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日本の生物の多様性

2009年02月24日 18:09

生物分布境界線

日本は島国であるため、他の国に比べ固有種が多く、多様性にも富んでいる。
全世界の総生物種は175万種でそのうち哺乳動物が6000種、鳥類が9000種、昆虫が95万種、維管束植物は27万種あまりとなっている。特に、陸地面積の7%しかない熱帯雨林に全生物の90%近くが生息すると言われる。

日本はユーラシア大陸東岸の雨の多い地域に属し、植物相は旧熱帯区系界と全北区系界の二つにまたがり、動物相は旧北区と東洋区に属している。日本は南北に長く、多くの島より成り立っていることや大陸との分断やモンスーン地帯に位置する事など豊かな生物相を示している。我が国の維管束植物が5565種あり、哺乳動物が188種で、は虫類が87種いる。同じくらいの面積のドイツと比較してみると、ドイツでの維管束植物は2632種、哺乳動物は76種では虫類は12種と,我が国の方が圧倒的に多様性に富んでいる。

我が国の総植物種は9万種類と言われ、地理的に古い時代に大陸から離れた南西諸島,大陸とつながったことのない小笠原諸島と南鳥島が旧熱帯区系界に属し、残りの地区は全北区系界に属す。旧熱帯区系ではタコノキやヤシ類が特徴的で全北区系ではクリやヤナギ類が分布する。動物相の面からは、6つに区分される世界の動物区のうち、わが国は旧北区と東洋区に属し、九州本島以北の地域の動物相はユーラシア大陸との類縁性が高くなっている。また、屋久島・種子島と奄美大島との間に引かれる渡瀬線より南の地域には、ハブ属やチョウ類など台湾や東南アジアとの近縁種が多くなっている。渡瀬庄三郎(1862年生)は南西諸島の生物相を検討するうち、屋久島・種子島と奄美諸島の間(厳密にはトカラ列島の悪石島と小宝島の間)に、生物地理区の旧北区と東洋区を分割する分布境界線が存在することに気づき、1926年(大正元年)にこれを発表した。この分布境界線は、現在も渡瀬ラインの名で知られている。渡瀬線以北の地域は、津軽海峡に引かれるブラキストン線によって2つの亜区に区分され、北側はヒグマやナキウサギなどシベリアとの近縁種が多く、南側はツキノワグマなど朝鮮半島との近縁種が多く見られる。この境界ラインを提唱したのは、イギリスの動物学者のトーマス・ブラキストンである。彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動植物分布の境界線があるとみてこれを提唱した。また、ほ乳類にもこの海峡が分布境界線になっている例が多く知られる。日本で生物層が大きく変わるのは、よって渡瀬ラインの南と本州、九州、四国地区とブラキストンラインの北、北海道である。

世界で分布境界線を最初に提唱したのは、アルフレッド・ウォレスである。彼は労働者階級の出身のため、貴族階級のダウインの影に隠れて、進化論への貢献度が極度に低く押さえられている。ダウインが種の起源を書き上げるにあたって、彼のデータを随分参考にした事は間違いない。ダウインに消された男とも言われる、彼は1868年、インドネシアにおける生物研究の中から、主として動物相の差をもとにその存在を主張した。彼の言う境界線はスンダ列島のバリ島とロンボク島の間を通り、ボルネオ島、セレベス島の間を経て、ミンダナオ島の南へ抜けるものである。彼によると、これより西は東南アジアを含む東洋区の生物相を持ち、これより東はオーストラリア区に属する。この境界線は、ウォレス線と呼ばれる。有名なのはこれより南には大型肉食獣が存在せず、そのため全く外の地域とは異なった進化をとげた動物が多いことである。オーストラリアのダチョウや南極のペンギンなどの空を飛ばなくなった鳥。カンガルーなどの有袋類などや更にはカモノハシや針モグラなどの卵胎生がその代表。ほ乳類であるにもかかわらず、卵をうむ。

