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夢のやせ薬の末路

2015年09月28日 12:18

  運動しなくても痩せる薬。

  運動や寒さによって骨格筋から血中に放出され、白色脂肪細胞を褐色脂肪細胞に転換する遺伝子を活性化させる
「irisin,イリシン」というホルモンが2年前にHarvard 大学のスピーゲルマン教授らによって発見された。
 『A PGC1α-dependent myokine that drives browning of white fat and thermogenesis』 Nature 481, 463–468 (2012)

発見当初は夢のやせ薬として、激しい運動をしなくても同じような効果が得られる「運動ホルモン」ともてはやされ、夢の薬の出現として多くのベンチャーも飛びついたが、今ではその効果や存在そのものまで疑われ、ベンチャーキャピタルも撤退した。
白色脂肪細胞が、余剰エネルギーの貯蔵庫であるのに対し、褐色脂肪細胞は、脱共役蛋白(uncoupling protein-1, UCP-1)を介してエネルギーを消費し、熱を産生する機能を有する。イリシンは、白色脂肪細胞の膜表面にあるレセプターと結合することにより白色脂胞の UCP-1を活性化し、褐色化 (ベージュ脂肪細胞)を誘導するという働きを有している。運動によってイリシンの前駆体であるFNDC 5 (fibronectin type III domain containing 5) 蛋白質の発現を高めることで、血中へのイリシン分泌が増加し、脂肪細胞におけるUCP-1の mRNA 発現量が亢進し、同時に酸素消費量も上昇して、体重の減少、インスリン抵抗性の改善がみられると言う.
 イリシンの産生は、運動によって増加するPGC-1α (peroxisome proliferator receptor γ coactivator-1α)依存的に行われる。よって、運動によってPGC-1αが上昇し、イリシンの産生が高まり、血中へと放出され,白色脂肪細胞に働いて褐色脂肪細胞に変えるということになる。
実際、マウスに3週間の自由なでの滑車運動を行った結果、イリシン分泌量は65%上昇し、人でも10日間の持久性運動により、イリシン分泌量が2倍増加したという。
 
  これまでの実験結果ではギリシャ神話の虹の女神イリスに因んで名付けられたホルモンのイリシンが、運動の筋活動に伴って脂肪組織に移動し、脂肪を貯蔵するのではなくエネルギーとして燃焼するように働きかけるとされていた。また、これらの発見によって、イリシンが肥満や糖尿病に対抗する重要なカギとなる物質ではないかという期待が高まり、将来的にはイリシンの飲薬で運動しなくても運動をしたのと同様な脂肪燃焼効果が実現できるのではないかと期待もされていた。

 しかしながら、最近、イリシンの測定法そのものに誤りがあることが発見され、170余りの論文が出されているが、今までのデータは全て信用がならないことが分かってきた。

  米国デューク大学の研究チームは、ネイチャーの姉妹紙『サイエンティフィックレポート』に掲載した論文で、2012年のハーバード大のスピーゲルマン教授らの論文に真っ向から反論した。研究を率いた生化学者のエリクソン教授は「ハーバード大学の研究チームの論文は、イリシンを検出する方法が間違っていた」と説明した。また英国キングスカレッジロンドン大学のシステム生物学のティモンズ教授も学術誌『サイエンス』とのインタビューで、「イリシンが人間にpositiveな役割をするというデータは存在しない」と話した。

  結局、結論は血中のイリシンを測る際に用いられたイリシンの抗体が実はイリシンを認識しないで、ごく少量紛れ込んでいたタンパク質を認識していることがわかった。つまり運動によって上昇するとしていたイリシンは実はイリシンではなかったということになり、今までのデータは全部信用できないとされた。またその上、人にはそもそもイリシンは存在しないか、したとしてもごくわずかであることも分かってきた。

  イリシンを研究してきた多くの研究者の無駄な努力、ベンチャーキャピタルの投資の大損、あまり笑えない話である。
 昔から夢の癌特効薬としてセンセーショナルに出現し、すぐに立ち消えてしまった例は数多くある。うまい話はお金の儲け話だけではなく科学の社会にも潜んでいて、乗ると大きな痛手となることがある。

  あまりにも有名になった贋作・捏造の例として世間を騒がし犠牲者も出したSTAP細胞がある。最近、漸くSTAP細胞の検証が終わってその結果が最新のNatureに掲載された。
STAP revisited. 525,426 (2015)
This week, Nature revisits one of the most controversial scientific episodes in recent years: the now-retracted discovery of a claimed new way to reprogram cells, stimulus-triggered acqui¬sition of pluripotency (STAP). On our website we publish two Brief Communications Arising (BCAs) that relate to the retraction.
Nature 525, E4–E5 (24 September 2015):STAP cells are derived from ES cellsとNature 525, E6-E9(24 September 2015):Failure to replicate the STAP cell phenomenonの2報が出され、STAP細胞は全てES細胞の混入によるものだと結論づけられた。この混入が意図的なものか、偶然なのかは明らかにしていない。何れにしても非常に多くの研究者や企業がこの不正(捏造?)論文に振り回され、大迷惑を被った。

