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三法師

2010年09月18日 14:16


三法師(織田秀信)

三法師ってどこかで聞いた事あるけど誰だっけと言う人は結構多いだろう。そういう私も織田信長が本能寺で暗殺された後、後継者問題を話し合う清洲会議で、秀吉が後継者として信長の長男の織田信忠の3歳の嫡男である三法師を擁立して、信長の三男・織田信孝を擁立する勝家との間に対立がおこった事くらいは知っていた。織田信長の嫡男は織田信忠で(本能寺の変で死亡)、二男が織田信雄で三男が織田信孝となり、織田信忠の長子が三法師である。この3人で後継者争いが行われた。結局、秀吉の策略で三法師が後継者として決まり、秀吉がその後見人として収まったがその後三法師はどうなったのかは、余り歴史の表に出てこないので知らない人が多いと思う。そこで三法師のその後について調べてみた。
三法師は天正10年(1582年)の本能寺の変の際、父信忠の居城岐阜城に在城していたが、前田玄以に保護されて清洲城へと避難した。同年、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続、直轄領として近江国坂田郡3万石を得た。関ヶ原の戦いでは石田三成に美濃・尾張の2ヶ国を宛行うとの条件で勧誘されて西軍に加勢した。負け戦、最後は岐阜城に篭城するも、圧倒的な兵力不足で開城降伏した。城を出た秀信は一命を取り留め剃髪して、高野山に送られた。その後高野山も追放され、善福寺に入り、26歳でこの世を去った。その後継者は現在も健在であるという。

一方、信長の3男、信孝は堺にて四国攻めの渡海の準備中に本能寺の変が勃発し、逃亡兵が相次いだため積極的な行動はできず、明智光秀の娘婿である従兄弟の津田信澄を殺害した程度であった。その後、摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。しかし信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、清洲会議において織田氏の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役として兄信忠の領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。その後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介した。こうして柴田勝家・滝川一益らと結び、同年12月、三法師を擁し秀吉に対して挙兵する。しかしこの挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏、三法師を秀吉に引き渡した。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏し、自害した。
一方、二男の織田信雄は本能寺の変では、明智軍に対し近江甲賀郡土山まで進軍したものの、伊賀の国人衆が不穏な動きを見せた事や、信孝の四国征伐軍に伊勢の軍勢の大部分も援軍として派遣していたため、兵数が心もとなかったのですぐさま伊勢へ撤退した。戦後の清洲会議では、織田家の後継者になろうと画策するも失敗したが、清洲城を居城として尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領した。賤ヶ岳の戦いでは秀吉に与し、柴田勝家に与した弟信孝を岐阜城に攻めて自害させる。しかしその後秀吉と対立し、秀吉に対抗するため徳川家康と同盟を結び、織田・徳川連合軍は秀吉と戦闘状態に入り、長久手の戦いで秀吉方の池田恒興や森長可らを討ち取ったものの、信雄は突如家康に無断で単独講和を結ぶ。このため、家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。
以降は秀吉に臣従し、富山の役や九州の役などに従軍する。関ヶ原の戦いでは、大坂にあって傍観的態度に終始した。一説には石田三成を支持したとも、畿内における西軍の情勢を密かに家康へ報じていたとも伝えられる。しかし、傍観的態度を西軍に与したと判断されたためか、長男秀雄ともども改易されている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に徳川方へと転身し、家系は江戸時代を生き残った。五男高長の系統は、当初、大和宇陀松山藩主であったものの、御家騒動にともなう転封によって丹波柏原藩主となり、そのまま廃藩置県を迎えた。後に庶流は、信長の七男信高の系統である旗本家に養子として入った。その末裔がフィギュアスケート選手の織田信成であるらしい。

