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龍田川、三室山の紅葉

2015年12月22日 13:09

 和歌に詠まれた紅葉

 平安時代の庶民にはもみじを愛でるという風習はなかったようだ。もっぱら桜を見る、花見が盛んだったようです。しかし、貴族の間では秋になると山野に出てもみじを鑑賞し、和歌に詠むという風流が流行った。
平安時代よりもはるか昔から紅葉の名所としてその名を馳せていたのは斑鳩の里にある龍田川とすぐそばの三室山。現在は龍田公園として整備され、紅葉や桜の名所として有名。

多くの和歌にも読まれ、百人一首にも在原業平と能因法師の2首が載っている。

在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれないに 水くくるとは」(古今和歌集)
神代の昔から聞いたことがありませんよ。龍田川が散り敷いた紅葉の鮮やかな紅色によって一面に染められているというのは。

能因法師の「あらし吹く 三室の山の もみじ葉は 龍田の川の 錦なりけり」
(後拾遺和歌集) 
晩秋のあらしによって舞い散った三室の山の真っ赤なもみじ葉が龍田川の川面いっぱいに覆い尽くし錦織りのようになっている。

この他にも古今和歌集には
「もみじ葉の 流れざりせば 龍田川 水の秋をば だれか知らまし」
坂上是則
「龍田川 もみじ葉流る 神なびの 三室の山に 時雨ふるらし」詠み人知らず などの和歌がある。

 先日、すこし盛りを過ぎたもみじを奈良龍田公園に見に行った。すでに12月も中旬にさしかかり、人もまばらでじっくりとこの和歌の雰囲気を味わうことができた。川の流れのすぐそばに紅葉の木があり、今年は暖かい日が続いたせいか、多くの紅葉がすでに散ってしまっていたが、中には今を盛りにと樹全体の葉を真っ赤に染めて柔らかい日差しの中に佇んでいる紅葉もあった。真っ赤になった葉の間から陽光が漏れ、折からの風で揺れ落ちて、地面で踊っていた。
三室山は標高82mの小さな山で神南備山とも呼ばれる。聖徳太子が斑鳩宮を造営するにあたり飛鳥の土産神をこの地に勧進されたのが由来。頂上には1.9mの五輪塔があり、能因法師の供養塔とされる(写真)。龍田川と三室山は現在龍田公園として市民に開放され。紅葉、桜の名所として親しまれている。

写真
1:龍田川公園紅葉1;2:龍田川1;3:龍田川2;4:紅葉2;5:紅葉3;6:紅葉4:7:龍田川を読んだ和歌の碑;8:能因法師の供養塔
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逆賊と言われた明智光秀の墓

2015年12月15日 14:28

明智家の菩提寺、西教寺

  明智光秀は主君織田信長を本能寺の変で暗殺し天下を掌握しかかったが、毛利攻めからとって返した豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れあえなく自害。三日天下に終わった。
光秀がなぜ謀反に走ったのかの説には様々あるが、それはさておいて、逆賊として扱われた光秀の遺体は死後どうなったのか?墓はあるのかなど疑問が多くある。
 光秀は山崎の合戦で敗れ、近江坂本城に逃げ帰る途中、伏見区醍醐の小栗栖にさしかかった時、落ち武者狩りの百姓に竹やりで刺され、傷が重く自害したとされる(現在小栗栖中学校が立っている)。享年55歳。首は丹波亀山の谷性寺に葬られたとも(光秀首塚がある)、坂本の明智の菩提寺西教寺に葬られたともいわれ定かではない。

 明智光秀の本拠地とも言える近江の坂本にある西教寺には明智一族の墓があり、正室煕子の墓もある。また高野山の奥の院にも明智光秀の墓所が伊達政宗や石田三成の墓と並んである。このように多くの墓が作られているがいずれに本物の遺体が埋葬されているのであろうか?

西教寺は明智一族の所領の城、坂本城のすぐそばにあり、明智光秀にとってなじみの深いお寺である。
西教寺は天台宗真盛宗の総本山であり、聖徳太子が創建し、のちに天智天皇から西教寺の勅願を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源が、続いて横川の源信が庵を結んで修行道場としたと伝えられている。その後、長らく荒廃していたが、室町時代末期に真盛上人が入寺して、不断念仏の根本道場として再興した。 以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられている。

  この西教寺は明智家の菩提寺なので遺体が葬られたとしても不思議はない。しかし逆賊とされていた光秀がすんなりと菩提寺に葬られるだろうか?
  織田信長が比叡山を中心に近江国の寺院を焼き討ちした際にこの寺も焼かれてしまったが、その後明智光秀が坂本城を築き、坂本城主として坂本の復興に尽力し、この西教寺の大本坊を増築し、仮本堂を完成させて現在の本尊を迎えた。光秀との由縁はふかく、1573年2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(凞子[ひろこ])の供養もされ、墓が安置されている。
天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。
内室の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については本物であると断言されてない。光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。
西教寺は光秀本人の首である事を確認してこの墓に葬った訳ではないので、光秀の墓であるとは断言できない。
いずれにしても今日、明智一族は西教寺という深淵なる自然に佇む古刹に葬られ、毎日欠かすこともない念仏によって弔われている。

参考写真1:西教寺門 2:参道 3:西教寺由来 4:一族の墓 5:明智夫婦




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