このように多様性に富んだ生物相が形成された背景として、わが国の国土がユーラシア大陸に隣接し、新生代第四紀に繰り返された氷期と間氷期を通じて、津軽海峡やトカラ海峡等で陸地化と水没を繰り返し、これに伴い様々な経路で大陸からの動植物種の侵入や分断・孤立化が生じたことが挙げられる。
日本列島は大陸から分離して成立したが、奄美諸島以南の島々は大陸島の中で最も古くから独立した島であるため、動物相の固有性が高い。また、北海道は大陸とのつながりが長く続いたため、北方要素の強い独自の動物相が見られる。このため、屋久島・種子島と奄美諸島との間に引かれた渡瀬線及び本州と北海道の間に引かれたブラキストン線の2つの生物地理学上の境界線を区分の指標とする。
琉球列島と小笠原諸島は独自な生物種の進化をとげたため、この島の生物種は他の地区と異なる固有種が多い。
琉球列島は亜熱帯に属し、年降水量が多い。亜熱帯林が発達し、マングローブなど南方要素の強い植物が見られる。奄美大島や沖縄本島北部のやんばる地域、西表島にはまとまった照葉樹林が分布する。動物相は極めて固有性が高く、ヤンバルクイナやイリオモテヤマネコなどの生息により特徴付けられる。
小笠原諸島は亜熱帯に属し、年降水量は中位である。ヒメツバキなどに特徴付けられる海洋島型の亜熱帯林が見られ、父島や母島にはシマイスノキが優占する亜熱帯林が分布する。動物相は極めて固有性が高く、オガサワラオオコウモリなどの生息により特徴付けられる。

日本は島国だけあって固有の生物種が多い。しかし近年、多くの外来種が持ち込まれ、古来種を絶滅させようとしている。固有種が失われれば、昔の里山の風景は成り立たない。メダカが泳ぎ、蝶やトンボが飛び、夏の夕暮れともなると蛍が飛び交うという田舎に行けばどこにでもあった風景を取り戻す事ができるであろうか?

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西行法師

2009年02月17日 17:47

白州正子著「西行」を読んで

今までにも西行に関する書物は西行物語や山家集を含めいろいろと読んできた。しかしこの本はそれらの解説本と異なり、西行の内面に深く入り込み、そのときに西行が感じたであろう「無情と世間を完全に断ち切れない境地」の感情が「異常なまでに桜の花に注がれた」様を語っている。西行自身が訊ねていったゆかりの地を著者自身が実際に訪れ、西行がそこで読んだ歌とその当時の西行に立ち返っての心情の吐露の代弁は、「出家したけど人間を捨てきれなかった西行の業と、その心のうちを和歌を通して訴えた生き様」の叫びとして興味深い。

 西行の俗名は佐藤義清。1118年に生まれ、18歳で左兵衛尉となり、鳥羽院の北面の武士として仕える。23歳で出家し、西行と名乗る。出家の原因には諸説有るが、西行物語では親友佐藤範康の急死が直接の原因であるとしている。しかし源平盛衰記によれば「申すも恐れある上臈女房を思懸け」ての失恋にあるという。この女性は鳥羽上皇の中宮となった侍賢門院たま子「王に章とかく」で、西行はこの女性を崇拝し熱愛していた事は疑う余地がないのだそうだ. たま子は正2位権大納言藤原公実の末子に生まれた。生まれてすぐに白川法王の寵妃、祇園女御の養女となり、院の御所で生活する。白川法王は次第に孫ほどに年の違うたま子を寵愛するようになり、ついに手をつけてしまう。法王は適当な婿を捜そうと、関白忠実の息子、忠道に声をかけるが言を左右にして応ぜず、鳥羽天皇のもとに入内させる。天皇15歳、たま子17歳であった。
  「夕張りの月にはづれて見し影の 優しかりしはいつか忘れん」

