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過酷な自然環境を生き残った哺乳動物

2013年10月17日 17:57

大量絶滅と哺乳類

  現世において我々霊長類を頂点とする哺乳動物がこの世の春を謳歌できるのは、地球上で何度かの大量絶滅が起こり恐竜などの強力な競争相手が全て滅んでしまったからに他ならない。

  約10億年前に多細胞生物が出現し、その後、8億~6億年前 に起ったスノーボールアース(地球が全て氷に覆われた状態)の間も生物は存在し続けた。多細胞生物は原口を獲得し、強力な捕食能を有するに至り、海底には熱水鉱床などの熱水を発する箇所があり、スノーボールアースの間、その近辺で生物は隔離されて生存できた。このような地理的な隔離は、ガラパゴスとかオーストラリア大陸のように生物の多様性を形成した。スノーボールアースの地理的な隔離の間、どのように捕食するか、どのように捕食から逃れるかの観点から多細胞生物は多様性を形成し、これがエディアカラ生物群やバージェス動物群のような多様性を形成した。カンブリア紀には海洋が地球上のほぼ全てを覆い尽くす。海中では様々な種類に至る海洋生物が現れ、中でも三葉虫等の節足動物が繁栄し、藻類が発達した。およそ5億4200万年前から5億3000万年前の間に突如として今日見られる動物の「門(ボディプラン、生物の体制)」が出そろういわゆるカンブリア爆発が起こった。

大型捕食動物の出現とともに、カンブリア爆発の際には堅い外骨格をまとった動物が多く見られ,更には目を持った動物まで現れ、優位に生存競争を生き抜く進化が起こった。しかしながらカンブリア期で,多種多様な多くの生物が出現し繁栄を極めたが、殆どの生物はペルム紀末に死滅してしまった。そのような大量絶滅は地球の歴史上5回起こったとされる。これらをビッグファイブとよぶ。つまりカンブリア紀以降、5度の大量絶滅(1.オルドビス紀末、2.デボン紀末、3.ペルム紀末(P-T境界,Permian(ペルム紀)-Triassic(三畳紀))、4.三畳紀末、5.白亜期末(K-T境界,Kreide(白亜紀)-Tertiary(第3紀))と、それよりは若干規模の小さい絶滅が数度あった。

中でも3度目の地球史上最大の大量絶滅(ペルム期末の大量絶滅、2億5100万年前)が古生代後期のペルム紀末、P-T境界(約2億5100万年前)に起こり、海生生物のうち最大96%、全ての生物種で見ても90%から95%が絶滅した。古生代にもっとも繁栄を極めた生物のひとつ三葉虫もここで完全に絶滅してしまった。ペルム紀の大量絶滅は、生き残った生物があまりに少ないため生物界での境界線とされP-T境界と呼ばれる。ちなみにもっとも有名な恐竜の絶滅もK-T境界と呼ばれているが、このP-T境界に比べれば規模の小さいものである。
  史上最大規模のペルム紀大量絶滅はなぜ起きてしまったのか?原因は超大陸パンゲアの出現。パンゲアとは、当時の大陸が衝突しひとつにまとまった超大型大陸のこと。このパンゲア完成にともなって火山活動が活発化したことがペルム紀の大量絶滅の原因と考えられている。火山活動によって発生する大量の二酸化炭素は、温室効果を生み気温を上昇させ急激な環境変化(プルームテクトニクスを生み出した。また、メタンと酸素が化学反応を起こし、酸素濃度も極端に低下してしまった。酸素濃度の極端な低下による大量絶滅の直後には、空席になったニッチ(生態的地位)を埋めるべく、生き延びた生物による急激な適応放散がおきた。このとき気嚢を持つことで低酸素環境に適応した恐竜は生き残りその後繁栄を極めることになる。また、横隔膜を持ち腹式呼吸を身に着けた生物種はその後われわれ哺乳類の祖先となった。

