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鯨は口蹄疫に罹る?

2010年05月26日 13:10


口蹄疫

現在宮崎で口蹄疫が猛威を振るっている。どのようにして宮崎にのみウイルスが侵入して来たのかは依然不明だ。ウイルスの型が香港で発生したものに似ている事から、中国から輸入したわらにウイルスが付着していたとも言われている。あまり聞き慣れないウイルス疾患であるが、最近では世界的な流行を繰り返し多大な被害を与えている。人に罹らない(罹るらしいが症状は軽く、人から人へとうつることはない)のが不幸中の幸いか?少し口蹄疫について調べてみた。

口蹄疫(こうていえき、学名 Aphtae epizooticae、英語: foot-and-mouth disease、通称FMD)は、家畜の伝染病のひとつ。偶蹄目(豚、牛、水牛、山羊、羊、鹿、猪、カモシカ、など蹄が二つに割れている動物)およびハリネズミ、ゾウなどが感染するウイルス性の急性伝染病(Wikipedia)。

口蹄疫は直径約24nmの球形をしたウイルスによって牛・豚・山羊等の偶蹄類動物にかかる急性伝染病である。口蹄疫にかかった動物の死亡率は低いのだが,伝播力が極めて強く,感染速度が早く,ひとたび流行すると広範囲に広がってしまう。16世紀初めに北イタリアで発生したのが最初で,18世紀に全世界に拡大した。感染経路は,口蹄疫にかかった動物からのウイルスが分泌物や排泄物等(呼気,唾液,鼻汁,糞尿等)を通して大量に体外へ排出され,直接的,間接的(風で飛散したり,ネズミや鳥がウイルスの媒介者となる)に動物の気道粘膜,口内粘膜等に入り増殖し,血液を介して体内の各臓器に運ばれ,増殖し,発病する。豚の場合,感染1~2日後には発病,発熱とともに口内炎を起こし,はなはだしいよだれとともに口腔内,鼻粘膜,蹄の周辺等に水泡やびらんを形成する。豚は発育障害,運動障害,栄養障害等を引き起こし,痩せこけて食肉として利用ができなくなる。

 蹄を持った草食動物は有蹄類というが偶蹄類と奇蹄類に分かれる。このウイルスは面白い事に偶蹄類にしか感染しない。
偶蹄類は、イノシシ、カバ、ラクダ、シカ、キリン、ウシなどの9科、185種存在し、奇蹄類はウマ・バク・サイの3科、23種が地球上で知られている。自然界では奇蹄類より偶蹄類がより繁栄してきた。その理由としてウマ類は反芻類に比べ、植物を消化する能力が劣っているため、反芻
類に駆逐されたものと考えられているが、高い運動能力を獲得することで生き残った。

ここで奇蹄類と偶蹄類を代表するウマとウシの進化について考えてみよう。
ウマは今から5200万年前に狐ぐらいの大きさのヒラコテリウム(Hyracotherium)として誕生した。新生代の第三期中頃までは地球は温暖な気候が続き、大陸には大きな森が広がり、始新世まではウマの祖先も、ウシの祖先も森の中をのんびりと歩き回り、柔らかい葉を食べていた。
しかし漸新世に入り気候が寒冷化してくると、乾燥化がおこり、イネ科植物が出現し、森は枯れ、イネ科植物のはびこった草原へと変化してきた。
 するとウマや牛には草原で暮らすには森林と比べ困ったことがでてきた。
 それは、草原には身を隠すところがないことと、イネ科の植物は、それまで食物にしていた葉と比べると硬く、消化しにくいことだ。
森林は木の間に身を隠しながら移動していれば敵に見つかりにくい環境だった。しかし草原は背の低い草が続き、見通しがいい場所だ。身を隠す木というのはまばらでしかない。従って、草原での生存戦略はごく単純、「敵を見かけたら走って逃げろ!」。それは捕食者にとっても同じ。森の中では待ち伏せ・奇襲の作戦が役に立ったが、草原地帯では身を潜めながら近づいたら、後は走って捕まえなければならない。当然、食べる側も食べられる側も、走力を向上させる方向に進化していった。
 有蹄類の祖先たちも、しだいに速く走るために体のしくみを発達させていった。 有蹄類は、指を真っ直ぐ伸ばして立ち、指先だけで支えているという形になる。有蹄類の先祖の指の数はいずれも5本だが、進化の過程で、速く走るため指の数を減らしていった。少ない数の指で体を支えるために、大切な主軸となる指の骨は丈夫になっていき、体重を支えない骨は細くなっていき、やがて痕跡となって姿を消ことになる。
奇蹄類は第3指の一本だけで体を支えるように進化し、偶蹄類は第3指と第4指の二本で体を支えるように進化していった。


