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クリスマスイブのあなたに

2008年12月24日 11:50


愛の形 (2)

江國香織作「冷静と情熱の間Rosso」と辻仁成作「冷静と情熱の間Blu」

この作品は江國香織が女性「あおい」の立場で書き、辻仁成が男性の「順正」の立場で書いてRossoとBluの2冊にまとめられた。全く独立した形であおい自身の日常と10年前の出来事への追慕の情が書かれ、順正の日常と過去の消しがたい悔恨の情が書かれる。
「あおい」はミラノ育ちの日本人で現在はミラノにアメリカ人のボーイフレンド「マーブ」と一緒に静かで満ち足りた生活を送っている。週に3日はジュエリーショップで働き、あとは図書館がよいをして過ごす日常だ。ミラノの夏。ケプレロ通りの泰山木が咲いた。この花が咲くと夏がきたと思う、と昔母が言っていた。泰山木の花は白くて大きく、甘く強い匂いがするけど、肉厚の葉っぱがあまりにびっしり繁っていて、その茂みに隠れてしまうので、下をとっていても気づかないひとが多い。
ある日日本人学校の同級生の崇が訪ねてくる。話は順正の話になる。何があったの?あんなに仲が良かったのに、なにがあったの?
阿形順正は、私の人生のなかの、決して消えないとんでもないなにかだ。彼との間の出来事は、遠い昔の学生時代の恋などではない。私は大学のそばのアパートに住んでいて、アパートと言っても木造の一軒家。順正は梅が丘のアパートに住んでいて、お互いのアパートでたのしくてめまぐるしく、あらゆる感情が凝縮された濃密な時間をすごしたかわからない。20歳だった。私たちは大学の裏庭にいて、――約束をしてくれる?あの時私は、普段に似ず勇気をかき集めて言った。私にしてみれば、生まれてはじめての愛の告白だったから。フィレンチェのドーオモにのぼるなら、どうしてもこのひととのぼりたい。そう思ったのだった。順正はいかにも順正らしい屈託のなさで約束してくれた。いいよ。2000年の5月か。もう21世紀だね。

ほんとうに来てしまった。階段の先に小さな青空がみえる。空だけを描く画家になりたい。順正は昔、そんなことを言った。いい風。私は風に顔を突き出す様にしてそれを味わった。フィレンチェのドーオモの頂上を吹いていく風。壁にそってゆっくり歩く。赤茶色の屋根屋根の向こう、はるか遠くには緩やかな丘陵が見える。わたしの目は一点にすいよせられた。その人は、片膝をたててすわっていた。しばらく立ったまま、私は順正を見ていた。小柄な姿勢のいい、10年の歳月を経てもまるで変わっていない様にみえる、なつかしい順正を。
順正」会いたくて会いたくてたまらなかった、と、告白しているような苦しい声で、その人の名前を口にした。ふりむいた順正の、記憶よりも削げた頬。息がとまるかと思った。フィレンチェの街を見下ろすドーオモのてっぺんで、やわらかな、夕陽の光の中で。

嵐のような3日間であった。嵐のような、そして光の洪水のような。30歳の誕生日おめでとう。来るとは思っていなかったよ。もうあんな約束忘れてしまっていると思っていた。幸せにいきていると聞いていたから、絶対こないと思っていた。幸せに?よくわからなかった。もう忘れてしまっていた。「マーブ」も、ミラノも、物語の中のように遠い。順正と私は、ドーオモの狭い階段を一緒に降りた。順正はフィレンチェの街にくわしかった。 「住んでいたんだ」そんなことを言って、私を驚かせた。順正がフィレンチェに住んでいた。ミラノから目と鼻の先の、歴史におきざりにされたようなこの小さな町に。
川沿いの並木道に、街灯の明かりがつき始めていた。私は目の前にいる男性を、完璧な信頼を持って眺めた。その豊かでやわらかな黒い髪や、おどろきや喜びの一つ一つに敏感に反応する瞳、時々照れくさそうな微笑みを浮かべる色の薄い唇、育ちの良さをうかがわせる首すじ。知ってる。その一つ一つをかって私は愛したし、いまもまた依然として、こんなに愛してる。「あおい」の今の生活の話をして。私は小さく息をすい、息を吐いた。身体をよじって順正の顔をみた。哀しそうな顔を。ジュエリー店で働いていること。そこで「マーブ」と出会ったこと。一緒に暮らし始めたこと。マーブと別れたことは言えなかった。「幸せなんだね」

