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大災害時に現れる人の器と価値

2011年03月18日 18:49

大震災特別ブログ
この度の東北地方太平洋沖地震と津波、それに続く原子力発電所事故では被害の甚大さや現代科学の無力感に
あぜんとするばかりではなく、人の世の無常さも教えられた。

朝元気に職場へ学校へと玄関を出て行った家族の一員が一瞬のうちに散りじりに、命を奪われ、帰る家もなくなってしまうなんて、誰が予想できたであろうか。地震が起こった時に何をしていたか、津波に襲われた時にどこにいたか?運命の神はいたずらに人々の運命をもてあそび、いとも簡単に人の定めをも決めてしまう。まさに無常、理不尽。

被災者のなかには家族を亡くし、自宅をなくしてもなお、悲しみを背負って、自分を犠牲にしてでも、老人や病気の人を助け、村や町の復興へと、運命を前向きに受けとめる人々が居る事を知って、まだまだ日本も捨てたものではないと感じた。我々被災者ではない者も、こんな大惨事後の困難なときこそ、少々の不便を我慢して、停電とか交通機関の乱れとかに文句を言わずに、お互いに助け合って、日本の復興を目指そうではないか。

あっけなく命が消え、明日の運命も分からない現実を見つめると、人の存在のなんと小さいことだろう。しかしこのちっぽけな人間、一人一人が協力して助け合えば、まさにLittle to bigとなり、大きな力となり、うねりとなって復興、再建に向けて走り出せる。

福島原発の事故をみても、第一原発の事故に始まり、第二原発や第三原発,休止中の第四原発までもが同じような経過を辿るのをみて、東京電力の無策ぶり、手間の悪さにイライラした人は多いと思う。独占大企業の屋台の上にあぐらをかいていたエリートたる幹部社員のおろおろするばかりの無能さにはあきれた。一方、日の当たらない原発現場の社員は、身の危険も顧みず、疲労困憊になりながらも必死に頑張って、なんとか大惨事になるのを防ごうとしている。

いったい日本はどうなっているのか。未曾有の大災害で会社や日本の危機存亡の折、トップが何故現地に乗り込んで陣頭指揮しないのか、責任逃れに終始するのか? 必死になって働く現場社員と安全な本社に身をおいてなす事を知らない幹部社員のコントラストが何とも現在の日本を象徴しているようでなさけない。こんな時にこそ人の価値が問われる。

Little scienceをやっている我々研究者は、こんな時に、こんなことやっていていいのだろうかと思うかもしれない。しかし、冷静に自分に何ができるのかを考えたら、今やっている研究をやり切ることが、日本の復興に繋がるのではないか、というよりそれしかできないのではないかと思う。研究費の無駄使いをやめ、一人一人が本分を十分に果たす。
そして足手まといにならないように個人個人の状況に応じてできる限りの協力をおしまないようにするしかないであろう。

最後に今回の地震で、家族や友達を亡くされた方に哀悼の意を表するとともに、命は助かったものの怪我をおわれた方、自宅を喪失、損壊された方、はたまた職場や研究室の被害に遭われた方、被害程度はまちまちでしょうが心よりお見舞い申し上げ、一日も早い復興と、研究者の皆さんには一日も早く日常の研究に戻れますよう祈ります。
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小さな科学と大きな科学(2)

2011年03月11日 17:49

小さい科学の価値は、意義は?

Little, big Journal of Cell Science 124, 671-673 (2011)

ようこそすばらしい秋の日にお帰り。私は座って大西洋越えの飛行機を待っている。そこでみんな一緒に個人でやるよりも大きな何かを作り上げ、どのようにやるかの議論をすることを楽しむ。我々の議論に新たに加わったあなたのため、小さい科学と大きな科学について話そう。それと雪についても。

伝説のフォーク歌手で社会活動家のPete Seegerはバンジョーを持ってBig Little, Little Bigと歌う。大昔、遠く離れた銀河系で(実際はNew YorkのFishkill)で、突然彼の家に連れ込まれ、暖かな食べ物を食べ暖炉の前で数時間話した。そこで彼にバンジョーの言葉について聞いた。それはNative Americanのことわざで、「見上げなければならない」というのだと言った。Look upはGoogleを意味しているのではない。それが天気予報に関することわざだと気づくまで数週間かかった。大きな雪の固まり、小さな嵐、小さな雪片、大きな嵐。それは時々事実であり、時折科学にも応用される。

