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零式戦闘機の開発

2009年01月27日 17:48

零式戦闘機の開発:長所と短所

誰もが知る海軍の代表的戦闘機零戦。堀越二郎設計の三菱重工で開発、製造された。生産は14300機に上り、アメリカ海軍のヘルキャットF6F,アメリカ陸軍のムスタングP51-Dとともに、第2次大戦の優秀な戦闘機とされる。三菱航空機の堀越二郎が設計主任となり、極限にまで性能を突き詰めた戦闘機として大戦前半においては向かうところ敵なしに状態であった。要求性能が高いため様々な新しい試みがされた。その一つに住友金属が新たに開発した世界に誇る超超ジュラルミンを採用した事で、30キロ軽量化に成功するなど、軽量化が極限まで追求された結果、航続距離が他の戦闘機に比べ圧倒的に長く、俊敏に操作できる飛行機となった。しかし極限にまで性能を追い求めた結果、大戦の後半でより馬力の強いエンジンが米国で開発され、それを積む飛行機が投入されたのに対し、零戦に大きなエンジンを積むのは不可能であった。そのため、零戦の優位性が次第に失われていった。

日本海軍は昭和7年に航空技術の自立を目指し、機体とエンジンの開発に踏み切った。航空メーカーの中島飛行機はアメリカのライト社から「サイクロン」の製造権を買い、それが「光」の開発につながった。三菱はアメリカから「ホーネット」の製造権を買い「金星」を開発した。昭和10年頃になると700-900馬力の様々なエンジンが開発されたが、中でも中島の「栄」と三菱の「金星」が傑出していた。
堀越は零戦開発の基本計画を進めていた昭和13年のはじめ、それに積むエンジンで悩んでいた。当然自社製のエンジンが使いたい。大出力エンジン、九六陸攻に搭載され実戦にも使われ、1070馬力に改良されていた「金星」40シリーズがあった。このエンジンは戦闘機に積むにはやや大きい感もあるが将来の出力アップや戦闘力増大を考えると最適であった。しかしその当時のパイロットは小型で運動性能のよい戦闘機を好んだ。そのため、堀越は金星より一回り小型の「瑞星」を選び搭載した。しかし、改良を重ね出力が1080馬力にあがっても次期主力戦闘機用としてはものたりなかった。中島は一時、三菱との開発競争から降りていたが、空冷星形14気筒エンジン「栄」12型を開発し、再び競争に参入してきた。このエンジンは重量が瑞星と同じ530Kg程度であるにもかかわらず、出力は950馬力で瑞星を70馬力以上も上まっていた。しかも2速スパーチャージャーをつければ1100馬力以上にパワーアップが見込まれた。その結果海軍は三菱に中島の栄を零戦に積む事を要求した。たしかに栄はすばらしいエンジンではあったが1080馬力が限界であった。戦争初期には連戦連勝であったが、より大きなエンジンを積んだ敵戦闘機が出現するとかげりが見え始め、防弾、火力の強化、性能向上など後におこる要求にエンジンが対応できなかった。元々排気量の大きかった金星は昭和16年には1500馬力のエンジンへと改良し、昭和20年、戦争も終わりに近づいたころ金星を装備した零戦(A6M8C)が生まれた。時既に遅しの感があった。

もう一つの大きな零戦の弱点は防弾、防火設備が貧弱なため、パイロットの被害率がきわめて高く、多くの熟練搭乗員の命が失われた。日本の飛行機は機銃掃射を受けるとたちまし火を噴いて墜落していく。しかしアメリカの戦闘機、やB17などの爆撃機は被弾しても火を噴かない、落ちない。さすが日本軍もあまりの人的被害の大きさに燃料タンクが発火しないように、撃ち落としたB17の燃料タンクを調べてみると、燃料タンクは何層もの重ね合わせ構造になり、被弾するとスポンジゴムが穴を塞ぎ、ガソリンが漏れるのを阻止するしくみになっていた。ガソリンタンクは空気がないため、弾があたっても発火しない。漏れだしたガソリンが引火して発火する。そこでガソリンが漏れださない構造になっていたのであった。早速日本もこの装置を取り入れ、新たな消火装置も開発して搭載した。しかし日本の技術者達は空力的洗練さと軽量化に骨身を削り、防火対策にまで手がまわらなかった。精神主義が受け身的な装備の開発を遅らせた。気づいた頃には勝敗がついていた。

