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STAP細胞に踊らされた人々

2014年04月28日 19:13

STAP 騒動

 研究者仲間が出合った時の最大の話題はSTAP細胞騒動であろう。Nature発表と同時に行なわれた、センセーショナルな記者会見は前例にない程の注目を集めた。ピンクに塗られた壁とムーミンのシールが貼られた研究室に割烹着姿の若い女性の研究者、小保方さん。これがSTAP細胞開発の主人公。新しいタイプの研究者としての演出で、颯爽と売り出した。従来の研究者のイメージを一掃し、未知の扉を開いた若きヒロインの登場と誰しも思った。なにしろSTAP細胞は細胞を弱酸性の溶液に浸けるだけという簡単な操作ででき、iPS細胞のように遺伝子を導入するという煩雑さもなく、がん化の恐れも無い、とてつもない用途が待っていると思われた。

 しかし、間もなく、図を差し替えた改竄疑惑や肝心要の図が、本人はうっかりミスだと主張をしているが、博士論文で用いられたのと同じである事が分かってきた。また最も重要な事は、簡単に出来るはずなのに、STAP細胞の再現にだれも成功していない事である。本人はすでに200回以上も樹立に成功しており、「STAP細胞はあります」と記者会見では言っている。色んな細かいノウハウがあって他人には出来ないのだと。しかし論文にした以上、論文に書かれたメソッドで再現がきかなければならない。それがサイエンスと言うものである。
 また論文に大勢の著名人が名前を連ねているが、誰一人として全体を把握出来ていない。責任著者に至っては論文を書くのを手伝っただけで、最後の2ヶ月間だけ携わったので自分には改竄や捏造の責任は無いと言っている。でももしこの論文がうまくいき、ノーベル賞の候補になったら、今度は逆に自分の貢献度の大きさを主張するのであろうか?
 何はともあれ、日本人研究者としてはSTAP細胞が存在することを願いたい。

 この研究のきっかけは小保方さんが早稲田大学の大学院生のときに、東京女子医のY先生の研究室で研究を開始した事に始まる。Y先生は極性を持った上皮細胞が多層化するCell Sheetの研究で著明な研究者で、発想豊かな人物である。小保方さんが行なった、細胞にストレスをかけて細胞を万能化させるというアイデアはY先生が出し、小保方さんが研究をしたというのが事実のようである。最初は細胞をキャピラリーの細い管を通してストレスを与えるということをやっていたが、ハーバードのVacanti教授の研究室に移ってからは弱酸性の液に浸けるという方法に変わった。しかし、今でもVacanti教授はキャピラリーを通して、弱酸に浸けることがSTAP細胞樹立に必要だと言っている。

 実は当研究室に早稲田大学の博士課程でY先生の下でCell Sheetの研究をしていた人物が医学部の学士入学で入ってきた。今は卒業して医師の卵になっているが女子医では小保方さんと同じ研究室の一年先輩にあたる。その人物に対し、論文発表で大騒ぎになっていた頃、「もしY先生の研究室に残って、研究を続けていれば、論文に名前がのって、有名にもなって、あわよくばノーベル賞をもらえたかも知れないのに、それを棒に振って、なんともったいない事」と言っていた。しかし、問題が発覚して、大騒動になった後では、「大学院を辞めてうちに来て、医者になってよかったねえ。そのまま居たら、今頃は騒ぎの渦中に巻き込まれて、研究者生命も危うかったよ」。と180度言い分が変わった。

 人の運命とは分からないものである。個人のおかれた環境で否応無しに事件/出来事に巻き込まれてしまうことがある。特に、いい潮流に乗って大きな豪華客船が進んで行くときは、誰しもその船にのりたがる。一旦、乗ってしまうと、いい事ばかり夢見て、悪いことなんて思いもしない。STAP現象は夢のような、生物学史上に燦然と輝く、画期的な発見であるはずであった。多くの一流の研究者が疑う事もなく、船に乗ってしまった。降って湧いたような幸運の前に、疑ってかかれと言うのが酷なのかもしれない。船が座礁してやっと事態に気づくのが普通の人間であろう。

 もしも自分だって、その船に誘われたら,喜んで乗ってしまったかも知れない。そして催眠状態に陥り、詰めが甘くなっていたであろう。本来なら、論文に名前を載せる以上、厳格にチェックして、責任を全うしなければならないのだけど、大きな名誉や利益がちらつくと、そうあって欲しい。信じたい。研究者のモラルとは。分かっているけど。自分が直接船の操船に関わってないのに、黄金の国に連れてってもらえ、黄金がざくざくいう甘いささやきが聞こえてくる。欲望はリスクを隠してしまう。 人間ってなんと弱い生き物か。
 ただ今は、幻想ではなく黄金の国が本当にあることを祈りたい。
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竹田城

2014年04月17日 18:46

兵庫のお城3

竹田城は昔の但馬の国、今の兵庫県朝来市和田山町竹田にある山城。
秀吉、官兵衛の播磨、丹波攻略で2回に渡って兵庫の城を取り上げて来た。最近超人気、TVでも度々取り上げられ、訪れる人が増え過ぎ入城制限をされるようになった天空の城、竹田城に関しては触れてなかった。今回以前人気が出る前、人の訪れる事も無い城跡と竹田城を対岸に望む、立雲峡から撮った写真を中心に紹介。

竹田城は1577年に秀吉が上月城を攻めていた頃、秀吉の弟、秀長によって攻め落とされた。秀長は3000の兵を率いて丹波攻略に入った。その目的は丹波諸将の制圧と生野銀山の確保にあった。生野銀山は竹田城の管轄下にあったため、竹田城攻略が第一の目標になった。竹田城を陥落させた後、秀長がしばらく城代となっていたが、丹波攻略へ出たあとは竹田城に戻らず、その隙に毛利により攻め入られ、再度秀長が攻め落としと、紆余曲折あったが、秀吉に降伏した龍野城主の赤松広秀が城主となり、竹田城が完成した。しかし、江戸時代に幕府の方針により廃城となり、取り壊され、城跡だけが残った。またそのような山城も鉄砲や大筒の発達や包囲戦などの戦術の変化で意味をなさなくなってきた。

写真は竹田城跡と立雲峡から望んだ竹田城
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