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秋山真之の憂い

2009年03月26日 19:16

日露海戦後の秋山

秋山真之は日露海戦でバルチック艦隊粉砕のための全面的戦略を立て、縦列に突入して来るバルッチック艦隊の前面で、古来よりやっては成らないとされていた敵前回頭を行い、丁字戦法を採り、大勝した事は有名である。我々も「坂の上の雲」などで日露海戦の時の秋山真之の行動は良く知っている。しかし彼の晩年のことについてはあまり知らない。

秋山真之は松山中学では10番あたりをうろうろしていたが、卒業の年になり、東京へ呼んでもらうために、一番になると決めるとその目標を達成した。また海軍兵学校(江田島)も首席で卒業した。成績優秀者は海外留学組に選ばれる。5名の成績優秀者(1番から3番まで)がえらばれアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスおよびロシアへ留学したがただロシアへ留学した広瀬武夫は例外的に席次が低く64番であった。彼は人が目を付けないロシア語を会得し、当時の列強の一つであるロシアに早くから目を付けていたのが認められた。広瀬武夫は後に旅順港閉塞作戦で壮烈な戦死を遂げる。秋山はアメリカに渡ると戦術戦略の大家マハン大佐に師事し海軍戦略を研究する。

ちょうどタイミングよくサンチャゴ海戦がおこり、実地に視察する幸運に恵まれた。この戦いはアメリカとスペイン海軍の戦いで、サンチャゴ港閉塞作戦、ダイクイリ上陸作戦、両海軍艦隊の海上決戦と行われ、アメリカ海軍が太平洋上での覇権を握るようになった戦いである。秋山真之はつぶさにそれらの戦闘を観察し、10章にも上る長文の報告書を帝国海軍軍令部に提出した。極秘情報118号とされたこの報告書は正確で広汎な観察と独創にみちた分析で、日本海軍の歴史上空前絶後の傑作とたたえられ、彼の天才ぶりを一気に高めた。秋山真之31歳。
その後、英国をまわって帰国した秋山は常備艦隊参謀をへて、海軍大学校の教官となり、戦務、戦術、戦略の講義を担当する。この名講義ぶりも彼の名を高らしめる。その戦術の講義では明治の時代に「現時すでに頭角を現し来たりたる軍用軽気球、又は潜水艇などが益々発達し、巡洋艦が空中を飛行し、戦闘艦が海中を潜航するに至ったと想定してみれば、もはやこのときの戦場は平面ではない。立体的である。戦術のみではなく現時全盛の海軍なるものも無用の長物となった、空軍万能の時節となりましょう」と予言している。しかし彼の予測があり、山本五十六の主張で真珠湾での空軍の大活躍があったにもかかわらず、日本海軍は結局、大鑑巨砲主義から逃れる事ができなかった。秋山真之は飛行機や潜水艦という実態を見ずとも予測できたにもかかわらず、昭和の海軍は実際に目の前で空軍の活躍を見ていても、それを認めようとはしなかった。そこに秋山や山本の深い深い憂いがある。

バルッチック艦隊を殲滅するため、連合艦隊が出撃した。その時「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動しこれを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」という名文を打電して出撃。さらに東京湾に凱旋し,天皇陛下へ凱旋の報告も秋山真之が書いた。「客歳2月上旬、連合艦隊が、大命を奉して出征したる以来、既に一年有半、今日再び和平の秋に遭い、犬馬の労を了へて大とう(天皇旗)の下に凱旋するを得たり」さらに続けて「天佑と神助により我が連合艦隊は5月27、28日敵の第2第3艦隊と日本海に戦いて殆どこれを撃滅することを得たり。我が連合艦隊が能く勝を制して奇跡を収め得たるは一に天皇陛下御稜威の致すところにして固より人為の能すべきにあらず。特に我が軍の損失死傷の僅少なりしは歴代神霊の加護によるものと信仰するのほか無くさきに敵に対し勇進敢戦したる麾下将卒も皆この成果を見るに及んで唯感激の極言言う所を知らざるものの如し。」と
連合艦隊解散の辞では「武人の一生は連綿不断の戦争にて、時の平戦に由りその責務に軽重あるの理なし、事あれば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本文を尽くさんのみ。――――神明はただ平素の鍛錬に力めたたかわずしてすでに勝てる者に栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に案ずる者より直ちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」とこの名文に感激したT. ルーズベルト大統領は全文を翻訳して陸海軍に配ったとされる。

