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秋思賦

2010年11月29日 18:33

晩秋の夜に思う 2題


金木犀
秋の夜長、誰もいない深夜の街を散歩する。澄んだ冷気がほほにかかる。
月もない闇夜、外灯だけが浮かび上がる暗がりの小径をしばし歩く。

ふと立ち止まると、甘酸っぱい、金木犀のかほりが闇から漂ってくる。
どこにあるのかは定かではないが、たしかにかほりがその存在を主張している。
寝静まった深夜のしじま、熟した豊満なかほりが暗闇から忍び寄る。
見る者も嗅ぐ者もない深夜、かほりが真っ暗な闇夜を支配する。


幽愁
深い悲しみや嘆きに耐えられない時には、一人でじっと暗い小さな部屋で膝小僧を抱えて我慢するか、誰一人いない浜辺で、わんわんと泣き叫ぶしかありません。打ち寄せる波の音で泣き声がかき消されるまま、涙枯れるまで泣けばいいでしょう。無上に美しいはずの、夜光虫の蛍光も、満点の星の輝きも、遠くの漁り火も無機質な絵のよう、なぜ挽歌になってくれないのでしょう。

これら美しきものはみな命の輝きを彩り、失なわれし者には何の彩りも与えません。鈍色に光る海面。広がる闇夜。潮騒の音。ただひたすら時間の通り過ぎるのを待つだけ。泣きつかれるのを待つだけ。大切な人を失った者に残されたものには。


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天空のラピュタ竹田城

2010年11月17日 17:30

幻の名城

姫路から北へ60kmあまり入ったJR播但線の竹田駅の近く、虎臥山の山頂に竹田城跡がある。別名虎臥城と言われる。この城跡の紹介を今年の夏に撮ったきた写真をもとにしよう。

城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。
晩秋から冬にかけてよく晴れたまだ空けやらぬ朝まだき、川面の霧が立ちこめ、山麓をすっぽりと覆うと、雲海の上に竹田城が浮かび上がって現れる(写真1)。

東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山の山頂に築かれ、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

築城に関しては、不明な点が多い。1431年但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる。
 戦国時代に入ると、織田信長は中国地方の毛利攻略の手始めに、播磨国に羽柴秀吉を派遣した。秀吉は天正5年(1577年)10月、姫路城に入城し、それから一カ月で播磨国の諸将から人質をとり帰服させた。その後、羽柴秀吉軍は二手に分かれて、本隊は上月城を攻城、羽柴秀長隊は三千の兵を率いて但馬国に進軍した。竹田城は生野銀山を管轄しており羽柴秀長隊の第一目標になった。同年11月羽柴秀長隊は真弓峠から但馬国に侵攻、まずは岩州城を攻城し次いで竹田城を攻城し、羽柴秀長が竹田城の城代となった。

羽柴秀長は天正7年(1579年)5月、織田信長の命により明智光秀支援のため竹田城から丹波国へ攻め入った。その後羽柴秀長は竹田城に入らず播磨国に引き上げた。その隙を縫って毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び織田信長の命により羽柴秀長が6400の兵を引き連れ但馬攻めを開始、竹田城、有子山城ともさしたる抵抗もせず降伏した。出石城の城主山名祐豊、竹田城の城主太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。
羽柴秀吉は羽柴秀長を有子山城主に、また秀長の武将である桑山重晴を竹田城主へと命じた。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって但馬国出石城に前野長康、付将として豊岡城に明石則実、八木城に別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が竹田城の城主となった。広秀は2万2千石を領有し、城の大改修に着手して文禄年間から慶長の初期に、現在見られるような豪壮な石垣積みの城郭を築き上げた。13年を要したと言われる。竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ技術で、近江穴太衆(あのうしゅう)の手による穴太流石積み技法が用いられている。野面積みで、石材は現地のほか山麓付近から集めたものと考えられ、花崗岩で最大のものは5トンと推測されている。