白川法王との情事は入内後も続いた。第一王子の顕仁親王(後の崇徳天応)は法王の子であった。侍賢門院はまさに院政を象徴する女性で、やがて勃発する保元の乱の因となった。法王は1129年に崩御し、嵯峨野の法金剛院にまつられる。時が過ぎ、鳥羽上皇は美福門院を寵愛するようになり、侍賢門院も42歳(1142年)で出家し、法金剛院に籠り、45歳で崩御し、多情多感な一生を終えられる。
西行29歳の折。侍賢門院、かくれさせおわしましにける御あとに、人々またの年の御はてまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀河の局のもとへ申し送りける。
 「尋ぬとも風の伝にも聞かじかし 花と散りにし君が行へを」

侍賢門院の崩御から十数年経って法金剛院に紅葉を見に行き。
 「紅葉見て君やたもとや時雨るらん むかしの秋の色をしたひて」

また嵯峨野清和院で 「春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり」

西行は出家した後、しばらくは向日市の西、長岡京の大原野の「花の寺」大原院勝持寺にいたと言われる。

「山林流浪の行をせんとおもいて」吉野へ毎年のように桜見物にでかけ60首の和歌を詠む。
「吉野山花の散りにし木のもとに とめし心はわれをまつらん」
「願わくば花のしたにて春死なむ その如月の望月の頃」
「春ふかみ枝もゆるがで散る花は 風のとがにはあらぬなるべし」

湘南海岸の大磯近くに鴫立沢の旧跡がある。西行はここで3夕の和歌として有名な
「心なき身にもあわれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」を詠んだ。

陸奥にも2度旅をしている。白川の関をもうでて、能因法師の詠んだ「都をば霞とともに立ちしかぞ 秋風の吹く白河の関」を慕って白川の関を訪れている。
 「白川の関屋を月の漏る影は 人の心を留むるなりけり」

院政時代というのは、王朝の文化が、最後の光芒を放ちつつ消えていく時代であった。その衰退の始まりは保元の乱にあった。保元の乱、平治の乱、源平の合戦と承久の乱との戦乱を通して朝廷の権力は無惨にも瓦解する。中でも凄惨を極めたのは崇徳天皇の生涯であった。天皇が白川法王と侍賢門院たま子の間に生まれた不義の子であることは、先に述べたが、白川法王が崩御すると、美福門院得子が鳥羽上皇の寵愛を集める。そして得子の生んだ体仁親王(後の近衛天皇)が皇太子にたてられ崇徳天皇に譲位を迫った。その時天皇は23歳。体仁親王を養子にさせられ、親王は3歳で即位する。鳥羽上皇に深い恨みをい抱く事になった。その頃から、侍賢門院も落胆のあまり、出家する。また先の関白太政大臣の忠実とその次男の頼長と長男の忠通が崇徳院派と鳥羽上皇派に分かれ確執がひどくなった。鳥羽上皇が崩御すると忠通は源頼朝や平清盛と手を組み保元の乱を制し、崇徳院は出家を余地無くされる。西行はすぐさま仁和寺の崇徳院のもとを訊ねる。
「かかる世にかげも変わらずすむ月を 見る我が身さえ恨めしきかな」

保元の乱が終わると崇徳院は讃岐の国へ流島となった。配流の後8年して46歳で崩御した。西行はそれから4年して配流の跡を訪ねている。讃岐に詣でて、松山の津と申すところに、院おわしましけん御跡たづねけれど、かたもなかりければ
 「松山の波に流れて来し船の やがて空しくなりにけるかな」

よわい70のころには源平の戦いも終わり、義経が陸奥に追われていたが,その頃西行は伊勢に滞在していた。

1190年西行は弘川寺で73年の生涯をとじる。侍賢門院への思慕の情から逃れるためには出家して自己を否定するより仕方なかった。心なき身になりつつも、朝廷に見られる人間の強欲と権力闘争の激動を外から見ていて、歌が唯一のなぐさめとなっていった。

