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真田幸村の意地

2009年03月17日 18:49

真田幸村

小さい頃から漫画や少年向きの小説で、真田幸村、大助親子に親しんできた。猿飛佐助、霧暮才蔵や三好入道を従えて圧倒的な敵に七面法被の活躍をするさまを興奮しながら読んでいた。負けると分かっていても圧倒的な敵に立ち向かっていく生き様は日本人の魂を揺すぶらない訳はない。一方で、なぜわざわざ艱難辛苦な生き方を選び、それほど固執しなければならなかったのか?その意地の深さを思い泣けてきた。思い入れの深い真田幸村は一回や二回のブログで語り尽くせる物ではない。

真田幸村は真田昌幸の二男として織田信長の台頭で戦国の世がめまぐるしく変わる頃信州真田に生まれた。武田家に属し、真田の小さな里の城主だった昌幸は織田信長による信州攻略で、織田方についたかと思えば、本能寺での謀反であっけなく信長が殺されてしまう。すると主のいなくなった信州に越後の上杉、関東の北条や駿府の徳川がその空き地を虎視眈々とねらう。そんな情勢下、上杉景勝のもとに、幸村を人質に差し出し、北条が沼田を狙っているのが分かると徳川に近づくなど、弱小国としてはできる限りのことをしてきた。しかし徳川と北条が密約をかわし、沼田城を北条に譲れとの圧力がかかると、断固拒否。徳川勢7,000が上田城にこもる2,000に攻めかかってきた。徳川の猛攻を凌いでいるうちに、徳川軍は急に兵を引いてしまう。三河以来の家康の随臣の一人である石川伯耆守数正が岡崎城を棄てて豊臣秀吉のもとに走ったことが徳川勢が突然の退却をした理由であった。そこに徳川方のメンツを立てるため、秀吉が両者の仲介にはいり、徳川と仲直りをする。その結果、昌幸の兄である、信幸が人質として駿府にいくことになる。一方、幸村は秀吉のもとに人質として大阪に住むことになる。こうして真田家が将来徳川方と大阪方に別れて戦う遠因ができる。その後、信幸は徳川の重臣本多平八郎忠勝の娘ねいと縁組み、結婚する。
秀吉の天下がほぼ決まると関白に任じられ、お小姓組から抜擢された前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家とならんで石田三成が5奉行として秀吉の威光を背後に権勢をふるっていた。その石田三成やその小姓時代からの親友大谷刑部小輔吉継に認められ、かわいがられる。特に大谷吉継は幸村に好意を抱き、なにかと世話を焼きたがる。ついには娘のらくを幸村と娶らせる。
秀吉は最後の仕上げと、北条氏政、氏直父子に上洛を促し、真田昌幸の所領地、沼田を北条に与えた。それでも北条は挨拶に上洛しない。そこに名胡桃城事件が勃発する。この事件は秀吉が真田昌幸に計って、北条を陥れたもので、北条にこの城を攻めさせる様に計り、信幸からの訴状を受けて小田原攻めが始まった。
小田原の陣の後沼田城は真田家に返還され、領地も信州上田で38000石、上州沼田で27000石。徳川家が関東に移封されたのを機会に、沼田は徳川との縁の深い長男信幸に与えられた。小田原城開城一年後には秀吉の愛児鶴松が亡くなった。秀吉54歳。それを機会に羽柴秀次を養子にして関白の職を譲り、自らは太閤と称した。それから2年運命のいたずらか秀頼が誕生した。更に2年、秀次が乱行のかどで死罪を免じられる。
真田幸村は大谷吉継の運動により、従5位下、左衛門佐に任じられる。
1598年秀吉が亡くなると、幸村は上田に帰り、今後の対策を父昌幸と相談。1600年ついに家康が動き始める。会津120万石上杉景勝討伐の軍勢をあげると、それに呼応したかのように石田三成が挙兵する。真田父子はどちらかの陣営につくかで話し合う。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹で幸村の妻は三成最大の親友大谷吉継の娘、一方兄信幸の妻は父が徳川四天王の一人。昌幸は真田領の譲渡の要求や上田城攻撃などで家康を忌み嫌っていた。結局、昌幸と幸村が西軍に信幸が東軍にと敵味方に分かれる事となった。上田城に籠った昌幸、幸村父子は秀忠が率いて関ヶ原へいく4万の軍勢を、引きつけ時間稼ぎして徹底的に遅らせ、関ヶ原の戦いに間に合わせないようにした。その結果秀忠が関ヶ原に到着したのは戦いが終わって4日後のことであった。家康が激怒して、3日間秀忠に会わなかったことは有名である。

真田父子の上田城での秀忠軍遅延作戦は成功したが、肝心の関ヶ原の戦いで敗れてしまったため、家康は死罪を申し渡すつもりであったが、兄の信幸と本多忠勝が助命嘆願に努めたため、真田父子は高野山の麓九度山に配流される事になる。配流先の善名称院、通称『真田庵』で父子は仕送りに頼って細々と生活を送る。1611年(44歳)、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没。享年64歳。翌年に幸村は出家、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の訓練を積む。




