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何を研究する?どの研究室を選ぶ?

2014年07月22日 17:46

進路の選択

  研究を志す者にとって、研究対象に何を選ぶかは非常に難しい。ほとんどの人が学生時代、研究室に配属になる際、何気なく選んだ研究室での研究が一生つきまとうことになるのも稀ではない。実際、自分の所属している学部、学校で行なわれている研究に自分が興味あるものがない場合、それでもどこかを選ばなければならない。そのように消極的に選んだ研究室でも、一旦研究テーマを決められてしまうとそれなりに面白くなり、ずるずると引きずられてしまう。

 それから逃げ出すため、大学院に入る時に、自分の興味ある研究をやっている大学、研究室を受験するのか?これ又、別の大学を受験して、入るとなるとリスクが伴う。多くの人の場合は、自分の出身の大学院に、多少の不満があっても進む。そうして進んだ研究室の指導教官の影響は大きく、まだ未熟な研究者である学生にとって、仕方ない事であるが、先生の能力や技量が研究成果にもろに響いてくる。

  優秀な学生であってもそうでもない学生であっても、研究成果は個人の力量よりも配属された研究室のレベルや指導教官の力量が大きく反映する。レベルの高い研究室ではさほど優秀でない学生でも、指導宜しくいい成果が出て一流のジャーナルに発表でき、反対にレベルの低い研究室に身を置いた学生は優秀であっても、一流のジャーナルには発表出来ないと言われる。  何気なく選んでいる配属先。配属にあたっては、じっくり真剣に考えてみよう。研究対象と研究室のチョイス。自分の興味あるテーマがアクテイブなレベルの高い研究室がやっているとは限らない。研究の興味を重視すべきかそれとも研究室の選択を考慮すべきか?

 一旦レベルの低い研究室に入るといいペーパーは出ない、学振や助成金も貰えない、卒業しても良いポストが得られない。いったんこのようなあり地獄に入るとなかなか抜け出れない。一方で、レベルの高い研究室に入ると、研究室の手助けで、どんどんいいペ―パーを出して、奨学金のチャンスも増し、卒業した後のポストも得易くなる。運命は自分一人ではなかなか切り拓けない。研究環境,運、能力、行動力など多くのものに作用される。

 よその研究室に比していい成果も出てないしアクテブでもない研究室に属した場合。そこから抜け出すにはどうしたらいいのか?
  一番単純なのは、大きなリスクはあるが自信がある人は、外国へ留学して、良いボスといい研究環境の下で、いい仕事をすること。そしていいジャーナルに成果を載せ、これを武器に日本へ帰ってくるもよし、現地で独立ポストを得るのもよしの考え。
  他に考えつくのは、じっと我慢して、ボスの言うことを聞き、最大限の努力をして、実績を残す。そして実力がつき、自分で研究計画から実験、論文書きまで一人で出来るようになったら、ボスと相談して、チャレンジングなテーマを扱い、面白い成果を出し、それを武器にいいポストを得るという作戦だがこれはよほどの実力が無いと達成できない。
  もう一つは消極的では有るが日本的なやり方。研究室の方向に沿って最大限の努力と協力をして、研究面でも運営面でも貢献する。 すると、それ程画期的な成果を出せなくても教室への貢献が認められ、空きポストが出来たらそこに採用してもらえるという作戦。この場合、業績は飛び抜けていい必要は無いが、平均レベル以上はなくては考慮の対象にならない。 しかし全て「言うは易く行なうは難し」

  自分自身は当時生化学がはやっていたせいもあって、なにげなしに生化学の研究に入り、初めから狭い領域の機能タンパク質の性質を調べるという、小さくまとまった、将棋の詰め将棋のような局地戦ばかり戦って来た。今思えば、発生,分化、進化などもう少し生物学的に大きな現象から入れば良かった。現象から入って小さい領域に集約していく。それが反対に、小さい事から入り、大きな生物学的意義へと拡散する研究であった。後の祭り。

 しかし運良くポストを得てサバイバル出来た。自分の場合上のどれに当てはまるのか? まず米国に留学して旗揚げしようとしたが、うまくいかなかった。日本同様、良い論文が出ていないと、米国でも良い研究室では採用してもらえないのと、日本人のポスドクぐらいでは重要なテーマを与えてもらえなかった。そのため最初の目論み破れ、日本に帰ってきたら、昔の同じ研究室で助教授をしていた先生が教授となり、拾い上げてくれた。その後、運のいい事にさらに恩師の先生が引っ張り上げてくれた。それ以降は自分で好きなように研究し生き残って今日に至っている。という訳で、結局上の先生に気に入られたというのが一番大きな要因か?考慮してもらえるだけの業績はあったとは思うが。
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乱世を生き残った大名:黒田藩と脇阪藩

2014年07月03日 17:47

 
 対照的な生き方

 戦国時代の大名は熾烈な生き残りをかけて、策を巡らせ、将来を見透し、リスクと安全を測りにかけ、命をかけて行動したと考えられる。
  当然勝者につく事が生き残りの大きな要素になるが、豊臣秀吉の子飼の大名(大大名として残った加賀の前田家は元は信長の弟子)の中で明治の世までお家を存続させたのはごくわずか。黒田家と脇坂家くらいか?

