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愛のかたちーそれからー

2008年11月28日 17:21



夏目漱石作 「それから」

 長井代助は学校を出て就職もせず、親の援助でぶらぶらと一人暮らしをしている。明治時代でのこと、資産家で会社経営をしている家の次男坊で、職を持たないくせに、女中と下男と一緒に自由気ままに暮らしている。まぎれもなく今で言う、ニートである。彼は自分の心境を「今の状態をメッキを金に通用させようとする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮辱を我慢する方が楽である。」と考えていた。しかし今では「この鍍金の大半をもって、親父がなすり付けたものと信じている。その時分は親父が金に見えた。多くの先輩が金にみえた。だから自分の鍍金がつらかった。早く金になりたいと焦って見た。所が、他のものの地金へ、自分の眼光がじかにぶっつかる様になって以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思われだした。」と思う様になってきた。

学生時代からの友人、平岡は銀行に勤めて、関西に住んでいたが不祥事に巻き込まれ、最近東京に帰ってきた。平岡の妻三千代は代助や平岡の友人の妹で、その友人はチフスですでに居ない。平岡は金銭にこまり、代助に借金を申し込む。しかし、職を持たない自分ではどうしようもない。父親や兄に借金を申し込むが、断られ、逆に資産家の娘との結婚を押しつけられる。自分は自由に生きているが実は本当の自由ではないことを知らされる。

 代助を介して漱石の言っている面白い一言がある。現在の日本にもそっくり当てはまる。
「なぜ働かないつて、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大げさに言うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程、借金を拵えて、貧乏震いしている国はありゃしない。この借金がいつになったら返せると思うか。そりゃあ外債くらいは返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国をもって任じている。」と。

 父親からは縁談を迫られ、また平岡の妻になっている三千代に対して,最初は同情だったが、だんだんとその感情が切羽詰まり、実家から帰る途中の心境をまわりの景色を通して漱石はこう書いている。「練兵場の横を通る時、重い雲が西で切れて、梅雨には珍しい夕陽が、真っ赤になって広い原一面を照らしていた。それが向こうを行く車の輪にあたって、輪が回るたびに鋼のごとく光った。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、広かった。日は血の様に毒々しく照った。代助はこの光景を斜めに見ながら、風を切って電車に持っていかれた」

 また平岡夫婦の間に疎隔が生じたのは自分のせいではないかとも思う。しかしその大部分を「この結果の一部分を三千代の病気に帰した。そうして、肉体上の関係が、その精神に反響を与えたものと断定した。またその一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に帰した。また他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を平岡の放埒から生じた経済事情に帰した。」そして「彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は子供を亡くした三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。」と三千代に対しての感情が深まる様を文体を繰り返すことで強調する。
平岡のため、己の恋を犠牲にして三千代をゆずった、その義侠心が間違いであったと反省する。過去の行為が己を欺いたものであったことに気づく。己の誤った義侠心が三千代の一生を台無しにしたことを悟る。
 どんどん三千代への思慕が募り、ついにその思いを告白する。一方で、父親から持ちかけられた縁談を断ると「じゃあ、お前のかってにするさ。己の方でも、もうお前の世話はせんから」と言われてしまう。代助に心情を打ち明けられた三千代は「今になってそういうことを言うのは残酷だと代助の心を受け入れることを躊躇するが、最後に「仕方ない、覚悟を決めましょう」と答える。そしてそのいきさつを平岡に打ち明ける。しかし平岡は代助の父親に手紙で世間の道義にも劣るものだと手紙で知らせる。その結果、代助はそれまでの安楽な生活を失い、友を失う。

 代助は本来、ありのままの世界をありのままに受け取って、自分に快適なものだけをとって満足し、他人を、世の中をどうのこうのしようなどとは考えたこともない個人主義的な男であった。それが恋愛の力に負けて、今までの生活態度を一変し、家名や友情までも犠牲にして大飛躍を強いられる。漱石の書きたかったのは「運命的な恋愛であった。一度は離れても必ず一緒にならずにはおかない因果な恋愛であった。それを成就させるためには、なにものをも顧みない。生活を棄て、社会から指弾されても、突き進むという厄介な恋愛であった。破滅が待ち受けていても進まざるを得ない恋愛であった」。
 漱石は小説の冒頭で、さりげなく「親父の頭の上に、誠者天之道也という額が麗々と架けてある。先代の旧藩主に書いてもらったとか言って、親父は最も珍重している。代助はこの額がはなはだ嫌いである。第一文字が嫌だ。その上、文句が気に喰わない。誠は天の道なりの後に、人の道にあらずと付け加えたいような心地がする。」と書いてこの小説の本題を暗示させている。この小説はその意図に沿って話が進められていく。

しかし、代助と三千代の恋愛は社会から見れば、あくまで不倫の愛であった。二人はこの宿命的な恋愛のために、終にいきつくとこまで行かなければならなかった。その結果、暗い運命を背負わされた二人は、人を遁れ、社会から遠ざかって生活しなければならなくなるであろう。
「それから」の最後はそのような将来を暗示して終わる。この疑問を受け継いで「門」が書かれた。「門」に関しては次の機会に。

