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逆賊と言われた赤松円心

2017年01月19日 13:02

郷土の英雄赤松円心

 兵庫県出身の偉人はと検索したら、赤松円心(則村)と大鳥啓介が出てきた。この2人は同じ村、播磨の国佐用郡赤松村に生まれ、時代こそ違うが錦の御旗を掲げた戦いに参加した。赤松円心は錦の御旗をうまく利用した側で、室町幕府の設立に関わり、大鳥啓介は幕末に錦の御旗を掲げた官軍に敗れた幕臣。

 赤松円心は播磨の国に生まれ、鎌倉幕府から室町幕府への政権交代に大きく関わった武将で、太平記に「その頃播磨の国の住人、村上天皇第七の御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松の次郎入道円心とて弓矢取つて無双の勇士あり。元よりその心闊如として、人の下風に立たん事を思はざりければ、この時絶えたるを継ぎ廃れたるを興こして、名を顕はし忠を抽きん出ばやと思ひける」とあり、武勇に優れ、功名を競う、野心的人物であったことがわかる。
 しかしここ兵庫の地でも同時代に生きた楠正成に比べてあまりにも知られていない。正成は湊川神社に祀られ、多くの参拝客に神として拝まれている。私は神社の塀に沿った楠の大木の坂道を毎日通っている。一方、赤松円心は太平記でこそ認められているが長い間、悪者として切り捨てられてきた。その違いはなんであろうか?

 赤松円心が育ったのは京から遠くない交通の要所、播磨の国で時代は鎌倉から室町にかけてであった。
 その頃の時代背景は「後醍醐天皇が天皇親政の朝廷の政治を取り戻すため鎌倉幕府倒幕の兵をあげるも、捕らえられて隠岐に流される。鎌倉幕府は後醍醐天皇に譲位を迫り、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を立てるが後醍醐天皇は譲位を認めず天皇の継承争いが起こる」という異常な状況にあった。
その後、後醍醐天皇が隠岐の島から脱出し、鎌倉幕府が足利尊氏、新田義貞の寝返りで滅びると、後醍醐天皇は即座に光厳天皇を廃し、「建武の新政」を始めた。政権内部の対立から円心は護良親王派として失脚、佐用荘に帰郷した。
 一方、後醍醐天皇の「建武の新政」はあまりにも人気なく、なかでも武士に対して、倒幕の恩賞が充分でない、知行権について態度が曖昧、など問題が多かった。その結果、自分の領地安堵を願う武士たちは、次第に足利尊氏を頼るようになり、足利尊氏は反乱を起こす。しかし楠木正成らに敗れ、尊氏は一旦九州へ逃れた。

 それまで足利尊氏は朝廷に刃向かう賊軍という立場であったが、赤松円心は一計を案じ、光厳上皇に院宣を出させるという裏技を用いた。そのことで足利軍も朝廷の認めた兵であるという、錦の御旗が掲げられ、御旗の下に多くの味方が集まり、勢いをつけた。これで一番怖い「朝敵という汚名」を被らなくて済む。さらに円心が播磨の国、白旗城で新田義貞の軍勢を釘付けにし、時間を稼いでいる間に九州で勢力を回復した足利尊氏の大軍が駆けつけた。
 楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は「湊川の戦い」で敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
さらに足利尊氏が京を制すると、後醍醐天皇は吉野に逃れて、南朝をたて、京の北朝と、南北朝分裂時代になる。尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、2人の天皇が存するという異常事態を招く。
足利尊氏はさらに北畠顕家や新田義貞を破り、征夷大将軍となり、室町幕府を樹立する。後醍醐天皇は翌年吉野で義良親王(後村上天皇)に譲位し、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52歳。しかし南朝はさらに50年以上も続く、という複雑な歴史の一話。

赤松円心は稀代の策士で、その功績で播磨国守護職に任ぜられ、各地で後醍醐天皇を奉じる南朝方と戦う一方、苔縄城の麓に法雲寺を建て、臨済宗の高僧・雪村友梅を招いて開山とし、後に同寺に播磨国の利生塔を建立、戦乱の犠牲者たちの鎮魂につとめるなど、幕府の重鎮としてふるまった。墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院、木像が生まれ故郷の兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺にある。享年74歳。