日本もドイツも戦闘機開発では同じような過ちをしている。とにかく性能向上、戦闘能力重視と職人的な技を好んだ。一方のアメリカはトータルとしていい戦闘機を造る事を心がけた。生産のしやすさ、部品の補給、修理のしやすさ、人命尊重など。それらが日本ではあまり顧みられず、精神力でカバーということになってしまった。短期決戦ではこれでいいかもしれないが長期戦には向かない。第2次大戦の技術面でも負けてしまった。

写真1:零式戦闘機;写真2:三菱4240号の製造番号が見える


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山本五十六の懐刀

2009年01月21日 18:43

黒島亀人参謀

もし第2次世界対戦に勝っていたなら、黒島亀人は日本海海戦の東郷元帥の頭脳、秋山真之にも勝るとも劣らぬ名声を得たであろう。黒島亀人は山本五十六の先任参謀として常に山本五十六と行動をともにし、その作戦を立て、遂行してきた。真珠湾攻撃しかりミッドウエイ海戦しかり。司令長官東郷―参謀秋山に対比して司令長官山本―参謀黒島といわれる。


よほどの変人だったらしく、いい話は残っていない。誰もが反対する黒島をあえて、連合艦隊司令部先任参謀に抜擢した。その理由は簡単で、彼が並外れた変人、奇人であり、海軍大学校を優秀な成績で卒業した秀才たちでは、並の考えから外れ得ず、その戦略を読まれてしまう可能性がある。それに対し、奇人、変人の考えは予想する事も難しくアメリカのような大国を相手に戦わなくてはならない場合、正攻法でいっても通用しない。よほど奇抜な作戦を立ててもらうためには彼でなくてはならないと説得した。

山本五十六はアメリカのような大国と戦うようになった場合、正攻法や持久先
方は役に立たず、奇襲をかけ、どんどん積極的に攻め続け、早いうちに有利な状態で講和にもちこむしか手が無いと思っていた。しかし、軍令部は南方の資源を確保しつつ、アメリカ海軍が出てきた時に、待ち伏せて叩けばいいという持久論であった。
山本は持論を通すため、航空兵力を結集して真珠湾奇襲を決行することを決意し、黒島参謀に真珠湾奇襲作戦計画を練らせる事にした。その変人たる頭脳に期待した。天才肌で凝り性の黒島は長門後部甲板の先任将校の個室に籠り、ふんどし一丁で、ろうそくの光の中、瞑想し一人で作戦全般を練ったという。その結果、あのような奇抜で、誰が考えても、無謀だと思われるような、しかし緻密に練られた案が完成する。長駆ハワイまでどのように隠密行動をとるのか、何隻の空母を投入するか?難問はつきない。
この一戦に全てを賭けるとの大ばくちで使える空母6隻を全部投入する。
「トラトラトラ」の」電報が発せられ、奇襲の成功が長門に伝えられる。しかしあれ程山本が念を押していた宣戦布告の通知が間に合わず、この成功もだまし打ちにされてしまった。