 草原に進出した有蹄類が発達させたのは、移動手段だけではない。
 草原は硬い葉を持つイネ科の草が生い茂るところ。通常の木は体を支えるための幹と、光合成を行う葉は別々であり、その葉は柔らかい。しかし、草はそれ自体が光合成と共に体を支える支持器官でもあるため、頑丈で、食物とするには消化するのが大変だ。
そのため有蹄類は、硬い葉を消化するために、腸内細菌を利用するという独特ののしくみを進化させている。 有蹄類は自分の持つ酵素ではセルロースを壊すことはできない。そこで、セルロースを分解する細菌を腸内に大量に住まわせ、細菌に細胞壁を分解させ、細胞壁を壊させることによって、初めて植物を栄養源として利用することが可能になった。
奇蹄類が腸内細菌に発酵を行わせている場所は「盲腸」。人間の盲腸は、あってもほとんど役に立っていない、退化した器官となっている。一方、ウマの盲腸は1.2mにも及ぶ巨大なものとなっている。しかし、その欠点は、盲腸が小腸と大腸の間に位置するということだ。栄養分を最も効率よく吸収する臓器は小腸。小腸を過ぎた位置に発酵器官があるということは、栄養分のうち吸収できない分がそのまま出てしまうということで吸収効率が悪い。それに対して、偶蹄類が発酵に利用している器官は「複胃」だ。本来の胃の手前の食道部分が袋状になり、新たな胃が形成された。ウマは胃を1つしか持っていないが、ウシは胃を4つ持っている。ウシは胃である程度発酵させたものを口の中に戻し、噛むことによって撹拌させ、飲み込んでまた発酵させるという「反芻」を行う。
反芻をすることによって微生物により一層の消化をさせ、栄養分をさらに効率よく取り出すことを可能とした。

 現在、偶蹄類は奇蹄類よりも科、種ともに多数となり、勢力では圧倒的に優勢だ。その大きな要因は、走る能力よりも、偶蹄類の反芻類が編み出した優れた消化システムにあると言える。しかし口蹄疫は進化の生き残り競争で勝って来た偶蹄類にしか罹らない。

哺乳類は全部で約20の目に分類されているが、そのうち海に進出した哺乳類も数多く 知られている。例えば、クジラやイルカ、ジュゴンやマナティー、アザラシ、ラッコなど。

その中でも特にクジラ目(Cetacea)に属するクジラは海の王者と呼ばれるほどに本格的に 海という環境に適応している種であり、その形態や生態も非常に特殊化している。 また形態学・古生物学 が進歩するにつれてこのクジラ目に最も近縁な哺乳類は何なのかということが盛んに議論されてきた。
そして形態学者や古生物学者がクジラと様々な哺乳類との化石形態を比較した 結果、クジラ目は哺乳類の中でも偶蹄目との共通祖先から分岐してきたという見解が10年ほど前から言われてきた。そして最近の研究結果から、ゲノム上の反復配列を指標として系統関係を調べた所、クジラが偶蹄類の共通祖先から分岐してきたのではなく、偶蹄目の一部から 分かれてきたということ、鯨も偶蹄目そのものに属していることが明らかになってきた。

ということはクジラも口蹄疫にかかる?大きななぞだ。現在のところ鯨での発生は認められていないそうだ。しかし感染したなら海洋中を泳ぎ回る鯨の事、封じ込めもできないし、殺処分も難しい。鯨の絶滅という事態にもなりかねない。
21世紀になって様々なウイルス感染が流行している。鳥インフルエンザ、サーズ、口蹄疫、ウイルスではないが狂牛病。いずれも野生動物を家畜化したものに大量発生している。家畜化という、自然の摂理に反し、遺伝子が均一に近くなったため蔓延し易くなった?
家畜だけに封じ込めで来ているうちはまだましかもしれない。野生の動物にまで罹れば生態系に大幅な変化をもたらし、大変なことになる。実際に奈良では春日大社の鹿が感染しないかとびくびくしているそうだ。家畜という大量生産で食糧を供給することは自然の摂理に反する事かもしれない