天下の名参謀は名文の持ち主で、人を文章でも感動させる。諸褐孔明の出陣に臨んで奉った「出師の表」も名文として名高い。先帝劉備の遺徳を偲んで、自分が受けた恩、その時誓った漢王朝再興へ向けて、魏を滅ぼさなければならないとの思いの深さが切々と書かれている。

秋山真之は海軍大学校教官にもどった。その後音羽艦長、伊吹艦長と艦隊勤務を歴任。大正2年同期のトップをきって少将となっている。軍務局長に任じられた頃から、海軍戦略を越えて国家の外交に関心を持ち始め、孫文の運動を助けた。しかし、ときの外務大臣加藤友三郎は政治的介入を嫌い、秋山を更迭する。

秋山は海軍兵学校を首席で通し、その後も同期のだれよりも早く出世し、日本海軍の英雄となった男が、その炯眼が世に入れられなくなり、組織から浮き上がっていく運命は、壮絶かつ悲壮的である。
秋山も、幸村も強いては孔明も山本五十六までも結局はその才能、能力が周りの人間より、あまりにも秀でていため組織から浮き上がり、真意を理解できる能力の者がいない。それがこれら歴史の勇者を孤独にし、深い憂いを持たせる原因となっていった。
大正6年海軍中将に昇進。その頃から病床にふけるようになる。病床の秋山は戦略を説き続け「海軍は飛行機と潜水艦の時代になる。その研究発達に万全を期せられたい。」「米軍とことを構えてはならぬ。さもないと、日本は大変な苦境になる」と言っていた。

辞世の句 「不生不滅明けてカラスの3羽かな」49歳11ヶ月の人生であった。


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真田幸村の意地

2009年03月17日 18:49

真田幸村

小さい頃から漫画や少年向きの小説で、真田幸村、大助親子に親しんできた。猿飛佐助、霧暮才蔵や三好入道を従えて圧倒的な敵に七面法被の活躍をするさまを興奮しながら読んでいた。負けると分かっていても圧倒的な敵に立ち向かっていく生き様は日本人の魂を揺すぶらない訳はない。一方で、なぜわざわざ艱難辛苦な生き方を選び、それほど固執しなければならなかったのか?その意地の深さを思い泣けてきた。思い入れの深い真田幸村は一回や二回のブログで語り尽くせる物ではない。