孤独なpenpen

2009年02月10日 19:41

新しい年が明けた。100年に一度の大不景気も満足する事を知らない人間が欲望を膨らまし、グローバル化を金科玉条にして、世界を競わせ大量消費をあおり、借金をしてまで買いあさった結果だ。更に人は自分の欲望のため、地球をも破壊しつつあり、何十億年もかかって進化してきた自然は今や息絶え絶えとしている。
年頭にあたり、破壊される地球と人間の横暴に抗議の心を込めて短い小説を書いてみた。だれかこの小品のイラストを描いてくれる方はいませんでしょうか?
(この文章は正月の間に書いたものですが、もはや2月も半ば。手直しのため少し外っておいたため、発表の時期がずれた。)


-Lonely penpen-
       written by superpenpen


  いつの頃からか地表を覆っていた氷が解け始め、棚氷も年を追うごとに痩せ細り、黒い雲かと見まごうばかりにいた大好物のオキアミやイカも少なくなってきた。何百年も何千年もの間、先祖代々住み慣れた岩だらけの島での生活はちょっぴり不便だけど、それでも魚でいっぱいのおなかを抱えて、仲間同士助け合って、岩山をよじ上って巣への道を急いだものだった。いつの頃か人間がクジラを追って現れ始め、ところかまわず荒らし回るようになった。人工の岸壁や小屋を作り、ごみを放置して、何万年、何千年けがされることのなかった自然が次第に失われ、ペンギンには住みにくい荒廃した南氷洋の島となってきた。最悪なのは近年にはいり人間があちらこちらの島に犬や猫を連れて住みつき、牧場を作るため自然を破壊し、我々の住処を占拠し、羊を飼っておきながら、動物愛護だ、ペンギンを保護しなければと叫んでいることだ。

(1) 希望

あの頃は若かった。颯爽と金髪のリーゼンをなびかせ、胸を反らして岩の上をこれ見よがしに飛び回ったものさ。燃えるような真っ赤な目はルビーの瞳。情熱そのもの。海中に潜れば空を飛ぶように羽ばたき、矢のような速さで魚を追いかけた。俺にかかればどんな魚だってもうおしまいさ。蒼い空に蒼い海。はち切れんばかりの希望が胸につまっていた。いつも何かでっかいことをやってやろう、地球を引っ掻いてやろうと思っていた。何に束縛される事もなく自由に泳ぎ回り、夜になると満点の星空をあおいでの一寝入り、日が昇れば魚採りに明け暮れた。氷山の下をひょいとくぐり抜け、魚を追った日もあった。冬には棚氷が突き出て、一面氷と雪の世界。冷たい風が吹き荒れても、へっちゃらだった。氷の合間から海に入ると大しけでも水の中は静寂そのもの。音のない水中を飛び回ると、まさに天下を取ったような気分。仲間のペンギン達にもこの身軽で格好いい自分の姿を見せつけ、得意の絶頂だった。オキアミや小魚はあちらこちらで群れて泳ぎ回り、大好きなイカも簡単にありつけた。ある時は南極からの寒流に乗って遠足をし、はち切れんばかりの魚をお腹に詰め込み、南十字星を眺めつつ波に揺られて独り寝としゃれた。気楽な毎日であったが、ちょっぴり寂しくもあり、恋にときめく歳になってきた。