 イリシンの発見の誤りは意図的になされたのではないにしても、有名な論文不正事件として、ベル研究所のヘンドリック シェーンによる常温で超電導を観測したという常温超電導事件(シェーン事件)や ソウル大学黄禹錫教授のES細胞論文捏造事件やSTAP細胞事件と、捏造、不正は止まるところを知らない。「なぜ人はすぐにバレるとわかっていて捏造したり、嘘をついたりするのであろうか?」これは科学研究の問題だけに限らず、東芝の虚偽の経理発表、ごくごく最近のフォルックスワーゲンのデイージェルエンジンの排気偽装と超一流の世界的企業でも行われた。企業内でのプレッシャーが強すぎて、一時的にも逃れようとした結果なのであろうか?企業間、個人間の競争の激しさのあまり、逃れようとしてなされたのだとしたら、あまりにも悲しい虚栄に満ちた社会ではないか。
 ほとんど個人が主体となる研究論文の不正にしても組織の関与する企業の不正にしても、いつもポストや研究費の獲得にあくせくしているストレスフルな研究者や、上司からいつも厳しいノルマや課題を突きつけられているストレスのかかった企業人と、生き残るのにタフな社会が産み出した副産物なのであろうか?ただストレスが大きいからと言って不正することは絶対に許されることではないが。
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敗軍の将、石田三成の末裔

2015年09月11日 14:31

石田三成の子供達の運命

  関ヶ原の戦いで家康に敗れた石田三成が京六条河原で処刑されたことは誰もが知っていることだが、では三成の子供や子孫がどのような処置を受けたかはあまり知られていない。三成は正室の皎月院の間に三男三女をもうけている。てっきり一族郎等みんな処刑されたのかと思ったら、意外にも家康は温情的で死を免れていた。

 秀吉の死後石田三成は豊臣家の大番頭として、徳川家康と天下を争い、9月15日に始まった関ヶ原の戦いで敗れ、伊吹山に逃れたが、捕縛され、9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日に京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41 (Wikipedia)。

三成の子供達

長男の重家:
石田重家 (1583-1686)は、石田三成の嫡男として生まれた。
慶長5年(1600年)、大谷吉継から上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように勧められるが、関ヶ原の戦いが勃発したため、豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれた。
しかし、関ヶ原における西軍大敗の知らせが届くと、9月19日夜、重臣の津山甚内や乳母らによって密かに脱出を促され、京都妙心寺の塔頭寿聖院に入って、住職の伯蒲慧稜によって剃髪して仏門に入れられた。伯蒲は法号として宗享の名を彼に与える。
伯蒲は、京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康は本多正信と協議して、重家がまだ十代前半と若かったことからこれを許した。しかし妻帯することはなく重家一代にてこの系は絶える。
次男家成:
次男石田家成は助命され、津軽に逃れて家系を保つ。この家系が遺伝子をつなぐことになる。
三男佐吉:
三男の石田佐吉も父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、法名を清幽と名乗った。よって子はない。
長女:は石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた。
次女:は蒲生家臣の岡重政(岡半兵衛)に嫁ぎ、のち若狭に住み、若狭小浜で没したと伝わる。
三女辰姫: 高台院の養女となり弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室となる。

かくして三成の子供はことごとく助命され命を長らえた。戦国の世には稀なことであろう。

  結局次男の重成が石田家を継いだ。石田重成は豊臣秀頼に小姓として仕えていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父をはじめとする西軍が東軍に大敗し居城佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。
その後は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村に隠棲する。
重成の長男の吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職につき、子孫の杉山家は弘前藩重臣として代々存続した。シャクシャインの乱(北海道で起こった和人とアイヌ人の抗争)のときには、津軽の総大将として鎮圧に向かったが、結局戦火を交える前に乱は収束したという。その厚労で徳川幕府から労をねぎらわれたという。吉成の子孫は津軽の重臣として幕末まで続いた。

  幕末時の当主は成知(なりとも)。天保12年、弘前藩の重臣杉山成範の嫡男として生まれる。津軽藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と敵対していた。元治元年、江戸詰めの用人であったとき、禁門の変が発生し、家老代理として上京した。慶応4年4月には家老となる。声高に佐幕を主張し、碇ヶ関を丸太で閉鎖し官軍の入国を拒むなどし、解任された。のち再び家老として箱館戦争の軍事総監となり、食禄150俵と刀料金200両を賜っている。明治2年に権大参事に任命された。明治10年、西南戦争では旧藩士召募を行い、東京で隊長となった。しかし実戦に参加することなく、後年は中津軽郡長や北津軽郡長を務めた。明治28年、死去した。

 というわけで石田三成の家系は江戸時代を生き抜き現在にまで続いている。意外と家康は温情的であったのか、それとも完全に全国を掌握できているという自信なのかはわからないが簡単に助命を認めている。これが信長だったら男の子だけでなく一族郎等皆殺しにあっていたであろう。
今まで家康といえば腹黒い謀略の将みたいに思っていたが、人情を持ち合わせていることを知って少し親しみが持てた。
なにごとにも先入観を持って接してはだめだということの典型。


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