賭けとして敢行した真珠湾攻撃が大成功をおさめ、これで早い講和の実現がかなうはずであったが、だまし討ちとの批判が轟々とアメリカ国内で巻き上がり、アメリカ国民の意気を消沈するどころか、高揚させてしまった。また日本国内では楽観的な空気が漂い始める。しかも真珠湾で打ち漏らした空母が残っている。山本に焦りが生まれた。短期決戦によって政治的終戦に持ち込もうとする戦略構想が、ちょっと勝っただけで浮かれ、戦時下というのにのんびりと出勤退庁時間を守っているような海軍中央の秀才どもに分かるはずが無い。第二段の攻撃も積極作戦でいこうと決め、軍令部には相談無く、黒島参謀を中心に作戦を練り始めた。山本が幕僚に研究を命じた作戦計画は4つある。1. セイロン島を攻略し、英国海軍を南方地域から追い払い、ドイツ軍と手を握る。2. ハワイを攻略する。3. オーストラリア北部に侵攻する。4. ミッドウェイの攻略。である。
論議の果てに連合艦隊は皮切りにセイロン島攻略を行う事を決定した。しかしこの案は軍令部により却下されてしまう。その結果、連合艦隊司令部はセイロンにかわって本気でハワイ攻略を考え始める。当然のごとく日本本土とハワイの中間にあるミッドウエイ攻撃が浮かび上がる。その頃にはアメリカ機動部隊がウエーキ島や東京に近い南鳥島を蹂躙し始めていた。ミッドウエイ攻撃でもってアメリカ空母艦隊を殲滅する以外、早期決戦と本土防衛を果たせる方法はない。黒島大佐は真っ暗な参謀室に閉じこもって秘策を練る。誰にも理解されないような独創的な秘策を、香をたいた部屋で瞑想し、絞り出す。そして半月もたたないうちにポートモスビー攻略からフィジー、サモア攻略作戦という3ヶ月半にわたる大作戦を生み出すのである。黒島参謀が一番頭を悩ましたのはアメリカ空母の動静であった。そこで黒島参謀は敵空母を誘い出し、一気に叩くという作戦を考えだした。大部隊をいくつかのグループにわけ異なる日時、異なる場所から出撃させ、精密なスケジュールのもと、ミッドウエイに敵を誘い込み殲滅する。これが彼の考え抜いた作戦であった。

第一撃はアリューシャン列島を叩く。すると米艦隊は真珠湾を出てアリューシャン列島へ向かうであろう。第二段は南雲機動部隊がミッドウエイに襲いかかり、その後ミッドウエイとハワイの中間で待機する。あわてた米艦隊はミッドウエイに向けて急遽舵をきるであろう。そこを捕捉して一網打尽にしようとする案で黒島は自信満々であった。いずれにせよ、艦艇200隻以上の大兵力が、10個のグループに分かれ。太平洋の北から中央にかけて展開し、スケジュール通りに進撃するのである。ほんのちょっとした齟齬で緻密な計画は反対に完全に瓦解してしまう恐れがある。米国は暗号電報の解読で、ミッドウエイに日本海軍が続々と集まりつつあるという情報を得ていた。そして米空母は南雲機動部隊司令部の予想よりも早くミッドウエイ海域に到達していた。
日本側にも前もって警鐘の電報が送られていたのであるが、無視されてしまう。マーシャル諸島のクエゼリン環礁を基地としていた第六(潜水艦)艦隊の司令部特務班は米空母から発せられたとみられる米軍の暗号電報の発信場所を特定した。それはミッドウエイの北北東170カイリ付近で、2隻の空母がミッドウエイに向けて移動しているというものだった。作戦特別緊急電報で大本営、赤城機動部隊に打電された。大和の山本長官のもとにも知らされた。「赤城に念のため知らせてはどうか」と山本は言った。しかし黒島参謀は自信満々に「赤城でもこの電報を受け取っていますから、知らせる必要なないでしょう」とさり気ない返答であった。しかし赤城の南雲司令部は敵空母は、はるか彼方にいるに違いないとの先入観から、電報を受け取る状態にすらしなかった。
待ち伏せのつもりが、情報不足、索敵の遅れから、反対に奇襲されて、惨敗に終わり、米軍をしてミッドウエイの七面鳥狩りとまで言わしめた。空母赤城、加賀、蒼龍が炎上。頼みの山口多門少将率いる飛龍も被弾し戦闘力を失った。