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Winners take allの研究費

2010年05月17日 19:06

科学研究費をめぐって

日本の科学研究費を取り巻く事情が民主党政権になって大幅に変わりつつある。この十年、毎年平等に各研究室あたりにきていた研究費がじり貧となり、競争的科学研究費の額が増えてきた。その傾向は望ましい事かも知れないが、同時に問題も多い。大きな問題の一つは大学の予算が少なくなり大型機械を設置した中央機器室のような施設が減少し、全ての機械を個人でそろえなくてはならず、そのような高額な研究費を獲得できるものとそうでない者とのの格差がひどくなってきた。そのため、持たざる者はますます結果が出しにくく、ますます格差が広がるという現象を生んでいる。さらに個人で購入した大型機器にはオペレターもつかず、また場所を多くとり、効率的ではない。ある額以上の大型機器は大学が中央で管理し、オペレーターがつき、だれでも使えるシステムを取る事が望ましい。今は申請した研究費に直接関係のない実験デスクや研究室のリフォームや機械の修理などに使えるお金がない。
その一方で、高額の科研費を獲得したものから、さらに高額な予算獲得者が生まれ、使い切れない程の予算を一部の者で独占し、superrichを産み出している。その最たるものが世界最先端研究支援プログラム(FIRST)である。それの功罪についてNatureのNews (Nature 464, 957-958 (2010))で触れている。

Winners take all,勝者の全部取り

科学的競争が日本では欠けているが、それを促進しようとする努力がなされているとも言えない。

個人的忠誠心が強く大学閥がしばし家族の絆に似ている日本では、科学研究費の表面だっての批判はなかなか難しい。多分その理由の一つは日本では歴史的に競争原理に基づいた研究費による科学資金の分配が比較的少なく、むしろ平等にお金を大学や研究所の基本的な運営金として配っていたことにある。2002年の8.9%から少しは増えたが、2009年にたった13.8%の国の研究費が競争原理に基づくグラントとして配られ、これは米国よりかなり低い割合である。このようなやり方は民主的で公平に見えるかも知れないが、日本の官僚はいい研究を取り上げようという大規模な試行がしばしば失敗に終わっている事を次第に実感してきた。過去10年の間、日本は不景気や国際特許紛争や台頭する中国との競争に悩まされて来たので、官僚は繰り返し国内での競争を促進する事によって国際社会において日本人研究者が強くなるように追求して来た。

そのような努力はいつも報われるとは限らない。例えば2001年から2005年へかけての2倍にするという競争資金の計画は経済が順調に伸びず科学研究費の伸びが横ばいになったため達成されていない。しかし新しい政府によって削減されたがそれでもいままでに経験した事も無いような多額の競争資金、1000億という巨額のFunding program for World-Leading Innovative R & D on Science and Technology(FIRST)が発足し、変化が起こり始めている。30人の研究者が資金を獲得し4年間で平均33億使え、以前に研究計画として出されたよりももっと研究者が的を絞り、大幅に自由度の高い研究を謳歌している。

FIRSTは日本の野望に満ちた魅力ある一歩を現している。しかしそのプログラムはあまり練られて無く、まだまだよりよい計画ができるであろう。例えば考えてみるに、30のFIRSTの受賞者はすでに世界をリードする研究者が大半で、ノーベル賞受賞者やその分野での論文最多引用者も含まれている。受賞者の多くはすでに多額の科研費を獲得し、4人は国内に5つある世界トップレベル研究拠点のリーダーか共同リーダーである。この拠点は2007年世界のトップの研究者を集め、同様トップの日本研究者と共同して働かせようとすることを意図して作られた。これらの著名な研究者はすでに過去に成果を上げてきたし、これからも間違いも無くそれ以上の成果を上げるであろう。しかし勇気を持ってNew faceを採用することも必要であろう。日本の世界クラスの革新的研究に与えられる褒賞はほとんど過去の業績に基づいておこなわれるため、若くてまだ大きな成功をしていない研究者が出したすばらしいアイデアを見逃す危険性がある。