(2) 恋

初めて彼女を見たのは海の奥深く大好物のイカを追って行った時だった。昼なお暗い海の奥深く、蛍光色に光り輝くイカを追っていた。まさにイカに追いつき、採ったと思った瞬間、そばから音もなく猛烈なスピードで追い越したかと思ったら、イカをかっさらったペンギンがいた。横取りされむかっときて文句を言おうとして、顔を見た。とたん精悍さの中にも気品のある顔に圧倒され何も言えず、しょんぼりと海面に浮かんでいった。その間、何を考えていたのか、ショックのあまり、記憶にない。髪はリーゼンに決め、金色の髪飾りを風になびかせて、格好よく岩の間を飛び回っている自分が持てないわけないと思っていた。実際、多くの女の子に声をかけられ、散歩はしたけれど、何となくそのままになっていて、積極的になれる彼女はいなかった。
次に彼女に会ったのは夏(南半球では夏が寒い)が終わり、ひさしぶりに雲もない晴天の秋の朝だった。岩をピヨンピヨン跳んで海に行こうとした時だった。ふと胸騒ぎがして斜め後ろを振り返ると、丁度彼女も海に向かおうと岩をジャンプしていた。
一緒に海に入らないかと声をかけると、ぶっきらぼうだけど、思いがけず「良いわよ」との声が返ってきた。海の中では魚の追いかけっこになった。陸上での岩跳びは遥かに僕がうまいのだけど、水の中の動きでは彼女の方が敏捷で、魚採りもうまかった。海の奥深くに潜って、一気に上昇してきて、魚をとる技はとりわけすばらしかった。2人が協力して、一人が魚を追い込み、一人が採るといとも簡単に魚が捕れた。調子に乗って何匹も何匹も魚を捕った。相性の良さはこの上ない。急速に仲良しになり、一緒に魚採りに出かける日が増してきた。ある時は海辺の岩の上に立ち2人して大きな夕陽が海の向こうに沈んでいくのを無言で眺めていた。水平線に真紅の太陽が沈みかけると、あちこちの氷山に残光があたり、赤やオレンジや紫の反射となって飛び散り、光のファンタジーショウが始まる。波も金色の光を浴びて飛び散る。海全体が光の反射を受けてきらきらと輝きだす。夕日が落ちると、今度は天空いっぱいが紅赤色に染まり、雲の端が金色に光り輝きはじめ、海面は次第に黒々としてくる。やがて、壮大なる光のショウも終わり、空も紫色から薄墨色へとかわり、闇の帳が支配し始め、漆黒の闇に代わる。それを待ちかねた様に天空では星々のきらめきのショウが開始する。そんな中、おなか一杯の魚をもって、2人は巣への帰路を急いだものだった。

またある時は遠くの島まで魚を求め、幾日も泳いでいった。ただ2人でいることだけで幸せだった。日が暮れて漆黒の闇が二人をとりまいても、フリッパーに触れて光る夜光虫の蛍光が、あたりをほの明るく照らし出し、道に迷うことはなかった。夜空を跳ぶ自分たちのシルエットが夜光虫の滴りで輝く。いつしかその光も、水平線から覗いた太陽で色あせる頃、小さな島に着いた。島の周りは人間が手をつけていない、荒らされてない自然が残り、好物の魚たちも群れになって泳いでいた。島には、なにより、小さな湾の奥に休むには絶好の平らな岩棚が波打ち際にあり、おおきな図体のアザラシ達もゆったりと寝そべっていた。二人は心置きなく魚を追い求め、疲れると岩棚の上で休憩した。そんな日々が1-2年も続いただろうか。

(3) 結婚

秋が行きかけているある日。ついに2人はお互いに向かい合って、フリパーをパタパタと打ち鳴らし、くちばしを空に向け大きな声で結婚の誓いをした。僕は島の中腹の岩陰の窪地を掘り、小石を運んで新居を作った。2人の家は狭く,雨風を完全には防げなかったけれど幸せそのものだった。すぐに2人の卵が産まれ、僕と彼女で交互に大切に1ヶ月あまり抱きかかえた。すると殻の内側から最初は弱々しく、次第に力強く殻をつつく音が聞こえ、ついには殻を打ち破り、かわいい産毛の子が誕生した。それからが夫婦にとって大変。なにしろいつもお腹をすかして餌をねだる。交代で海に出て、お腹いっぱいにして帰って来て、お腹の魚を戻して子供に与えるのだけど、くちばしをつついて催促する食欲は限りない。一人が巣を守り、一人が海に出て餌をとったのでは追いつかなくなると、そのような幼児ばかりが集められた、クレイシュという託児所に預けて二人して餌を採りに海に出た。クレイシュの何百の幼児の中から我が子を見つけ出すのは大変。鳴き声と匂いとを目指して我が子に巡り会い、餌を口移しであげて、また海にでる。これの繰り返しが2ヶ月近く続いた。しかしある日を境に、次々に本能によって海に導かれるかの様に、幼いペンギンは海を目指して、巣だっていった。我が子も海際で少し躊躇さをみせ、後ろを振り返ったが、海へとジャンプし、海の彼方に仲間達と巣立っていった。

