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「永遠のO」とコルベ神父

2011年12月21日 19:23

 
クリスマスに思う

もうじきクリスマスを迎える。クリスマスは多くの日本人にとってキリスト教的意義が薄れ、楽しむという商業的意味合が強くなっている。クリスマスを迎えるにあたり、少し「無私の愛、絶対の愛」を実際したコルベ神父の行動と百田尚樹著「永遠の0」を考えてみたい。

「永遠の0」を読んだのは夏前であった。何気無しに書店で手に取り、買って帰って読み始め、初めて0の意味を知った。始めの取っ付きは悪かったが、すぐに話の展開におやと思うようになり、そしてどんどん引き込まれて行った。
長崎に布教に来たこともあるコルベ神父がアウシュビッツ収容所で妻や子供がいるから死にたくないと泣き叫ぶポーランド人の身代わりに処刑を志願したのとこの小説の主人公の宮部が身代わりで特攻に志願したのとがだぶって、頭のなかでぐるぐると回っていた。
まず小説「永遠のO」
戦後60年経ち、戦争が忘れかけ始めたある夏の日、佐伯健太郎と姉、慶子は特攻で亡くなった祖父、宮部について調べるため、生き残った戦友たちを訪ね歩き、祖父がどんな人物だったかを知ろうとする。 そして次第に驚きの事実が明らかになってくる。
当時「お国のため、天皇陛下のために命を捧げる」ことが当然なこととされ、また戦争に疑問を持っていた若者でさえも家族のため、国のため、と軍の方針に逆らわずに命を投げ出していた異常な状況の中で、宮部は「私は死にたくない。絶対に死なない。生きて妻と娘のもとへ帰る。」と堂々と言い放ち、自分の部下にも「絶対に死んではいけない。」といつも言っていた。「俺は絶対に特攻に志願しない。妻に生きて帰ると約束したからだ」「今日まで戦ってきたのは死ぬためではない」「どんな過酷な戦争でも、生き残る確率がわずかでもあれば、必死で戦える。しかし必ず死ぬと決まった作戦はもはや作戦ではない」「お前が特攻で死んだところで、戦局は変わらない。しかし-お前が死ねば、お前の妻の人生は大きく変わる。」といつも言い続けていた。
そんな事を言う宮部は周囲では臆病者、卑怯者、非国民と罵られ、上層部からは疎んじられ、暴力を振るわれ、物腰柔らかな態度や話ぶりに、自分より下の階級の兵隊には馬鹿にされていた。しかし、一度ゼロ戦の操縦桿を握るとその飛行技術は神懸かり的で、何機もの敵戦闘機を撃墜した天才的な戦闘機パイロットであった。また戦闘にあっては異常なくらい用心深く、同僚達が相次いで撃墜される中で、激戦を唯一人生き残った。すべては「生きて妻のもと、子供のもとへ帰る」というただ一つの目的のため。何年間も過酷な戦いを続け、周囲の罵詈雑言にも耐えながら生きのびることに固執した宮部.しかし、最後は神風特攻隊に志願し敵空母艦へと体当たりしその命を終える。それは終戦の一週間前だった。彼は最後の最後に生き残れるチャンスを自ら捨てたことになる。 
宮部が戦死した後、宮部が託した外套をまとった大石(宮部が代わった特攻隊員で後に松乃と結婚し、2人の祖父となる)が宮部の妻だった松乃に会いに来た日を、松乃は回想する。「私は、宮部が生まれ変わって帰ってきたのだと思いました。」必ず松乃の元に帰ってくると約束をしたのに、終戦一週間前に大石の身代わりに特攻で散ってしまった宮部。
読み進めていてあれ程、生きて帰る事に執念を燃やしていた者が、身代わりになって特攻を志願するであろうかという大きな疑問が読み終えても解けなかった。読後半年経っても、その疑問は解けていない。ふと同じように身代わりでアウシュビッツ収容所で処刑されたコルベ神父を思い出した。
コルベ神父
コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は、ポーランド人のカトリック司祭。アウシュヴィッツ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなった事で知られ、「アウシュビッツの聖者」といわれる。コルベ神父(本名ライムンド・コルベ Rajmund Kolbe)は1894年1月8日に当時ロシア領であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた(Wikipedia)。
1907年に、ライムンドは兄のフランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、ロシアとオーストリア・ハンガリー帝国の国境を越えてルヴォフにあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学した。その後、ローマで哲学、神学、数学及び物理学を学んだ。1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、そして1919年には神学の博士号を聖ボナベントゥラ大学で取得した。
コルベ神父は当初、中国での宣教を考えていたが、日本へ布教活動に行くことになった。当時ローマに留学していた神学生里脇浅次郎(後の長崎教区大司教及び枢機卿)との関りによるものであった。里脇神学生は「中国は政情が不安定だから、しばらく日本で待機したらどうですか」と日本行きを勧め、長崎教区の早坂久之助司教宛てに紹介状を書いた。
1930(昭和5)年2月26日にポーランドを出発。同年4月24日、長崎に上陸。町はずれの山の斜面に修道院とルルドを開き、「無原罪の聖母の園」と名づけ、フランシスカン的な清貧生活を営みながら、聖母の騎士誌の発行と学園教育に専念した。
(現在、同敷地内に教育施設として聖母の騎士高等学校と幼稚園がある。)


