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巨大化する生物学研究

2014年06月16日 17:45

生物研究社会の矛盾 

Nature Rev. Mol. Cell Biology. 15, 423-425, (2014). に「The faces of Big Science 」というEssayが載った。 近年の生物科学の急速な肥大化で起って来た問題点について述べている。同じような問題に日本のScienceも直面している。エッセイの要点と感想を私見を交えて書いた。

1. Small Science からBig Scienceへ
50年前、アメリカのacademic scienceは非常に小規模で、規制も緩く、財政援助も乏しかった。しかし。今日では巨大化し、過剰なまでに官僚的、政治的コントロールを受けている。
例えば1965年当時、Ronは有名なRacker 教授の下でポスドクを2年送り、論文としてBBRC一報、BBA一報とあまり知られていないジャーナルに2報の論文を書き、名門Princeton 大学のtenure-trackのassistant professorの職を得た。この業績で職が得られるなんて、羨ましいかも知れないが、当時はこれが平均的なcarrier pathであった。現在ではそのような幸運は有り得べきもなく、そのような名門大学のポジションには100人以上もの応募が有り、少なくとも4年間のポスドクトレーニングを積み、一連の注目を集める分野の研究をして、インパクトファクターの高いジャーナルへの掲載が要求される。

日本でも全く事情は同じで、50年前では大体の人はドクターコースを終ると贅沢を言わなければどこか就職口が見つかった。

ではなぜ今日のような状態になったのであろうか? 50年前に比べ、今日、研究者は10倍以上に増えた。このような研究者人口の指数関数的増加が研究の質のみならず、世界経済にも大きな影響を与えるようになった。そして小さな規模のScienceから大規模Scienceへと変わって行き、Scienceは今や大きな産業と化し、様々な問題を生じ始めた。

2. 競争と査読
Peer review (査読)が危機に瀕している。Scienceには競争が必要だが、それが余りにも熾烈になり戦争状態にまで至っている。建設的な批判をするよりもしばしば意図的にその論文を抹殺しようとしている。また一流誌では多くの論文が査読に回る事もなく、rejectされてしまう。しかしそうした査読 でさえ論文の質や信頼性を確保するに十分ではない。現在、多くの研究者は必要の無い攻撃的で悪意に満ちたpeer reviewには我慢ならない状態にいる。論文を投稿した者なら誰でも経験する事だか、細かいことにケチをつけられたり、出来ないようなことを要求されたり、はたまた、もっと悪質なレフリー(競争相手?)はデータをはなから信用せず、そんな事はあり得ないと科学的ではないコメントをする。

3. Impact factorの一人歩き
 Impact factor が重要視されすぎ、様々な弊害を産んでいる。アメリカの細胞生物学会による研究評価の声明(Declaration On Research Assessment)で個人の論文の質の測定、個人の研究への貢献の評価、又は雇用や昇任やfundingの決定にimpact factor を使ってはならないと宣言したが、impact factor 重視の古い風潮はなかなか改善するのが難しい。日本においても、研究の評価の大きな基準としてImpact factorが使われる。評価者が論文を実際に読んで、自身の判断で研究を評価するというよりも、Impact factorの高いジャーナルへの掲載を研究の中身よりも重要視しがちで、ポジションや研究費の獲得の最大の武器となっている。

4. 男女格差
 性による格差も大き問題である。ごく最近まで、Scienceは男の世界であり、だれもそんな事は気にしなかった。しかし、最近ではgenderの問題は重大な問題として認識されるようになって来た。差別を防ぐ最良の方法は雇用を決定する委員の男女均等、科学会組織や、編集委員の男女均等、学会や賞を決定する委員の男女均等を測ること、つまり評価者の男女均等を測ることであろう。 日本でもgender問題は取り組まれているがなかなか進展しない。政府からも大学の教授達の30%は女性にするようにというお達しがあるが、そのレベルまでいかない。