 そんな繰り返しが何年も続き、何事もない日常が淡々と過ぎていった。そんな平凡な日常が一番幸せだった日々だと分かったのはずーっと後になってからだった。10年も経っただろうか。我々夫婦もすっかりベテランとなり、やっと落ち着いて子育てもできるようになってきた。巣立ったペンギンは本能の赴くまま、多くの雛ペンギンと沖を目指して次から次へとくりだす。あの頃は,毎年多くの卵が孵り、巣立ちも実に騒がしいものだった。
しかし、そのような穏やかな日々は長く続くことはなかった。

(4) 人間の出現

 ある時を境に、次から次へと多くの人間がわれわれの住む島にやってきて、油を採るためにクジラだけでなく我々をも乱獲した。その殺戮はほどなく禁止されたが、やがて人間がやって来るばかりか、住み着く様になった。その結果、人間と一緒にやってきた病原菌と犬や猫,羊が確実に我々の生活をうばった。特に免疫のない病原菌により、多くのペンギンがばたばたと死んでいった。また人間は何かと理由をつけては牧場を広げたため、われわれの住むところは犬の来れない崖の中腹に狭められていった。ペンギンの子供の数はあっという間に激減し、若い夫婦も少なくなってしまった。それに最近では傲慢で、欲が深く、恥知らずの人間は我々の住処を荒らすばかりか、とうとう地球までも破壊し始めた。その影響で地球全体が温暖化に向かい、南極近海の海水温が上昇したため魚の群れが遠くに行ってしまった。その結果、大好きだったオキアミやイカもこの附近の海域からめっきりその姿が減ってきた。それでもまだ我々夫婦はどうにか飢えることなく小さな島の小さな岩陰でひっそりと人間におびえ、犬におびえてくらしていけた。

(5) 天候不順

 人間が我々の島の周りに出現し始めるのと比例して、次第に天候不順な日が多くなり始めた。冬には気温が異常に上昇し、棚氷も溶けて、南極とも思えない温かい冬が続くことが稀ではなくなってきた。われわれペンギンの身体は寒いのにはヘッチャラだけど、暑さには耐えられない。そんな気候で、冬の暑さに多くのペンギンが亡くなったかと思うと、夏にもその気温の上昇が我々に襲いかかった。夏に降るべき雪が降らず、雨が降った。またあたりの氷も溶けて、幼児の保育所のクレイシュを水浸しにした。大人のフリッパーは水を弾くようになっている。幼児の羽毛は体温を寒さから守るための防寒具だけど、それが逆に水を吸って、体温をうばい、多くの子供が息を引き取った。幸いにも私たちの子は、雨に打たれて肺炎になったが、奇跡的に回復して無事旅立ちを迎えることができた。


(6) 不幸の始まり

 あれは突然の出来事であった。波打ち際で旅立ちを迎えて、泳いでいた子供に大きな影が近寄る間もなく、その影が突然波間から現れ、大きな口の中に飲み込まれていってしまった。大きな,大きな黒くてお腹が真っ白なシャチであった。余りにも突然の出来事で、無声映画の駒送りのシーンのように、ワンカット、ワンカットがゆっくりと流れていき、声もでず、手足も動かなかった。時間からいえばほんの数秒であったか数十秒であったにもかかわらず,永遠のように感じられた。音のないモノトーンの写真の中の出来事のようであった。