真田幸村は真田昌幸の二男として織田信長の台頭で戦国の世がめまぐるしく変わる頃信州真田に生まれた。武田家に属し、真田の小さな里の城主だった昌幸は織田信長による信州攻略で、織田方についたかと思えば、本能寺での謀反であっけなく信長が殺されてしまう。すると主のいなくなった信州に越後の上杉、関東の北条や駿府の徳川がその空き地を虎視眈々とねらう。そんな情勢下、上杉景勝のもとに、幸村を人質に差し出し、北条が沼田を狙っているのが分かると徳川に近づくなど、弱小国としてはできる限りのことをしてきた。しかし徳川と北条が密約をかわし、沼田城を北条に譲れとの圧力がかかると、断固拒否。徳川勢7,000が上田城にこもる2,000に攻めかかってきた。徳川の猛攻を凌いでいるうちに、徳川軍は急に兵を引いてしまう。三河以来の家康の随臣の一人である石川伯耆守数正が岡崎城を棄てて豊臣秀吉のもとに走ったことが徳川勢が突然の退却をした理由であった。そこに徳川方のメンツを立てるため、秀吉が両者の仲介にはいり、徳川と仲直りをする。その結果、昌幸の兄である、信幸が人質として駿府にいくことになる。一方、幸村は秀吉のもとに人質として大阪に住むことになる。こうして真田家が将来徳川方と大阪方に別れて戦う遠因ができる。その後、信幸は徳川の重臣本多平八郎忠勝の娘ねいと縁組み、結婚する。
秀吉の天下がほぼ決まると関白に任じられ、お小姓組から抜擢された前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家とならんで石田三成が5奉行として秀吉の威光を背後に権勢をふるっていた。その石田三成やその小姓時代からの親友大谷刑部小輔吉継に認められ、かわいがられる。特に大谷吉継は幸村に好意を抱き、なにかと世話を焼きたがる。ついには娘のらくを幸村と娶らせる。
秀吉は最後の仕上げと、北条氏政、氏直父子に上洛を促し、真田昌幸の所領地、沼田を北条に与えた。それでも北条は挨拶に上洛しない。そこに名胡桃城事件が勃発する。この事件は秀吉が真田昌幸に計って、北条を陥れたもので、北条にこの城を攻めさせる様に計り、信幸からの訴状を受けて小田原攻めが始まった。
小田原の陣の後沼田城は真田家に返還され、領地も信州上田で38000石、上州沼田で27000石。徳川家が関東に移封されたのを機会に、沼田は徳川との縁の深い長男信幸に与えられた。小田原城開城一年後には秀吉の愛児鶴松が亡くなった。秀吉54歳。それを機会に羽柴秀次を養子にして関白の職を譲り、自らは太閤と称した。それから2年運命のいたずらか秀頼が誕生した。更に2年、秀次が乱行のかどで死罪を免じられる。
真田幸村は大谷吉継の運動により、従5位下、左衛門佐に任じられる。
1598年秀吉が亡くなると、幸村は上田に帰り、今後の対策を父昌幸と相談。1600年ついに家康が動き始める。会津120万石上杉景勝討伐の軍勢をあげると、それに呼応したかのように石田三成が挙兵する。真田父子はどちらかの陣営につくかで話し合う。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹で幸村の妻は三成最大の親友大谷吉継の娘、一方兄信幸の妻は父が徳川四天王の一人。昌幸は真田領の譲渡の要求や上田城攻撃などで家康を忌み嫌っていた。結局、昌幸と幸村が西軍に信幸が東軍にと敵味方に分かれる事となった。上田城に籠った昌幸、幸村父子は秀忠が率いて関ヶ原へいく4万の軍勢を、引きつけ時間稼ぎして徹底的に遅らせ、関ヶ原の戦いに間に合わせないようにした。その結果秀忠が関ヶ原に到着したのは戦いが終わって4日後のことであった。家康が激怒して、3日間秀忠に会わなかったことは有名である。

真田父子の上田城での秀忠軍遅延作戦は成功したが、肝心の関ヶ原の戦いで敗れてしまったため、家康は死罪を申し渡すつもりであったが、兄の信幸と本多忠勝が助命嘆願に努めたため、真田父子は高野山の麓九度山に配流される事になる。配流先の善名称院、通称『真田庵』で父子は仕送りに頼って細々と生活を送る。1611年(44歳)、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没。享年64歳。翌年に幸村は出家、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の訓練を積む。




疑問はなぜ真田父子を大阪に近い高野山に配流したのかということだ。関ヶ原の戦いで全てに決着をつけ、そのいきおいで、西軍総大将の居る大阪城を攻め、豊臣を滅ぼそうと思っていたのが、あまりにあっけなく西軍が破れ、豊臣に言いがかりをつけることがならず、またもう一度なんらかの言いがかりをつけ、豊臣方から攻めさせるか、落ち度をついて滅ぼす際に、一気に豊臣方に組する武士や浪人をあぶり出して一気に決着を付け、将来に禍根を残さぬ様に考えたのではないか。そのため、関ヶ原でやぶれた大名の武家を京都や高野山など大阪に近いところに置いて、監視していたのではないかと想像される。