  次の大量絶滅(ビッグファイブ第4度目三畳紀の大量絶滅,1億9960万年前)は中生代にあたる三畳紀に起きた。三畳紀ではすでに恐竜が繁栄し、最初の哺乳類も誕生していたといわれている。しかし、この三畳紀でも激しい火山活動などにより地球は低酸素状態になり大量絶滅が起きてしまった。三畳紀の大量絶滅では地球上の生物のおよそ76%が姿を消してしまう。海ではアンモナイトや魚竜、陸では単弓類の多くが死に絶えた。恐竜の中で乾燥に強いタイプの種は生き残るが、多くの大型爬虫類は絶滅してしまった。この大量絶滅を生き残った恐竜たちは空席になった生物的地位を求めてその後急激に進化することになる。三畳紀の大量絶滅がなければジュラ紀の恐竜大繁栄はなかったのかもしれない。原因は再びの火山活動。ペルム紀の大量絶滅によって幕を開けた三畳紀だが、終わりを迎えることになった原因もまた、ペルム紀と同じ火山活動と低酸素化だった。活性化した火山は次々と溶岩を噴出し、大地を焼き尽くしながら生き物たちの住処を奪った。二酸化炭素の増加による温室効果で気温が上昇し環境に激しい変化をもたらした。さらに信じられないことに低酸素化が原因で大量絶滅が起こったペルム紀の酸素濃度が大気の30%なのに対し、三畳紀では最大で5%まで低下してしまった。

  ペルム紀の大量絶滅や、中生代の三畳期の絶滅を生き残り、ジュラ紀,白亜紀には恐竜が全盛期を迎え頂点に君臨した。そのような時に起こった大量絶滅(ビッグファイブ第5度目の白亜紀絶滅,6500万年前)はもっとも有名な大量絶滅だろう。K-T境界と呼ばれるこの絶滅で三畳紀、ジュラ紀、白亜紀と大繁栄を極めた恐竜たちは完全に地球上から姿を消した。この大量絶滅では全ての生物種のおよそ70%が死に絶えた。地上では哺乳類、爬虫類、鳥類の多くが絶滅し、海洋でもほぼ全ての水棲爬虫類が姿を消した。シルル紀から長くにわたって生き残ってきたアンモナイトもこのとき全て絶滅してしまった。そして、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀と大繁栄を誇った恐竜たちも完全に地球上から姿を消すことになった。 K-T境界と呼ばれるこの大絶滅を生き抜いた哺乳類はやがて進化し、恐竜に代わり地球を支配することになるが、 この白亜紀の大量絶滅がなければ高度な文明を築いたのは我々人類ではなく、恐竜たちだったに違いない。

  大量絶滅の原因として最も有力な説は巨大隕石の衝突だ。 白亜紀末に形成されたと思われるクレーターがメキシコ・ユカタン半島で確認されており、 その大きさは直径180 kmにも達する。この衝突で発生したエネルギーは広島原爆の30億倍にあたり一瞬にして見渡す限りを火の海に変えた。発生した地震は人類が経験した大地震の7億倍のエネルギーで揺れだけで地盤は数十メール捲り上がり、数千メートルの高さの津波が発生した。まさに東北大災害時の津波の比ではない。巻き上げられた粉塵は地球全体を多い太陽光を遮断し、光合成を破壊し、数年にわたって酸性の雨が降り、植物は枯れ食物連鎖は完全に崩壊してしまった。

この6500万年前に起こった大量絶滅を最後に大規模な絶滅は起こっていない。しかし地球温暖化、酸素濃度低下や隕石衝突などによる環境の大変化が近い将来に起こり、人類を含む多くの生物種が死に絶えるような事態がこないとは言えない。
 こうして見ると大量絶滅が起こり、その隙間を埋めるように絶滅期の厳しい環境を生き抜いた生物種が、天敵が死滅したおかげで繁栄するようになり、地球上の支配者となり、またそれらの支配者も次に起こった大量絶滅で死に絶え。敵から隠れてひっそりと暮らしていた生物種が大量絶滅を生き残り、次の時代を謳歌し、進化して行く。このような自然環境による生物種の選択が何度も起こり、偶然に恐竜などに隠れてひっそりと生活していた小型の哺乳動物がそれらの試練をくぐる抜け、進化し現在の繁栄のチャンスを得た。しかし次の大量絶滅が起こったなら人類は死に絶え、次に地球上で繁栄するのは何? 別のほ乳類又は爬虫類 又は昆虫?