それから長い月日が経ったようにも思えるが、実際にどのくらい経ったかは覚えていない。ただひたすら忘れようと一日中海に潜り、魚を追っかけ、海流にも乗り遥か地球の彼方へといってみたりもした。何度も死のうと考えた。しかし生きながらえた。天が命を奪うまで生きようときめた。子供の分まで生きようと決めた。それでも心の傷はいやされることはなく,悪夢となって度々あの光景が現れた。夢の中で声を上げて泣いていると、その自分に気づいて、目が覚めた。それでも次第に月日が経つと、悪夢は茫洋とした大海の景色の中に封じ込められていった。現実から逃避し、魚採りでいやなことから逃げていると、世の中の移り変わりや妻のこと等も気にかける余裕がなかった。
妻の気持ちは離れていき、少し精神も壊れかかっていった。非常に感情が高ぶったかと思えば、すぐに落ち込み感情のコントロールができず、潔癖になりすぎ、寛容さがうしなわれてきているようだった。そんな妻にどうしようもせず、慰めの声をかけるでもなく心が離れたまま、月日が過ぎていった。それでもどうにか、表面的な日常生活は送っていた。海の彼方へ沈んでいく夕陽を眺めながら、日が落ちて、夜の帳が支配する間の残光によって照らし出された夕焼け雲をみながら、心を落ち着かせ,昔のあの美しかった自然一杯の夕日を思い浮かべながら、暗闇の中を巣へ帰っていくだけの気力はお互いに残っていた。

(7) 自然破壊

 天候のくるいも次第に顕著になってきた。 いつもなら雪が降り氷が厚くなり、氷棚の張る夏にも関わらず、土砂降りの雨が降ったり、異常に高温の日が続くことがまれではなくなってきた。冬には晴れ渡った晴天の日がなく、長雨が続き、風やインフルエンザと言った感染症が蔓延し、大勢の幼いペンギンや年老いたペンギンの命を奪った。海岸にはプラスチック製のボトルや発泡スチロールの破片が大量に流れ着いた。昼間の海中でみるとそれはきらきらと光り、多くのペンギンはイカと間違えプラスチックを飲み込んでしまい,消化できず亡くなっていった。私の妻もイカと思って飲み込んだ発泡スチロールがのどにつまり、苦しがってあっという間にあの世にいってしまった。彼女にとってみれば生きて地獄を見るよりも幸せだったかもしれない。あれほど大勢いた仲間達が人に狩られ、営巣地を牧場にされ、犬や猫に追いかけられ、はたまた人の持ち込んだ病原菌に壊滅的に数を減らしていった。人間は地球に炭酸ガスや過酸化ガスをまき散らし、そのせいでオゾン層が破壊され、多くのペンギンが白内障になりがんとなって死んでいった。さらに追い討ちをかけたのは、その結果生じてきた地球温暖化による影響であった。温暖化による海水温の上昇、異常気象の多発により、オキアミやイカなど餌があれほど豊富だった海から消えてしまった。その結果、多くの弱い子供や年老いたペンギンが次々に餓死していった。

(9) 孤独な ペンペン

 気づいてみると生き残っているのは年老いた自分を含め、わずかなペンギンだけとなってしまった。
ペンペンには蒼く澄み切った冬の空を眺めながら、何が地球で起こっているのか理解できないでいた。そして一人で沈み行く太陽を見つめつつ,夏には氷が張り出し、雪が降り、寒い寒いと凍えてくらした日々や岩場に生えた草むらの陰で、大勢のペンギンたちが巣創りや子育てに励んでいた冬の日々を思い出していた。夕陽が沈み、あたりが漆黒の闇に覆われても立ち尽くし回想に浸る毎日であった。それでもペンペンは死が訪れるまでは生きていこうと誓った以上、懸命に生きることにした。

