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風のかたみ

2008年09月29日 17:36

福永武彦(2)

風のかたみ

この作品は福永武彦の他の作風とはひと味異なった平安朝の物語。信濃から京にでてきた青年(大伴次郎信親)が入代が決まっている中納言の娘に恋心を抱くが、娘は忍んで会いにきた左大臣の末息子(安麿呂)と相愛の仲になる。しかし左大臣の息子は置かれた立場をわきまえ、恋をあきらめようとする。さらに、その姫に盗賊の不動丸が恋し、さらおうとし、笛師の娘「楓」は次郎信親に恋する。一人の人がある人に恋をし、その人はまたある人を好きになり、みんなそれぞれが好きなのだけど、その線路は交わらない。そしてみんな不幸になっていく。何を訴えたいのか、が読めない作品。孤独で相容れない心のありようと過度の潔癖さがもたらす不幸を訴えたかったのか?

「見渡す限り枯れ枯れとした尾花ばかりが連なっている野中の一本道を、武士らしい身ごしらえの一人の若者が、徒で急ぎ足に歩いていた。時刻は既に申の刻をすぎてもいようか、空は濃く薄く墨を流した様に濁り、太陽のありかも分からない。まだ本降りにはならないが、時折烈しく吹き付ける風に乗って冷たい滴が頬を濡らす。」一夜を過ごすことになった野中の一軒家。今にも崩れ落ちそうな古い六角堂で、人の住んでいる気配は見えない。その堂で陰陽道をするという法師と後から雨の中を飛び込んできた笛師の3人で一夜を過ごすことになる。真夜中、「雨は既にやみ、風のざわめきのみが芒の原を噴きすぎるが外もまた暗い。その中を、点々と火をともして行列がこちらに歩いてくる。鐘の音、念仏の声が次第に近づく。はや堂のすぐ近くまできたところを見ると、まぎれもなく葬式である。おかしなことだ。この時刻に葬式でもあるまいに。堂の中はひっそりとして陰陽師の起き上がってくる気配はない。」夜は明け、別れ別れになる。

次郎は京での身寄りの中納言家に世話になる。中納言家の姫は西ノ京の太秦にある屋形を、萩の花が今を盛りと咲く頃に訪れる。その屋形にやんごとない身分の若者が忍び、一首の歌をしたためた扇子を差し出す。若者は最初はほんの遊びのつもりであったが、お互いに恋心を抱き、忘れられなくなる。姫は入内して女御更衣の位に即くのと、今ここで若い大宮人のやさしい声を聞いているのと、どちらが仕合せというものかが分からなくなってきた。貴公子は左大臣の末の息子(安麿呂)で、年も若く、姿もうるわしかったので、とかく女たちに愛されたし、したがってまた好色の念が強かった。
ある夜、安麿呂は「堀川に住む或る女のところを訪ね、引き止められるのを振り切る様に帰路についた。空耳かなと顔を起こして夜空を見上げた。大内裏の美福門の厳しく鎖された門の前は先ほど通り過ぎたから、大路の右手は今や神泉苑である。塀の向こうには鬱蒼と樹々が茂っているはずで、夜目には見えないものの、風に吹かれて数知れない枝や幹や葉が一斉に揺れざわめく音がもの凄い。風が少し収まると梟が呼びかけるように啼く。そんな中、むこうから松明を持った一団がやってくる。門の影に隠れその一団をやり過ごそうとした。手に手提げた松明の焔が風になびいている。そこで息をのみ、思わず我が目を疑った。人ではない。身の丈は全て一丈ほどもある異形の者たちで、漆を塗ったような黒い顔に、髪がお泥に乱れという鬼たちの一団であった。百鬼夜行の一団であった。」しかし実はそれは不動丸という盗賊の一団であった。それ以来、あまりもの恐怖のため安麿呂は寝付いてしまう。
中納言の姫は一度会っただけの安麿呂を忘れることができず、次郎は中納言の姫に恋心を抱く。笛師の娘、楓は次郎に恋する。盗賊の頭で京の街を荒し回っている不動丸は、実は検非違使庁の尉で鬼判官との噂の高い男で、安麿呂とは幼友達であるが、これまた姫を好きになる。
  次郎は姫の願いを聞きもう一度姫を安麿呂に合わそうとする。しかし安麿呂は 「勇気か。そちは恐らく侍であろう。勇気というものを知っていよう。己は勇気とは関わりがない。己はあぶないことのできる男ではない。己たち禁中に仕えている者は、してよいことと、してはならぬこととの区別を弁えないでは暮らせぬ。恋をすることは気ままだが、御入内を目前にした姫君と恋をしてはならぬ。それが掟なのだ。」と姫に会う事を拒む。
次郎は今度は、姫をさらって阿弥陀ケ峰の山麓にお仕込め、自分に目が向くのを待ち続ける。しかし姫はいつまでも安麿呂が忘れられない。次郎はあきらめ姫を中納言家に返そうとするが、不動丸に姫をさらわれてしまう。次郎は検非違使の獄につながれ、笛師の娘の楓が助け出そうとし、検非違使の長である不動丸と次郎および楓は刺し違え、死んでしまう。安麿呂も病に身が細って、ともしびの消える様にはかなくなる。 

一人残された姫は出家して近江の国の小さな寺にこもる。ある日、陰陽師の法師がその庵を訪ねる。わたしのために次郎も、安麿呂さまも、みんな命を落とされました。わたくしだけが骸のような身を、こうして生きています。と一首の歌を詠む。
「跡もなき波行くふねにあらねども、風ぞむかしのかたみなりける」。

法師が再びいさら川の岸辺に出た時に、冷たい霧は水の表と沿岸の櫟林とを埋めて、もう笛の音も聞こえず、ただ川音にまじって秋の風が寂しく吹き抜けていくばかりだった。

心地よく冷たい秋の風が吹き始め、物悲しくなる夜長、このような小説を読んでみませんか?


