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関ヶ原以前と以後の毛利

2008年11月25日 19:04

毛利秀元の場合

毛利元就の四男の長男。長門長府藩の初代藩主。正室は豊臣秀長の娘。
毛利輝元の時代、毛利藩は吉川広家と毛利秀元によって運営されていた。関ヶ原の戦いに際し、輝元は総大将として大阪城に詰め、広家と秀元が出陣した。秀元は若干22才ながら毛利軍1万2千の総大将として意気揚々と出陣したが、広家の企みを見抜く事ができなかった。一方、広家は西軍の勝利を危ぶみ、東軍とひそかに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していたため、戦端を開こうとした秀元を押し留めた。その結果、毛利勢は関ヶ原での本戦を傍観することになった(宰相殿の空弁当)。秀元は大阪城に帰った後も、主戦論を展開したが聞き入れられず、国元へ帰る。
戦後、輝元より長門国内に6万石を分知されて長府藩主となった。また、幼かった本家の秀就の後見を行い、輝元に代わって長州藩の藩政を総覧している。継室に徳川家康の養女を娶り、徳川幕府から信頼を得ることにも尽力した。大阪の役にも参戦し、幕府への忠義ぶりを見せる事も忘れなかった。その裏ではとんでもない謀略を企てていた。
1614年、大坂冬の陣が勃発すると、毛利氏は徳川方に従って参陣するが、万が一豊臣方が勝利したときに備え、輝元、執政秀元の密命を受けた元盛は名前を「佐野道可」と変え、軍資金と兵糧を持参し大坂城に入城した。しかし、翌1615年の大坂夏の陣で豊臣方は敗北し滅亡。道可こと元盛も、毛利氏一門であることが露見してしまう。幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛される。
元盛は、取調べの担当である大目付の柳生宗矩に対し、あくまで豊臣氏に恩義を感じての個人的な行動で、主家とは関係ないと主張する。元盛の2人の息子元珍・粟屋元豊も、父が勝手に取った行動と主張したので、幕府も毛利氏の陰謀を追及することができなかった。同年、元盛は山城国桂里大藪村鷲巣寺にて自刃し、事件は一応収束する。それにもかかわらず、事情を知る息子の元珍・元豊は、幕府の追及を恐れる輝元らにより密かに切腹に追い込まれる。

秀元は晩年は江戸に住み、72才という、その当時の長寿で亡くなる。うまく立ち回り、寿命を全うした。

毛利輝元の場合

1553年、毛利元就の嫡男・毛利隆元の長男として安芸に生まれる。幼名は幸鶴丸。将軍・足利義輝より「輝」の一字を受けて元服し、輝元と名乗り、同年の月山富田城で初陣を飾る。元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利し、九州や中国地方に勢力を拡大し続けていった。
ところが1576年、織田信長によって追われた将軍・足利義昭が転がり込み、保護せざるを得ない状況となる。さらに石山本願寺が挙兵すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と対立する。当時、織田軍は越後の強敵・上杉謙信に対して軍を集中していたことも優位に働き、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、は第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り、大勝利を収めた。また、1578年には上月城の戦いで、羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進した。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側に不利となっていく。1580年には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、播磨三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する。1581年には因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城。毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれてゆく。
1582年、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、有名な水攻めをする。攻防戦の最中、京都本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により倒れる。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。戦況の不利を悟り、和睦を願っていた輝元や小早川隆景らはこの和睦を受諾する。結果、備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して果てた。
その後、毛利氏は秀吉の天下が確定すると、秀吉に臣従した。秀吉の命令で、1585年の長宗我部元親を成敗する四国征伐、1586年の島津を討つ九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。その結果、秀吉より周防・長門国・安芸・石見・出雲・備後など120万5,000石の所領を安堵された。
秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで輝元は西軍の総大将として大阪城に入る。しかし
家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居、秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となり、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国に大減封された。
関ヶ原の戦い後、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされている。これは徳川家康が輝元に西軍総大将としての責任を問い隠居とし、周防・長門2カ国は秀就を宛名として与えたためである。1603年には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌1604年、長門萩城を築城し、居城とした。その萩にお城を構える際も、幕府から「自由に思うところに城を造って宜しい」と言われていたが、関が原で痛い目にあってきた輝元は、もはやそれを鵜呑みにするほど愚かではない。候補地としてあがっていた防府、山口、萩のうち、利便性のよい山口はとても幕府の意向に沿うまい、と最初から諦めていた。家康の真意を探るため、輝元は福原広俊を派遣して国司元蔵と共に幕府との折衝にあたらせた。日本海側に位置する萩は不便なので、できれば防府に築城したいと思っていたが、家康の側近・本多正信は「身のほどをお考えになられよ。指月(萩)が然るべき所でありましょう」と一方的に命じられ萩に築城することとなった。

輝元の吉川広家への恨みつらみは強く.彼が毛利軍の戦闘参加を押し止めなかったら。彼が裏で家康と取引をしていなかったら。相談もなく、独断でやられなかったら。と恨みは続く。そのため吉川家は毛利家からいじめ抜かれ、岩国藩は江戸時代を通して、独立する事を毛利から許されなかった。
毛利藩士達の恨みつらみもまた激しいものであった。関ヶ原では戦うことも出来ず、家康の約束も反古にされ、120万石から30万石に大減封され、藩士の数も大幅に減らさなければならなかった恨み。呑まず、食わずの生活を強いられるようになった恨み。これら諸々の恨み、つらみが一気に幕末に吹き出すこととなる。

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