疑問はなぜ真田父子を大阪に近い高野山に配流したのかということだ。関ヶ原の戦いで全てに決着をつけ、そのいきおいで、西軍総大将の居る大阪城を攻め、豊臣を滅ぼそうと思っていたのが、あまりにあっけなく西軍が破れ、豊臣に言いがかりをつけることがならず、またもう一度なんらかの言いがかりをつけ、豊臣方から攻めさせるか、落ち度をついて滅ぼす際に、一気に豊臣方に組する武士や浪人をあぶり出して一気に決着を付け、将来に禍根を残さぬ様に考えたのではないか。そのため、関ヶ原でやぶれた大名の武家を京都や高野山など大阪に近いところに置いて、監視していたのではないかと想像される。

関ヶ原から2年たつと、家康は朝廷から従一位右大臣に任じられ、征夷大将軍の宣下をうける。また孫の千姫を秀頼のもとに嫁がせ、豊臣方の懐柔も忘れない。その間、九度山の配所で昌幸が69歳で亡くなる。
家康はその後もなにかといちゃもんをつけ、2条城に滞在中に、秀頼に挨拶にきて臣下の礼をとるようにと強要してきた。相変わらず淀君などの大阪方は強気一本やりであったが、片桐且元、加藤清正や浅野幸長らに説得され、2条城での会見にこぎ着けたため、家康は大阪を攻める機会を逸する。そうこうする内に、かの有名な事件が勃発。家康は今まではゆっくりと時間をかけ無理押しをせず、豊臣を追いつめてきたが、これを境に一気に豊臣を潰そうとの態度が性急になる。家康も高齢、焦りが見えてきた。方広寺の大仏殿の鐘銘に「国家安康」とあるのは家康を呪い、またその後に「君臣豊楽 子孫殷昌」は豊臣家の繁栄を願う意味だとの言いがかりをつけ、一気に緊張が増した。

大阪方の誤算は秀頼が呼びかければ、太閤殿下の旧恩を受けた大名が少なからず集まるだろうと思っていたが、大名は誰一人馳せ参じることはなかった。太閤が亡くなって20年あまり、義理よりも現実が支配した。しかし世の中に溢れていた不平不満の浪人は大勢集まった。元大名の長宗我部盛親、や塙団右衛門、後藤又兵衛などがいるが、まさに寄せ集め集団であった。大野修理を秀頼の補佐として第一人者に任じる大阪方にあっては幸村の積極策は取り入れられる訳もない。幸村は大阪城の弱点である南方、そこはなだらかな台地があるばかりで要害はなかった、を固めるため、世に言う惣構えを造った。それでも十分でないと思った幸村は出丸をも造った。それは、当時の鶴橋村の小長谷の一丘陵に突貫工事で造られ、真田丸と呼ばれた。
かくして冬の陣と言われる戦いが始まった。真田丸は敵の大軍に囲まれ、猛攻を受けるも上田城攻防の際と同様、幸村は敵を翻弄し大活躍をして、真田の名前を上げる。家康は戦いの一方で和議をも画策し、決して無理押しはしない。大野修理もこれで時間が稼げると思って、和議を結ぶも家康の方が一枚も二枚も上手であった。外堀を埋め、惣構えを壊し、二の丸の堀を埋めて、和議の条件以上に堀は埋め尽くされ、鉄壁であった大阪城がただの城になってしまった。
和議を結ぶと同時に家康は次の戦いに向けて、着々と準備を始め、これを最後の戦いにしようと思っていた。まただれの目にも今度は城の外で決戦をしなければならないだろうということが分かった。

夏の陣に際し、後藤又兵衛は河内の国分が主戦場になるであろうと主張し、取り入れられる。しかし幸村は戦闘の一部に勝ったところで、情勢を変えることは難しいだろうとの考えから、家康本人を襲撃しなければ、所詮戦いに負けるであろうとの考えであったが、味方が団結するため、この案に賛成する。赤具足をつけさせた真田軍は伊達の騎馬隊をけちらし、誉田から藤井寺に渡って陣を構えたが最終的には木村重成や長宗我部盛親の敗北を受けて、大阪城に撤退した。明けて翌日、最後の僥倖を期して、天王寺口で家康の本陣を突くため、茶臼山に陣を構えた。真田の赤備えである。家康の本陣にたびたび突入するが家康をみつけることができず、真田隊の兵士とともに討ち死にする。享年49歳。46歳という説も或る。

義理と忠義をつくした悲劇の名将として語り告げられることになる。なにが彼をそれほど駆り立てたのか? 関ヶ原の戦いで勝てると読んだのか?家康のやり方に生理的な嫌悪を抱き、それと上田のような弱小大名を虫けらのように扱ったことが許せなかったのか?あれほど策略家の家康がなぜ、真田父子をうまくあしらい、味方に付けておかなかったのか?これほどの働きをするとは予想だにしなかったのではないか?
いずれにしても男の意地を押し通した。九度山にこもって15年。うわべは平静を装い、もの静かに隠居暮らしをしていると見せかけて、内面真っ赤にやけたマグマが沸々と噴火の時を待っていた。なにが彼を長い年月を経ても、変わらない魂を与え続けたのか?意地ということ以外説明する言葉を持たない。これぞまさに、一武将が大きな権力に立ち向かい一矢を報いたいとの命をかけての意地であった。


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