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アゲハチョウの戦略

2008年09月26日 12:42

series 2:食うか喰われるか
アゲハチョウ(apilio xuthus)の仲間は、それぞれが特定の植物のみを食草として利用する。幼虫が特定の植物(サンショウ、カラスザンショウ、ユズ、 ナツミカン、レモン、カラタチなど、 ミカン科が食草)しか食べないので、メス成虫が正確に植物を識別して、産卵場所を間違えないことが次世代の生存に左右する。それでは、メス成虫はどのようにして数多くの植物の中から幼虫に適した食草を選択しているのかというと、そのヒミツは前脚の先端にある「ふ節」と呼ばれる部分にある。ふ節には化学感覚毛があり、植物の化学成分を認識することができる。アゲハのメス成虫は産卵に先立って植物の葉の表面を前足で叩く行動を示すが、その時に前脚のふ節で植物に含まれる化合物を感じ取っています。つまり、化学感覚毛の中に存在するA化学物質受容体にA化合物が結合すると、その受容体の活性化が起こり、その刺激がシグナルとして伝えられ、産卵を誘発するという情報伝達です。このことにより、アゲハチョウは的確に産卵するべき植物を見いだし、産卵できる訳です。アゲハは他の昆虫達がいやがる匂いのきつい、毒性の高い山椒や夏みかんなどの葉っぱを主食にすることで食物獲得競争から生き残り、快適な幼児期を過ごす事ができるよう進化をしてきたと思われます。

卵から孵ったアゲハの幼虫は4齢幼虫までは白と黒からなり、鳥のフンに擬態し鳥に食べられないよう防御しています(図1)が、5齢になると全身が緑色になって食草に似た隠蔽色(図2)に変化します。これは、一つには鳥のフン紋様のまま成長するとかえって目立ってしまうためではないかと考えられ、それで今度は葉の色の緑色に変わる訳です。
最近のScience誌に日本人研究者の擬態の分子機序解明の論文が載りました。その研究によれば、このアゲハ幼虫の擬態紋様の切り替え(鳥のフン幼虫、緑の幼虫、蛹という3段階の変化)は、幼若ホルモン(Jevenile Hormone, JH)によって制御されているということが分かってきました。つまり、JHの減少は緑の幼虫への移行を促進し、緑の文様に関係する遺伝子の発現が誘導されます。その状態でエクジソンがパルス状に高まるとさらに蛹に移行されるようです。

アゲハの幼虫の劇的な形態変化の分子レベルでの解明が日本人によってなされたことはアゲハ蝶になじみの深い日本人にとってとっても嬉しいことです。
一方、植物にしてみれば幼虫の凄まじいばかりの食欲で、食べられるだけではなんのメリットもないことに対してなぜ何らの防御機構も発達させなかったのか?成虫になって受粉を媒介してくれる将来のため、アメをただあげているだけなのか、アゲハが柑橘類独特のきつい匂いや毒性に対し耐性を獲得した結果なのか?多分後者であろうが。 
今の所、アゲハの一方勝ちのように思える?
Science 319, 1068 (2008)
Jevenile Hormone Regulates Butterfly Larval Pattern Switches”, R. Futahashi, and H. Fujiwara より
図1、鳥の糞に似せたアゲハ幼虫(手前にあるのが実際の鳥の糞で後方にあるのが幼虫);図2、葉と同じ緑に変身したアゲハ幼虫;図3、アゲハ成虫(LIvedoor photoより);
図4、日本アゲハ成虫(夏);図5、日本アゲハ成虫(春)

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植物と動物の愛憎劇

2008年09月25日 18:46

series 1:植物の進化 

生命は海で発生して進化してきた。動物が上陸し地上での生活をはじめた経緯についてはすでに述べた。実は、動物よりも植物のほうが上陸は早かった。つまり餌である植物が地上で繁茂するのを待って、動物が上陸したことになる。部分的な化石の産出から、植物が上陸したのは今から約4億7000万年前のオルドビス紀のころと言われている。4億2000万年のシルル紀の地層からはクックソニア(コケとも違うが、維管束がないのでシダ植物とも違う)という植物や、現在のヒカゲノカズラとあまり変わらないバラグワナチアという植物の化石が出る。このころには植物はほぼ完全に上陸を果たしていた。
デボン紀(4億1600万年前~3億5900万年前)になると、根・茎・葉の分化がはっきりしてくる。植物は上向きに光に向かって成長する。植物のこの特性は、たちまち全世界の生息環境を変えた。茎や葉の陰が日陰や隠れ場所を提供した。さらに、菌類との共生も始まる。初めは胞子(乾燥に強い、陸上で繁殖するための必須条件)で繁殖していた植物の仲間に、種子で繁殖するものが登場するのはデボン紀の後半である。このころ、茎に形成層(裸子植物の茎と根にある円周状の成長組織。外側に師部、内側に木部をつくることによって、頑丈な構造となり、根や幹を太く成長させる事が出来る)を持つものを現れた。このように植物が立ち上がるには組織をがっちりさせる必要があり、ある方向に集中的に伸びて行くには先端に成長点が必要であった。また組織全体に水を行き渡らせるためのシステムも開発する必要があった。これらのことを成し遂げた植物は、デボン紀の末には、まだ胞子繁殖ではあるが、高さ20mを超えるような巨大な木質植物(カラミテス、リンボク)が登場し、大森林をつくった。この大森林が、多様な生態系をつくる下地となった。脊椎動物の上陸もこのころである。
3億7000万年前の地層からは、種子植物の化石が出てくる。種子は胞子よりも乾燥に耐えることができるし、種皮により昆虫からの食害を防ぐこともできる。休眠もできる。デボン紀(4億1600万年前~3億5900万年前)から石炭紀前半(3億6000万年前~2億4500万年前)は、二酸化炭素の濃度が現在よりかなり高く、地球は温暖な時期であったらしい。しかし植物が増えてくると、光合成により二酸化炭素を消費する。また、土壌の発達がさらに二酸化炭素を吸収し、炭酸塩の沈殿を促した。こうして、石炭紀の後半には大気中の二酸化炭素が急減し、地球は寒くなっていったらしい。これまで湿地を中心に繁栄していたシダ植物は衰え、上に書いたように胞子よりは繁殖能力が上回る種子植物が分布を拡大する。
種子植物は裸子植物と被子植物に分けられる。裸子植物では胚珠が裸出し、花粉は直接着生して受精する。したがって、スギに代表されるように花粉は風により運ばれる風媒花となる。進化の観点では裸子植物は古い起源のものであり、今日では地球上に存在する総数も1,000種に満たない。一方、被子植物では胚珠は筒状ないし袋状に閉鎖した心皮に包まれており、これを子房と称している。被子植物では花粉は柱頭に着生したのち、根のようなものが出て珠心に達して受精し、風媒花もあるが虫や鳥など動物の媒介により受粉するものが多い。被子植物は現在の地球上の植物の大半(25万種)を占め、多様性の観点からは裸子植物を圧倒している。
石炭紀後期にはソテツ類、イチョウ類も登場する。これらは自分で運動できる精子を持っている(他の裸子植物や、被子植物は花粉管をのばして受精する)。針葉樹の祖先の登場のこのころである。中生代(2億5100万年前~6550万年前)の初期には、裸子植物の祖先群がほとんどすべて登場する。現在の針葉樹の仲間(科)は、中生代のジュラ紀(2億500万年前~1億3500万年前)には出そろう。マツ科がもっとも原始的な針葉樹の仲間といわれる。
被子植物は種子(胚珠)を完全に心皮で包み込み、閉じこめている。被子植物は単子葉植物と双子葉植物に分けられ、現在の植物の主流をなしている。
簡単に植物の進化について解説した。しかしこのシリーズの目的は植物の進化ではなく,植物と動物との闘争、だまし合いから相思相愛の関係,更には逆に動物を食べる食物について触れる事である。以後、順に書いて行く。