しかしその被害はひた隠しに隠され、海軍大本営発表と称して日本海軍の勝利を大々的に戦果を発表した。海軍中央の秘密主義は完璧で、国民に対しても、陸軍にも、東条英機首相にもなんの知らせも無く、大本営発表を頭から信じ、連戦連勝で戦争は間もなく終わるかのごとき、幻想に陥り、天皇に対しても事実を知らせる事は無かった。

戦後に黒島は「しかしその情報(電報のこと)を見逃したにしろ、南雲があらゆる機会を捉えて、命令を忠実に実行したなら日本海軍が勝利を得たでしょう」と語っている。
南雲司令部が真の目的はミッドウエイを叩く事ではなく、敵空母を殲滅することだと理解していれば確かに、黒島の案は成功していただろう。しかし、意思の疎通に欠け、先入観に凝り固まっていた機動部隊にはその柔軟さがなかった。山本の嘆きは益々深まる。

1943年春。連合艦隊司令長官山本五十六大将は南方前線視察のため、ラバウルを飛び立ち、バラレからショートランドへわたる途中、暗号を解読した米軍の待ち伏せにあい、撃墜される。
山本五十六戦死の後、黒島は生彩を欠くようになる。軍備を担当する軍令部第2部部長となり、特攻兵器の開発に携わった。黒島が軍備担当の責任者に就任した事は海軍が特別攻撃を採用する決定的意味を持ったとされる。戦闘機による特高の他、人間魚雷「回天」、ロケット特攻機「桜花」にも携わり、9500人もの若者が特攻で散る事となった。黒島自身は軍令部のデスクワークだったため、戦犯に問われる事もなく、戦後も生き続け、1965年73歳でこの世を去る。
黒島は善しにつけ悪しきにつけ、天才として自分の才能を思う存分引き出してくれる山本五十六のもとで、並外れた知略で活躍したが、その支えを失ってしまうと一気にたががはずれてしまった。

バルチック艦隊を撃破することで、大部分の目的が達せられた日露海戦と違い、黒島、山本の不幸は真珠湾攻撃だけで戦争は終わらず、連続して戦い続けなければならない長期戦になったことにある。日露戦争の場合も第2次大戦の場合も全面戦争では勝ち目の無い戦であった。日露戦争においては、短期に日本が有利に戦いを進めている間に、将来を見通せる政府首脳がいて講和に成功した。一方、第二次大戦では、真珠湾攻撃の成功で勝てるのではないかという期待が膨らみ過ぎ、また政府首脳陣に先を読める者がいなかったため、ずるずると長引いた戦争になってしまった。
山本はあくまで積極的な短期決戦でのみ勝機があると考えていたため、黒島に秘策を考えさせ、自信をもって真珠湾攻撃、ミッドウエイと攻め続けたが、ほんの小さなボタンの掛け違いで、大きな齟齬が生まれ、ミッドウエイの大敗につながった。

暗号「マリコ」と日米開戦

2009年01月14日 19:44

柳田邦男著「マリコ」

海軍や外務省の米英協調派による努力も虚しく、日本は米国に対し、真珠湾攻撃に踏切り米国に宣戦布告をしてしまう。この事実が消える事は無いのだけれど、その陰で命をかけて日米開戦を阻止し、両国の平和の架け橋にならんとした外交官がいた。その娘の名前が「マリコ」という。マリコは外交官の寺崎英成とアメリカ人女性のグエンの間に生まれた。

35、6歳の頃、何もかもが生き詰まっていた時に読んだ柳田邦男著「マリコ」ほど、心が打ち震え、涙が溢れたことはなかった。また自分の生き方にもこれほど影響を与えた本も無く、宮本輝の作品とこれくらい、と言うほどのショックを受け、彼の生き方と運命の残酷さを考えさせられた。