 放映中の「軍師黒田官兵衛」にでて来る長政はまだ血気にはやる若殿という感じであるが、将来はかなりの策略家となる。黒田長政は秀吉が亡くなると政略的に徳川家に近づき、結婚していた蜂須賀正勝の娘、糸姫と離縁し家康の養女、栄姫を正室に迎えた。関ヶ原の戦いでは西軍の小早川秀秋や吉川広家を調略して寝返りをさせ、東軍の武将として家康に従って出陣し、大活躍をした。その功績で福岡藩52万石の大大名となる。官兵衛、長政親子とも策略に長けた軍師という事か。

 一方、黒田家のような華々しい活躍、貢献はしなかったものの、乱世を生き残り、明治の世まで家を存続させた大名もいる。それが脇坂家(龍野の殿様)である。脇坂家の領地は現在龍野市となっており、神戸から西に50km、姫路に隣接する。醤油やソーメン製造の盛んな城下町である。龍野城は、鶏籠山の山城と後年、山麓につくられた平山城とがあり、山城は約500年前赤松村秀によって築かれた。その息子の赤松政秀は官兵衛の姫路城を攻撃しようとするが、10倍の兵を擁しながら、黒田官兵衛の巧みな戦略で、青山の合戦,土器山の戦いで大敗北をきたしてしまう。その後、城は播磨、丹波攻略を目指した秀吉により開城され、蜂須賀正勝が城主になった。

  その後廃城になっていたが江戸時代に信州飯田から脇坂安政(3代)が移ったときに山麓に築城された。
  初代、脇坂甚内(安治)はもともとは300石取の秀吉の家来であった。信長が暗殺されると、次の天下人を目指して秀吉と柴田勝家の間で覇権争奪の戦い「賤ヶ岳の戦い」が北近江の山中で起こった。秀吉はここが潮時だとみると親衛隊たる小姓の取り巻きにも総突入を指令した。小姓達は我先に一番槍を目指して敵陣に攻め入った。その時、福島正則、加藤清正が一番首、一番やり、の大活躍をして功名をあげた。その際、秀吉は天下を取ろうとする自分の家来に武勇に優れた著名な人物がいないというのは、秀吉の名を挙げる妨げになっていると考え、その時活躍した福島、加藤などの他に、数合わせに、脇坂甚内らを加え7人とし「賤ヶ岳の7本槍」と称した。そして福島正則に5000石、他の6人に3000石を与えた。甚内は棚からぼたもちの幸運に恵まれた。

 秀吉は信長後の実質の支配者になったものの表面上は信長の次男,信雄や信長の嫡孫の三法師をたてることにより、政権の簒奪者ではない姿勢を取って来た。そんな折、信雄が家康と連盟して反旗を翻したが、秀吉はその戦いを制し関白に上り詰めた。それと同時に秀吉手飼いの郎党も大名に取り立てられ、甚内も摂津能勢郡において1万石の大名になった。その後、秀吉の権勢拡大に伴い、一年の間にトントン拍子に出世して洲本城主となり、3万石を領した。
脇坂家の特徴は雌雄の𧲸(てん)の革を2本の槍の鞘にして、その2本を行列の先頭にたてて京や大阪の街をうねり歩いた。これが有名になって真黄色の貂が町中を行くと町人は皆飛び出して来てあれが脇坂様よと珍獣の毛皮を見上げたという。

 脇坂甚内は関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方につく、しかし西軍が勝つとの確信が持てなかったため、戦闘がはじまっても動かずに松尾山の麓の小さな丘で小川祐忠、赤座吉家、朽木元綱などの小さな大名達と肩を寄せ合うようにじっとしていた。午前中いっぱいは西軍が有利に戦闘を進めていたが、午後になって逆転した。そのきっかけは寝返りを密約していた松尾山の頂上に布陣していた西軍の小早川秀秋が、突入を躊躇していたのを、黒田長政の喝で全軍山を降り西軍を攻撃することで起った。それに呼応するこのように松尾山の麓に布陣していた脇坂甚内は真っ先に寝返り西軍に突入した。その裏切りによって甚内は家康から褒められ2万石加増された。同じこの仲間でも小川祐忠や赤座吉家は戦後、家康により領地を没収され、放逐された。戦前に甚内だけは密使を立てて関東へ送り、もし両軍が激突する事があればかならず徳川方に内応致しますと申し入れてあった。この周到さが小川や赤座にはなかった。

更に江戸の初期、豊臣系の大名の取り潰しがあり、福島正則や加藤清正家も取り潰しにあった。結局7本槍の仲間の大名では脇坂家だけが生き残った。脇坂藩は何度かの所領変えがあったものの、3代安政は5万3000石の龍野藩藩主となり、それ以後は徳川の世でも生き残り、江戸末期まで龍野藩の大名であった。

 なぜ生き残れたのか? 庶民は運がいいのは貂の革のおかげだと噂したというが。関ヶ原での裏切りの内通に加え、 2代安元が幕府の中枢にいた老中「堀田正盛」から養嗣子として安政を迎え、譜代としての待遇を受けるようになったことが大きいと考えられる。あまり目立たず、活躍もしない代わりに、肝心な時に手だけはうっていた。黒田家と同様に徳川に血縁という一番深い絆ですり寄った。
  福島や加藤のような武断派は後々騒ぎを起こすかもしれないと皆粛正された。武辺者とか切れ者とか言う噂ではなく、貂の革を槍の先につけて歩くお気楽振りだが、大切なポイントだけは押さえていた。これが戦略だとしたらたいした役者である。
  やり方は違うが黒田家も脇坂家も秀吉子飼の大名であったにもかかわらず、徳川時代を生き残った稀な例である。この生き残り術、処世術は現在にも通用するかも知れない。とことん目立つ大活躍し会社や大学の発展に貢献するか、目立った働きはしないが、敵を作らず、上司からかわいがられ、しかも自分の立場をはっきりさせておく。これが会社や学校でうまくやって行く処世術だとすれば昔も今もヒトの心は変わらないと言う事か。


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