関ヶ原から2年たつと、家康は朝廷から従一位右大臣に任じられ、征夷大将軍の宣下をうける。また孫の千姫を秀頼のもとに嫁がせ、豊臣方の懐柔も忘れない。その間、九度山の配所で昌幸が69歳で亡くなる。
家康はその後もなにかといちゃもんをつけ、2条城に滞在中に、秀頼に挨拶にきて臣下の礼をとるようにと強要してきた。相変わらず淀君などの大阪方は強気一本やりであったが、片桐且元、加藤清正や浅野幸長らに説得され、2条城での会見にこぎ着けたため、家康は大阪を攻める機会を逸する。そうこうする内に、かの有名な事件が勃発。家康は今まではゆっくりと時間をかけ無理押しをせず、豊臣を追いつめてきたが、これを境に一気に豊臣を潰そうとの態度が性急になる。家康も高齢、焦りが見えてきた。方広寺の大仏殿の鐘銘に「国家安康」とあるのは家康を呪い、またその後に「君臣豊楽 子孫殷昌」は豊臣家の繁栄を願う意味だとの言いがかりをつけ、一気に緊張が増した。

大阪方の誤算は秀頼が呼びかければ、太閤殿下の旧恩を受けた大名が少なからず集まるだろうと思っていたが、大名は誰一人馳せ参じることはなかった。太閤が亡くなって20年あまり、義理よりも現実が支配した。しかし世の中に溢れていた不平不満の浪人は大勢集まった。元大名の長宗我部盛親、や塙団右衛門、後藤又兵衛などがいるが、まさに寄せ集め集団であった。大野修理を秀頼の補佐として第一人者に任じる大阪方にあっては幸村の積極策は取り入れられる訳もない。幸村は大阪城の弱点である南方、そこはなだらかな台地があるばかりで要害はなかった、を固めるため、世に言う惣構えを造った。それでも十分でないと思った幸村は出丸をも造った。それは、当時の鶴橋村の小長谷の一丘陵に突貫工事で造られ、真田丸と呼ばれた。
かくして冬の陣と言われる戦いが始まった。真田丸は敵の大軍に囲まれ、猛攻を受けるも上田城攻防の際と同様、幸村は敵を翻弄し大活躍をして、真田の名前を上げる。家康は戦いの一方で和議をも画策し、決して無理押しはしない。大野修理もこれで時間が稼げると思って、和議を結ぶも家康の方が一枚も二枚も上手であった。外堀を埋め、惣構えを壊し、二の丸の堀を埋めて、和議の条件以上に堀は埋め尽くされ、鉄壁であった大阪城がただの城になってしまった。
和議を結ぶと同時に家康は次の戦いに向けて、着々と準備を始め、これを最後の戦いにしようと思っていた。まただれの目にも今度は城の外で決戦をしなければならないだろうということが分かった。

夏の陣に際し、後藤又兵衛は河内の国分が主戦場になるであろうと主張し、取り入れられる。しかし幸村は戦闘の一部に勝ったところで、情勢を変えることは難しいだろうとの考えから、家康本人を襲撃しなければ、所詮戦いに負けるであろうとの考えであったが、味方が団結するため、この案に賛成する。赤具足をつけさせた真田軍は伊達の騎馬隊をけちらし、誉田から藤井寺に渡って陣を構えたが最終的には木村重成や長宗我部盛親の敗北を受けて、大阪城に撤退した。明けて翌日、最後の僥倖を期して、天王寺口で家康の本陣を突くため、茶臼山に陣を構えた。真田の赤備えである。家康の本陣にたびたび突入するが家康をみつけることができず、真田隊の兵士とともに討ち死にする。享年49歳。46歳という説も或る。

