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西行法師

2009年02月17日 17:47

白州正子著「西行」を読んで

今までにも西行に関する書物は西行物語や山家集を含めいろいろと読んできた。しかしこの本はそれらの解説本と異なり、西行の内面に深く入り込み、そのときに西行が感じたであろう「無情と世間を完全に断ち切れない境地」の感情が「異常なまでに桜の花に注がれた」様を語っている。西行自身が訊ねていったゆかりの地を著者自身が実際に訪れ、西行がそこで読んだ歌とその当時の西行に立ち返っての心情の吐露の代弁は、「出家したけど人間を捨てきれなかった西行の業と、その心のうちを和歌を通して訴えた生き様」の叫びとして興味深い。

 西行の俗名は佐藤義清。1118年に生まれ、18歳で左兵衛尉となり、鳥羽院の北面の武士として仕える。23歳で出家し、西行と名乗る。出家の原因には諸説有るが、西行物語では親友佐藤範康の急死が直接の原因であるとしている。しかし源平盛衰記によれば「申すも恐れある上臈女房を思懸け」ての失恋にあるという。この女性は鳥羽上皇の中宮となった侍賢門院たま子「王に章とかく」で、西行はこの女性を崇拝し熱愛していた事は疑う余地がないのだそうだ. たま子は正2位権大納言藤原公実の末子に生まれた。生まれてすぐに白川法王の寵妃、祇園女御の養女となり、院の御所で生活する。白川法王は次第に孫ほどに年の違うたま子を寵愛するようになり、ついに手をつけてしまう。法王は適当な婿を捜そうと、関白忠実の息子、忠道に声をかけるが言を左右にして応ぜず、鳥羽天皇のもとに入内させる。天皇15歳、たま子17歳であった。
  「夕張りの月にはづれて見し影の 優しかりしはいつか忘れん」

白川法王との情事は入内後も続いた。第一王子の顕仁親王(後の崇徳天応)は法王の子であった。侍賢門院はまさに院政を象徴する女性で、やがて勃発する保元の乱の因となった。法王は1129年に崩御し、嵯峨野の法金剛院にまつられる。時が過ぎ、鳥羽上皇は美福門院を寵愛するようになり、侍賢門院も42歳(1142年)で出家し、法金剛院に籠り、45歳で崩御し、多情多感な一生を終えられる。
西行29歳の折。侍賢門院、かくれさせおわしましにける御あとに、人々またの年の御はてまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀河の局のもとへ申し送りける。
 「尋ぬとも風の伝にも聞かじかし 花と散りにし君が行へを」

侍賢門院の崩御から十数年経って法金剛院に紅葉を見に行き。
 「紅葉見て君やたもとや時雨るらん むかしの秋の色をしたひて」

また嵯峨野清和院で 「春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり」

西行は出家した後、しばらくは向日市の西、長岡京の大原野の「花の寺」大原院勝持寺にいたと言われる。

「山林流浪の行をせんとおもいて」吉野へ毎年のように桜見物にでかけ60首の和歌を詠む。
「吉野山花の散りにし木のもとに とめし心はわれをまつらん」
「願わくば花のしたにて春死なむ その如月の望月の頃」
「春ふかみ枝もゆるがで散る花は 風のとがにはあらぬなるべし」

湘南海岸の大磯近くに鴫立沢の旧跡がある。西行はここで3夕の和歌として有名な
「心なき身にもあわれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」を詠んだ。

陸奥にも2度旅をしている。白川の関をもうでて、能因法師の詠んだ「都をば霞とともに立ちしかぞ 秋風の吹く白河の関」を慕って白川の関を訪れている。
 「白川の関屋を月の漏る影は 人の心を留むるなりけり」

院政時代というのは、王朝の文化が、最後の光芒を放ちつつ消えていく時代であった。その衰退の始まりは保元の乱にあった。保元の乱、平治の乱、源平の合戦と承久の乱との戦乱を通して朝廷の権力は無惨にも瓦解する。中でも凄惨を極めたのは崇徳天皇の生涯であった。天皇が白川法王と侍賢門院たま子の間に生まれた不義の子であることは、先に述べたが、白川法王が崩御すると、美福門院得子が鳥羽上皇の寵愛を集める。そして得子の生んだ体仁親王(後の近衛天皇)が皇太子にたてられ崇徳天皇に譲位を迫った。その時天皇は23歳。体仁親王を養子にさせられ、親王は3歳で即位する。鳥羽上皇に深い恨みをい抱く事になった。その頃から、侍賢門院も落胆のあまり、出家する。また先の関白太政大臣の忠実とその次男の頼長と長男の忠通が崇徳院派と鳥羽上皇派に分かれ確執がひどくなった。鳥羽上皇が崩御すると忠通は源頼朝や平清盛と手を組み保元の乱を制し、崇徳院は出家を余地無くされる。西行はすぐさま仁和寺の崇徳院のもとを訊ねる。
「かかる世にかげも変わらずすむ月を 見る我が身さえ恨めしきかな」

保元の乱が終わると崇徳院は讃岐の国へ流島となった。配流の後8年して46歳で崩御した。西行はそれから4年して配流の跡を訪ねている。讃岐に詣でて、松山の津と申すところに、院おわしましけん御跡たづねけれど、かたもなかりければ
 「松山の波に流れて来し船の やがて空しくなりにけるかな」

よわい70のころには源平の戦いも終わり、義経が陸奥に追われていたが,その頃西行は伊勢に滞在していた。

1190年西行は弘川寺で73年の生涯をとじる。侍賢門院への思慕の情から逃れるためには出家して自己を否定するより仕方なかった。心なき身になりつつも、朝廷に見られる人間の強欲と権力闘争の激動を外から見ていて、歌が唯一のなぐさめとなっていった。

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