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関ヶ原以前と以後の毛利

2008年11月25日 19:04

毛利秀元の場合

毛利元就の四男の長男。長門長府藩の初代藩主。正室は豊臣秀長の娘。
毛利輝元の時代、毛利藩は吉川広家と毛利秀元によって運営されていた。関ヶ原の戦いに際し、輝元は総大将として大阪城に詰め、広家と秀元が出陣した。秀元は若干22才ながら毛利軍1万2千の総大将として意気揚々と出陣したが、広家の企みを見抜く事ができなかった。一方、広家は西軍の勝利を危ぶみ、東軍とひそかに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していたため、戦端を開こうとした秀元を押し留めた。その結果、毛利勢は関ヶ原での本戦を傍観することになった(宰相殿の空弁当)。秀元は大阪城に帰った後も、主戦論を展開したが聞き入れられず、国元へ帰る。
戦後、輝元より長門国内に6万石を分知されて長府藩主となった。また、幼かった本家の秀就の後見を行い、輝元に代わって長州藩の藩政を総覧している。継室に徳川家康の養女を娶り、徳川幕府から信頼を得ることにも尽力した。大阪の役にも参戦し、幕府への忠義ぶりを見せる事も忘れなかった。その裏ではとんでもない謀略を企てていた。
1614年、大坂冬の陣が勃発すると、毛利氏は徳川方に従って参陣するが、万が一豊臣方が勝利したときに備え、輝元、執政秀元の密命を受けた元盛は名前を「佐野道可」と変え、軍資金と兵糧を持参し大坂城に入城した。しかし、翌1615年の大坂夏の陣で豊臣方は敗北し滅亡。道可こと元盛も、毛利氏一門であることが露見してしまう。幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛される。
元盛は、取調べの担当である大目付の柳生宗矩に対し、あくまで豊臣氏に恩義を感じての個人的な行動で、主家とは関係ないと主張する。元盛の2人の息子元珍・粟屋元豊も、父が勝手に取った行動と主張したので、幕府も毛利氏の陰謀を追及することができなかった。同年、元盛は山城国桂里大藪村鷲巣寺にて自刃し、事件は一応収束する。それにもかかわらず、事情を知る息子の元珍・元豊は、幕府の追及を恐れる輝元らにより密かに切腹に追い込まれる。

秀元は晩年は江戸に住み、72才という、その当時の長寿で亡くなる。うまく立ち回り、寿命を全うした。

毛利輝元の場合

1553年、毛利元就の嫡男・毛利隆元の長男として安芸に生まれる。幼名は幸鶴丸。将軍・足利義輝より「輝」の一字を受けて元服し、輝元と名乗り、同年の月山富田城で初陣を飾る。元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利し、九州や中国地方に勢力を拡大し続けていった。
ところが1576年、織田信長によって追われた将軍・足利義昭が転がり込み、保護せざるを得ない状況となる。さらに石山本願寺が挙兵すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と対立する。当時、織田軍は越後の強敵・上杉謙信に対して軍を集中していたことも優位に働き、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、は第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り、大勝利を収めた。また、1578年には上月城の戦いで、羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進した。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側に不利となっていく。1580年には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、播磨三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する。1581年には因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城。毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれてゆく。
1582年、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、有名な水攻めをする。攻防戦の最中、京都本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により倒れる。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。戦況の不利を悟り、和睦を願っていた輝元や小早川隆景らはこの和睦を受諾する。結果、備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して果てた。
その後、毛利氏は秀吉の天下が確定すると、秀吉に臣従した。秀吉の命令で、1585年の長宗我部元親を成敗する四国征伐、1586年の島津を討つ九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。その結果、秀吉より周防・長門国・安芸・石見・出雲・備後など120万5,000石の所領を安堵された。
秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで輝元は西軍の総大将として大阪城に入る。しかし
家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居、秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となり、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国に大減封された。
関ヶ原の戦い後、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされている。これは徳川家康が輝元に西軍総大将としての責任を問い隠居とし、周防・長門2カ国は秀就を宛名として与えたためである。1603年には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌1604年、長門萩城を築城し、居城とした。その萩にお城を構える際も、幕府から「自由に思うところに城を造って宜しい」と言われていたが、関が原で痛い目にあってきた輝元は、もはやそれを鵜呑みにするほど愚かではない。候補地としてあがっていた防府、山口、萩のうち、利便性のよい山口はとても幕府の意向に沿うまい、と最初から諦めていた。家康の真意を探るため、輝元は福原広俊を派遣して国司元蔵と共に幕府との折衝にあたらせた。日本海側に位置する萩は不便なので、できれば防府に築城したいと思っていたが、家康の側近・本多正信は「身のほどをお考えになられよ。指月(萩)が然るべき所でありましょう」と一方的に命じられ萩に築城することとなった。

輝元の吉川広家への恨みつらみは強く.彼が毛利軍の戦闘参加を押し止めなかったら。彼が裏で家康と取引をしていなかったら。相談もなく、独断でやられなかったら。と恨みは続く。そのため吉川家は毛利家からいじめ抜かれ、岩国藩は江戸時代を通して、独立する事を毛利から許されなかった。
毛利藩士達の恨みつらみもまた激しいものであった。関ヶ原では戦うことも出来ず、家康の約束も反古にされ、120万石から30万石に大減封され、藩士の数も大幅に減らさなければならなかった恨み。呑まず、食わずの生活を強いられるようになった恨み。これら諸々の恨み、つらみが一気に幕末に吹き出すこととなる。