連城三紀彦

2008年09月21日 22:47

映像的な小説 「戻り川心中」

 絵画のような文章を書く作家が好きだと述べてきたが、連城三紀彦は絵画的というよりは映像的な文章を書く作家である。絵画が2次元であるとすれば、映像は3次元の世界で、光や影を伴った色彩は、より幻想的、耽美的な表現に向いている。連城三紀彦は妖しいロマンチシズムをもった推理小説作家としてデビューした。早稲田在学中からシナリオ研究に凝り、映画を愛好すること並ならぬものがあった。その傾向は彼の文章に色濃く現れている。

大正時代の天才歌人、苑田岳葉の心中事件を題材にした「戻り川心中」は直木賞の候補にもなったが、日本推理作家協会賞短編賞を受けた。その後の「恋文」で直木賞を受ける。
大正元年苑田は雑誌「くれない」に最初の歌「ひと枝の花をかたみに逝く春を雲間のかげに送る夕月」を発表し、翌年百花余情を載せ、注目を浴びる。しかし結婚生活がうまく行かず、徹底した放蕩生活にはいる。そんな泥沼生活の中で、桂木文緒と出会い、文緒との恋愛に魂の救済を求め、「桂川情歌」という傑作を産み出す。桂木文緒は芝に広大な邸宅をもつ銀行家の次女で20歳。文緒が苑田の歌集を読んで感激し、手紙を出したのが契機で2人は交際を始めた。大正14年、文緒が通っていた音楽学校の講演で京都に赴いた際、2人はしめしあわせて落ち合い、嵐山の宿で心中を図った。しかし発見が早く死に切れなかった。文緒は東京に連れ戻され、二人は引き裂かれることのなった。2度と会うことができなくなった文緒への、やり場のない情熱のはけ口を歌に求め、文緒との出会いから心中に至までの経緯を詠んだ「桂川情歌」を発表。
「わが指の紅に添えたる熱き血を唇にふくみて死にゆきしひと」

嵐山での情死未遂事件の3年後、今度は茨城の千代ガ浦で依田朱子と再び心中事件を起こす。依田朱子は文緒の身代わりであることを知りながら心中をする。水郷の川に小舟をだし、薬を飲んだ。依田朱子は死んだが、苑田は一命をとりとめるも、3日後に引き取られた旅館で再び自殺した。その3日の間に宿で、依田朱子の死の経過と自分一人甦った命を56首の歌に詠み、後に「蘇生」に発表される。これが菖蒲歌集と呼ばれた。

「月が雲に隠れ、闇が深まると、水の流れが意外に早いことがわかる。それまでさほど感じなかった水音が、周りで一斉にわきあがった。このあたりは、ちょうど、無数の州に、川が細流となって砕け、蜘蛛の巣のように入り組む場所で、流れのはやさもあちこちで変わる。岸辺をすべり、渦をまき、淵に澱み、葦にからみ、さまざまな水の音色は、まるで鈴の音くらべでもしているように、闇に奏でられた。天空にも流れがある。隠した月を逆光に浴び、雲の影はさまざまな濃淡に染め分けられ、墨色の切り紙細工を捨てたように、空の流れに漂っていた。風に吹き払われ、星は地平線近くに落ち、人家の燈と区別がつかない。その淡い光の屑は蛍火を追うようである。そんな蛍火の儚さで、自分と朱子の2つの命もまだ、燃え尽きることなく、天と地が一つになり、果てしなく広がった闇の世界に、引っ懸っているのだ」。
心中前の宿で「寝返りをうって朱子の視線を追うと、形ばかりの床の間に、ひびわれた粗末な花器が置かれ、花菖蒲が2本さしてある。白と紫だった。まっすぐに伸びた茎は、まだ生命観に漲って、電灯の冷めた灯に剣のようにしっかり突き刺さっているのに、花は一方が完全に腐り、白い方も花弁がちじみ、枯れかけている。季節の鮮やかさは茎と葉の緑にしかなかった。「別々の色で別々に死んでいくのね」。

しかし話は全く違う方向へ展開していく。これらの心中は偽装であったと言うのだ。最初に村上秋芳に師事した時、苑田は秋芳の若妻、琴江と関係をもち、そのため琴江は離縁され、仏門に入ったのではないかという疑念がでてきた。その琴江の気を引くため、苑田は偽装心中したのではないかというのだ。その偽装のはずが薬で死ねなかった朱子が苑田の計画に反し、自ら手首を切って死んでしまった。そのため苑田も自殺せざるを得なかった。運命のいたずらか、自宅に監禁されていて、そのようなことが起こっているとは知らない文緒も自殺する。つまり苑田は琴江に会いたいがため、心中を装い、気をひこうとした。しかしもくろみが外れてしまった。これが心中事件の結末ではないか。

「花は船に追いつき、船縁を両端から包むようにして先へと流れていく。白と紫をさまざまな模様におりなして闇の川は花衣を纏ったように見えた。眼前を儚い筋をひいて、闇からまた闇へと流れていく花が、私には苑田の遺した何千首という歌の無数の言の葉にも、苑田と情をくみ交わした女たちの命の残り火にも思えた」と映画のラストシーンのような情景で幕を閉じる。