義理と忠義をつくした悲劇の名将として語り告げられることになる。なにが彼をそれほど駆り立てたのか? 関ヶ原の戦いで勝てると読んだのか?家康のやり方に生理的な嫌悪を抱き、それと上田のような弱小大名を虫けらのように扱ったことが許せなかったのか?あれほど策略家の家康がなぜ、真田父子をうまくあしらい、味方に付けておかなかったのか?これほどの働きをするとは予想だにしなかったのではないか?
いずれにしても男の意地を押し通した。九度山にこもって15年。うわべは平静を装い、もの静かに隠居暮らしをしていると見せかけて、内面真っ赤にやけたマグマが沸々と噴火の時を待っていた。なにが彼を長い年月を経ても、変わらない魂を与え続けたのか?意地ということ以外説明する言葉を持たない。これぞまさに、一武将が大きな権力に立ち向かい一矢を報いたいとの命をかけての意地であった。


孔明とニミッツ

2009年03月11日 17:40

諸葛孔明
魏呉蜀の3国がその派遣をかけて争った壮大なるドラマは良く知られている。蜀の劉備元徳は漢王朝の末裔として、漢王朝を簒奪した魏の曹操を倒して、漢王朝を復興させ、正義を世に示そうとする。そのため劉備は関羽や張飛という義理に厚い豪傑と義兄弟の誓いをする。そこに三顧の礼をもって迎えた諸葛孔明や義理に厚くクールで重厚な趙雲を加え、蜀の国を築く。
しかし長い抗争により、関羽が亡くなり、ついで張飛が暗殺され、劉備や趙雲が亡くなり、2代目皇帝に凡庸な劉禅が跡をつぎ、人材の払拭する事甚だしく、孔明が孤軍奮戦せざるを得なくなる。

魏の国では司馬仲達一門の勢力が盛んになり、曹操のあとを次いだ曹丕もなくなり、曹叡が跡を継ぐ。
孔明は「出師の表」を奉り、劉備との約束通り、魏を倒そうと努力するも、その思いはどこか空回りし、皇帝や蜀の国の人々に現状で満足する傾向が出て来る。それでも孔明は魏を攻め続け、結局はかれもその戦いの最中に亡くなる。亡くなったあとも五条原で司馬仲達を敗走させる。これが「死せる孔明生ける仲達を走らす」と成る。孔明は何度も仲達を挑発し、決戦に臨もうとしたが、仲達は孔明と戦って、自分の才能が劣ることを自覚して挑発に乗る事は控えた。徹底的に持久戦に持ち込んだ。これが功を奏して孔明の寿命は尽きてしまう。234年没。
魏の国では司馬仲達一門の勢力が盛んになり、曹操のあとを次いだ曹丕もなくなり、曹叡が跡を継ぐ。その曹叡も36歳という若さで亡くなり、曹芳が即位(239年)する。曹爽が権力を振るい始め、仲達は病気を装い引退し,ぼけているふりをした。曹爽が安心して洛陽を留守にしている好きに一気にクーデターを起こし、政権を奪取してしまう(249年)。そして、降伏した曹爽一派を殺害し、魏における全権を握った。

蜀では258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。そうなると蜀の国は暗愚な劉禅と、魏延の裏切りであっさりと魏に降伏してしまう。しかし劉禅は魏・晋両国で「安楽公」に封じられて天寿を全うした。劉禅はこの暮らしに満足したという。
その後、結局天下を統一したのは司馬仲達の孫の司馬炎で、形では魏より禅譲を受けて皇帝となり、「高祖宣帝」となった。かくして晋王朝を創始した。
これが三国志の結末。天下を統一したのは曹操の末裔でもなく、孫権や劉備の末裔でもなかった。

蜀の敗因はなにだったのだろうか?結局は国力の差。人材の不足。に尽きる。孔明はそれが分かっていて自分が生きている間に短期決戦でもって魏を倒したかった。そのため幾度も遠征するが、結局仲達の消極的作戦で持って歯車が噛み合わず、長期戦になってしまった。こうなると消耗戦となり、物量、人材の豊富な方に軍配があがる。
孔明をしてみても、動かぬ敵に戦略はかけられず、膠着状態が続き、じり貧を免れなかった。孔明も死に場所を求めて、何度も何度も戦いを挑んだがその精神が初期の義に燃え立つ劉備を初めとする関羽や張飛と異なり、贅沢に育ったボンボンの劉禅やその取り巻きにうまく伝わらなかった。それら2世連中はまた生活も安定し、現状に満足し始めてきた。蜀は滅びるべくして滅んだと言える。