Biomimetics(2)

2008年11月21日 19:15

自然の驚異(2)に学ぶ


熱帯地方にすむ鳥やカブトムシの色のなんと鮮やかなことであろう。このような進化の過程でもたらされたものを学ばない手はない。これらの鮮やかな色は色素によるものではなく、光学的性質によるものである。特殊な波長の光だけを反射する規則的な微細構造によるものだ。このような構造による色は色あせないし、色素よりも鮮やかである。よって工業的塗料、化粧品、ホログラフなどの応用価値がある。このような光学カラーをつけた車が走る日は遠くない。

オオハシもくちばしは軽くて丈夫である。ナッツのような固い実を砕くことも出来るし、とりが飛べる程に軽い。土ボタルの光はエネルギーのロスがほとんどない冷たい光を放つ。一方我々がつかっている電球はエネルギーの98%が熱として浪費される。またMelanophilaというカブトムシは卵を新たに焼けた木に産みつけるが、森林火災によって生じる赤外線をキャッチでき、100キロ先からその炎を感知できるという。この能力は米国空軍で研究され、応用化が測られている。

自然界に存在する高度に洗練された、賢い多くの道具は単純なケラチン、炭酸カルシウム、シリカなどの素材からできていて、しかもすばらしく複雑で、強い構造に組み立てられている。例えばアワビの貝殻は柔らかいチョークと同じ炭酸カルシウムでできているしかし、殻の壁面に蛋白質ナノスケールの薄さででコートされると非常に固い鎧となる。

またヤモリのどんな壁でものぼる接着性の高い足。これは指先に200万を越える数ナノメーターの厚みのフィラメントを持ち、歩く素材の表面で分子レベルで引き合う。軽いファンデルワルス力が働くという非常に単純な現象が物理学的特性にもとづいて起こるという自然界の脅威を知らされる。

少し前のニュースで日本海でのロシアの原子力潜水艦の事故が伝えられた。その事故は消化器の誤動作によりフロンガスが吹き出したためだとされる。驚いたことにその潜水艦のスクリューがこれまた何年か前にココム違反でTVで放映された技術を用いて作っているらしい。その当時はまだ冷戦状態で共産圏に武器に使用されるようなハイテクの輸出は禁止されていた。それを違反して東芝が輸出したとして訴えられたものであった。その技術がスクリューの表面を削り、波のような波形を作ることであった。この加工処理により、スクリュー音が小さく水の抵抗も減ったという。これも前に言ったように、サメの肌のギザギザやフクロウの羽のごとく、表面をできるだけ滑らかにした方が抵抗が減るといった先入観を打ち破るものだった。

しかし現在まで、だれもヤモリのように強くて、方向性を持った、自動的にクリーニングできるようなグリップに近づけていない。また未だにアワビの殻の強さを作り出す微小構造を作り出せていない。さらにはいくつかの豊富な資金をもつベンチャーが人工的なクモの糸を作り出そうとあがいた結果破産した。Why?
主な理由は自然があまりにもすばらしく、途方もなく、奔放に複雑であることである。進化は「はえの翅」や、「ヤモリの足」をエンジニアのやるように最終ゴールにむかってデザインした訳ではない。自然は何千世代にわたってめくらめっぽう、途方もないランダムな実験をやってきた。その結果、すばらしいが優美ではない組織を作り上げ、さらに次ぎの世代に向けて次の回のランダムな実験をやろうとしている。

アワビの固い殻を作ろうとすれば、15の異なった蛋白質が注意深く振り付け師の言う通りにダンスするように協調する必要がある。
またクモの糸はただ蛋白質をカクテルにするだけでできるものではない。複雑で神秘的な糸の編み手が必要である。クモは600ものノズルから7つの異なったシルクを噴射し、高度に弾力に富む構造に編み上げる。

まだまだ自然の驚異をまねて、同じような性質をもつ製品を作り出すまでにはいたっていない。自然が数億年かけてやってきた進化の糧をそうやすやすと人は盗めない。いまはまだ謙虚に自然に教わる時だ。


大和路

2008年11月15日 13:10

大和路に点在する古き寺院を解説した書物として和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」と堀辰雄の「大和路」があるが、なかでも大和路は平易にしかし奈良の寺院や自然にたいして、愛情に溢れた美しい文章でかかれ一番好きだ.

 今はもう晩秋。山々の紅葉が漸く麓におりてきて、都会の街路樹も色づき始めた。秋の宵。まばらになった樹々の葉が雨に打たれ、街路灯にひかり、わびしい佇まいを見せている。そんな夜、蒼天の大和路を訪ねることを夢想している。人がまばらになった古い寺院の境内や民家の白壁越しに覗く取り残された熟した柿。すでに刈り取られた稲田。小川に沿って繋がる小道の樹々も黄色や朱色に変わりかかる。山里全体が真っ赤に染め上げるような派手さや、きれいさはないが小さな赤く熟れた木の実を見つけただけで幸せな気分になれる。これぞまさに日本古来の風景。「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」だ。