列車が中央駅のホームにすべりこんだ。夕方だ。うす曇りの鈍色の。順正はひきとめなかったし、私もまた、ひきとめてほしいとは言えなかった。ちょっぴり気まずい思いをしながら現実の住むミラノへと帰っていく。

「順正」の場合
この街はいつだって光が降り注いでいる。ここにきてから、ぼくは一日たりと空を見上げなかった日はない。青空はどこまでも高く、しかも水で薄めた絵の具で描いたように涼しく透き通っている。霞のような雲はまるで塗り残した画用紙の白い部分みたいにその空の中を控えめに漂い、風や光と戯れるのを喜んでいる。順正はフィレンチェで絵画の修復の技術を勉強し、「芽実」と暮らしている。「芽実」は「あおい」とはなにもかもが正反対。痩せているのに、頬がふっくらしているあおいとは好対照に、芽実の肉感的な身体つきは彼女の血の問題に由来して、こちらを恥ずかしくさせるくらい隙がなく情熱的。

あの時最初二人は、かって幼少の頃「あおい」が暮らしていたこのミラノのことを話していたのだった。その日あおいはめずらしく情熱的に語り続け、彼女の方からあの約束を口にした。私の30歳の誕生日に、フィレンチェのドーオモのね、クーボラの上で待ち合わせするの。どお? 30歳か。あと十年も先のことだ。
フィレンチェの工房が閉鎖され東京に戻ることになる。10月のある日、母校成城大学へ足を延ばすことにした。小田急線に乗って、成城学園前で降りた。駅は当時のままだった。改札を出た途端、記憶が一気に甦った。自然に体は動き出していた。「あおい」と時々待ち合わせたビルの2階の喫茶店はもうなくなっていた。記憶に或る花屋やブテイックやケーキ屋を見つけるたびに、胸に込み上げてくる仄かな熱で目元が緩んだ。ここをぼくたちは片寄せ合って歩いたのだった。あの頃の二人の面影がそこら中に溢れている。校門を入ると、記憶が一層激しく感情を揺さぶってきた。何もかも6年前のままだった。思い出がそこら中に残っていた。歩くたびに胸が熱くなった。季節は同じく秋だった。落ち葉を踏みしめてぼくは坂道を駆けた。振り返る「あおい」の顔に満面の笑みが溢れていた。

時は流れる。そして思い出は走る汽車の窓から投げ捨てられた荷物さながら置き去りにされる。時は流れる。つい昨日のことのような出来事が、或る時、ある瞬間に、手の届かないほど昔の出来事として記憶の靄の彼方に葬り去られることがある。時は流れる。人は不意に記憶の源に戻りたいとなみだぐむことがある。1999年初春。長い冬が終わって、日差しにも温もりの片鱗が宿り、風は冷たいながらも清々しく、新しい季節の到来を伝えていた。また春が来た。ぼくは羽根木公園の梅が薄紅色に咲き誇り、青空と地面の間を水彩の具で線を引いたように淡くにじませているのを見上げながらため息まじりに口腔で呟いてみた。ぼくの側に「芽実」がいたし、ぼくもまだ無職だったし、それにぼくは過去に引っ張り回され相変わらず「あおい」のことを忘れられずにいた。
ねえ、「あおい」って誰なの。その人のことが今でも忘れられないの?順正とその人の間に何があったの。ぼくと「あおい」の子供を返せと叫んでいたけど。二人の間に子供がいたの?ああ、ほんの一瞬だけど、いた。でももう居ない。流産だった。
今も「あおい」さんのことが忘れられないんでしょう。「芽実」の声は闇の中で震えていた。忘れられないと言いかけて口を噤んだ。もう二度と愛し合うことはない。それでいいじゃないか。「芽実」は出て行った。ドアが再び閉じられ、室内は暗くなった。