一人ぽっちになって、ペンペンは薄くなってしまった金髪のリーゼンをかき分け、ぼろぼろになったつけ髪をいじりながら、見えなくなってきた目で、遠い海をながめ、薄れ行く気力のなかで、楽しかった日々を脳裏に浮かべていた。我々はいったい何か悪いことをしたのだろうか?神の摂理に反することをしただろうか?なんでこのような仕打ちをペンギンが受け、絶滅の危機に曝されなければならないのだろうか?と考えながら夕日の見える岩の上で薄れ行く気持の中で、これでやっと妻や子や仲間たちに会うことができるとの安心感が胸一杯に広がった。
            「Super PenPenの独り言」


原子爆弾開発競争

2009年02月04日 17:26

エンリコ フェルミの役割

第二次世界大戦においてはアメリカのみが原爆を開発し、広島、長崎に投下した。
原子物理学の研究においてドイツは世界の最先端を走っていた。1938年にはすでに、原子核が分裂し、その際大量のエネルギーを放出することに気づき、カイザーウイルヘルム研究所(今のマックスプランク)にドイツウラニュウム研究会が発足された。この時点ではドイツはアメリカを初めとする諸外国に完全にリードしていた。しかしナチス高官がカイザーウイルヘルム研究所のスタッフの身元調査をした。物理学者の中にはユダヤ人が多く、ユダヤ人は排除されなければならないとの理由でユダヤ系研究者は排斥の憂き目にあった。その筆頭にあげられたのがイタリア系ユダヤ人のエンリコフェルミであった。彼は同じユダヤ系のリーゼマイナトナーとともに国外追放された。

Enrico Fermi(1901-1954)はローマに生まれた。原子・分子の分光学的研究で「フェルミ共鳴」を発見、また粒子散乱理論、原子核構造論、量子電気力学など多方面にわたる優れた業績を残した。とくに、34年に発表した「原子核のβ崩壊の理論」は、湯川秀樹の中間子論とともに、素粒子物理学への道を開くものとなった。さらに、発見されたばかりの中性子を原子核実験に利用、「フェルミの中性子減速理論」をつくり、遅い中性子の特異性を発見(1934)、中性子物理学を開いた。同年さらに、中性子によるウラン衝撃実験によって「超ウラン元素」を発見、後のハーンによる核分裂現象の発見の契機をなした。この中性子による原子核反応に関する諸成果によってノーベル物理学賞を受賞した(1938)。その後、アメリカに亡命し核物理学研究の成果をあげる。ドイツでは1940年になると原爆開発は国防軍の管理下におかれ自由な研究は全くできなくなってしまった。そして完全に原子爆弾の開発が停止してしまう。一方、アメリカでは秘密さえ守れば自由に、時間にも束縛される者も無く研究できた。フェルミはマンハッタン計画に参加し原爆製造に深く関わるようになる。これが大戦の後半には実を結んだことはご存知の通りである。

日本での開発状況はどうかというと、1941年に陸軍は理化学研究所に原子爆弾開発を委託する。アメリカの原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」から1年遅れ、1943年から本格的に仁科芳雄博士らは天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮しようと試みた。独立に、海軍は京都大学の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼した。こちらは遠心分離法による濃縮を計画していた。日本にはウラン鉱脈が少なく、二酸化ウランは上海の闇市場で130 kg購入した他、ドイツに頼んでウランをUボートで輸送してもらっていたが、途中でドイツの敗戦となり、Uボートも連合国に降伏したため手に入る事はなかった。

理化学研究所で行っていた熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が極めて悪く濃縮にまで至らなかった。京都大学での遠心分離法も設計図ができあがった時点で終戦となった。
ナチスがフェルミを国外追放しなかったなら、ドイツが最初に原爆を製造していたかもしれない。



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