大和路 堀辰雄

 私の最もお気に入りの寺院は浄瑠璃寺だ。正確に言えば奈良と京都の境にあり、大和とは言い難いかもしれない。浄瑠璃寺は吉祥天女像で有名なお寺だが、観光コースから外れているため、存外、人は少なくひなびた昔の佇まいを残している。晴天の晩秋、浄瑠璃寺から岩船寺に抜ける山道を歩くのが最高。春もまた秋とは全く違った佇まいを浄瑠璃寺は見せてくれる。堀辰雄が浄瑠璃寺を訪ねたのは、早春馬酔木の花がさき誇っていた頃だ。

「この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた」
「そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった」

最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。」と浄瑠璃寺を紹介している。

堀辰雄は秋篠寺のことはこう書いている。「秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱(あか)い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香(こう)にお灼(や)けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた」と親しみをもって伎芸天女の印象を述べている。
 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。

こんな紹介を読むと、思いが胸の中でどんどん膨らみ、このいい季節に行ってみようとの願望が膨らむ。枯れた寂しい冬の柔らかい日差しの中、訪れるのもいいかもしれない。

たまには日常の忙しさ、生活から逃れて、古寺を訪ね、田舎路を歩いて、心に溜まった残滓を洗い流すことをお勧めします。

毛利家の戦い

2008年11月13日 18:31

謀将毛利元就とその子孫たち

北条早雲が術数権謀の人であったと書いたとき、くりくりさんから毛利元就はもっと術数権謀の人で、希代の謀将だとの指摘を受けました。そこで知略と謀略の限りを尽くし、のし上がって中国全土を支配した毛利元就のお話とその後の関ヶ原での顛末。関ヶ原の戦いでは、毛利本家の輝元が西軍の総大将を務めながら、その支藩の吉川、小早川の裏切りで、東軍の勝利となる。これが良かったのか悪かったのか?結果として毛利は防長2カ国という狭い領土に押し込まれ,その不満が明治維新の爆発力になった事は疑いがない。

毛利元就は安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男として生まれる。 幼名は松寿丸。弘元の嫡男、興元が急死し、家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と二代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。そこをついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は有田城救援のため出陣。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや、一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この「有田中井手の戦い」は「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、安芸国西条の鏡山城攻略戦でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには1525年に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる。1540年には経久の後継者である尼子晴久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められ、元就はわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、その武名を天下に知らしめた。
1551年、大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害された大寧寺の変がおこる。元就は当初、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握した。しかし尼子氏が内紛の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が『謀反を企てている』というデマを流し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。そして陶晴賢に対して反旗を翻す。晴賢は激怒し重臣の宮川房長に3,000の兵を預け、元就を攻めさした。が反対に、元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。そこで陶晴賢自ら厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかしこれは元就の策略であり、大軍ゆえに身動きの取れない陶軍に奇襲を仕掛け、一気に殲滅してしまったのである。陶晴賢は自刃した。これが後世に名高い日本三大奇襲作戦の一つ厳島の戦いである。それから2年後晴賢に傀儡として擁されていた大内氏の当主・大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込む。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。

ついで、1562年、尼子一族の支配していた出雲侵攻を開始する。これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城(島根県安来市)に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし1563年に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込んだ。無理な城攻めはせず、内部崩壊を誘うべくまたまた策略を張り巡らした。元就の謀略に義久は引っ掛かり、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害してしまう。これにより尼子軍は内部分裂を起こし、義久は降伏を余儀なくされた。 こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がる。謀略の限りをつくし、敵同士を疑心案儀に追い込み、内部崩壊に追い込む。まさに天下の謀将の名をほしいままにした人物。
出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。毛利―尼子の確執に関して、山中鹿之介などの尼子十勇士についての思い入れが強いので、そのうちに特集したい。

吉川広家と小早川秀秋

両者とも関ヶ原の戦いに際し、西軍を裏切り東軍へ寝返った武将として有名であるが、奇しくも両家とも毛利の末裔であり、裏切りの結果毛利家が生き残れたのか、またうまく家康に乗せられたのか、いずれにせよ防長2カ国へと大減封となる。
元就には隆元、元春、隆景ら9人の男子がいた。隆元は本家を継ぎ、元春は吉川家、隆景は小早川家に養子に入り、毛利の両川として本家を支えた。ただし、隆元は早死にしてしまったため、毛利本家はその子輝元が19歳で相続することとなる。輝元はあまり自己主張をしない、人が良いのが取り柄の人物に育つ。いわゆるいいとこのぼんぼんに育った訳で戦国の荒波をくぐり抜けられるはずもなかった。