「恋文」という小説はは映像的というよりは男女の揺れる心、優しさ、虚栄、意地、義理、の葛藤を描いた、風景の光と影の映像ではなく、心のうちなる光と影の映像を描き、違う一面を見させくれる小説である。連城三紀彦の短編には愛情溢れたペーソスがある。それらの小説も心を打つ。いずれ紹介したい。

勝負の世界

2008年09月18日 12:48

ある棋士の戦い「聖の青春」

勝負の世界は厳しい。勝つか負けるかが全てを決定し、人を蹴落とさなければ、自分が蹴落とされ、生き残れない。相撲の世界は早ければ中学生の頃から相撲部屋に住み込み、つらい相撲の稽古から兄弟子の世話に至るまで、耐え忍ばなければならない。しかし相撲はまだいいかもしれない、大学を出て相撲界に入る道も開かれている。もっと厳しいのはプロの将棋士になる道であろう。小学校の頃から将棋の天才といわれたような子供たちだけが全国から集まり、プロ棋士の弟子になり奨励会試験を受け、受かると、奨励会で勝ち残っていかなければならない。 奨励会入会の判断はアマチュア4-5段で、プロの棋士のお眼鏡にかなった者だけに受験が許される。奨励会を4-5級から始め、3段まであがっていき、30人程度で構成される3段者たちで、年2度の3段リーグを行ない、上位の2人だけが4段になれ、プロの棋士になる。つまり1年に4人しかプロの棋士になれない。4段以上をプロ棋士と呼ぶ。しかも奨励会には26歳までしかいられない。小さい頃から将棋のみの生活をし、中学もろくすっぽいかず、将棋づけの生活をしてきた26歳の若者が社会に放りだされるわけだから、これほどきつく残酷なことはない。だから奨励会では十代の子供がまさに凌ぎを削って、生き残りを戦っている。なんと残酷なことでしょう。これに比べれば研究の世界なんてちょろいものです。

偶然本屋で手に取った数冊の本の中にこの本があった。題名は「聖(さとし)の青春」でプロ棋士を目指し、名人位を目指した若者の生き様を書いた本です。村山聖は生まれて程なく、腎ネフローゼにかかり、年の半分を病院で過さざるを得なくなる。6歳の時に、父親が病室での気晴らしに将棋を教えたのが病み付きになり、将棋にのめり込んでいく。谷川浩司名人(永世名人)が目標である。中学1年で奨励会に入ろうと決心し、大阪の森プロの門下生となり、5級で合格する。大阪の住友病院に転院し、元気な時は中学に通いつつ、奨励会での過酷な生存競争を戦うことになる。そして自分がやっていること、「勝負といいながら弱者を蹴落とし、勝ち上がらなければじぶんが淘汰されてしまう」ことに疑問を感じながら、それでも勝ち続けなければならなかった。体調は最悪であるにもかかわらず、17歳の時には3段に昇段し、破竹の勢いで13勝4敗の成績で念願の4段に昇段、プロ棋士になった。順位戦は名人を頂点としたリーグ戦でA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスからなり、A級の優勝者が名人位挑戦者となる。村山の所属するC級2組は53人の大所帯で、この中の3名がC級1組に昇級できるという気の遠くなるような長い道のりである。同時期、天才棋士羽生善治が彗星の様に登場した。羽生は15歳でデビューをし、圧倒的な強さでリーグ戦を勝ち残っていた。村山はC級2組を9勝1敗で全勝の羽生と肩を並べてC級1組に昇級していく。しかしネフローゼはそんな村山に容赦なく襲いかかる。最悪の体調で羽生との対局を迎えなければならなかった。序盤は村山の優勢。しかし終盤の緩い一手でもって流れが変わり羽生の勝利。今まで谷川を倒すことを目標にしてきた自分にもう一人倒さなければ行けない敵が現れたことを実感する。大きな壁の出現と症状の悪化とで2週間寝込んだ。平成4年の暮れ、村山23歳。王将リーグを勝ち進み、当時三冠をすでにもっていた羽生をも下し、タイトル初挑戦権を得る。対戦相手は幼い頃から倒すことを何度も夢見た谷口川浩司王将である。結果は完敗。一勝もとれなかった。しかしB級1組への昇格を決め、名人への道に一歩一歩近づいていった。何度も倒れ、その度に立ち上がり,病院から抜け出して、対局に臨んだ。

平成7年1月17日未明。神戸、淡路を大地震が襲う。阪神大震災である。谷川浩司は神戸ポートアイランドの自宅で被災した。島は孤立し、集会所で不安な夜を過ごしていた。2日後には米長とのA級順位戦が待っていた。将棋連盟を通じ、米長から対局の延期の申し出が届いた。しかしその提案を断り、神戸市への橋の開通をまって、車で暗黒の街を抜け出す決意をした。谷川が生まれ育った神戸の街はまさに地獄絵図の様相を呈していた。人々の悲しみの悲鳴や、嗚咽がそこら中から聞こえてくるようだった。「将棋をさすしかない」谷川は何度も自分に言い聞かせた。「今自分にできること、それは将棋しかない」12時間かかって大阪にたどり着き、生きて将棋を指せる喜び、谷川はただそれだけのことに感謝し、無心で指し、米長を打ち負かした。それは神戸の被災者に大きな感動と勇気を与えた。その年の3月にはすでに6冠をとっていた羽生が7冠目をかけて谷川浩司王将との戦いがあった。震災で帰る家もない谷川は王将をかけて2ヶ月間の全国での転戦にはいる。谷川にすれば震災で悲鳴をあげている神戸への戦いであり、羽生は2度とこないかもしれない全タイトル制覇への戦いであった。3勝3敗とお互いあい譲らず、7局にもつれ込んだ。その死闘を制したのが谷川であった。震災という不幸をばねにして、谷川は史上最強の挑戦者を退け、神戸に一筋の光を持ち帰った。しかし翌年、羽生は再度の挑戦で今度は圧倒的な強さで7冠目を奪取した。

