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研究者の宿命

2009年09月28日 17:14

論文と研究費

研究者は研究を始めた時から①論文を書かねばならない。②研究費を獲得しなければならない。③研究環境のいいポジションを得るよう努力しなければならない。 この3つが宿命的についてくる。

特に論文を出すことと研究費を獲得することはだれでも苦労することである。これが無ければ研究は楽しいものだが、この2つのプレッシャーで押しつぶされる研究者も多い。論文出版に関しては、特に最近はテクノロジーの発達で、ありとあらゆる事が実施可能となって来た。そのため、論文は微に入り細にいるデータが要求される。それにレフリーはかってな事を言って来る。できそうもないことでも平気でやる事を要求されるし、それはできないと言えば、落とされてしまう。直接証明できない場合は間接的に、上から見た時、横から見た時、下から見た時、との傍証を積み上げ、このようなことから結論は正しいと言わねばならない。やれと言われた実験を行う機械や手技を持っていない場合も、借りてでも、共同研究をしてでもやらないと一流紙には載せてくれない。面白さより確実さが一流紙の流行だ。そのため膨大なデータが必要とされ、そのデータを採るにはまた膨大な時間と苦労を要求される。超一流紙ではリバイスによってデータが倍にふくれあがる事も稀ではない。

昨今は研究の面白さよりもジャーナルのインパクトファクターの方が大切にされる。よっていかにしてできるだけいいジャーナルに載せるかが、研究費の獲得やいいポジションを得るのには重要になる。

研究費獲得にあたり、今まさに科研費などの申請書をかく時期になって来たが、大きなポイントは①研究計画が独創的で面白いか.②計画が実現可能であるか。③過去の実績がどのくらいあるか。に絞られると考える。研究の目的には今までのバックグランド、このプロジェクトがいかに独創的で、興味深く、画期的であるかを簡潔に書く。この際、この研究がインパクトが大きく、完成の暁には新しい領域を切り拓くとか,又はいかに社会の役に立つかを説得できれば通ったようなものである。

当然研究計画同様大切なのは過去の実績である。どんなにいい事を言っても実績がないと実現不可能とされる。実績があまり無い場合は萌芽的研究として、そのアイデアのすばらしさ,独創性だけで勝負する手もある。

研究内容は当然分かり易く、具体的に,図説しながら書く。またレフリーに頑張っているなとの印象を与える事も大切である。申請書を懇切丁寧に,図をいれ、分かり易く,なおかつぎっしりと書いてあると好印象を与える。

いずれにせよ研究費が採れないといくら研究をしたくともできない。ここは根性を入れて書き、だれか第3者に見てもらうくらいの熱意で頑張らないと獲得は難しい。採択率は20%―10%しかないのだから。Good luck!

シニアー研究者からの助言。

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アヘン戦争

2009年09月18日 16:09

林則徐
ここに男の中の男。常に清廉潔白,私事を顧みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた人物「林則徐」を紹介しよう。
福建省侯官に生まれる。父は科挙に挑戦して悉く失敗したため、貧しい教師生活をしていた。林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、1811年、27歳の時に科挙に合格し進士となる。
ちなみに最終試験の筆頭合格者を状元、2位を傍眼、3位を探花という。林則徐は7位合格。北京の翰林院に入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。

当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺するという卑劣な手段をとった。
しかしあまりにアヘンの被害が大きいのと、大量の銀が流出していくのを抑制するため、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて焼却処分した。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。そこで、クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出してひき止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にイギリス本国の議会でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後の首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は林則徐の位階を剥奪、罷免し、イギリスに対する政策を軟化させた。
林則徐は新疆に左遷され、万里の長城の最西端にある嘉峪関から単騎新疆に向かった。 その時に詠んだ歌。「一騎 わずかに過ぎれば即ち関を閉ず
 中原首をめぐらせば涙痕潸(さん)たり」と
林則徐「出嘉峪関感之賦」
1849年に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。しかし任地に赴く道中に病死した。

西洋事情の調査を積極的におし進め、その資料を友人の魏源に送り、魏源はその資料を基に大著「海国図誌」を上梓した。この本は西洋化への転換を促したもので、日本に伝えられ、明治維新の原動力ともなった。また民衆の力量を信頼しこれを対英戦力に編成して長期遊撃戦態勢を整えたことなどは、高杉晋作の奇兵隊の発想につながる。。