輝元は関ヶ原の戦いに臨んで大坂城西ノ丸に入る。毛利家が西軍に参加する条件は、西軍勝利の暁には輝元が筆頭大老になるという名誉。輝元は幼少の秀頼を助け逆賊家康を打つと言う、正義の味方としての自分の役割に酔いしれていたよう。秀頼に拝謁した折には畳の上に涙を落とし、「120万石の涙」と言われた。
しかしながら、実戦経験豊富な吉川広家から見れば、西軍は大軍とはいえ烏合の衆に過ぎず、戦上手の家康と戦っても勝ち目はなく、輝元の行動は毛利家滅亡につながると考えていた。広家は大坂城に輝元が入城した後も、東軍への参加を主張するが、結果として輝元の決断を変えることは出来なかった、しかし毛利家の軍勢を率いて実際の采配を振るうのは広家である。このため、広家は東軍の黒田長政を通じて、家康に毛利家不戦を申し入れ、その見返りとして所領安堵を願い出る。その後三成の求めに応じて、関ヶ原方面に転進。関ヶ原からは6kmほど離れた南宮山に陣を構える。毛利秀元が山頂付近、広家がその前を遮るように布陣。秀元は戦うつもりはあったようだが、前面の広家が邪魔で戦に加わることができない。しかも、麓に布陣した安国寺恵瓊、長曽我部盛親、長束正家の軍を見下ろす形になる。実際の関ヶ原合戦は、広家の想像通りに進む。広家、秀元だけでなく、麓の安国寺恵瓊、長曽我部盛親、長束正家も戦闘に参加できず、西軍は一挙に3万の兵を失った形となった。長宗我部盛親もこのため戦闘には参加できず、関ヶ原での抑圧を取り戻すかのように、その後勝ち目のない戦を大阪冬の陣,夏の陣ですることとなる。恵瓊は山頂の秀元、広家に何度も戦闘参加を促すが、広家は「未だ機が熟さず」と答えるのみ。秀元は広家から軽挙するなと釘をさされており、また広家が動かない限り動けない。このため、「今弁当をつかっている」と何度も答え、戦後「宰相殿の空弁当」と言われた。
それでも西軍は健闘するが、ついに小早川秀秋の寝返りによって西軍は壊滅に追い込まれた。直接の血の繋がりはないとは言え、小早川秀秋は小早川隆景の養子だから、まさに毛利家の動きによって関ヶ原合戦の勝敗が決定した訳です。家康は輝元の出陣準備を理由に、毛利本家の取り潰し、広家には防長2カ国29万石を与えるとの沙汰を出す。しかし広家が東軍についたのはあくまで毛利家安泰のためだった。広家は防長2カ国29万石を輝元に与えることを願い出、許される。広家は岩国3万石を領することとなるが、本家の恨みを買ってしまう。岩国藩は独立した藩とは認められず、支藩扱い。岩国藩が独立した藩とされるのは、何と明治になってから。

総大将の輝元は自ら出陣することもなく大阪城で人ごとのように事態を見守るだけであった。この際、輝元自らが出陣する。豊臣秀頼がもう少し西軍への支持を表明していれば全く違った歴史が産まれたであろうが、歴史には「もし」という言葉はない。

結局、関ヶ原合戦は毛利家内部の意見不一致のため、120万石から29万石への大減封という毛利家にとって最悪の結果となり、これが毛利家家臣の不満の種としてくすぶり続け、明治維新に際して爆発することになる。
歴史という川はある時は滔々と流れ、ある時は消え入るような小ささで流れ、繋がっていくようです。

志水辰夫の世界 (part 2)

2008年11月11日 14:57

少年の純な恋

志水辰夫は推理小説作家としてデビューしたが、小品の中に佳作が多いという事はすでに述べた。その作品の多くは、初老期に入った男の心の揺れ、切なさ、消え行く命の灯火、生き様を優しい目で書き上げた作品と光り輝く青春時代を振り返って、あの頃うまく事を運ぶことの出来なかった純な少年の恋を書いたものに分けられる。
青春の純な少年の恋。

「忘れ水の記」

30年ぶりに小学校5年から高校1年まで過ごした地方のその頃お世話になった家族の墓参りに訪れ、中学生の頃、憧れていた女性、羽生田郁子が経営していた温泉旅館に泊まる。郁子はすでに今から13年前にドイツの旅行中に交通事故で夫とともに亡くなり、今は一人娘の由紀子が女将を務めていた。
高徳寺の墓は石段を200段登ったところにある。お世話になった桑原夫妻の墓は白壁で囲まれた一角にあり、羽生田家の墓は寺の右手の大きな墓地の中にあった。その墓に至る山道には戦国時代に毛利に敗れ、落ち延びてきた尼子勢をまつった古い五輪の塔がならんでいる。この五輪塔の前で羽生田郁子にあったのは高校1年の夏休みのことだった。私はその頃この田舎がいやで、東京の高校に転入することを決意していた。「東京へ行っていた」嘘がつけなくてそういった。郁子の目が大きくなった。わたしの言葉が彼女を怯えさせたのだと分かった。「東京へ帰るのね」それだけで傷ついた顔になって郁子は言った。
その後、東京の母親の元に転居した。そして高校3年の夏、郁子は仕事できた母親について上京してきた。2年足らずの間に郁子は見違えるほど成長していた。さなぎが蝶になろうとしている。表情に、挙措に、自信と生気がみなぎっていた。わたしは自分の振り捨ててきたものに対してはじめて、悔いと、痛みと、齟齬とをおぼえた。本当に必要だったものまで捨ててしまったのではないかという疑問が、それ以後今日までずっとつきまとうことになる。