一方村山は震災一ヶ月後に、B級1組の順位戦に勝ち進み、A級に昇格、8段となった。更なる高みを求めて、東京に転居したが、相変わらず体調はすぐれなかった。平成8年の10月からは宿敵谷川をも破り、8連勝をかざり、王将をかけて羽生7冠への挑戦権を手にする。しかしまたしても彼を不幸が襲う。平成9年。ネフローゼに加え、がんを患う。広島への帰郷を決意し、広島の病院で手術を受ける。手術後1ヶ月、医師の引き止めを無視して、元看護婦の女性を同伴して、大阪で開かれる順位戦を丸山と対局する。形勢は2転3転、盤上に全てを打ち続けた。名人への祈りを、自分が生まれて死んでいく意味を、喜びを、悲しみを打ち続けた。この将棋こそは村山が残り少ない自らの命を削って創り上げた魂の棋譜なのである。一方の、丸山も、村山の状態の悪いことは分かっていたが、彼自身の順位戦に集中することに努めた。「負けました」と村山は蒼白な顔で言うと、ゆらりと立ち上がった。それから一年あまり、広島の病院で息を引き取り、村山聖の全ての戦いは終わった。29歳で永眠。彼の残した言葉「生きること、生き残ること」。

運命に翻弄されながらも、力一杯生き、夢を追いかけつづけた。病気と戦い、将棋しか知らず、純粋にひたすら名人位を求めて生きた男。
これほど純粋に生きた男が今の世にもいたことに感動。
              (久しぶりに感動したpenpen)

蜘蛛(suppl)

2008年09月16日 11:48

蜘蛛の糸の強さ

カンダタは極楽から垂れ下がる一本の蜘蛛の糸にすがり地獄からの脱出を試みた。しかし下の方を覗くと、続々と彼を追って蜘蛛の糸を登ってくる亡者がいる。思わず叫ぶ。降りろ。亡者を蹴落とす。とそこで蜘蛛の糸がプツリと切れ、またもとの地獄に真っ逆さま。

カンダタはそんなことする必要はなかった。蜘蛛の糸は直径5mmの細さで、亡者が10人や20人登ってきたところで、びくともしない。
蜘蛛の糸(spider silk)は鋼鉄やナイロンより強くケブラー(Kevlar, 芳香族ポリアミド系樹脂、で鋼鉄より強いが、有機溶媒に溶けず、成型が困難。塩素や紫外線にもろい)より伸びる、夢の繊維である。そして450gの蜘蛛の糸があればなんと地球を一周できる。天然の最強の繊維として、蜘蛛の糸を工業的に作ろうという試みは随分されている。なぜなら蜘蛛の糸は室温で産生および再生可能で、圧をかけることも必要せず、なにより溶媒が水でいい。

蜘蛛の糸は複雑な蛋白質分子よりでき、しかしDNA配列に繰り返しが多いため、塩基配列の解読が難しい。しかし2005年に我が国の信州大の中垣ら他3大学の研究者により卵を包む糸のDNA配列が決定された。異なった蜘蛛の糸は異なった蛋白質配列を示すが、蜘蛛の糸の一般的な配列はグリシンとアラニンの繰り返し配列かアラニンだけでできているからしい。そして自動的にベーターシートに折り畳まれて行く。アラニンに富む配列の一団は側鎖をもつアミノ酸(proline)でできた一団につながり。β-sheetの部分は結晶(crystal)構造をとり他の部位は無定形の構造(amorphous)をとる。固い結晶部分と弾性に富んだamorphousな部分で糸が構成されることが蜘蛛の糸の特徴である。Prolineの量で弾性が決まる。Prolineが多ければ弾性に富み、少なければ強い鋼のような糸になる。
夢のような繊維、蜘蛛の糸は多くの企業が血眼になって開発化を進めているが、未だ蜘蛛ほどパーフェクトに糸を作り出し、編むことが出来ていない。

このように生物に学んでそれをまねた物を作り出し、実用化しようとすることをBiomimetics(生物の代替) (Biologically Inspired Technologies)とよび、ロボットや新幹線など様々な分野に応用されている。Biomimeticsについてはまたの機会に述べることとする。

写真:蜘蛛の糸の微細構造、 固いbeta-sheet構造(結晶構造)と弾性に富む不定形構造よりなる(Wikipedia)。

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高樹のぶ子

2008年09月12日 14:13

波光きらめく果て

高樹のぶ子は「光抱く友」で芥川賞をとった、福岡在住の女流作家である。
彼女の小説は今まで紹介してきた作品とは傾向が異なる。彼女は主に男女の心の彩と業を描いた作品が多い。男と女の心の奥底に潜む、欲望というよりはむしろ業と言えるものをえぐり出して淡々と書かれている。微妙な男女の心の揺らぎと襞を浮き上がらせ、現実社会との軋轢を描く。
私の好きな言葉として漱石の「こころ」?に書かれていた「誠は天の道なり、人の道にあらず」があるがこの小説のテーマも自分に素直に(誠に)生きようとすると誰かを傷つけ、不幸にする。これは天の道であって人のとる道ではない。が「波光きらめく果て」の大きなテーマだ。映画化もされた。

波光きらめく果て
 河村羽季子は妻子ある男と恋に落ち、夫と離婚をするが、雪降る越後湯沢の地で一人待てど、恋人は現れず、自殺未遂をおこす。母(富栄)とともに出身地の壱岐へ帰り、叔父(武弥)と一緒に暮らすようになる。そこでも高校の先生をしている従妹の亭主(敦巳)と同じ過ちを繰り返し、従妹は自殺未遂をおこす。
女の心の片隅に蠢いている魅惑的な性が男を魅了し、狂わせる。封建的な片田舎の道徳に縛られた社会で、人間の隠れている一面をえぐり出す。

 壱岐の感想を羽季子はこう述べている。「水に囲まれた島の匂いは、羽季子を旅人のような落ち着かない気持にさせた。朽ち葉や雨後の苔が匂う雑木林の、木漏れ陽さえ地面まで届かない山肌の大気に朝夕濡れながら育った羽季子は、潮を孕む風、陽といわず雲といわず、在るがままに天空の明るみを受けとめはね返す砂浜の白さに体を委せるとき、都会のビル群がもたらすのとはまた別だが、これもまた、ずいぶん強引な力だと思わないわけにはいかなかった。」