ニミッツ
山本五十六の魂は伝わらず、孤軍奮戦すれども空回り、明治初期の頃の気概をもった軍人がいなくなった。学校の成績至上主義のエリート軍人が上層部を占め,軍人の官僚化が起こり、自分たちの利害追求に走って、大所高所からの判断ができなくなった。山本五十六はこのような内なる敵とも戦わなければならなく、しだいに作戦も官僚化した軍人達と妥協をせざるをえなくなる。

一個人が持てる力を最大限に発揮するためには、個人と組織がうまくかみあっていなければならない。孔明が劉備亡き後、孤軍奮戦で長期戦に次第に消耗していったのに対し、山本五十六も少数の理解者はいたが孤軍奮戦を余儀なくされた。彼も大国アメリカを敵にまわすにあたり、その国力の差を考え孔明同様、短気決着を望んでいた。しかし、軍人官僚達は長期戦、防衛戦を望んでいた。

日本は組織がばらばらで意志の統一を欠いたのに対し、米国は太平洋面での作戦はニミッツ一人にその権限を与え、意志の統一を図った。
ニミッツはハルゼーという日本では考えられないような劣等生(卒業席次は42/62)を取り立てて第3艦隊司令官にした。彼は勇猛果敢でジャップを殺せ、ジャップを殺せと叫んで部下に人気があったという。一方ではその野卑さで大きな組織の長になれる人物ではないとの酷評もある。彼は「ミズーリ」号での降伏文書調印式では会場責任者として出席した。この時日本側代表重光葵外相が署名までもたついていた。「サインしろ、この野郎! サインしろ!」と罵った。また、調印式の最中は「日本全権の顔のど真ん中を泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」ともいう。

ニミッツはハルゼーのような一本気で勇猛な猪突猛進タイプの軍人もうまく使ったが、彼自身はハルゼーとは対照的な紳士で、戦後荒廃しきっていた「三笠」の修復にも手をさしのべた。「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止した。1958年の『文藝春秋』2月号において「三笠と私」という題の一文を寄せ、「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…」と訴えた。保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付した他、アメリカ海軍を動かして揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約三千万円を充てさせた。「三笠」の復興総工費が約一億八千万円であるからこの運動は大きな助けとなった。1961年5月27日に無事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹したという。ニミッツは軍人としても卓越していたが、人間としても人情味あふれる男であった。
ニミッツのように、敵国の軍人(東郷元帥)を崇拝する度量と余裕のあるすぐれた人物が敵の太平洋方面司令長官であったことは、作戦をどうのこうのという前に、どうあってもかなわない気がする。

画期的な発明の後には失敗が残る

2009年03月02日 17:34

零戦対抗機Hellcat

 第二次大戦中、アメリカ海軍が空母に配備した主力艦上戦闘機で特に有名な戦闘機はヘルキャットである。
このF6Fの開発目的はズバリ「打倒!零戦!」であった。1943年初頭まではアメリカ海軍機で唯一零戦と互角な戦いを繰り広げられたのはヘルキャットの前機種F4F「ワイルドキャット」ただ1機種のみ。

 「ワイルドキャット」が苦戦したのは零戦の軽快な運動性によるもので格闘戦(ドッグファイト)に持ち込まれれば最後、運動性ではまず勝ち目は無かった。アメリカにとって日本は仮想敵国であったとはいえ、零戦21型がここまで高性能であるとは夢にも思っていなかった。

 そこで前線では零戦との1対1の空中戦を禁じてチームで戦うことを徹底させていた。この戦術は効果があり、一方的な戦いではなくなったのです。



 しかし、機体の性能差が簡単に埋まるわけではなく前線では新型機の到来を望む声が高くなった。この新型機開発に向けて、アメリカ海軍は最終的に2社に開発指示を出した。

 一つはまだ戦闘機開発においてメジャーではなかったヴォート社、そしてもう一つが軍用機の名門グラマン社だった。ヴォート社の画期的すぎる新型機(後のF4U コルセア)は開発失敗の可能性もあったため、保険の意味合いでグラマン社にも新型機開発を発注していたのだった。