人の努力の賜物の科学への公共の支援について議論するのは非常に難しい。私はそれが芸術に対してのように容易であって欲しいと思う。(たとえそれが科学でなく芸術だとしても、それが受け入れ易い場所と受け入れにくい場所がある。しかしこの街でできる事はそれ程多くはないが、この街をすばらしくするために生物学研究室を作ろうなんて聞いた事無い。)科学的努力は一般的に好評に受け入れられているけれど、小さな科学は完全に敵の包囲網にあっている。私の知る殆ど全てのプログラムでは個人の研究室への支援は削られ、大規模に連携して行なわれるbigなものへの支援を好む。今このようなことが起こっていると知ってさえも、小さな科学を防衛している研究者は「ここはたぶん大きな連携した研究をやる次の世代の研究者を育成するところなのだ」と言いがちである。

そんなに昔ではなく、私は小さな研究室の責任者からNIHの副所長になった同僚と話した事がある。彼の仕事は生物医学研究に対しての政府の援助を決める事にある。私は個人の興味や熱意に基づく研究者個人の研究の重要性について話した。すると彼は急に話をさえぎり、あなたとあなたが重要だと思う小さな科学では、何もできはしないと怒るように言った。あなたが出した論文について一度でも公共の場でだれかが好意を持って話してくれたことがあったのか? 何もありゃあし無い。我々は治療法を必要としているのだ。我々が直面している大きな問題の解決法を必要としているのであって、論文ではない。あなたが面白いと思う事は重要かもしてない、しかし面白くないと思う人も大勢いる。多分、かれは闇の世界に引き込まれ闇の帝王になってしまったのだろう。

それは非常にショッキングなことであった。何が何やら分からなくなった。しかし彼は我々が考えなくてはいけない要点を教えてくれた。面白いと思い、神秘的な領域での知識を広げて行くという仕事に携わるのは重要だということは傲慢なことなのであろうか?十分重要であって財政的に援助するのに値するのであろうか?
それを見極める方法がある。最初にどのくらいのお金が研究室あたり昨年費やされたのか(当然、電気代、人件費も入る)の情報が必要である。これを研究室で出した論文数で割ってみる。すると一論文あたりの正確なコストがでる。確かに、ある年は多く出て、ある年は少ないかもしれないがこれを長い年月やって、同じ領域の別の研究室についてもやればその数はそれ程変化しないであろう。一般に、私の経験では一論文あたりの経費は10万ドル(800万円)から50万ドル(4000万円)である(人件費例えば700万、電気代、overhead代及び消耗品代)。あなたの研究室ではこれより少なくやっているかもしれない。これは固定された数字ではないが。友達の研究者や親しい人にその論文が実際どのくらいの価値があるのか納得させてみてはどうだろう。道路の穴埋めの数と比較してみたらいい。小さな科学がとても高くつくとして、あなたの科学をやらない友達も税金を払っている一員であることを忘れてはならない。じゃあ実際に説得できるのか?

いや、それは無理だ。いかにタンパク質のリン酸化部位を知る事が重要なことか、いかにリン酸化によって他の蛋白質と結合できるようになって興味深い遺伝子の発現を促すかを説明しても、この研究にかかる費用がいくらかを言ったとたん、全ての他の思考を停止してしまうであろう。違うアプローチも試みた。きれいなページのジャーナルに載せられた研究は200個の爆弾(二つの航空機のトイレ)と同じ値段だ。といっても展望が良くなる訳でもない。やらなければならないのは家の価値に変換する事だ。論文は家である。多分あなたの周辺では、一軒の家は数本の論文に値し、そんなに多くの論文ではない(こうしてみるといかに論文を作成するのにお金がかかっているかが実感される)。私の代理の同僚は暖かないすに座ったとたん、最も印象深い小さな科学のできごとを完全に説明するには数分ではなく数字間要するであろうという問題に直面するであろう。(しかし彼は非常に忙しい委員の前では数分しか説明の機会を与えられない)。
もちろん、その仕事には価値があり、多分それにかかるお金よりも価値があるかも知れない。しかしどのようにしてこれを測ることができるのであろうか?我々はその論文が他の論文にどのくらい引用されたかを知る事ができる。しかしそれは我々の議論の助けにはならないであろう。そして思い起こして欲しい、これはわたしが誰かとしたいと思っている議論であることを。

