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孔明とニミッツ

2009年03月11日 17:40

諸葛孔明
魏呉蜀の3国がその派遣をかけて争った壮大なるドラマは良く知られている。蜀の劉備元徳は漢王朝の末裔として、漢王朝を簒奪した魏の曹操を倒して、漢王朝を復興させ、正義を世に示そうとする。そのため劉備は関羽や張飛という義理に厚い豪傑と義兄弟の誓いをする。そこに三顧の礼をもって迎えた諸葛孔明や義理に厚くクールで重厚な趙雲を加え、蜀の国を築く。
しかし長い抗争により、関羽が亡くなり、ついで張飛が暗殺され、劉備や趙雲が亡くなり、2代目皇帝に凡庸な劉禅が跡をつぎ、人材の払拭する事甚だしく、孔明が孤軍奮戦せざるを得なくなる。

魏の国では司馬仲達一門の勢力が盛んになり、曹操のあとを次いだ曹丕もなくなり、曹叡が跡を継ぐ。
孔明は「出師の表」を奉り、劉備との約束通り、魏を倒そうと努力するも、その思いはどこか空回りし、皇帝や蜀の国の人々に現状で満足する傾向が出て来る。それでも孔明は魏を攻め続け、結局はかれもその戦いの最中に亡くなる。亡くなったあとも五条原で司馬仲達を敗走させる。これが「死せる孔明生ける仲達を走らす」と成る。孔明は何度も仲達を挑発し、決戦に臨もうとしたが、仲達は孔明と戦って、自分の才能が劣ることを自覚して挑発に乗る事は控えた。徹底的に持久戦に持ち込んだ。これが功を奏して孔明の寿命は尽きてしまう。234年没。
魏の国では司馬仲達一門の勢力が盛んになり、曹操のあとを次いだ曹丕もなくなり、曹叡が跡を継ぐ。その曹叡も36歳という若さで亡くなり、曹芳が即位(239年)する。曹爽が権力を振るい始め、仲達は病気を装い引退し,ぼけているふりをした。曹爽が安心して洛陽を留守にしている好きに一気にクーデターを起こし、政権を奪取してしまう(249年)。そして、降伏した曹爽一派を殺害し、魏における全権を握った。

蜀では258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。そうなると蜀の国は暗愚な劉禅と、魏延の裏切りであっさりと魏に降伏してしまう。しかし劉禅は魏・晋両国で「安楽公」に封じられて天寿を全うした。劉禅はこの暮らしに満足したという。
その後、結局天下を統一したのは司馬仲達の孫の司馬炎で、形では魏より禅譲を受けて皇帝となり、「高祖宣帝」となった。かくして晋王朝を創始した。
これが三国志の結末。天下を統一したのは曹操の末裔でもなく、孫権や劉備の末裔でもなかった。

蜀の敗因はなにだったのだろうか?結局は国力の差。人材の不足。に尽きる。孔明はそれが分かっていて自分が生きている間に短期決戦でもって魏を倒したかった。そのため幾度も遠征するが、結局仲達の消極的作戦で持って歯車が噛み合わず、長期戦になってしまった。こうなると消耗戦となり、物量、人材の豊富な方に軍配があがる。
孔明をしてみても、動かぬ敵に戦略はかけられず、膠着状態が続き、じり貧を免れなかった。孔明も死に場所を求めて、何度も何度も戦いを挑んだがその精神が初期の義に燃え立つ劉備を初めとする関羽や張飛と異なり、贅沢に育ったボンボンの劉禅やその取り巻きにうまく伝わらなかった。それら2世連中はまた生活も安定し、現状に満足し始めてきた。蜀は滅びるべくして滅んだと言える。

ニミッツ
山本五十六の魂は伝わらず、孤軍奮戦すれども空回り、明治初期の頃の気概をもった軍人がいなくなった。学校の成績至上主義のエリート軍人が上層部を占め,軍人の官僚化が起こり、自分たちの利害追求に走って、大所高所からの判断ができなくなった。山本五十六はこのような内なる敵とも戦わなければならなく、しだいに作戦も官僚化した軍人達と妥協をせざるをえなくなる。

一個人が持てる力を最大限に発揮するためには、個人と組織がうまくかみあっていなければならない。孔明が劉備亡き後、孤軍奮戦で長期戦に次第に消耗していったのに対し、山本五十六も少数の理解者はいたが孤軍奮戦を余儀なくされた。彼も大国アメリカを敵にまわすにあたり、その国力の差を考え孔明同様、短気決着を望んでいた。しかし、軍人官僚達は長期戦、防衛戦を望んでいた。

日本は組織がばらばらで意志の統一を欠いたのに対し、米国は太平洋面での作戦はニミッツ一人にその権限を与え、意志の統一を図った。
ニミッツはハルゼーという日本では考えられないような劣等生(卒業席次は42/62)を取り立てて第3艦隊司令官にした。彼は勇猛果敢でジャップを殺せ、ジャップを殺せと叫んで部下に人気があったという。一方ではその野卑さで大きな組織の長になれる人物ではないとの酷評もある。彼は「ミズーリ」号での降伏文書調印式では会場責任者として出席した。この時日本側代表重光葵外相が署名までもたついていた。「サインしろ、この野郎! サインしろ!」と罵った。また、調印式の最中は「日本全権の顔のど真ん中を泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」ともいう。

ニミッツはハルゼーのような一本気で勇猛な猪突猛進タイプの軍人もうまく使ったが、彼自身はハルゼーとは対照的な紳士で、戦後荒廃しきっていた「三笠」の修復にも手をさしのべた。「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止した。1958年の『文藝春秋』2月号において「三笠と私」という題の一文を寄せ、「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…」と訴えた。保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付した他、アメリカ海軍を動かして揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約三千万円を充てさせた。「三笠」の復興総工費が約一億八千万円であるからこの運動は大きな助けとなった。1961年5月27日に無事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹したという。ニミッツは軍人としても卓越していたが、人間としても人情味あふれる男であった。
ニミッツのように、敵国の軍人(東郷元帥)を崇拝する度量と余裕のあるすぐれた人物が敵の太平洋方面司令長官であったことは、作戦をどうのこうのという前に、どうあってもかなわない気がする。

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