寺崎英成はワシントンに勤務する外交官であり、日米緊張が高まる中、情報収集を行っていた。ある日、日本大使館で開かれていたパーテイーの式場で米国人女性グエンと知り合い、恋に落ちる。英成は機密文書を扱う高級外交官であり、上司や周囲からは日米が戦争状態になったら敵国の女性となる。そんな女性と結婚すべきではないと反対されるも、「日米は仲良くなしなければならない。二人で日米の架け橋となって戦争回避に尽くすつもりだ」と結婚する。
昭和6年に上海勤務となりそこで日米の架け橋となる「マリコ」が誕生する。昭和12年。情勢は風雲急を告げ、日本は中国と戦闘状態に入る。
昭和15年には再びワシントン勤務を命じられる。英成の兄太郎は外務省でアメリカ局長という重職についていた。日米間の電話は必ず盗聴されている。兄は英成から日米間のやり取りやアメリカの出方、感触をすばやく知らせてもらうための秘策を思いつく。暗号名「マリコ」が誕生する。アメリカ側の反応がよければマリコは元気。悪ければマリコは病気。もっと悪くなるとマリコは危篤という具合に連絡をとった。
英成にはアメリカの国力、情勢などの情報収集の任務もあったが、FBIは徹底的にマークし、尾行、盗聴、手紙の開封など克明に記入していた。これが「寺崎ファイル」となり、戦後英成がGHQから高く評価されるもととなる。しかし事態は刻々と悪い方に向かい、マリコの症状は益々重くなる。そのような日米の押し詰まった事態をどうにか打開すべく来栖三郎全権大使がワシントンにやって来る。英成は最後にとっておきの奥の手を来栖大使に授けた。それは「ルーズベルト大統領から天皇陛下宛の親書を送ってもらい、直接天皇陛下に訴えかければだれも反対できない」というものであった。

昭和17年12月7日午前10時。開戦前日。ルーズベルト大統領より、親書が打電されるが、日本軍部の画策により、電報がアメリカ大使のもとに届いたのが午後10時。翻訳されて天皇のもとに届いたのが8日の午前3時。すでに遅そし。真珠湾攻撃の30分前であった。天皇にはあらかじめルーズベルトから親書が届く事は知らされていた。天皇は戦後「昭和天皇独白録」で、「親書が来るのを待っていたが、いっこうに来ない。きたらそれに返事するつもりでいたが、間に合わなかった」と述べている。
真珠湾の攻撃が始まった。英成はグエンに言った。「日本は負ける。君たちはアメリカに残れ」しかしグエンは「国がどうなろうと家族は一緒です。私たちは日本に行きます」と答えた。日本に帰国後は、グエンとマリコは敵国人としてひどい仕打ちと辱めを受けなければならなかった。マリコは石を投げられ棒で叩かれ、グエンはスパイだと特高警察につけまとわれた。栄養失調に陥り、体を壊し、マリコは明るさを失った。

昭和20年の8月。玉音放送。戦争は終わった。
マッカーサーの政治顧問であったアチソンはFBIの寺崎ファイルによって、英成が日米の平和に向けて懸命の努力をしていた事を知り、英成を探し出して「君の平和への努力を発揮すべき時がきた」と日米の架け橋に採用する。英成は日本政府とGHQの連絡官として復職する。翌年には天皇とマッカサーの通訳担当官になる。英成は寝食を忘れて、仕事に没頭するが、長年の、過度のストレス、体の酷使、栄養状態の悪さ、などが重なり脳溢血で倒れてしまう。グエンの献身的な看病で一命は取り留めるが、ハードな仕事に耐えられない体となり、外務省を退職。

マリコが成長し、英成は日本と米国とどちらで教育したらいいのか迷うが、日本やアジアの政情不安などを考え、マリコとグエンに米国に帰る事を強く勧める。再び家族が一緒に暮らせる日々を夢見るも、朝鮮戦争が勃発し、日本も戦争に巻き込まれるのではないかとの危惧から日本へ帰る機会を失なってしまう。そして一年後、グエンのもとに一通の電報が届く。それは英成の突然の他界を知らせるものであった。

英成の死後、グエンは「太陽に架ける橋」を出版し、「平和のためにはいつも橋を強固にする努力を惜しまないようにしなければなりません。私たちは日本とアメリカとの間に橋を架ける努力をしてきましたが、それは不完全なものになってしまい、日米の戦争と言う誰も望まないのに突入してしまいました。これからは日米により強固な橋を架け二度とこのような不幸なことが起こらないよう努力しましょう」とのメッセージを本に込めた。