1936(昭和11)年5月に長崎港からポーランドへ帰国しニエポカラノフ修道院の院長なったが、やがて第2次世界大戦が勃発し、ゲシュタポに4人の神父と共に逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所へ入れられた。
1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる。死にたくない」と叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベ神父は全く毅然としており、他の囚人を励ましていていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec)は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、当局はコルベを含む4人はまだ息があったため、病院付の元犯罪者であるボフを呼び寄せてフェノールを注射して殺害した。
1982年10月17日、マキシミリアノ・コルベ神父は、教皇ヨバネ・パウロ2世によって聖人の列に加えられた。教皇は彼のことをこう呼んでいる。「愛の殉教者」。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)コルベ神父は文字通りこの言葉を実行したのだ。彼は自分が身代わりとなることでひとりの命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選んだ。彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々の友であった。そして、彼の名は永遠に全世界の人々に記憶されることになった。彼に与えられた聖人の日は8月14日、聖母被昇天の前日である。
いずれにしても宮部にもコルベ神父にもなれそうも無い。この強い愛、力は何所から産まれるのであろうか?コルベ神父は宗教に基づく無私の愛である事は理解できるが、宮部の場合は?深く考えさせる一冊であった。
このクリスマスを機に「永遠のO」を読まれたらどうであろうか?またその本とコルベ神父に流れている何も求めない絶対の愛についてのコメントが頂ければ幸いである。
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旅順攻略と28サンチ榴弾砲

2011年12月07日 19:11

28サンチ榴弾砲の威力

 いよいよ「坂の上の雲」の第3部が始まった。第3部は旅順攻略や日本海海戦を含むまさに「坂の上の雲」のクライマックスである。第一の山は旅順攻略のための絶対戦略拠点、203高地の攻防である。最初は日露とも203高地の重要性を認識していなかったが、日本軍がその重要性に気づき執拗に攻撃を行なったため、ロシア軍もその重要性を認識して、攻防は激しさをました。血みどろの攻防を重ねるも、どうしても占領できなかった。しかし28サンチ榴弾砲の集中砲火であっさりと203高地が陥落。その後は203高地の観測台からの指示で山越に旅順の街や港に砲弾を撃ち込み、短期間のうちにステッセルは降伏。旅順陥落の大きなきっかけとなった大砲である。
28サンチ(センチ,フランス語でサンチというらしい)砲は1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製したものであり、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて射撃試験を行ったところ非常に優秀な性能を誇ったため、1887年(明治20年)に制式化され量産された。
本砲の英語文献などでは「クルップ11インチ攻城榴弾砲(Krupp 11-inch siege howitzers)」と表記されることが多いが、実際にはクルップ社の砲の孫コピーに当たり、クルップ製ではなく大阪砲兵工廠の手による国産である。また、その大口径と砲身形状から一般的に臼砲に分類されることも多いが、原型となったクルップ社の砲は「280mm榴弾砲(280mm Haubitzen)」と称し臼砲ではなく、帝国陸軍における制式名称は単に「二十八糎砲」で榴弾砲とも臼砲とも明示していない。榴弾を主に高仰角の曲射弾道で射撃し(曲射砲)、野戦に便利なように砲身をある程度短くするなどした火砲は「榴弾砲」、これまでのように砲丸や散弾・榴散弾による直射(平射砲)を主に行う火砲は「カノン砲」と区別して運用される。また臼砲(きゅうほう)は曲射砲の一種で、榴弾砲に比して砲身長に対して口径が非常に大きく、肉厚の砲身をもつ砲である。外見が臼のように見えることから日本では臼砲と呼ばれる。日露戦争で使われた二十八糎砲など大口径榴弾砲が臼砲と呼ばれることも多く、榴弾砲と臼砲の境界線が曖昧になっている(wikipediaより)。臼砲は攻城戦、近代では要塞戦での要塞の破壊を目的とした破城槌や投石機の子孫に当たる兵器で、要求性能として分厚い鉄筋コンクリートや城壁を破壊する目的で製造された大口径短砲身砲が臼砲だと考えることも出来る。この定義だと臼砲の子孫は地中貫通爆弾であると考えられる。