世が世なれば、信長が本能寺で討たれずに日本を統一していたら、信忠、秀信(三法師)と支配が移っていたかもしれない。信長後継者の中で、有能とされていた秀信や信孝ははやばやと討ち死に、暗愚とされた信雄は信長生存中は失態を重ね「三介殿のなさることよ」とあきれ顔で評されていたが、結局は生き残り、家系も保った。という事は少々抜けていた方が、安心を与え、警戒心を抱かせないということであろうか。

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独創的研究

2010年09月06日 18:04



 久しぶりに蜘蛛毒博士の川合先生に会った。川合先生についてはブログでも紹介したので、ご存知の方もあるかもしれない。彼は東大の神経科の医師/研究者として勤めている時に、誰もやっていない未開拓の蜘蛛やハチの持つ神経毒に興味を持ち、この神経毒を研究しようと思い立った。そこまではだれしも考えつく事かもしれない。しかし彼のすごいのは実際に野生の女郎蜘蛛を何万匹と集めたことである。その間4-5年。民家の軒先に巣をはる蜘蛛を探してる途中、泥棒と間違われ、警察の尋問を受ける事もしばしば。ひたすら蜘蛛集めに専念し、野山を駆け巡り、殆ど研究もできず、論文もでない状況になった。しかもそんな状態では科学研究費ももらえる訳もなく、貧乏な研究生活が続いた。それにもかかわらず、彼は小さな蜘蛛の毒針から毒を抽出し、その蜘蛛毒の構造を決定する事までこぎ着けた。そして女郎蜘蛛トキシンはグルタメート受容体に結合し、作用を阻害し、昆虫の神経を麻痺させている事を証明した。この執念はどこにあるのであろうか?
彼曰く「とにかく人のやっていないことがやりたかった。蜘蛛を集めている瞬間も誰かがやってしまうのではないかと不安いっぱいであった。」この言葉に彼の研究の原点があるように思われる。

人とは違ったことをやりたい。新しい分野を切り拓きたい。世の中の役に立つような仕事をしたい。研究の動機は様々あれど、その動機が研究を進める大きな駆動力となり、さまざまな困難さを越えて研究をし続けられる力になっていることがしばしばある。その結果出て来た成果は、研究者個人のフィロソフィーを映している。ある意味では芸術家と同じかも知れない。古今東西を問わず、一流とされている画家の作品をみると、まさに個性に溢れ、その絵をみれば一目で誰の作品だと,絵がidentityを証明してくれる。ゴッホやモジリアニーはあくまで、自分のスタイルを押し通し、大衆に迎合することはなく、反対に世間が自分の描く絵を認めてくれないと悩んでいる。彼らの絵には凄まじい個性の表現が隠されていて、素人目には決してうまく,きれいな絵ではない。しかし誰でもが絵を見ればこれは誰が描いたかがわかる。他の一流とされる画家の絵とて同じである。

現在は科学が資本主義という大きな力に翻弄され、中世とは異なり科学の世界も趣味や個人の時代ではなくなって来た。科学の成果が大きな産業を産み、ビッグマネーに繋がり,国家の繁栄にさえ繋がるような時代になってきた。当然、大きなお金が科学研究に投入され、その代償を求められるようになって来た。手っ取り早く商品化でき金になる科学が流行し、もてはやされるようになった。特に、昨今のように不景気ともなると尚更で、応用性のあるもの、役に立つものが独創性のある科学より優先される。基礎研究とて世の中は将来の応用を目指したものを要求し、応用に繋がるかどうか分からない基礎研究には金を出さなくなって来ている。

このような時代に、4年も5年も費やして、成功する保証の無い研究を進めて行くという余裕も失われた。短期で結果を求められるようになり、小振りな研究が増えて行く事となった。成果、成果とあまり言われず、ある意味貧乏ではあるが生き残れ、自由な研究ができた時代と同じような研究は今の時代では不可能なのかも知れない。長期の基礎的なテーマで、4-5年も成果が出なければ生き残れない。

寂しい限りであるが、研究を続けるためには今の世の研究指向にある程度合わせて、研究生活を生き抜いて行く必要があるのかも知れない。



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