大学卒業直前にもここを訪れ、羽生田館に2泊している。桑原医師の墓参りという口実だったが、本当はもう一度郁子に会いたいという気持の方が強かった。郁子は和服姿が板についた旅館の若女将としてわたしの前へ姿を現した。表情がいっそう豊かになり、話かたが洗練されて、とても同い年の女性にはみえなかった。わたしはふたりの間に流れた別々の時間を思った。「秋に結婚します」彼女は端正に正座して言った。
いつの間にか日がくれ、地軸の傾いたような夜を迎えた。雨の音にかき消されてしまいそうな静かな夜だった。手すりに寄りかかってハクモクレンの木を見上げていた。細かい葉脈のひとつひとつが下からの光を受けて克明に見えている。築山に立っている水銀灯が白い光を地上から放射しているせいだった。糸を引いて落ちている雨と、わずかな波紋を描いている池に動きがあるほか、全ては静謐。あの時も二日目から雨になった。わたくしはいたずら半分、ハンカチでてるてる坊主を作ってハクモクレンの枝に吊るした。それを見た彼女は「こんど雨が降ったら、このてるてる坊主にお願いしてみるわね」と言った。

今回も、思い立っててるてる坊主を作りハクモクレンの枝に吊るした。夜のみ回りにきた女将の由紀子に見つかってしまった。あらと声を上げて近づいてきた。朝になったら片付けますから。由紀子はほほえみを浮かべたままかぶりを振った。それから小首を掲げててるてる坊主を見やり、こちらに向き直ると息をはずませ、懐かしそうに言った。「母をごぞんじだったんですね」

この作家はなんと結末のつけかたがうまいのであろう。この作品では「母をごぞんじだったんですね」で終わり、「7年の後」という作品では、早く亡くなった同僚の娘の学費のたしにと。7年間、毎月送り続けその娘が大学の卒業祝いにまた当時の同僚達が集まる。母が今日のお客様に児玉さんをお招きすると言い出した時、わたし、はじめ、どうしてっと聞き返したくらいです。まったく存じ上げない方だと思っていましたから。しかし、幼少時のおぼろげな思い出が次第に焦点を結びはじめ「でも今ははっきり分かります。誰がわたしの足ながおじさんだったか」わたしは黙ってかぶりを振っていた。足ながおじさんなど存在しなかった。「あれはなんとかして心の隙間を埋めなければならなかった男の見てきた、たったひとつの夢だった」で文章を終えている。多くを語らず、余韻を残して終わる、なんと難しいことだろう。

生物模倣ー生物に学ぶー

2008年11月08日 13:53

Biomimetics(1)

バイオミメテイックスとは生物のさまざまな機能を模倣して、全く新しいアイデアに基づいた工業製品を作ろうという試みである。蜘蛛の糸の強さとそれを工業化しようとする試みについてはすでに述べた。またサメの肌のギザギザを水泳着に利用して水の抵抗を少なくしようとする試みはよくTVなどにも取り上げられているので知っているだろう。これらは全てBiomimeticsである。

歴史的に見て最も古いBiomimeticsはマジックテープであろう。日本ではマジックテープとして知られているが、欧米ではhook-and-loopファスナー(面ファスナー)と呼ばれる。面ファスナーは、スイスのジョルジュ・デ・メストラルが自分の服や愛犬に貼り付いた野生ゴボウの実にヒントを得て、1948年に研究を開始し数年後に発明したとされる。幼少期に野原で遊んでいて、衣服に草の実がくっついたことを経験したことがあるだろう。その構造をよく見てみるとフック状になった鉤が毛糸などに引っかかっていることに気づく。製品化されたテープはフック状に起毛された側とループ状に密集して起毛された側とを押し付けるとそれだけで貼り付くようになっており、貼り付けたり剥がしたりすることが自在にできる。どこにでも使われ、大ヒット商品だ。

梟に学ぶ
新幹線のパンタグラフに翼型パンタグラフが使われている。そのパンタグラフにフクロウが暗闇を音もなく飛行することにヒントを得た騒音低減のための渦発生器(Vortex generator)が使われていることは有名である。ふくろうは他の鳥と異なり、風切り音が少なく、音もなく獲物を襲うことのできる羽を持っている。フクロウの風切羽は先端が滑らかではなく、ギザギザ型になり、小さな渦巻流を惹起させて、羽によって起こる空気流の乱れを抑制する効果を持つ。パンタグラフに小さな突起物をつけて小さな渦を発生させ、空気の流れをスムースにして空気抵抗や騒音を減少させることができた。素人考えでは流線型に表面を磨き上げた方が抵抗が少ないように感ずるが、ゴルフボールのデインプルしかり、高速で走る船のスクリューもまた波状の表面になっている。

カワセミに学ぶ
同じく新幹線開発のお話。新幹線が高速でトンネルに突入すると、異常な空気圧を作り出し、どーんという破裂音を発生して、周囲の民家に与える騒音に困っていた。今度は梟に代わってカワセミに目を付けた。カワセミは高速で水中に飛び込んで魚をとる。その際の水しぶきは非常に小さい。この小さい水しぶきの秘密を求めて研究し、カワセミのくちばしは空気抵抗が最も小さい形をしていることを発見する。そしてカワセミのくちばしそっくりの新幹線500系が開発された。この500系は空気抵抗が少なく、トンネル突入に際しての騒音も少ない。この形を取り入れる事で、より高速で走ることができ、時間短縮と騒音低減に繋がった。

これらの他にも生物の持つ特殊な機能を学習、模倣してよりよい工業製品を創りだそうとする例は枚挙にいとまない。例えば玉虫や蝶の羽に模倣して全く色素,染料を使わないで、様々な色を創りだす表面構造。これが出来れば塗料を用いなくて、色づけができ、自動車などの塗装に革命を起こす事であろう。またカタツムリは殻を一生背負って、じめじめした環境で生きている。だから非常に汚れ易い。そこでカタツムリは殻の表面構造を汚れにくい構造にしている。この表面構造を利用した流しはもう開発されているらしい。などなど。続きはpart 2で。