我々は小さな科学に対しての訴えを別に起こす必要がある。実際、大きな科学は支出を正当化するに十分な根拠を持っている事が多い。さもなくば、大きな製薬会社はそのようなことはしようとしないだろう。新しい薬のコストはおよそ10億ドルであろうと言われている。もしそれが役にたつなら、それに値するだろう。それは十分の利益を生み、それを製造する会社がある場所に小さな街を作り出すであろう。これはその薬がたまたま効果が有り、たまたま起こることである。大きな科学は大きな結果を生じる。そして時折、そのコストを正当化するに十分であろう。そのような議論は小さな科学には同様には働かない。(必然的に、全ての大きな科学は小さな科学から生じる。しかし議論をもう少し洗練させる必要がある。)
そして、我々は小さな科学を正当化するため、小さな科学のコストを大きな科学のコストと比較できない。これは人間の心理学の基本原理であるためである。人は大きな数まで数えられない。一度非常に大きい百万個の何かを得たら、すべてが混在してしまう。実際、我々は百万個を想像できない。一度、百万の小さな点でできている「百万という本」を見たら、それは単に厚い本であったと思うであろう。10億は理解不可能だ。もしできるだけ早く数を数えたとして。一秒間に10言えたとして、10億数えるのに10年以上かかり、寝る事もできない。そして11億は実際に10億の本より厚いとは分からないであろう。大きな数との比較は我々の議論を深めはしない。だから、異なった方法を考えよう。
前に議論した時に、大きな科学と違って小さな科学は並行して行なわれる。一つの研究室での一つの発見にとどまらず、難しい問題の解答へとその領域を導く。それは我々が領域と呼んでいて、個々の研究の和より大きい。個々の研究室がすばらしいブレークスルーをしたかの様であるが、これはみんなが長い長い努力の末に到達した賜物なのである。そしてこの研究はだれからも指図されたり組織されたりした訳ではなく、多くの個人が自身で興味ある事を考え、その考えが正しいかどうかを追求した結果なのである。

いかに生物学システムが働くかについてのアイデアが優雅で論理的だとしても、間違えることがある。これは生物はデザインできないという基本的な理由による。それはやたらと努力して出来たものよりもたまたまちょっぴりうまく働いた要素の寄せ集めである。生物は歴史的な偶然で動き、潜在的英知によるものではない。これはダウイーンによってもたらされた人の思考の純然たる革命であり、多くの人が今ももがき苦しんでいる理由なのである。そしてそれは生物医学研究者として直視しなければならないものなのである。

現在、もし私の小さな研究が間違った予測に基づいているとしても、全てが手に負えない結末になる事は無い。一部は正しく、時間までに目的に到達するであろう。大きな科学として考えている多くは大きな問題にならない。しばしそれらの大きな科学は工学と呼ばれる。その区別はしばし公共の場では意味が無い。科学はしばしある難しい工学を含み、工学はある難しい科学を含むけど、それらは実際真反対にあるものである。科学はreverse engineeringである。我々が何かをengineerする場合、それをどのように作るかを説明する。しかし我々が何かをscienceする場合、すでに明らかにされた事から始まり、いかにして目的を到達できるかを説明する。橋を作る事はできる。しかし、いかにして橋が作られるようになったかを説明するのはとても難しい。それは細胞から始める時よりも随分と困難である。
これは多くの時間を費やす相違点ではない。実際、我々はあたかも科学が工学であるかのように行動している。(前回、多分、最近、あなたは科学者でない友達にどんな病気を治療しようとしているのかを話した。しかし、あなたが誰かに病気が実際にどんなものかという実態について説明しようとしたのはいつだったか?)。我々はよく目にする。大きな数々のセンターでの臨床試験がうまく行かなかったことを。結果がどのようであろうと、結果を予測できないことで非難される。

どのようにやったら、小さな事が大きな頼れる事になる方法をもたらす事ができるのか。そして何千もの研究室から情報を集め、それをまとめあげることが期待できるのか。当然、それは無理であろう。だから我々にはしなければならない事があり、常にそれをしていなければならない。つまり、「総説を書く」という事を。これらの収集された知識の始末に負えないアマルガム(ごった煮状態)はそれが正しく書かれていれば、小さなscience に大きなものを運んでくれる。しかしそれをするためには、何について書くべきなのか、また過去に頻繁に書かれていない題材なのかよく議論しなければならない。
ところで、今は朝である。大陸を離れようとしている。少しのコーヒーを取り、次のフライトまで心静かにいようと考えている。
着陸したらまた会いましょう。