対ロシア戦に用いられた28サンチ砲はもともとは対艦用の沿岸砲として日本内地の海岸に配備されていたものであったが、日露戦争勃発後に陸軍技術審査部は攻城砲として使用する案を掲示し、陸軍省砲兵課長であった山口勝陸軍砲兵大佐も賛同した。攻城砲兵司令官豊島陽蔵陸軍少将は満州の野戦における重砲運用の難しさなどから当初この案を退けたものの、28サンチ砲を要望する現場の声が高まったため同砲を動員することになった。

203高地の戦いを含む旅順攻囲戦では最終的に18門が投入され、延べ16,940発を発射した。特に旅順攻略において3週間かかるといわれた砲床構築を重砲兵は9日で完成させ、6門にてロシア軍陣地に大打撃を与えた。さらに旅順要塞陥落後は旅順湾内に停泊するロシア海軍旅順艦隊に対し砲撃を行い、これらをほぼ殲滅することに成功、のちの日本海海戦における海軍の勝利に大きく寄与した。また、旅順攻略・旅順艦隊撃破後は日露戦争の陸戦における最終決戦である奉天会戦にも引き続き投入され活躍している。

明治政府は海岸に砲台を築き、大砲を据えつけて海からの攻撃に守りを固めた。神奈川県観音崎の砲台にも28サンチ榴弾砲という巨大砲が設置されていた。日露戦争で旅順を攻めあぐねていた日本軍は、この移動不可能と考えられていた大砲を運んだ。しかしこれまでに調べた文献からは、日露戦争で最初に使われた28サンチ榴弾砲は観音崎第3砲台のものではなく、米ヶ浜砲台(横須賀市)6門と箱崎高砲台(横須賀市)8門のものと考えられるそうだ(県立観音崎公園 フィールドレンジャー安田  直彦氏)。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」第5巻には下記の記述がある。「大本営では、東京湾の観音崎砲台のベトンを割り、砲を解体して旅順へ送った。」「この児玉の命令を、関係砲兵と工兵が運営にうつし、おどろくべきことに、旅順の18門のうち6門が、山でも動くようにして奉天正面の野外戦場に出現したのである。」この記述が正しければ、米ヶ浜砲台と仮に箱崎高砲台のものをたしても、14門で足らない。従って明治37年年11月以降に4門が追加送付されていることになる。

ではどのような経緯で旅順に送られたのか?
満州軍の第3軍司令官に乃木大将が任命され、明治37年7月26日から旅順要塞の攻撃が開始された。要塞の正面に向かって塹壕を掘り進み突撃する正攻法で攻撃を仕掛けてもなかなか陥落しないため、時の陸軍大臣寺内正毅
は沿岸に備え付けてあった海岸砲を外して旅順に持って行き攻城砲として使ったらどうかと提案した。だが当時の参謀本部の議論は中小口径火砲で砲撃した後に強襲を以ってすれば要塞を陥落できるという意向であった。

 ところが8月21日第一回総攻撃が失敗に終わり、15,860名に及ぶ死傷者を出したのを機に大臣は大本営、攻囲軍に注意を喚起、その結果攻城砲として28サンチ榴弾砲の採用が決定した。直ちに実行に着手したのが8月26日。しかしそれ以前の8月10日には既に東京湾ほかの砲台から同砲の撤去命令が出ていた。即ち、箱崎砲台(横須賀市)の8門、米ケ浜(横須賀市)の6門、芸予(広島県・大久野島)の4門は「鎮海湾、大連湾、對馬防禦用トシテ撤去ノ処、中途ニシテ旅順攻撃ニ転用セラル」とある。
さて、第3軍の乃木将軍の下で参謀長を務めている伊地知少将は第1回総攻撃が奏功せず、多大の死傷者を出し、砲、弾薬も払底している状況下で大本営に補給を依頼した。返電で大本営の参謀次長、長岡外史は「所要の砲、弾薬等を送るが、攻城用として28サンチ榴弾砲4門を送る準備をしている、これに対し意見あれば聞きたい」と問うた。