清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。この戦争の発端となった恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。
阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。それまで異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた幕府は、この戦争結果に驚愕し、薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる。この幕府の及び腰が、やがて明治維新という大きな流れとなり、日本を近代国家へと生まれ変わらせる事となる。アヘン戦争は醜い帝国主義の卑劣さを露呈し、それが他山の石となって日本は欧米列強に備える事ができた。
林則徐は正義を通そうとして、孤軍奮戦、力の無い正義は武力ある邪悪には敵わず、新疆への追放の憂き目に遭う。歴史に翻弄され、国家に翻弄されたが己の信念を貫いた一生であった。

家の中の小さなハンター

2009年09月10日 12:50

ハエトリグモ
節足動物門クモ綱クモ目ハエトリグモ科に属するクモ類の総称。正面の2個の大きな目が目立つ小型のクモ。その名の通り、ハエ類を含む小型の虫を主食とする益虫。捕獲用の網を張らず、歩き回りながらハンティングをする徘徊性のクモである。一部の種は都市部や人家にも適応しており、日常よく出会うクモでもある(Wikipedia)。餌を発見すると、そっと近づき、十分な距離に達すると、前列眼で距離を見極め、一気に跳躍して飛びかかることができる。
ハエトリグモたちの狩りを可能にしているのは、優れた跳躍力と優れた視力である。頭の前方に付いているヘッドライトのような大きな目を見れば、その優れた視力に気づく。この2つの目のことを主眼と呼び、主眼は他のクモにはない、長い円筒形の構造をしていて、獲物との距離を正確に把握できる望遠鏡のような仕組みを持っている。このため、獲物の様子を見て距離を測りながら忍び寄ることができる。また、色の識別もでき、雌雄の色が異なるハエトリグモの仲間は色によって雌雄を区別していると考えられている。

 ハエトリグモの目には特殊な主眼以外に副眼と呼ばれる、他のクモが持っている目と同じ目もある。副眼の役目は獲物の動きを追いかけることで、色は識別できないと考えられている。優れた眼を持つハエトリグモは、クモの中で最も優れたハンターであると言える。

机の片隅に現れたり、壁を這っていたりと日常家の中で一番よく見られるクモ。目がくりくりと大きくかわいい。ペットとして飼おうかと思ったこともあったが、妙に馴れ馴れしく、周りをうろつくので自由に放し飼いにして、時々ハエの餌をごちそうして上げた。

江戸時代にはハエトリクモを飼ってハエを採る様を見て楽しむという遊びが流行したらしい。また飼育する人が自分のハエトリクモをもちよって、同じかごの中に離し、どのクモが一番早くハエをとるかを賭ける博打もあったらしい。またハエトリクモを売る商売も成立していたというから驚き。江戸時代にはハエトリクモの事を鷹のようにすばやく狩りをすることから「座敷鷹」と呼んでいた。
家の中で見つけたらむやみに追い払わないで、よく観察してみると以外にかわいい事に気づく。最後に家の中の虫を食べてくれる益虫なので絶対に殺したりはしないことをお願いします。

写真 ハエトリクモ
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空飛ぶクモ 雪迎え

2009年09月03日 13:11

陽光を銀色に反射してクモが飛ぶ

今の季節にはまだ早いが、晩秋から初冬、初雪がちらちらと落ち始める頃、殆どの幼いクモは糸を出し、風に乗って、タンポポの種ように空を飛び、住処を変える。これをバルーンニングという。樹の上へと登り、風の吹き具合を確かめ、お尻から糸を一本、二本と出し、吹いて来た風にうまくのって離陸する。初冬の小春日和の穏やかなある日、何百何千というクモが、糸を太陽にキラキラ反射させながら銀色に光って空を飛んでいくさまはえに言われず美しく、一度見たら虜になってしまうこと間違いない。これを東北庄内地方では「雪迎え」という。
風に乗って遥か彼方にまで、洋上の島にたどり着くクモも稀ではなく、上昇気流にのって高度数千メーターという高いとこを飛んでいる姿も観察されている。雪迎えは幼クモの繁殖手段として風にのり生息地を広げる役割を果たしている。
イギリスでは同じ現象を「ゴッサマー」と呼び、中国では「遊糸」と呼んでいる。

宮本輝の小説「約束の冬」の冒頭でも「空を飛ぶ蜘蛛を見たことがありますか?ぼくは見ました。蜘蛛が空を飛んで行くのです。十年後の誕生日にぼくは二十六歳になります。十二月五日です。その日の朝、地図に示したところでお待ちしています。お天気が良ければ、ここでたくさんの小さな蜘蛛が飛び立つのが見られるはずです」と空を飛ぶクモの話が出て来る。 晩秋から初冬の穏やかな一日、「雪迎え」を見に庄内平野に行ってみませんか?



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