すべてのこれらのプロジェクトがこのような巨大な投資を必要とするかどうかも考えてみるに値する。あるプロジェクトでは明らかにそうであろう。例えば日立製作所によるホログラフ電子顕微鏡開発の努力など。この開発は原子構造への新しい窓を開けることができ、様々な分野の領域の多くの研究者の役に立つことであろう。しかし全てのFIRSTプロジェクトの巨額の研究費が生産的に使われるかどうかは明らかではない。

FIRSTプロジェクトのお金の一部は国の研究費を補助する機関によって与えられるGrants-in-Aid(科研費)のように比較的小さな競争的資金を補助する基金を増す事に使われた方が良かったかも知れない。そのような研究費は小さなグループが希望をもってリスクは高いが基本概念を打ち破るような可能性のあるアイデアを実証するのに必要である。多くのFIRSTプロジェクトリーダーもすでにそのようなことを成し遂げ、彼らを有名にするような大きな発見をなしてきた。その上、科研費はここ数年その補助金の平均額が334万(2003年)から289万(2008年)へと日本の研究補助金の額は変わらないが国がより多くの研究者を支援しようとしたため、減らされて来た。この急激な変化は一部1995年から施行された多くの新しいポスドクを作り出そうとするプログラムによって生じている。しかも彼らの多くは仕事をみつけることができてない。
そのような心配をさておき、日本の政府や研究組織はFIRSTをFollowしていかなければいけない。そしてこれらのプロジェクトを支援し参画しそれらの価値を知る必要がある。しかし次に政府が大きな金額を競争的資金に投資する場合に、基本的資金の分配には様々な配慮が十分され、最も創造性に富んだプロジェクトを選んでいるとの確信がとれるようにすべきである。それに値する研究者は常に目につき易い場所にいる訳ではない。

科研費の獲得は研究者にとって死活問題である。以前は毎年の決まったささやかなお金が研究室宛に支給されていたが、今では殆ど皆無であり、外部から研究費が稼げないといい研究どころか、死滅してしまう。この現状を打破するには、昔の方式には戻れないのであれば、無駄の多い超大型の予算を減らし、競争的資金を今の数倍に増やし、ある程度の研究成果を挙げていれば、研究費があたるようにすべきであろう。そうしなければ日本の科学は徐々に衰退し滅びてしまうであろう。科学は超一流の科学者のみでできるものではない。さまざまな研究者がいて、裾野となる研究分野を開拓しているからこそ、それを土台に独創性に富んだインパクトの高い科学が花開くのである。

摂津、播磨の国をめぐっての攻防(2)

2010年05月06日 18:22

秀吉と毛利の攻防と赤松氏の没落

 戦国時代以前の播磨きっての名門といえば赤松氏である。しかし毛利が台頭し一方で織田信長の中国地方進出の野望により、毛利と織田という強力な戦国大名のせめぎ合いの狭間にあって赤松氏一族は押しつぶされてしまった。

赤松氏が大勢力を獲得するきっかけは赤松則村(法名円心)の時代である。円心は鎌倉幕府討伐(元弘,建武の争乱)において最初は後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受け天皇方として参戦していたが、戦功に対しての恩賞に不満を持ち、足利尊氏方に寝返った。湊川の戦いにて楠木正成を打ち破り、室町幕府が成立すると則村は播磨の国の守護職に、長子範資は摂津守護職に任じられ、一躍歴史の表舞台に踊りでた。一時期は京極、一色、山名と並び四職の一家にまでなったが、1441年赤松満祐の代に将軍義教を殺害(嘉吉の乱)という騒動を起こし、赤松宗家は滅亡してしまう。

その後、応仁の乱の活躍で播磨、備前、美作の守護職に返り咲くが、播磨回復を狙う山名氏との泥沼の戦いのうちに、消耗して行く途中、信長の中国地方進出が訪れる。信長は中国攻略の先鋒に赤松氏一族の別所長治を考えていたが、加古川城での軍議において、長治は秀吉の配下に置かれる事になり、秀吉のような百姓からの成り上がりものの下につかされたことに腹を立て、反旗を翻し、三木城に立てこもったと言われている。これを中国進出の脅威と感じた織田信長は当初、三木城攻略に織田信忠をあて、秀吉は山中鹿之介の篭城する上月城へと救援へと向った。しかし三木城は前面に美嚢川を望み、背に裏六甲の帝釈山脈を配した難攻不落の城で、織田信忠には荷が重すぎたため、秀吉自らが三木城攻めを行うことになり、世に言う「三木の干殺し」の兵糧攻めを行った。天正8年(1580年)正月に食糧が尽き長治及び一族の自刃で三木城攻略の幕を閉じた。

