。初日、2日目は雨で窓の外の風景には墨絵の霞がかかっていたが、3日目は晴れ上がり、窓の外に大パノラマが広がった。夜ともなるとネオンサインに彩られた観覧車や遊園地が眼下に望まれた。グリーンの束がオレンジのストライプの光に代わり、ゆっくりと回転していく。赤い線路の上をジェットコースターの光が走り抜け、ガタゴトという音が聞こえてくる気がする。車のテールランプの赤い光が連なって、帯の様に伸びている。部屋の電気を消して、ソファーに座り、色とりどりの光の点滅を見ているとふと「はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があつて、それに陽は、さらさらとさらさらと射してゐるのでありました。陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、非常な個体の粉末のやうで、さればこそ、さらさらとかすかな音を立ててもゐるのでした。さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、淡い、それでゐてくつきりとした影を落としてゐるのでした。」という中也の詩が浮かび幻想の世界にひっぱりこまれた。右手に目をやると、ランドマークタワーの光の塔がそびえ立っていた。
写真1: ネオンに輝く観覧車、2:ランドマークタワーの光、3:昼の遊園地、4:昼のランドマーク      (3,4は携帯のカメラなので解像度が今一ですみません)

横浜1
横浜2
横浜5
横浜6


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