我々のやっているlittle scienceは世間や政治家、官僚達にもあまり理解されない傾向にある。この基礎研究は何に結びつくとか何の病気を治すのに役立つから重要だと言わなければ興味を抱かせないし、申請も通らない。純粋にこの神秘的な現象を明らかにしたいという、pure scienceは死んでしまったのであろうか? 口がうまく常識的にはあり得ないことでも平気に、自分のやっている研究はがんの特効薬発見に結びつくとか、食糧問題を解決できると、破廉恥に言えなければ研究費はもらえない。

本文にあるアメリカのscience 事情と全く日本も同じになってしまった。なんでもかんでもbig scienceに結びつくlittle scienceをしろだ。自分のやっているlittle scienceがいかにすばらしく、将来big big scienceになるであろうとホラを吹ける奴が勝ちだ。世間は基礎研究には冷ややかな目を向け、なんでこんな不景気で就職もままならないのに、そんな優雅な遊びみたいな事をしているのだとおっしゃる。


大きな科学と小さな科学(1)

2011年03月02日 17:42

大きな科学と小さな科学(1)

多くの生物学者や生命科学者達は小さな科学をお互いに競争しながら進めている。しかしこの小さな科学をやるには機械の開発や技術の開発と言う大きな科学に依存する。そしてまた小さな科学が完成すると大きな科学となり、また新たな小さな科学が誕生する。

Big, little Journal of Cell Science 124, 493-494 (2011)

なんとすばらしい日だろう。でも働かなければ、机にかじりついていなければならない。しかし、しばし外に出て、休息し、すばらしい秋の気候を楽しもう。もちろん、数時間飛行機に乗って、学会にも行かなくてはならない。でもそこは雨が降っている、学会で情報を集めるのも楽しい。この良い気候は長くは続かない。雪を予感させる。そして雪は大きな科学対小さい科学の議論を思い起こさせる。

はっきりさせておこう。殆どの研究者と同じように私は科学を愛している。そして土星の輪、海底都市、即席遺伝子やバーチャルな世界などのBig scienceも好きだ。そしてより現実的なテーマも。

多くの研究者を巻き込んだ巨大なイニシアチブよってのみ成功する科学もある。そして成功すれば、しばしある感嘆を呼び起こし、人間の達成感のプライドを引き立てる。

若かりし頃、時間が有れば、科学、big scienceについて考えていた。イメージは1950年代の科学フィクション映画であるが、巨大な研究室で、何百人もの研究者が働き多くのコンピューターが動く、巨大なモンスターが田舎を動き回る。またあるときは科学フィクション映画の影響を受けて小さな科学について夢見る。地下室で一匹オオカミとして働き、世紀の大発見をする。しかし現実には、どのような研究者になりたいのかはっきりはしていなかった。両方ともかっこ良く見えた。

今日、小さな科学をしている。実際、アイデアが浮かんで飛び起きた事もあったし、それを話さずにはいられなかった。しばしは、いつもではないが、そのアイデアについて仕事した事もあった。私の父親は小さな商売をやっていたが、ある時、私に毎日何をしているのかと訊ねたことがあった。私は父親に事実を話した。「何か面白いとおもわれることを含んでいる事を考え、実験を計画し、その結果を検討し、そして更に考える」、ということが自分のしている殆どだと。
一方、父親は実験以外は殆ど私がやっているのと同じ事をやっていて「仕事の管理とチェックをし、よりよい方法について考えている」と言った。
私の父親は私が研究者となった支えだ。以前、キャリアー選択で迷っていた時、彼は私に「自分が一番やりたいと思う事をやればいい、他人から言われた様な事はやらなくていい」と勧めた。何故なら、「結局お前の人生で、お前がやることだから」と。ありがとう親父。