最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年(1600)鳥取真教寺にて切腹。享年39歳。竹田城は廃城となった。

今見られるのはその当時の城郭を支えていた石垣のみであるが、峻険なる山の山頂にこれほどの壮大な山城を建築したものだと、今更ながらその当時の難工事が想像される。城跡からは丹波の野山が一望され(写真)、当時の華麗にして豪壮な城が偲ばれる。一度訪れたらその壮大さ華麗さの虜になること間違い無し。

今まさに絶好の季節、霧に包まれ、錦秋を纏った天空の城郭、竹田城跡を見に行ってはどうでしょうか。

写真1 霧に浮かぶ竹田城(明日の地球より) 写真2 竹田城跡案内 写真3 竹田城趾から見た景色 写真4 竹田城趾から見た景色 写真5 竹田城趾 写真6 竹田城趾 写真7 竹田城趾 写真8 竹田城趾 写真9竹田城山門 写真10-12 立雲峡からみた竹田城 写真2-12は自分で撮影。

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雪虫(しろばんば)

2010年11月08日 18:13

儚さと初冬

初冬の穏やかな日の夕方、小さな蜘蛛が風に乗って一斉に飛び立ち、それが夕日に煌めいてとても美しいという、空を飛ぶ蜘蛛「雪迎え」についてはブログで書いた。雪迎えとは別に、雪虫とよばれる体長1-2mmの小さな虫は晩秋から初冬にかけての穏やかな日の夕闇迫る頃、雪の降るが如くにふわふわと漂い、冬の到来の近いことを知らせる。雪の妖精。雪虫が舞うともうすぐ初雪だ。

雪虫はアブラムシの一種で白腺物質を分泌する腺が存在するものを言い、体全体が綿で包まれたようになる。雪虫という呼び方は主に北国の呼び名で、綿虫とかしろばんばとか呼ばれる。アブラムシは通常,羽の無い姿で、単為生殖によって多数が集まったコロニーを作る。しかし初冬のある時期、越冬する前になると羽のある雄と雌の成虫が現れ、卵を産む。この成虫が空を乱舞する姿がまるで雪が降っているように見える(写真)。その飛ぶ力はか弱く、風になびいて流されるため、なおさら雪の様に感じさせる。北海道では初雪の降る少し前に現れ,冬の訪れを告げる風物詩ともなっている。寿命は一種間程で、卵を産むと死んでしまう。儚い虫でもある。

井上靖の小説「しろばんば」の冒頭にもその飛ぶ姿が記述されている。

「その頃、と言っても大正四五年のことで、いまから四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたてこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮游している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。しろばんばというのは"白い老婆"ということなのであろう。子供たちはそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、それがどこからともなく現れてくることを、さして不審にも思っていなかった。夕方が来るからしろばんばが出てくるのか、しろばんばが現れてくるので夕方になるのか、そうしたことははっきりとしていなかった。しろばんばは、真っ白というより、ごく微かだが青味を帯んでいた。そして明るいうちは、ただ白く見えたが、夕闇が深くなるにつれて、それは青味を帯んで来るように思えた」というロマンチックな虫である。雪迎えといいしろばんばといい、越冬の時期が迫ると日頃行動力の無い昆虫が種の存続をかけて、広い大空に舞い上がり、できるだけ遠くへ遠くへと駆り立てられるように舞い上がる。ああ壮大なる命の営み。感嘆せざるをえない。

木枯らしが吹き途絶えた、小春日和の夕暮れ時。仄かに白く光って見える、小さな雪虫が群れ飛ぶ場面に出くわすと、なんとなく物悲しく、幼少の頃を思い出し、ノスタルジーにかられるのは私だけでしょうか?

このような儚く、つかの間の命を謳歌している虫達を見ていると、何のために生きるのか?生きるって?毎日同じ様に働き生活し、老いて行くって?と感傷にふけり胸がきゅんと締め付けられる。

写真 飛んでいる雪虫
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