 日本では不要な会議や委員会が多すぎ、それが5時以降に行なわれ事が多く、家庭を持っている女性は参加し難い。研究に際し、欧米のようにテクニシャン制度や秘書制度が確立していなく、なんでも自分でやらなければならない事が多く、時間が足りず、生き残るためには労働が深夜にまで及ぶ、など様々な理由が有る。しかし最大の理由は結婚した女性が働けるように社会のシステムが出来ていない。たとえば、託児所や保育所が十分整備されていないなど。日本で男女平等を成功させるまでには解決しなければならない問題がいくつもある。

5. 研究連合組織
生物学研究は一機関ではなかなか全ての領域をカバーするのは難しく連合体組織によって行なわれる必要が有る。そのような趣旨でEMBOが50年前に誕生した。EMBOは研究方向の決定、若者研究者の育成や研究費の支給などを国を越えた組織で運営し成功して来た。このような国を越えた組織がBig Scienceとなった生物学研究に必要であろう。
日本でも同じようにAsia全体を含む組織(AMBO)を作ろうとする動きがあったが、各国の主導権争いが激しく、設立には至って無い。純粋にBiology Scienceの研究所を作ろうとしてもお金がかかる以上、それを拠出する各国の政治的な駆け引きが行なわれ、妥協ができない以上設立は望めない。
日本はScience 規模の大きな国なのでまだいいかも知れないが、一国では対処しきれない発展途上国にはこのような組織は必要であろう。

6. 格差が広がる生物学研究
技術革新により生物学が様々な分野に応用されるようになると、大きな利益に結びつき、企業活動も活発になる。これからも益々、Biological Scienceは肥大化し、競争が激化しその成果が膨大な利益に結びつき、今までにあまり無かったような欲得感情が基礎生物学分野に持ち込まれることになった。その代表的な出来事がSTAP細胞騒動であろう。余りにも膨大な利益を産む可能性の卵に正常心を失ったというのがこの騒動の原因かもしれない。
 生物学研究が巨額な利益と結びつく打出の小槌となった今、これからも同じような問題が十分起こりえる。
 応用に結びつく日のあたる研究をしている研究者と応用性の低い基礎研究をしている研究者間の待遇の格差は今後益々広がって行き大きな問題になるであろう。
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河井継之助と山田方谷

2014年06月03日 17:57

陽と陰の性格
 河合継之介は幕末の動乱期に現れた軍事的天才で、大村益次郎と対比される。
継之介も益次郎も天才特有の狭量、偏屈さを持ち、西郷隆盛のように大局的に考えられる、度量の広い人物ではなかった。それがかえって軍事的才能に生かされたのかも知れない。

 大村益次郎が官軍の軍事部門の事実上のトップとして活躍したのに対し、河合継之介は長岡藩という幕軍の一小藩を率いていただけだった。しかし当時にあって、長岡藩は間違いなくどの藩よりも最新の兵器を多数保有し、西洋式に訓練されていた近代的な兵組織を持っていた。そのため、継之介には「官軍なんたるものぞ」という意識が潜在していた。
 継之助の率いた長岡軍と官軍との戦いは多勢に無勢、客観的に見れば、最初から行く末の見えた戦いではあった。しかし官軍の理不尽さ、傲慢さには我慢できず、近代的装備を纏った兵を用いて一矢報いるという、意地を賭けた戦いのあだ花として幕末史には一ページを残した。反対に、彼の意地のため、長岡の街は破壊され、多くの人が亡くなった。

 継之介は全く流儀、作法に無頓着で実学にしか興味を抱かなかった。また政治の本質は世を経(おさ)め民を済(すく)う(世経済民)にあると考え、藩主に上申書を出し、これが認められると、財政改革、統治機構の改革、汚職の追放など藩の改革を次々と行い、また商品(米)の流通を行って利潤をあげた。
 継之助がその世経済民を学んだのは理論のみならずそれを実戦して成功していた備中松山藩(岡山県)の陽明学者山田方谷からであった。