小さな科学は大きな科学でもある。小さな科学は多くが単純に並列して走っている。数多くの小さな研究室があり、同時に大きな疑問に対してあくせく働き、答えを得るために途方も無い距離を前進する。(そして答えが得られたかと思ったら、次の大きな疑問の出現)。みんなの大きな力でお互いに前進する。
大きな科学、多くの場合、連続して走る。あるプロセスでの歯車は次のプロセスの歯車となり、答えが得られると次の大きな疑問が出現する。これは工学の問題でしばしば生じ、確かに簡単ではないが、しばしば時間通り完成する。
しかし、しばしば連続して走るシステムには問題がある。もし何かが壊れ落ちたら、システム全体が崩壊する。もし一本の電線で繋がっている電球に電気を通したとしたら、一つの電球が壊れると、全てが動かなくなることはみんな知っている。そして休みの日を潰して一つ一つチェックしなければならなくなることも。

逆に、並列して走っているシステムは一つが壊れても他はうまく動き、進歩していく。小さな科学は大きな科学に依存し、大きな科学は小さな科学に依存している。一つの小さな科学の大成功例、唯一地球上の生命の研究から導き出されて来た理論、ダーウインの進化論を見てみよう。彼とその他の多くの小さな科学者達は非常に深い疑問に答えられる回答を引き出す理論に帰結するデータを得るまで、地球上の多くの生物を観察し、集め、分類した。ダーウインやウオ-レスを結論に導いた膨大なデータがあり、それは地球上のあらゆるところに行く事を可能にした帆船の中での着実な研究の進歩によって集められた。そしてこれらの進歩はこのような舟を作り上げた政府や企業の多大な努力によってもたらされた。世界中からの生物の収集は理論の構築には必須でなかったかも知れない、彼ら以外誰も成し遂げた事がないのでその点は不明であるが。もちろん、ダーウインはビーグル号の船上で長い時間を過ごし、一方、ウオーレスはマレイシアで収集活動を行っていた。誰かがそこら周辺にある自然を勉強して、同じような結論に達したとしても、科学社会を揺るがすような多くの事実は出てこなかったであろう。同じような例がある。メンデルを思い浮かべればいい。解答を得るまでには何十年かの小さな科学が行なわれた。

今日、little scienceを利用してbig scienceが行なわれる傾向にある。それは科学をできるようにするお金をつける側の短期の関心による。これは今や全ての国で行なわれている事ではないかと危惧する。特に、アメリカでよく行なわれている。数日ごとに、議会の委員会はいかに問題が解決され様としているかを審問するためにNIH(実際にお金を配る)の責任者を呼びつける。これらの責任者は2通りの答えをする。なされた進歩を厳しく検証して、いかにしてこの小さな進歩が積み重なれ、真実に至るかを根気よく説明する。そしてそこには多くの関連した技術の努力が問題解決のためになされたことを説明する。しかし委員会は非常に忙しく込み入った内容の講義を聴く暇がない。
二つ目のオープションは単純に簡単なように印象づけることである。big scienceはそんなに簡単なものではないが、簡単そうに説明する。

Big scienceを擁護する必要も無いが、生活を変化させる科学の進歩として社会的に見られているのはbig scienceだ。病気を治す新しい薬剤は膨大な臨床試験を通して開発される。遺伝子の塩基配列決定は生命の見方を変えたばかりか、生物同士の関係へ基本的な洞察を与え、様々なレベルでの生物を調べる能力を飛躍的に増したのみならず、種としての人類の進歩の一里塚として、人類の最初の月面着陸に近づけた。しかしクールになって考えてみる必要がある。Big scienceはすばらしいが、しかしいつまでも連続して行なわれることは大きな問題である。そのバブルがはじけるかも知れない。前提が間違っているかもしれない。我々は人ゲノム解析で興奮していると、多くの主張があまりにも幼稚であることに驚くのを忘れがちである。例えば非常に尊敬されている研究者が世の中とかけ離れた予測、「これはホームレスのため遺伝子を解読したのだから大きな社会問題を解く事になるだろう」と言うかもしれない。だから今日我々は何のためということを疑って考えなくてはいけない。

私は帰る。そこは未だにすばらしい天気だ。そして雪について考えるのは一ヶ月伸ばす事ができるであろう。確かに、何故雪が私に科学のことを思いおこさせるのであろうか?雪の結晶のことを考えてみる。一つ一つが違った形をし、同時にそれらは並行して、不連続に作られる。しかしそれらは一緒になって風景を覆い隠す。小さいことは大きい事。そして大きい事は小さいことになれる。

次回ではlittle scienceは役にたつのか?一つの論文を書く事にどれほどのの重要性があるのかについて考えてみよう。


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