 グラマン社ではF4Fを全般的にパワーアップした後継機の開発に乗り出していました。しかし、少々のパワーアップ程度では零戦21型と戦えないため、エンジンはF4Fの倍は出せる強力なものを採用しスピードと重武装という点の強化を図った。この設計には捕獲されたライバル機「零戦」の分析データ、先行投入されたF4Fの運用データもあり、比較的設計チームは気楽に仕事が出来たといわれている。
癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高める堅牢な装甲、防護鋼板などの装備に加え、見た目に反し日本軍搭乗員にも一目置かれるほどの良好な運動性能があり、格闘戦を得意とする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体で、折畳み式の主翼を備え一隻の航空母艦に多数が搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。弱点は2,000馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが、それでも零戦や一式戦闘機「隼」など、日本の1,000馬力級戦闘機よりは優速であり、必要にして十分であった。限られた出力の機関で最大限の性能を発揮するため極力まで軽量化された零戦に対し、大出力の機関を得て余裕のある設計がなされたF6Fは全く正反対の性格の戦闘機であり、日米の国力の差を象徴していると言える。
 さらにコクピット周りの防弾鋼板をはじめとする防弾装備が強化された。コクピットの防弾鋼板は零戦21型の標準武装の一つであった7.7mm機銃を全く通さなかった。 この結果パイロットの生還率も高く、その防御力の高さから当時のパイロットたちは「グラマン鉄工社製」などとあだ名をつけていたというエピソードがある。

 

 設計チームはこのパワーアップに必要なエンジンに新型の2000馬力級エンジン「プラット・アンド・ホイットニー・ダブルワスプXR-2800」を選択した。このエンジンはアメリカを代表する高性能・高出力エンジンで信頼性においても定評があり、各航空機メーカーはこのエンジンを競って採用した。
 
 これに匹敵できた日本のエンジンは「誉」型程度で、信頼性が全く比べ物にならなかった。「誉」は限界ギリギリの設計であったのに対し、こちらは非常に余裕を持たせた造りになっていたのです。

 また重量が重いため、零戦に対してはるかに急降下速度が速く有利に戦闘に持ち込めたと言われる。
性能諸元(ヘルキャット) 零戦

 全長; 10.23m        9.12m
 全幅;  13.06m   12m
 全高; 3.52m   3.53m
 正規重量; 4128 Kg 1745 Kg
 エンジン; 2000馬力      950 馬力
 最大速度; 603 km/h      534 km/h
  武装;  12.7㎜機銃 6挺   7.7 mm 機銃 2挺
       爆弾:454 Kg×2 120 Kg x2

比較からも分かるように、圧倒的零戦が軽く、運動性能がいい事が分かる。一方で、エンジンの馬力と言えば、2倍程度ヘルキャットの方が高い出力をほこる。この出力の差はどうしようもないほど大きく、武装、防弾、爆弾装着をとってみても優れている。特に、零戦の持っている機銃ではヘルキャットの防弾鋼板を貫通できず致命的ともいわれた。大戦の終盤、おそまきながらこのヘルキャットに対抗して、大型エンジン金星を積んだ零戦が登場したが、すでに時遅しであった。
画期的ないい製品を開発すると、それにひきずられて次の製品が出にくいのは昔も今も同じである。もう少し、もう少しと引きずり、交代のチャンスを失う。
これが決定的な敗因となる事は現在の大きな会社でもよくある。その典型がソニーのウオークマンである。出た当時、まさに画期的、これで一気にソニーの名を高めた。画期的な製品を出した後は、別の人物による別の戦略で大きなchangeが必要である。でも日本ではそれは非常に難しい。なぜなら,それほど成功した人を換えるなんで、人情的にできない。歴史は証明している。大成功の後にはかならず油断がきて、大敗することを。



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