  山田方谷は幕末の1805年、備中松山藩の百姓の子として産まれる。20歳になって士分に取り立てられ、藩校の筆頭教授となる。その後、藩政に参加し瀕死の状態にあった財政の立て直し、藩政の改革を行い、更に西洋式近代兵制を取り入れた。
 彼の転機は29歳にして京都へ遊学した際に陽明学と出合ったことで訪れる。
江戸時代大義名分を重んじる朱子学が幕府より官学として保護されていたが、方谷は朱子学では、己の欲望を絶とうとする余り、義に適った利までも卑しんで、正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう事を疑問に思っていた。従って、当時の幕藩体制ではありえなかった、商業を手がけた。しかしこれはあくまで儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして積極的に押し進めた。これによって、備中松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなった。

 方谷は、改革に臨んで「理財論」および「擬対策」を説き、その実践で、藩政改革を成功させた。「理財論」は経済論で義を明らかにして利を計らずの考えで経済改革を進めた。「擬対策」は政治論で賄賂、贅沢が藩の財政を圧迫する原因になっているとしてこれを戒め、倹約して質素な生活を奨励した。そして一方で、商売に力を入れ、藩の特産品などを商人を通さずに売り、莫大な利益を上げた。また優秀な者は百姓,商人を問わず士分に取り立てた。更には「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた。
 こうして、方谷は8年で改革をほぼやり遂げ、その改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作ったとされる。
 しかし、大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた藩主の板倉勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うことを決意した。しかし、方谷は主君勝静に従って官軍と戦うよりも備中松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。その後、方谷は、明治政府の要請を断り、中央に出る事なく岡山に留まった。人々の依頼で、寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として再興し、明治10年(1877年)に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げた。

  河井継之助は1859年、39歳の時に山田方谷に教えを請いに備中松山へ行った。初めは、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度を取っていた継之助も山田の言行一致した振る舞いと藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになった。この時学んだこと万事が後に河井継之助が行なった藩の財政再建や藩政改革から兵制改革など全てに役に立った。

 戊辰戦争が起ると継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却し、その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会スネル兄弟などからアームストロング砲とガトリング砲それにイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3門しかなく、その内の2門を継之助が持っていた。
これだけの兵器を持って官軍に反抗した北越戦争は当然官軍を苦しめる事になる。しかしガットリング砲(機関銃)は敵が突撃を仕掛けて来た際、敵兵をなぎ倒すのには威力を発揮するが、応戦し合う野戦に於いてはあまり成果を発揮できず、ある意味、宝のもちぐされに終った感がある。戊辰戦争にあって、この北越戦争は最も熾烈を極めたが、結局は多勢に無勢敗北に終わり、負傷した継之介は会津に落ちる途中に亡くなった。享年42歳。

 河井継之助に対する歴史的評価は2分される。ある者は軍事、用兵の天才であると言い、ある者はガットリング砲の火力と長岡藩の洋式兵器があったため、官軍を苦しめる戦争が出来ただけで、戦術的采配が秀逸であったという事ではないと言う。
ただ当時は飛び抜けた軍備を所有して、官軍、幕軍のどちらにも組しない中立、「武装独立」の意見を押し通うそうとしたが、受け入れられない事が分かると、この強力な兵器にものを言わせて、小藩でも意地があるところを見せてやろうとなったのかも知れない。方谷が表に出ず、縁の下の力持ち的な影として生きたのに対し、継之介は檜舞台の表に出て自己を主張して暴れ回る、陽に生きた。師匠と弟子の関係で、同じような事を実戦してきたが、最後に別の路を歩んだ。
  屈辱を我慢して官軍に恭順を現していれば何もなかったのに、反抗した結果、長岡の街が焼き払われ多くの人が死ぬ事となった。後世の人は長岡藩のような小さな藩に継乃介のような大器が産まれた事自体が悲劇であり、もし大藩に産まれていれば、影響力は強く歴史が変わっていたかも知れないとも言っている。最善が最善でなく、最悪が最悪でなく、人はその時の立場、環境により、運命が変えられる。


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