このような大量絶滅のきっかけを人類が作らなければいいけど。いまや最大の環境破壊者は人で、人類が排出した炭酸ガスによる地球の温暖化は気候の極端な変動を生じつつある。今起こっている現象が更に進み、気温が上がり、巨大な暴風雨が頻繁に起り、北極の氷が解け、海面の異常な上昇が起るなど、取り返しのつかない地球環境の変化につながり、大量絶滅に至らないと誰が言えるであろうか?
恐れを知らない欲深い人類ほど恐い物はない。
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なぜ日米開戦を回避できなかったのか(2)?

2013年10月01日 19:02

日本が開戦へ至ったターニングポイント

 日本がアメリカに対し開戦した大きな理由の一つは何と言っても、ドイツ軍機動部隊の破竹の勢いの進撃でヒットラーの勝ち戦に乗り遅れまいと言う心理的要因が働いたことが大きい。その中で、ターニングポイントとなるのが3国同盟の締結と、ドイツの勝ち戦でアメリカはイギリスの援助で精一杯で、太平洋にまで手が回らないだろうと読み、南方へ侵出したことであろう。

a. 三国同盟

当初のドイツ軍の破竹の勢いで、次々とヨーロッパ各国、ベルギーやフランスが打ち破られてしまうと,日本では一度立ち消えになった日独伊三国同盟の締結が再燃して来た。つまりドイツの勝ちに乗じてそのバスに乗り遅れるなの大合唱となった。特にフランスやオランダの敗北により空白となったアジアの資源地帯への侵出,陸軍によって言われ続けて来た南侵政策が現実のものとなって来た。しかし海軍の良識派はあくまでドイツと同盟関係に入る事は、イギリスを援助しているアメリカと敵対関係に入る事であり、日米戦争はなんとしても回避しなければならないと、ドイツと組む事には反対であった。

 しかし当時の大多数の首脳陣はドイツの優勢な戦況に影響され、更に松岡洋介外相の案(ソ連と中立条約を結んで北方の危機を除く)に飛びついた。前年陸軍は独走してソ連の国境を越え、戦端を開いたものの、こっぴどく叩かれ敗北した、いわゆるノモンハン事件を起こして、ソ連との関係が完全に冷えきっていた。松岡洋介はドイツが独ソ不可侵条約を結びソ連との関係も良好であったことから、仲介の労をとっても良いとの提案に乗る案を出した。ドイツに仲介してもらい、日ソ中立条約が結ばれ、日独伊ソの4国協商が可能となりアメリカを敵に回してもやって行けるとの妙な自信が出て来た。後にヒットラーがあっさりと不可侵条約を敗ってソ連国内に攻め込んで、そのもくろみはもろくも外れるのであるが。という状況下、山本五十六の強い反対にも関わらず、ドイツの勝利を確信し、ヒットラーのバスに乗り遅れまいと、昭和15年9月19日(1940年)に御前会議が開かれ、事実上天皇もこれを認め、昭和15年(1940年)9月27日三国同盟締結が公表された。皮肉なことに丁度その頃、ドイツ空軍はBattle of Britainのロンドン空襲で英国空軍に大敗北を (9月15日)を起し,完全にドイツ軍の潮目が変わり始めていた。