一方、マリコはアメリカで大学に入り、弁護士のメイン ミラーと結婚し、民主党員として夫のためワイオミング州で選挙活動をする傍ら日本国名誉領事官を勤め、日米の架け橋として活躍する。
マリコは英成の死後40年経って、遺品の中から「昭和天皇独白録」を発見し出版する。この本では日米戦争当時の昭和天皇の思いが独白というかたちで語られ、当時の天皇の心情がよく現れている。

現在マリコは70歳を越えているが、健在で活躍されている。2006年の春、日米友好と世界平和に尽くした功績で、叙勲され今の天皇陛下と会い歓談されたという。何を話されたのか興味が湧く。
日米の架け橋のために一生を捧げた一家と、その運命を翻弄した大きな歴史のうねり。考えさせられることの多い本であった。

坂の上の雲と伊地知幸介

2009年01月08日 17:41

伊地知幸介の悪評は事実か?

「坂の上の雲」の中で司馬遼太郎によって伊地知ほど無能で頑迷であるとして徹底的にひどい評価を受けた者はいない。本当にそんなに無能だったのか?

伊地知は薩摩藩士の伊地知直右衛門の長男として1854年に生まれる。陸士を優等で卒業後フランス、ドイツ留学。日清戦争には第2軍参謀副長として出征。大本営参謀、参謀本部第一部長、駐英武官とエリートコースを順調に進んだ。1904年、陸軍少将の時に旅順要塞攻撃のため新設された第3軍参謀長に就任し総司令官である乃木希典大将を輔弼した。その時の無能ぶりが、司馬遼太郎の酷評を受ける事となる。
その後旅順要塞司令官に発令され、東京湾要塞司令官に転じ、同期トップで陸軍中将に進んだ。1910年には軍務を退き、翌年、病気により休職した。1917年没。

 旅順攻略は乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とした第三軍が当たった。乃木軍の参謀長伊地知幸介の無能により日本兵の集団自殺的な戦死があったとされる。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけという例は、史上に類がないとも言われている。
戦況を把握して的確な作戦計画を立てるのが参謀長の職務でありながら、「終始砲声が聞こえていては落ち着いて思考できない」ことを理由に、司令部を後方の安全地帯に置き、要塞砲の増強要請に対しても「設置し直す手間がかかるので必要ない」と答えるなど、終始硬直した作戦計画を立てて機関銃や地雷で重装備しているロシア軍に対し、白襷をかけさせ肉弾攻撃に固執した。その結果、山腹が日本兵の死体で埋まり、ロシア兵ですら「無意味で不可解な突撃」と述べるほどの損害を出し続けた。乃木も対要塞の専門家とされていた伊地知に対し、戦術変更などの命令を積極的に行わなかった。

しかし彼の経歴を考えてみるに、伊地知は第5代、第7代野戦砲兵監を務め、砲兵の運用法研究や装備調達をする部署のトップであったにすぎず実戦経験も乏しかった。砲兵の大家だから、要塞攻撃にふさわしいと考えた人事がそもそも間違いだった。ただ司令官の乃木が長州出だから参謀長に薩摩出身の伊地知をもってきたといわれても仕方ない人事だった。また伊地知の不幸は乃木がすでに評判のいい名将軍とされ、彼を表立って批判ができなかった世論の反動が伊地知への批判に向かっていったことかもしれない。

乃木軍の第一回総攻撃によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷15,800人であり、敵に与えた損害は軽微で小塁ひとつぬけなかった。第二回目の総攻撃では死傷4,900人で、要塞はびくともしない。
東郷艦隊の幕僚室では、なぜ乃木軍は二〇三高地に攻撃の主力を向けてくれないのかと思っていた。東京の大本営にとっても、乃木軍の作戦のまずさとそれを頑として変えようとしないことには困り果てていた。大本営でも二〇三高地を攻めるように頼んだが、命令系統のこともあり、示唆程度に終わってしまう。
結局は児玉源太郎がやってきて、方針を変更し東京湾から二十八サンチ榴弾砲を持ってくる。これが日本敗亡の危機から救い出すことになる。司馬遼太郎は児玉をしてこういわしめている。「司令部の無策が、無意味に兵を殺している。貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ」と。