空が白みだすと、窓を開け、外の空気を吸ってみた。鼻孔の奥がつんと澄み、肺に朝の空気が染み渡る。西暦2000年の5月25日だった。着替えると、日の出を待たずに外に出た。息をひそめて夜明けを待った。空が明け始めると、鳩の群れが大円蓋のさらに上空を飛び去った。八時半、大聖堂の扉が開き、ぼくは中に入った。頂上にはまだ誰ものぼっていなかった。ぼくはクーポラの真裏に腰を下ろした。待っている時間の長さは、つまり悟るための長さだ。
次第に太陽が傾きはじめた。空があかくなりはじめていた。建物の屋根に光が反射している。「順正」声が耳元をかすめる。風の悪戯かと思った。しかし、耳はしっかりと懐かしい感触を覚えていた。振り返ると、そこに待ちこがれた人がいた。
しかし「あおい」は昔の「あおい」でなかった。「あおい」は、アメリカ人の恋人に愛され、これほど美しくなったのだった。「あおい」の肉体の変化や体臭の変化にぼくは気がついてしまった。そこには全くぼくというものが介在できない域が存在していた。二人はいったい何を抱きしめていたのだろう。ぼくが抱いていたのは8年前の「あおい」だった。「あおい」もきっと8年前のぼくを抱いていたはず。ふたりは過去と寝た。

ミラノまでの切符を買ったあおいが僕の手から鞄を受け取った。腕時計をみてあと「5分だわ、と告げた。行くね」わずか三日。たったの三日でこの八年が、修復ではなく、清算されてしまったのだった。
ぼくは改札の手前で彼女を見送った。新しい世紀。何を糧に生きていけばいいのだろうか。冷静が最後は勝った.
「あおい」もう一度心の中で彼女の名を呼んでみる。大切なのは現在。ぼくはまだ何も試していない。試さないで、彼女を一人彼女の現在へと送り返しては駄目だ。この八年を再び凍りつかせては駄目だ。ユーロスターで行けばまだ「あおい」の列車よりも早くつくことに気づく。ユーロスターに飛び乗る。新しい100年を生きようと誓いながら。

 男は過去をひきずりその情熱が8年という時間の流れと、別々の人生を歩んできたという重みに勝る。一方、女は過去の情熱は情熱として最後には、8年の重み、現実の生活という冷静さが勝る。男は常に夢想し、情熱を追いかけ、女はいつも現実的、冷静が最後は支配する。

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コメント

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  2. とくとく | URL | -

    江國香織は高校、大学時代の私の最も好きな作家でした。
    この本を読んだのは8年くらい前なので記憶が定かでない部分もありますが、女性バージョンはそれ1冊でも完結した江國香織らしい小説だったと記憶しています。
    個人的には感傷的なだけの男性バージョンはいらないと思ったくらいです。
    江國香織の文章は言葉がとても丁寧に正確に使われていて、読んでいるとなぜかお腹がすいてくる不思議な魅力を持っています。
    真夏に海岸沿いの家のテラスで飲むよく冷えたアルコール度数の高いカクテルが江國香織の描く世界のイメージです。
    江國香織の本は高校、大学の頃に何度も何度も読み返していたので、私の考え方(世間一般の常識よりも自分の感性にあうかどうかを重要視するところ)なんかは多分に江國香織の描く女性像の影響を受けているところが多い気がします。
    なかでも私が好きなのは「きらきらひかる」「落下する夕方」「神様のボート」です。
    「冷静と情熱の間」もそうですが、どれも刹那という言葉がぴったりの作品だと思います。

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