 従妹の夫と逢瀬をかさね「したたかに叩きのめされ、家族まで苦しめてもまだしぶとく生き残り、懲りずに発色してくる疼しい輝きとでも呼べるものに、羽季子は唖然となる。」またその頃の自分の感情を「秘密はいつもこんな具合に、不安な手探りの中で育ち始め、ふと気がつくと最早動かしがたい重さで居座っている。そののちは、次第に熱を帯びてくるこの荷物を抱えあぐね、結局疲れきって、秘す事すら放棄してしまう。」と現している。男にたいし、自然と挑発するような、たぶらかすような言葉や態度が出てくる。「羽季子のいつもの癖で、自分の声に感情がたちまち引きずられた。泣き声で言うとすぐさま涙が追いかけてくるのだった。どこかで、同じような声をあげて泣いたような記憶がちらつくが、いつ、どこで、誰とだったか、思いだそうとすれば多分その日の空気の暖かみ、湿度の具合、部屋の匂いまでたぐりよせることができるだろうが、羽季子は、気遠い漠然とした場所に、これらの片鱗をまき散らしておく。」従妹は自分の夫と不倫関係になった羽季子にたいしてこういうのであった。「いつだって思いどおりに生きて、失敗して、馬鹿を見て、可愛くって、男の人を滅茶苦茶にしたつもりでちっとも男は滅茶苦茶になんかなってやしないのに、そのへんはうぬぼれやさんで、自分勝手で、いつも太陽のようにまわりの人間を振り回して。」
そしてそんな関係が島民の知るところとなり、敦巳の勤め先の校長に手紙が届く。「瞼を閉じ加減にすると、こみかめの柔らかい部分から脳の奥めがけてさしこむ、一本の鋭い光が感じられた。眼こうの底を灼き、火のような流れをそこで塞ぎ止め、それでもどこからか溢れてきた涙は、羽季子の両掌を赤黒く浮かび上がらせた。つっかけ下駄の鼻緒も富栄の足も、赤く熟れて崩れかかっている。ついに母の老後を踏みにじり、安住の地から追う、という思いは、これまで羽季子に向けられたすべての非難よりも痛烈にこたえていた。」叔父の武弥が言う。「お前がいちどでも手で触れたものは、こっぴどく汚されて、立ち直れんのじゃないかな。」と。
 
 敦巳の寝姿を見ながら明け方家を忍び出た羽季子は逢瀬によく来ていた屏風岩に行く。明け方の屏風岩。「目を落とすと、野バラらしい黒い影が盛り上がるすぐ下で、白い楕円の渦が動いていた。ふと消えるがすぐ別の一点から吹き上がり、拡がり、波に押しやられて見えなくなる。海面すれすれに突出した無数の岩に、強さや方向の違う波があたって砕けているわけだが、渦の数も大きさも一定してはおらず、不意を打つように海岸線のあちこちに出現した。ふと気づくと、一面に貝殻をちりばめ敷き詰めたような波光が、糸島半島と羽季子を繋いでいるのだった。陽光の一部が、海上のどこかに這い上がってきたらしい。」そして小説は次の文章で終わる。「羽季子は、自分をつきうごかしてここに立たせた誰かが、海の彼方にいるような気がして、遠くを睨んだ。すると、境界の不確かな帯となってさんざめいていた光の粉が、羽季子に囁きかけるようにうごめき、風とともに夥しい色の雫をふりかけてきた。」

トンボ

2008年09月10日 17:02

秋の訪れとトンボ

あれ程暑かった夏も、ここ一週間朝晩は涼しく、我が世の天下とばかり鳴いていたクマゼミもめっきり声を潜め、今や夕風にのって虫の音が聞こえる。涼しさが感じられるようになると、あきあかね(赤トンボ)が山間部から低地に降りてきて、人目につく機会が多くなる。赤とんぼが群れて飛ぶ姿をみるとああ秋だと感じさせる。
小学校低学年、夏休みはもっぱらヤンマ採りで暮らした。真夏の炎天下のあぜ道を捕虫網を持ってうろついた。遠くの方から稲の若穂がそよいで、さわさわという風の音が次第に近くなり、そばの稲穂が一陣の風とともに揺れる。その風にのってヤンマが音もなく網をかいくぐり高速で駆け抜ける。小さな川辺の小石の上を、橋のたもとを、網を出すのをあざ笑うかのように駆け抜けて行く。オニヤンマでもいれば大変。そのトンボめがけてつけ狙うも、所詮、網ではまず捕れない。数日に一匹捕れればいい方だ。暑い日差しの中を、毎日あれ程夢中になって歩き回わり、なぜあんなにトンボ採り(赤とんぼやしおがらトンボではない)に夢中になっていたのか、今考えてみても判らない。蒼い大きな目で翅に陽を反射させ、高速で自在に飛ぶヤンマの姿に憑かれたのかもしれない。暑かった昼間の太陽も漸くかげり、茜の空がうす墨に変わり始める頃、薄暮の涼風にのって駆け抜けるヤンマの姿は美しい。このトンボに憑かれたような生活は都会の学校に転校したことで終止符を打つ事になった。
世界に5,000種、日本に200種近くのトンボがいるという。トンボの王様であるオニヤンマという大型種から、2cmたらずのハッチョウトンボまで。トンボ目(Odonata)はイトトンボ亜目(均翅亜目)、ムカシトンボ亜目(均不均翅亜目)とトンボ亜目(不均翅亜目)に分かれる。分類の通り、イトトンボ亜目は前後の翅が同じ形で、腹部が細長く、翅を閉じて止まる。ムカシトンボ亜目も前後の翅が同じ形で、翅を閉じて止まる。トンボ亜目は後ろの翅が前の翅より広く、翅を広げたまま止まる。ヤンマやアキアカネなどの通常のトンボはこの範疇に入る。
昆虫が翅を創りだし、空を飛ぶようになった経緯はすでにFlyingで述べた。今から3億年前の石炭紀に翅を獲得した昆虫、カゲロウの仲間(Paleodictyoptera)が登場した。これがトンボの先祖だと言われている。トンボの複眼はお互いに近接し、各々の目は30,000個の目よりなり、180度の視界を見渡せる。少し首を動かせば360度見える。そのことによって、トンボは素早く動き、獲物を捕獲できる。水辺で暮らし、卵から返ると、水中でやごとして生活する。大人になると飛び始め、空中で餌を捕獲する。7 km/hの速さで飛行し、空中でのホバーリングや後方へも横方向へも自由自在に飛び回れる。翅は休んでいるときも折り畳まず、飛翅筋は胸部に接着している。翅は翅脈が網の目のように張られ、強度を補強している。トンボの腹は10個の節で分けられている。足は獲物を捕獲するときや木の枝に捕まる時に使われるが、歩く事には使われない。トンボはどんなに近い距離でも飛んで移動する。
振り返ってみれば、小学校低学年時代、トンボとり、セミ採り、昆虫採集(人気のあるカブトムシやくわがたには余り興味がなかった)、川遊びや魚つりと季節を問わず、学校から帰ると鞄を玄関に放り投げ、あたりが暗くなり、夕食の匂いがただよってくるまで、外で遊んだものだ。その中でもトンボ採りはヤンマというトンボに憧れみたいなものがあって、夢中になって追いかけた。そのためか?成績が悪く底辺近くにいて、いつも母親にしかられた。
小学校高学年になると今度は化石や鉱物採集に夢中になり、これまた成績があがらずおこられた。化石や鉱物の話しは後日。