人が良いだけの司令官と、大局観の無い頑固な参謀により、死ななくてもいい多くの兵士が亡くなった。乃木将軍は明治天皇にかわいがられ、明治天皇の崩御とともに殉死し神様に祭り上げられた。一方の伊地知幸介も日露戦争後には陸軍少将には珍しく爵位を授けられている。この例から見ても当時は評価が低かった訳ではない。表面だって糾弾されることはなかったし、それを糾弾すれば、陸軍首脳はなにをやっていたのだとなる。それを恐れた。だれも失敗の責任を取らないという官僚体質は昔も今も変わらない。坂の上の雲で司馬遼太郎が伊地知幸介をみごとにまで酷評したことで、その評価は地に落ちたが。一度このようなレッテルを張られてしまうと、それを払拭して、名誉挽回することは不可能に近い。
研究の世界でも、一方的にあの結果はおかしいなどと、風評をたてられてしまうと、反論の機会がなく、その噂が一人歩きする。そうなると、その噂が消えるのには時間がかかる。論文で反論される方がはるかにいい。当方の言い分が正しいのだと論文で主張できるから。

口コミの裏情報が飛び交い、その影響力の大きい日本社会ではネガテイブなレッテルを張られる事はその人の将来に致命的である(恐い、恐い)。

河井継之助と山本五十六

2009年01月02日 11:50

激動と混沌の時代を迎えるあなたへ

2009年の年が明けた。100年に一度という程の不景気な年を迎え、激動の混沌の時代がやってくる。今日は激動期、混沌期に生きた2人の人物を取り上げ、その精神構造が最終的な判断にどのように影響を与えていったかを考察したい。

河井継之助と山本五十六は長岡の出身で、深い因縁をもった二人であった。長岡を中心とする中越から上越国境の魚沼地方は一年の3分の一が雪に閉ざされてしまう。深い雪、長い冬、厳しい寒気、そして貧しさ。この風土の越後に育った人は律義さと忍耐強さで知られている。ともに忘れてならないのは進取の気性にも富んでいることである。長岡人は常に「いっちょ前」の人間になることを目指していた。深い雪に長い間閉ざされ、忍従の生活を強いられ,はけ口のないエネルギーがある一点を目指して蓄積され、そして爆発していく。河井継之助と山本五十六,更に過去に遡れば上杉謙信と、ストイックに自分の信念を説き、ついには忍耐が切れ、爆発へと向かっていく様は何か共通したものがあるように見える。長岡人の血には「なにごとかなさざればやまず。しかも他人の手を借りることなく」の熱情が流れているという。