b. 東南アジア侵出

  日本が南侵政策を取り、蘭印攻略に手をつけたら、アメリカやイギリスが黙っていないだろうとの考えから強く、ドイツと組んで、東南アジアへ進出する事に山本五十六は反対し、南侵がいかに無謀なことかを示すため、図上演習を昭和15年11月26日から28日にかけて目黒の海軍大学校で行なった。
その結果は巡洋艦以下小艦艇はかなりの被害を受け、飛行機は3分の2を失うとでた。山本は実戦になればもっとひどい、飛行機と潜水艦が相当不足しているとのべ、これでは戦争にならないと結論した。また海軍中央も独自に研究を重ねた結果、いかに希望的観測を持ってしても15年秋から冬にかけて、蘭印に武力進出する事はできないと結論せざるを得なかった。そして装備を増強しアメリカの7割5分に近づける政策がなされた(日本海軍は艦隊がアメリカの75%もあれば日本海軍の質の良さで、その劣勢を充分補え、かつ勝負できるという自信を持っていた)。しかし、何れにしてもアメリカによる通商条約の破棄、様々な経済制裁、がなされ、つぎに石油の全面禁輸がくる事は目に見えていた。このままだとのたれ死にになりかねない。全面的にアメリカと戦争になった場合、日本の抗戦国力は1年半ながくて2年しか保たず,開戦後1年しての海軍力はアメリカの半分程度になると予想され、長期戦はできない事が考えられた。
そのような状況下、南方の資源を確保して長期戦に備えるしか無いという考えが主流となってきた。
 丁度その頃、ドイツ軍の英国爆撃が最高潮に達し、三国同盟が結ばれ (1940年,昭和15年9月27日)意気軒昂、アメリカの圧力を跳ね返す、戦略が練られた(15年の夏から秋にかけて)。しかし運命とは皮肉な事に、その頃をピークにドイツの勢いが失われ、イギリスがドイツ軍の攻撃をしのぐ見通しが得られ、逆に太平洋で反抗をするためアメリカとイギリスの共同戦線計画が練られはじめた。
  昭和15年10月15日の人事で海軍上層部が一新され、反対派は全て、艦隊勤務など、中央から遠ざけられはじめ、戦争体制が徐々に整い始めた。11月15日、及川海相は出師準備の上奏(全軍発動の指令)を行なった。12月中旬海軍国防委員会が発足し第一委員会が積極的に泰仏印を取る政策を押し進めていった。そして昭和16年(1941年)4月17日には対南方施策要項を策定した。しかも精鋭を保ってすればアメリカの7割5分の軍備で対等に戦闘を行なえるとの長年の考えで、鋭意、建造に励み第一航空艦隊と第3艦隊の新設をもって、待望の対米比率7割5分が完成していた(4月10日)。一方で昭和16年4月(1941年)から始まった対米交渉に関しては対米戦争宿命論者の石川信吾大佐らは、アメリカは戦争準備が出来るまでとヨーロッパ戦線の山が見えるまで時間稼ぎをし、交渉を遅らせるだろうと思っていた。その間、日本側も着々と戦争準備を整えていた。

  昭和16年7月28日、陸軍の第一陣が南部仏印のナトランに上陸した。恐れた通り、アメリカは8月1日石油の全面禁輸を通告した。そして1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃まで紆余曲折があったが、石油ショックのためか一時海軍首脳には戦争忌避のムードもあったが、陸軍が対米戦争を強硬に唱え、戦争回避には至らなかった。
 ドイツ軍のモスクワ攻防戦が完全に頓挫したのをアメリカが確認したのが昭和16年11月7日である。
イギリスへの侵攻を諦め、制空権をイギリスに取られたまま、ソ連へと転進し、それもうまくいかずどうやらドイツ軍の旗色の悪さがはっきりと見え始めたのが昭和16年の秋。ヒットラーのバスが勢いを失い、崖に突っ込み始めた。丁度真珠湾攻撃の一ヶ月前のことで、引き返すには少し遅すぎた。

 こうしてみると間の悪い節目に運命を決める出来事を行なっている。ドイツ軍の英国空爆最高潮の情報をもっての3国同盟締結。また破竹の勢いで、今にもソ連が崩壊するとの情報での日米開戦決定。しかしいずれも誤った情報に基づいて判断している。ドイツ軍不利の情報をもう少し早く手に入れていたら状況は変わっていただろうか?
 Battle of Britainでの敗北の後、ヒットラーはダンケルクからドイツ軍を撤退させ、ソ連侵略へ向けたことなどの情報は正しく日本に伝わっていなかったのか?こんな大掛かりな軍の移動などの情報は明らかになっていたと思うが、余りにもヒットラーに心酔していた余り、懸念など入る余地はなかった?ソ連を攻めるやたちまちソ連軍を蹂躙したので安心し切っていたのかもしれない。そのドイツのソ連での情勢が危うくなった時にはすでに時期が遅すぎた。アメリカへ開戦する一ヶ月前のこと。ドイツが負けると分かっていたら参戦しなかったであろう。ドイツの勢いがどうも削がれ始めたと感じた時に、考え直してみたら事態は変わっていたであろうか?


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