しかしその間に上月城は毛利軍に責め立てられ陥落し尼子勝久が敗死し、山中鹿之介は捉えられて処刑されてしまった。更に、悪い事には荒木村重が謀反を起こし、摂津有岡城に篭城した。
西播磨に位置する上月城は備前、美作、出雲への要衝の地にある城で、赤松政範が城主を務めていた。秀吉は赤松政範に対し、信長への恭順を礼を尽くして勧めたが、結局毛利との同盟関係を優先させるに至り、秀吉の上月城攻めが始まる。秀吉は天正5年(1577)12月、総攻撃を敢行し上月城は陥落し、山中鹿之介に兵500を授け、引き上げた。しかし山中鹿之介が主君尼子勝久を迎えるべく、上京している間に、毛利の盟友の宇喜田直家が城を攻め奪回した。秀吉は再度上月城を攻め、上月城を奪取する。上月城を、お家再興の足がかりにしようとしていた山中鹿之介であったが、毛利に攻め立てられ、またも落城。尼子家は滅亡し、山中鹿之介は斬首されてしまった。

しかし上杉謙信が死去、更に顕如率いる石山本願寺の攻防戦で毛利水軍、村上水軍が第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に大敗北を喫し、次第に戦況は毛利側に不利となっていった。そんな折、謀将宇喜田直家は今度は毛利と手を切り、信長に臣従するようになり、備前(岡山)まで信長の息がかかるようになった。

こうして摂津、播磨の要所である摂津の有岡城、播磨の三木城、上月城を手にした秀吉は、姫路城に陣取って毛利攻略の拠点とする。秀吉は次に前線指揮官として毛利の最前線、清水宗治が城主の備中高松城を攻める。高松城の周囲は沼地で難攻不落を誇っていた。秀吉はここでは、軍師の黒田孝高の進言を入れ、世に言う「高松城水攻め」を行った。城は水没の危機に陥いり、食糧も尽きてまさに飢餓地獄状態になっていた。
しかし天正10年(1582年)6月2日、そこに青天霹靂の事態がおこる。主君織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺されてしまった。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返すいわゆる「中国大返し」を行う。

その後の事はよく知られているように、秀吉は明智光秀を打ち取り、柴田勝家との確執、戦闘にも勝ち、徳川家康を押さえて天下を統一した。毛利輝元はしかしながら天下の大勢が固まるまでは、秀吉、勝家に対しどっち付かずの態度を取っていたが、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利するや、秀吉に臣従する。ここに長年の秀吉と毛利との闘争が終わり、毛利は秀吉の配下に入った。

摂津、播磨を支配していた赤松一族は、些細な理由で信長に抵抗し滅んでしまう。信長の力を見くびっていたのか、毛利を頼りすぎたのか? 結局毛利は肝心なとき頼りにならなかった。その点、権謀術数を多用し平気で裏切りを行って来た謀将宇喜田直家は毛利とより密接な関係で同盟を結んでいたにもかかわらず、情勢が織田に傾くとさっさと寝返り、信長から本領安堵のお墨付きもらう。

戦乱の世を生き残るには人間らしい義理とか人情という精神はかって邪魔なのであろう。しかし歴史とは皮肉なもので直家死後、嫡男秀家は秀吉の寵愛を受け、秀吉の養子になり、秀吉政権の五大老にまでに上り詰めるが、関ヶ原で西軍につき破れ、57万石の大名から八丈島へと配流される。ここに宇喜多家は直家死後わずか一代で消滅する。こうしてみると、人のいい人情溢れる性格では結局生き残れないのが人の世の厳しさか。でも秀家の優しい性格が彼の命を助ける事にもなる。豊臣の重臣で、関ヶ原でも西方についた武将で命を長らえる事ができたのは秀家くらいであろう。人の運命とは分からないものである。




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