山本五十六は高野家に生まれた。家は代々長岡藩の儒官の家柄である。祖父は明治維新の長岡攻防戦で、77歳で敵陣に切り込んで戦死。父も銃士隊に加わって参加、戦争に負けて苦労を重ね、明治になって役人、小学校長を務めた。その6男として1984年に生まれた。長岡中学校を卒業し、海軍兵学校に入学。入学成績は2番。海兵卒業次席は13番であった。首席は後の親友で、対欧米協調派の筆頭であった堀悌吉であった。卒業と同時に巡洋艦日新に乗り込み、日本海海戦に参加することになる。その時。左手薬指と中指を失うという重傷を負う。この高野五十六が戊辰戦争の時、河井継之助の片腕として戦い,戦死した長岡藩家老の山本帯刀家に入り名をついだ。以後は山本五十六となった。河合家と山本家は明治になっても逆賊の烙印が消されることもなく、世を潜んで暮していた。山本は錦の御旗に逆らった藩の出身として、また薩摩閥の強い海軍において、いつも日陰の道を歩まされてきた。そんな山本には「薩長何するものぞという反骨心がむらむらと湧き、今に見ていろ人が目を剥くような「いっちょ前の」仕事をしてやるぞとの気概あった。これは河井継之助と共通した魂であろう。
河井継之助は自分を単純な佐幕論者ではない、確たる戦略論をもっていると思っていた。それゆえ、長岡藩を横暴極まる薩長軍に無条件降伏してなるものかという思いがあった。よって恭順というひたすら皇軍にひれ伏すということが我慢出来なかった。しかし武装中立の立場を貫くという態度は、勝ちにおごる皇軍の軍監岩村の受け入れられるものではなかった。「かくまで誠意を尽くして嘆願しても、お認めなくばやむをえぬ。弓矢の道の命ずる通り、藩を焦土とかしてもお相手つかまつろう」となる。その背景にはおのれが築き上げた長岡軍団の強靭さがあった。最強の兵器と精強の兵を用いて,世の言う不可能を可能にしてみようではないかという過信があった。河井継之助という侍は当時にあっては珍しい程武士道に生きる武人であり、炸裂するような激しさで美学的な破滅を選んだ。
山本五十六は対米英戦争は日本を亡国に導くと猛烈に反対してきた。また対英米協調派の旗頭のひとりだった親友海軍中将堀悌吉が伏見宮軍令部総長を頭にいただく対英米強硬派の画策で、予備役に入れられた後も、海軍大臣米内光政大将、次官山本五十六中将、軍務局長井上成美少将のトリオが中心になって、三国同盟に反対し、対米協調を唱えてきた。しかしやがて山本は連合艦隊司令長官となって中央から飛ばされ、井上も軍務局長から離れて、支那方面艦隊参謀長として出されることになる。そして、陸軍が、国中が、海軍までもが対米開戦の主流派に乗っ取られ大合唱し始める。

そんな中でも、山本は国力を基本にした戦略観から、アメリカと戦ったら間違いなく日本が負けると確信していた。にもかかわらず、開戦3ヶ月前に、近衛文麿首相から意見を求められ「もしやれと言われるなら,一年や一年半は大いに暴れてご覧に入れる」と言ってしまう。あえて「対米戦争はやれません。やれば必ず負けます」とはなぜ言えなかったのであろうか。自分が造り上げた空母、航空部隊の威力と真珠湾奇襲という破天荒且つ斬新な戦略をためしたいという軍人特有の感覚が心底にあったのと、いままでの鬱屈した精神が跳ね、「何事か成さざればやまず」という河井継之助を突き動かしたのと同じ越後人魂がむくむくとでてきたのではないか。その結果、真珠湾奇襲となり、太平洋戦争に突入する。

河井継之助も山本五十六もどちらかというと寡黙で、長々しい説明や説得を嫌った。分からぬものに己の内心を語りたがらず、ついてくるもののみを好む。分からんやつには説明しても分からん、と木で鼻をくくったような横着なところがある。河合も藩で意見の合わない者を説得するということはせずに、容赦なく排除したように、山本も海軍中央と実戦部隊司令部との食い違いを埋められないまま、戦争に突入していった。連合司令長官として山本は孤独な戦いを戦ったという他はない。こうしてみると、河合といい山本といい、「己を棄てて泥にまみれ罵詈雑言に耐える」ことを最後まで貫くことができず、そんなに言うのなら自分の実力を目にも見せてやらんとの気概がむくむくとこみ上げてきたのではないか。山本の立場で言えば、本来国家の大計をたてるのは政治家がやるべき仕事で軍人のやる仕事ではない。軍人は一旦国家の方針が決まったらそれに従うべきものなのである。という心もあった。
世論を気にせず、己の信念のまま、未来の国を見通して大義を貫くのはなんと難しいことか?
日本がなぜ負けると分かっている戦争に突入したのか?いかにして欧米協調派が排除されていったのかについては別の機会に議論したい。
                     (参考:半藤一利著 山本五十六)



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