このストリーの難しいのは、どの天皇に正当性があるのかということ。鎌倉時代に天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂し、天皇継承を巡って内輪もめを繰り返したのがその根本原因。後醍醐天皇(大覚寺統)が「鎌倉幕府打倒」を叫び、尊氏が「持明院統」を担ぎ出したことから話はややこしくなる。明らかに劣勢なのに後醍醐天皇は吉野にこもり三種の神器を携え自分たちの正当性を主張する。天皇は絶対で、だれも廃することができない。足利幕府の内部抗争もあって、南朝もダラダラと50年続くことになる。

 歴史的には長い間後醍醐天皇が正当で、尊氏は反逆した逆臣とされていた関係から、尊氏の覇業に大いに貢献した円心も逆賊の頭目の1人で大悪人と見なされてきた。そのためか全く知られていない。忠臣と言われ後醍醐天皇に尽くした楠木正成は大楠公と称えられ、神として祀られている。雲泥の差。
 
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2016年 の代表的サイエンス

2017年01月04日 15:46

2016年 の重要なscienceの多くは技術開発であった

例年年末、年始になると感じるのは一年があっという間に過ぎてしまったということと、何か興味深い発見、発表ができたであろうか? 何も大したことができなかったという後悔の念。

科学研究全般において、2016年の最もインパクトある研究は何だったであろうか? Science誌はScience 2016 breakthrough of the year、Science 354, 1516-1525(2016) を選らんだ。
22万5千名に及ぶScienceの読者からの投票で編集者がまとめた2016年Science ランキングでは
一位がHuman embryo culture (43 %), 2位が Gravitational wave (32 %), 3位がPortable DNA sequencer (13 %), 4位がArtificial intelligence beats Go champ (7%)で5位がWorn-out cells and aging (5%)であった。
2016年を代表する発見として「ヒトembryoを2週間近く研究室で発育させる培養技術の開発」と「重力波の発見」が圧倒的な支持を得た、合わせると全体の75%に達する。
Life science関係に限ると
子宮内でしか発育できなかったヒトembryoを2週間近く培養器で発育できるようになったという技術開発が昨年の最も重要な発見・技術に選ばれた。今日まで研究室での人の胚研究の倫理的制限は、神経系が発達し始める14日であった。今日まではこの制限で理論的にもOKで、7日を超えて杯の培養をできたものはいなかった。これが2週間以上に延長されると、様々な臓器が形成されたembryoを作ることができ、用途が爆発的に拡大する。そこで制限を2-4週間と広げて、様々な器官ができ始める時期にまで延長すべきかどうかの議論が始まっている。
しかし議論を始め、ルールができる以前に、抜き掛けて多くの研究がなされ、既成事実が作られるであろうし、genome editing技術と相まって、ますます神の領域に踏み込む研究者が出てくるであろう。

 様々な病気の治療、予防や個人特定のためゲノム配列を読むことが、今後ますます重要になっていくであろう。そのためのgenome sequencerは今や生物研究での汎用機器になりつつある。それが手で持てるサイズの簡易sequencerとして開発された。このsequencerは nanopore sequencingと呼ぶ画期的な技術を使い, DNA 配列を直接読むことができる。DNA strandをそのまま狭い穴を通すと、塩基がイオン電荷を持ち、読めるようになる。今までのsequencerに比べ、費用も安く、DNAが長くても無限に読め、切断する必要がない。また携帯でき、数時間で読めるので、様々な用途に、臨床診断や感染症の流行の調査などに使用されるであろう。これを使えばEbolaや他のウイルスの同定が数時間で行える。いよいよ個人のDNAが簡単に解読され、この情報を持ち歩き、いざという時に対応可能という時代になるかもしれない。

ニュースでも有名になったが、人工知能(AI)がついに碁のチャンピオンを打ち破った。また将棋でも、竜王戦において挑戦者が将棋ソフトをスマホで見たという疑いをかけられ、失格騒ぎになった。コンピューターもここまできたかという驚きを禁じ得ない。

このように生命科学関係の重要トピックは、embryo cultureの改良、全く新しいsequencerの開発や人工知能の開発と技術開発が圧倒的に優勢となった。このことは重要なほとんどの生命現象やそれを司る、DNA、たんぱく質などの物質の性質が明らかになり、これ以上は大きな発見はできにくく、それらを解析する技術解析研究が盛んになっていることを意味するのかもしれない。
 一昨年ののgenome editing といい画期的な技術開発がその年のランキングのトップとなっている。
基礎生物学・医学を目指して来た者として一抹の寂しさを覚える。


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