 旅順攻略が難航したため、国内では東京湾を守る28サンチ砲を取り外して旅順に移すという常識はずれの案が浮上したが、当初専門家の伊地知はこれに対して懐疑的だった。伊地知に限らず、参謀副長の大庭をはじめとする現場の頭脳たちはこの案をことごとく無理だと評した。
また実際に28サンチ砲が旅順攻略に配備された後も、マニュアル通りの適距離を保って砲撃していた為、その効果を最大限に発揮する事ができなかった。この停滞を打ち破ったのは、砲術の素人である参謀総長・児玉源太郎であり、安全距離を全く度外視した砲配備で、結果として旅順陥落に大きく貢献する事となった。

 大本営は伊地知の返事を待たずに、大本営は砲床構築の専門家である横田砲兵大尉、28サンチ榴弾砲の指揮者筑紫砲兵中佐らの旅順派遣を決め、「第1回の砲6門は仮に不要になっても構わぬから大連に陸揚げしておくようにとの考えで送付準備をした」(長岡次長日誌)

9月14日旅順に到着した巨砲6門はかねて準備されていた砲台に9日間で配備され、発射準備を終えた。同砲は主として敵艦撃破の為との胸算であったが第3軍は陸正面の鉄壁破壊に向けた。しかしなかなかうまく要塞を抜く事は出来なかった。その状況報告を聞いた後、児玉は「24時間以内の重砲陣地の転換を命令し、更に28サンチ榴弾砲をもって、一昼夜15分間隔でぶっとおしに203高地に援護射撃を加えよと付け加えた」

 攻城砲の陣地転換による射撃効果はすぐあらわれてきた。落とした203高地の旅順港が見下ろせる位置に観測所が設けられ、港内のロシア艦隊に砲撃が加えられた。12月5日から9日までの5日間に打ち込まれた砲弾は約1250発、うち命中弾は158発であった。のちに東郷艦隊司令長官はこの成果を「武勇絶倫なる攻囲軍の猛烈不撓の攻撃に因り旅順口の死命を制すべき二百三高地が我が軍の有に帰せしより港内敵艦隊に対し攻城重砲の擲射
益々其威力を逞しく...」と称賛した。

 このあと彼我激しい攻防戦の結果、遂に頑強に抵抗していた東鶏冠山砲台を爆破し、31日ステッセル将軍は降伏の書簡を乃木将軍に届け、翌年1月2日開城に合意した。

 この史実は多くのことを教えてくれる。特に大きな教訓は ①専門家は常識にとらわれ過ぎ、非常識で無謀とも思えることは排除しがちである。当時、この砲は陸上において敵艦隊を攻めるためのものであり、地上戦に使えるとは考えられなかった。伊持地は砲の専門家であり、本来なら一番砲のことが分かっていなければ
ならなかった。しかし日進月歩の速い技術の進歩について行けなかった。分厚いベトンで囲まれた完璧な要塞
で戦うという近代戦はだれも経験がなく、今までのやり方でうまくいくと誰しも思っていた。
ところが榴弾砲は放物線を画いて砲弾が落ちてくる。使ってみるとまさにベトンで固められた、要塞を落とす
攻城砲として最適であった。要塞の一番弱い天井に落下し、ことごとく粉砕した。ずぶの素人の児玉元帥は当時の常識にとらわれる事なく、柔軟な考えが出来た。

②画期的な科学技術は不可能だと思われていたことを簡単に成功させ、それまでの常識、概念を全く変えてしまう。これは丁度、塩野七生著「コンスタンチノーブルの陥落」で書かれているどこの馬の骨とも分からぬハンガリー人がやってきて、大きな大砲の製造を両陣営に吹き込んだ。しかしコンスタンチノーブル側はうさん臭い、信用が置けないと追い返してしまったが、ペルシャ側はそのアイデアを受けて巨大な大砲を作らせたところ、今までの何度もの攻撃にも耐えた、頑丈な城壁がいとも簡単に打ち壊されてしまい、難攻不落の城壁もついに崩落してしまうという話によく似ている。
画期的な科学技術は歴史を変える程のインパクトを持つが、常識にとらわれているとその画期的な科学技術も無用の長物に成り下がるという教訓。



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