一つの発明が歴史を変える

2008年11月06日 16:00

下瀬火薬と伊集院信管

司馬遼太郎著「坂の上の雲」のフアンは東郷元帥率いる連合艦隊がバルチック艦隊を殲滅出来た一因に下瀬火薬があると教わった。

現在の火薬の主体はTNT (2,4,6-trinitrotoluene)であるが、明治時代にはその原料のトルエンが得られず、石炭から造られる石炭酸(フェノール)を材料とし、それをニトロ化したTNP (trinitrophenol)が火薬として使われた。別名ピクリン酸と呼ばれる。ピクリン酸は金属腐食性が強く、すぐに金属と反応してしまうため砲弾につめることができなかった。海軍技師下瀬雅允はその点を解決するため、砲弾の内側に漆を塗り、さらにワックスをもってコートした中にピクリン酸をつめ、このピクリン酸の欠点を克服した。炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いられた。下瀬火薬と呼ばれ、日露戦争に使われたことで有名である。敵船体を貫通する能力こそ低かったが、破壊力の高さと化学反応性の高さから、敵兵と艤装に大きな打撃を与えた。明治38年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を粉砕できた一因は下瀬火薬である。「下瀬火薬は黒煙を発生せず、速射が可能であり、帝政ロシア海軍は黒色火薬を用い視界が遮られ、速射が不可能であった」とは坂の上の雲でも述べられているが、実際は下瀬火薬は砲弾発射の火薬には用いられていない。発射薬にはコルダイト(無煙火薬:ニトログリセリンとニトロセルロースに安定剤のワセリンを混ぜたもの)が用いられた。ので実際は違うらしい。
黒色火薬は可燃物として木炭と硫黄それに酸化剤として硝石(硝酸カリウム)の混合物で火薬としては最も古く、現在でも花火などに使われている。小さい頃この黒色火薬を作り、アルミでできた鉛筆のキャップにつめてロケットとして飛ばして遊んだ。

日露戦争は開国からわずか50年足らず東洋の新興国日本が、大国ロシアを破ったことで、ヨーロッパ列強諸国にも大きな衝撃を与えた。下瀬火薬はその日露戦争における日本の主要な勝因の一つにあげられている。下瀬火薬は優秀な火薬であるものの取り扱いが難しいという欠点もある。旗艦三笠が1905年に佐世保に帰港した際、艦内弾薬庫の下瀬火薬が誘爆し爆沈、着底する事故を起こした。この事故での死者は699人であり日本海海戦の日本軍死者総数110人を遥かに上回る大惨事となった。

一方伊集院信管は伊集院五郎海軍大佐が考案した信管で明治33年に採用された。砲弾が飛んでいるうちに、尾部のネジが回転して安全装置をはずすのが特徴で、日露戦争で広く使用された。非常に敏感であり、砲弾がどこに命中しても爆発したと言われている。下瀬火薬と伊集院信管があってこそ日露戦争に勝利できたともいえる。一つの科学の進歩が歴史を動かし、国の興廃を決定する。現代の戦争は科学的裏付けがあってこそ、勝敗がきまる。ステルス戦闘機やミサイルには槍や鉄砲では敵わないし、闇雲に精神論だけで特攻をやるのは具の骨頂である。

立原正秋

2008年11月01日 14:00

花のいのち

宮本輝や福永武彦のような奥深い味のフルコースの料理を食べているとラーメンやカレーライスの様に軽いが完成された一品料理が食べたくなる。その一つが立原正秋である。簡単に列車や飛行機の中で読めて、それでいて読後感もああ美味しかったといえる小説である。この小説は古都鎌倉と奈良の美しい風景を背景に繰り広げられる大人の恋愛である。生きることのうれしさ、歓び、悲しみ、絶望そして強さが古都の静謐なたたずまいの風景を背景に語られる。

窈子は鎌倉と藤沢を結ぶ江の電の鵠沼駅から海岸の方へしばらく歩いたところにあるユーカリの樹の見える屋敷の柚木正宏のもとへ嫁いできた。辺り一帯は高級屋敷町で、どの家の庭にも松の木が豊富であった。窈子の家はゴッシク様式を現代風に簡素化した、穹隆の鋭い屋根を持つ屋敷である。夫は秀才コースを歩いてきた典型的な男で、結婚して3年、娘に恵まれ、人目に幸せな生活を送るが、夫婦の間には何かが欠けていた。それは窈子が、虚ろになる一刻、なにかが欠けている、と思う気持ちとつながっていた。と小説は始まる。

ある日ふと肉屋の小僧が女中に、ここの旦那さんも別宅のお子さんが病気では大変ですねと話しているのを立ち聞いた。別宅に訪ねていくと、正宏との間に3人の子をもうけた女が住んでいた。そのまま鎌倉の実家に帰り、離婚する。離婚にあたり、沼津の別荘をもらい、そこを改装して保養所を始める。鎌倉から沼津に引っ越しするにあたり、瑞泉寺を訪れる。