アームストロング砲

2008年09月08日 12:22

 時代を変えた兵器:アームストロング砲
英国のアームストロングによって開発された、鋼鉄製の後装施条砲(後ろから砲弾をつめる)で、砲弾はそれまでの丸い鉄の玉ではなく、現在の形のような円錐形で炸裂弾であった。また射程距離は4000-5000m に達した。薩英戦争で実践に使われ、薩摩藩の砲台はその威力に圧倒された。しかし砲身が破裂する事故も多発し、初期の頃のアームストロング砲は扱いにくい面もあった。アームストロング砲は上野の彰義隊との戦いにおいても圧倒的な強さを発揮した。大村益次郎は今の本郷の東大の敷地にアームストロング砲2台を据え、不忍池を越えて寛永寺に立てこもる彰義隊に打ち込んだ。東大のある本郷は高台になっていて、不忍池を挟んで上野の山が見える。谷越えに寛永寺に立てこもる2000の兵に対し2門の砲が火を噴いた。一方の彰義隊はフランス軍の旧式な青銅性の前込めカノン砲7門を持っていた。官軍はそれまでの戦いで,迫撃戦においては,この砲で随分と苦しめられた。大村益次郎は、白昼の総攻撃をするとの噂を流し、上野に彰義隊を集結させた。上野の山に彰義隊を誘い出し、攻撃する事で、江戸の街を戦火から救ったと言われる。そこへ向かって射程距離の長いアームストロング砲でもって一気に攻撃したためたちまち勝負がついた。この武器の優位さは会津攻めでも発揮される。今度はアームストロング砲を小田山に据え鶴ヶ城を狙い撃ちにした。敵の砲弾の届かない距離から、悠々と城を破壊する事が出来た。またこれまでの砲弾が丸い鉄のかたまりを打ち込むのに対し、アームストロング砲の砲弾は円錐形で空気抵抗も低く、更に命中すると火薬が破裂し、強力な破壊力を持ったものであった。
その当時英国以外の国でこのアームストロング砲は鍋島藩(佐賀藩)が2門持っていただけであった。この2門の砲でもって官軍はほとんど戦わずして勝利を収める事が出来た。其の経緯は司馬遼太郎の「アームストロング砲」に詳しい。当時にあってはアームストロング砲はとてつもなく強力な最新兵器であった。鋼鉄製の後詰砲で、旋条が切られ、弾丸も円錐形の破裂弾と現在の砲の原型をなしている革命的な武器であった。その当時、アームストロング砲は圧倒的に強力な武器で、大村益次郎はこの武器を敵にとられないように配慮し、もし敵にわたる可能性があるような事態になれば、むしろ破壊しろとの命令を出した程であった。たった2門のこの砲が明治維新の到来を早めた。
 科学の裏付けのない、白虎隊や白襷隊のような、精神論的特攻は科学の裏付けのある近代兵器には敵うべくもない。日本は昔から特攻的な突撃が好きだが、白襷隊や神風特攻隊など無駄死にを強いるだけで,戦略的には絶対にやってはならない。竹槍や刀では機関銃や大砲には敵わない。このような単純なことが判らない、司令官が多すぎる。日露海戦のように科学的裏付けがあり、すぐれた戦略と訓練された兵がいれば鬼に金棒である。

蜘蛛の多様性(Part 3)

2008年09月05日 19:23

蜘蛛の進化

蜘蛛は大きく2種類に分けられる。まずは原始的な蜘蛛でタランチュラなどがこのグループに入る。もう一つはより進化したタイプでAraneomorphaeと呼ばれる。原始的な蜘蛛は牙を上げ下ろしして、縦に噛むのに対し、進化した蜘蛛は横に動かして噛む。原始的な蜘蛛は1,000種程度存在し、進化した形の蜘蛛は36,500種程度存在する。蜘蛛は化石になりにくく、古生代の地層からごくわずかに出現し始め、中生代の地層からもわずかに出土している。
 初期の蜘蛛は糸を卵を包むとか精子をつなぎ止めることに使っていた。次に巣作りや歩行路に使った。そして昆虫を捕まえるネットとしては1億6000年前、恐竜の時代に使われ出した。その頃の蜘蛛はすでに現在の蜘蛛と同じで、横糸を編むことができた。
最初の蜘蛛は4億年前、デボン紀にEurypteridと呼ばれる甲殻類から発生した。最も古い化石上に登場する蜘蛛はPreocteniza crassipesという蜘蛛でデボン紀に地球上を這い回り、狩りをしていた。8本の足を持ち、サソリのようなはさみを縦に動かしていた。進化したタイプの蜘蛛は2億5000万年前に出現し、はさみをひねらせ、横に動かす事が出来るようになった。
更に進化してactive hunterとpassive hunterとなり、糸を獲物を捕るのに使うか、使わないかで分かれた。また如何に巣をはるかでも分けられる。ある蜘蛛は獲物をとるためにネバネバした糸を編む。またある蜘蛛は非常に細い糸をからめ、マジックテープのように使う。ネットを張らない蜘蛛は地面の穴の中にじっと潜んで、獲物が通りかかると、飛び出して射とめる。タランチュラがこのタイプである。
巣を張る蜘蛛は3種に分けられ、Nephila, ArgiopeとTetragnathaがその代表である。Nephilaは昆虫がネットに入ってくると0.5秒以内に獲物に近づき、小さい獲物の場合はすぐに噛み付き、ネットから住処へと連れ去る。大きくて危険な獲物の場合は素早く噛み、離れ安全なところで待つという行為をくりかえし、弱るのを待つ。けして糸で獲物をくるむことはしない。Argiopidsは低いところに巣を張り、バッタやコオロギを待ち構える。最初に噛み、そして糸でぐるぐる巻きにする。サイズが小さい獲物はぐるぐる巻きにしてから噛む。Tetragnathidsは後ろ足で獲物を廻しながら、糸を巻き付ける。湿った所に住み、主に蚊を待ち伏せる。
蜘蛛には、樹上に巣をはりトンボや蝶を主な餌とするもの、草間に巣を張り、バッタやコオロギを待ち構えるもの、湿地帯でボウフラから返った蚊を待ち受けるもの、又は土中に穴を掘り潜み通りかかる獲物を待ち受けるものなど餌の種類で、棲み分けをしている。その住処、食性によりそれに適応した進化を遂げてきた。このような目で蜘蛛を見れば、気持悪いからまた違った見方が出来るかもしれない。例えば、家に住み着いているハエ取り蜘蛛なんかよくみると可愛い。ペットにしたいくらいだ。言い過ぎ?