「細長い谷戸の入り口に寺の山門があり、山門を入ると一本の道が向こうに抜け、道の両側には梅の老木が並んでいる。道の突き当たりは山路で、松林の中に、不格好に敷き詰めた石段がある。そこをのぼり尽くしたところに、北側の山を背にして寺があった。山門から谷戸を経て山門を見下ろす点景といい、それは、自然の利を考えて造られた寺で、そこに足を踏み入れた者は、浄土の幻想と結びついた優しい調和を見いだす。壮大な七堂伽藍とは縁のないひっそりとした場所で浄土が現世に結びついている。といった寺であった。」と紹介されている。私も数度訪れたことがある。まさにこの文章そのもので、大伽藍を持たないな鎌倉のお寺の典型で、小さな渓流のそばの小道を上がっていき、切通しにはたどり着かず、山にぶちあたったところの麓にある。小さな山門と小さな本堂。境内にはいつも花が咲き乱れているといったお寺。ぜひ一度訪れてみて雰囲気を味わうといい。

保養所を開くと兄の勤めている美術関係の出版社の関係者が利用してくれる。ある日兄が織部周二をともなってやってきた。そのシーンは「背の高い40年輩の男が、こちらに横顔を見せて立っていた。疎らにたっている松林の向こうに蒼い海があり、庭の新緑がその人の顔をそめていたこのときの光景を、窈子は後まで記憶にとどめることになった。」との運命的な出会いをする。
織部は美術史家で奈良のお寺や仏像を扱った「大和路」の執筆のため半月間保養所に滞在する。織部は5年前に妻を亡くし独り身でもある。「窈子は、いま自分のなかでは優しい感情が溢れており、そして、美しいものへの期待で胸がふくれているのを知った。それは、夢想ばかりしていた娘時代の心情に似ていたが、しかしどこかですこしばかり違っていた。娘時代の夢想は漠としており対象がなかったが、いまははっきりした対象が目の前にあった。」と恋心を抱く。織部も今の彼の心を映す奈良の秋篠寺の技芸点像の絵と中唐の詩人耿韋の「秋日」という詩を帰京時に窈子に贈る。
「返照閭巷に入る、憂うるも誰と共にか語らん、古道人行まれに、秋風禾黍を動かす」その意味は夕日の照り返しが村里にさしこんで、あたりをやわらかく包んでいる。私の心には憂いがいっぱい湧いてくるが、それを慰め合う相手もいない。古い道には行き交う人もまれで、ただ秋風が稲やきびの穂を動かしているだけであるというもので、そこには綾部が人生に行き暮れて、しかし自分の生命感を充溢する何かを求めずにはいられない精神のうずきが表現されていた。また「この心の憂いに比べはなんと技芸天は艶めいていることか、技芸天の優しさに心の寂寥がいやされる」との表現をした絵は愛の告白に他ならないと感じる。

綾部が奈良に取材にいくのを窈子も追いかけ、秋篠寺で再会し、美しい古都でふたりの愛が育まれる。いっときの新婚生活もつかの間、運命の残酷が突然二人に降りかかる。至福の愛を成就したふたりに、突然綾部が取材中に薬師寺の三重塔の中層の回廊から落ち亡くなるという不幸が襲う。

綾部の没後、彼の子を宿した窈子は、夫との思い出を辿って、再度古都を訪れる。「当麻寺中之坊の築地塀には冬の淡い陽がさしていた。秋にここにきたときには、築地塀にさしている陽射しを美しいと感じたが、広い境内には人影ひとつなく、寂としていた。あれから半年もたっていないのに、窈子は移ろうものを感じた。大和路は蕭々と枯れていた。大和造りの独特の屋根と白壁の農家は寒々と点在していた。やがて中宮寺につき、窈子は寒寂な境内に入った。慈光院にまわり秋篠寺に最後に向かう。「秋日」の詩をくちづさみながら、境内に入る。「秋篠寺は眼前に静かに建っていた。金堂の白壁が夕陽に照り映え、そこに冷たい風がかすかに吹き付けていた、窈子は境内に立ち尽くして金堂を眺めた。中に鎮座している技芸天像には会わなくてもよかった。この寺には、境内にも、寺に至る古道にも、林にも、織部の思い出が残っていた。」
「窈子は強くならなければと思った。これから子供一人を抱えて生きていく若い女には困難が待ち受けているかもしれないが強く生きていこうと思った。」で小説は終わる。
晩秋の一日、蒼天に葉を落とした柿の実が映える大和路を訪ねてみませんか。

人生そのものが花なのであり、花の命は、つかの間の命の儚さを象徴するだけでなく、決してすたれることのない艶美な生命の顕現なのだということを読者に告げているようでもある。

追記
学生時代立原正秋は日本的な落ち着いたたたずまいの美しさを描く作家としてよく読んだものだ。代表作には薪能や冬の旅がある。こんなに今まで読んできた作家なのに「金胤奎」として韓国・安東郡の禅寺・鳳停寺に韓国人の父と日本人の母の間に生まれた韓国人だったとは全く知らなかった。孤独な苦闘の軌跡。韓国人の痕跡を消そうとし、生れながらの日本人以上に日本人になろうとした人間・立原正秋の哀しいまでに必死な生と死を分かってみて、やっと作品が理解できたきがする。もう一度作品を読み返してみたい。享年55歳。鎌倉瑞泉寺に眠る。



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