幕末の意固地侍 河井継之助

2008年09月04日 17:35

河井継之助
 よく言っていた言葉「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ」は彼の性格をよく現した言葉である。

 継之助は強烈な個性の持ち主として幕末にその生き様を示し、ある意味武士の意地を示した男である。小栗上野介とは対照的な生き方をした人物に思える。
司馬遼太郎の書いた峠の主人公。評価はほぼ2分される。日本人はこのように時の権力に抵抗し、華々しく散った人物が好きである。一方で無用な戦争をして長岡藩全体を巻き込み、多くの人を死に追いやった罪も大きいとされる。以前からこうあることを予想してガトリング銃(速射のできる機関銃)や新式銃を買い集め軍備的には長岡藩を突出して近代化させていた事も確か。官軍の岩村軍官の横柄な態度に腹の虫が治まらなかったのか。個人の感情だけで戦争を始めると必ずそのつけがくる。「勝つべくして戦いは始めなければいけない。負ける戦をやれば多くの関係ない人を巻き込んで悲惨な結果に終わる事を考え、耐え忍ばねばならない。自分の主義主張を通したいのであれば、一人だけの、同士だけの玉砕であらねばならない」と私は思っている。
河井継之助は文生10年(1827年)長岡藩の中堅藩士で郡奉行や新潟奉行を務めた河井代右衛門の長男として生まれる。幼少の頃から気性が激しく、腕白で、人の事を聞かないたちであった。また何事をやるにも、人の上に立たねば気がすまず、これが最後まで災いのもととなる。
青年期には王陽明に傾倒し、朱子学のような死んだ学問ではなく、徹頭徹尾、実学を尊んだ。そのため江戸に遊学して斎藤拙堂、佐久間象山に師事するも、実学に関係ない学問には見向きもせず、ひたすら遊郭に通い、酒を飲んでいたらしい。江戸遊学中に『李忠定公集』という書物に出会い、その説く所「経済とは経世済民の略である。乱れた世を整え、困窮している民を救うことだ」という考えに深く傾倒し、この考えが後の藩の財政立て直しの基盤となる。1953年にペリーが黒船を率いて、浦賀にやってきた時、継之助は再び江戸に出てきていた。その有様を逐次、見聞きし長岡藩主の牧野忠雅に建白書をだし、それが認められて評定方随役という重臣に取り立てられた。しかし古い家老達とうまく行くはずもなく早々にその職を辞している。
1862年、長岡藩主の牧野忠恭が京都所司代に任命されると、継之助は藩主に京都所司代を辞任するように説いたが、聞き入れられず、逆に京都へ出向き藩主を助ける事になる。しかし1963年に朝廷の命で攘夷が決行される事に決まると、忠恭は江戸に戻り、継之助は長岡藩に戻った。藩主・忠恭は今度は江戸幕府の老中に任命された。継之助は郡奉行に任ぜられ、藩政改革に着手した。その後はどんどん出世し家老職、上席家老、軍事総督職を務める。その間に藩政改革と軍事改革に努め、藩の財政の改善、軍事の中央集権化を実行した。
1868年に鳥羽伏見での幕府軍と倒幕を旗印とする薩長連合軍の戦い、いわゆる戊辰戦争が勃発した。長岡藩は大阪を警護していたが、幕府軍が敗れ、徳川慶喜が船で江戸に逃れたのを知ると、後を追うように江戸に舞い戻り、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却し、その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にガトリング砲やフランス製の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3丁しかなく、そのうち2丁を継之助が持っていた。
鳥羽伏見の戦いに勝って勢いに乗る新政府軍は会津藩を討つため、小千谷まで迫ってきた。継之助は長岡藩が武装中立さえすれば、新政府軍は藩内への侵攻をあきらめ、素通りして会津を攻めると考えていた。そしてあくまで武装中立にこだわり新政府の軍監岩村との小千谷での会談に臨んだ。しか遼太郎の峠でも詳しいように、薩摩藩士の岩村は最初から継之助を信用せず、自分たちは勝者であり、長岡藩などはとるに足らないとの考えに終始したため会談は決裂する。新政府軍との間に北越戦争が始まった。最初は長岡藩は訓練された兵隊と最新の武器で互角に戦ったが所詮、多勢に無勢徐々に劣勢になっていった。しかも継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまった。そして会津藩を頼って落延びて行く道中、現在の福島県只見町で死去。享年42才。
遺骨は長岡市の栄凉寺の埋葬されている。長岡市の継之助生誕の地には河井継之助記念館が建てられている。
河井継之助は繊細さや優雅さとはほど遠く、粗野で自信家で人の言う事を聞く耳を持たなかった。一方で、実務には長け、藩の経済立て直し等や、軍隊の近代化に務め、将来を見通せる目を持っていた。長岡のような小藩には河井継之助のような大器は収まりきれず、藩を滅ぼす事になってしまった。もっと大きな藩であったなら、などと言われる事であるが、どのような有能な人物もそれを取り巻く、環境と時代で生かされも、殺されもする。だいたい過剰な自信家は、うまく行かないと自暴自棄になりがちである。戦うのであれば、会津、奥州連合と密接に手をくみ、組織的な抵抗を起こすべきだった。単独の、散発的抵抗は各個撃破すればいい。明治維新政府にすれば組織立った抵抗を受ける事がなく、これ程撃破し易い相手もいなかった。





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