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秋山真之の憂い

2009年03月26日 19:16

日露海戦後の秋山

秋山真之は日露海戦でバルチック艦隊粉砕のための全面的戦略を立て、縦列に突入して来るバルッチック艦隊の前面で、古来よりやっては成らないとされていた敵前回頭を行い、丁字戦法を採り、大勝した事は有名である。我々も「坂の上の雲」などで日露海戦の時の秋山真之の行動は良く知っている。しかし彼の晩年のことについてはあまり知らない。

秋山真之は松山中学では10番あたりをうろうろしていたが、卒業の年になり、東京へ呼んでもらうために、一番になると決めるとその目標を達成した。また海軍兵学校(江田島)も首席で卒業した。成績優秀者は海外留学組に選ばれる。5名の成績優秀者(1番から3番まで)がえらばれアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスおよびロシアへ留学したがただロシアへ留学した広瀬武夫は例外的に席次が低く64番であった。彼は人が目を付けないロシア語を会得し、当時の列強の一つであるロシアに早くから目を付けていたのが認められた。広瀬武夫は後に旅順港閉塞作戦で壮烈な戦死を遂げる。秋山はアメリカに渡ると戦術戦略の大家マハン大佐に師事し海軍戦略を研究する。

ちょうどタイミングよくサンチャゴ海戦がおこり、実地に視察する幸運に恵まれた。この戦いはアメリカとスペイン海軍の戦いで、サンチャゴ港閉塞作戦、ダイクイリ上陸作戦、両海軍艦隊の海上決戦と行われ、アメリカ海軍が太平洋上での覇権を握るようになった戦いである。秋山真之はつぶさにそれらの戦闘を観察し、10章にも上る長文の報告書を帝国海軍軍令部に提出した。極秘情報118号とされたこの報告書は正確で広汎な観察と独創にみちた分析で、日本海軍の歴史上空前絶後の傑作とたたえられ、彼の天才ぶりを一気に高めた。秋山真之31歳。
その後、英国をまわって帰国した秋山は常備艦隊参謀をへて、海軍大学校の教官となり、戦務、戦術、戦略の講義を担当する。この名講義ぶりも彼の名を高らしめる。その戦術の講義では明治の時代に「現時すでに頭角を現し来たりたる軍用軽気球、又は潜水艇などが益々発達し、巡洋艦が空中を飛行し、戦闘艦が海中を潜航するに至ったと想定してみれば、もはやこのときの戦場は平面ではない。立体的である。戦術のみではなく現時全盛の海軍なるものも無用の長物となった、空軍万能の時節となりましょう」と予言している。しかし彼の予測があり、山本五十六の主張で真珠湾での空軍の大活躍があったにもかかわらず、日本海軍は結局、大鑑巨砲主義から逃れる事ができなかった。秋山真之は飛行機や潜水艦という実態を見ずとも予測できたにもかかわらず、昭和の海軍は実際に目の前で空軍の活躍を見ていても、それを認めようとはしなかった。そこに秋山や山本の深い深い憂いがある。

バルッチック艦隊を殲滅するため、連合艦隊が出撃した。その時「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動しこれを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」という名文を打電して出撃。さらに東京湾に凱旋し,天皇陛下へ凱旋の報告も秋山真之が書いた。「客歳2月上旬、連合艦隊が、大命を奉して出征したる以来、既に一年有半、今日再び和平の秋に遭い、犬馬の労を了へて大とう(天皇旗)の下に凱旋するを得たり」さらに続けて「天佑と神助により我が連合艦隊は5月27、28日敵の第2第3艦隊と日本海に戦いて殆どこれを撃滅することを得たり。我が連合艦隊が能く勝を制して奇跡を収め得たるは一に天皇陛下御稜威の致すところにして固より人為の能すべきにあらず。特に我が軍の損失死傷の僅少なりしは歴代神霊の加護によるものと信仰するのほか無くさきに敵に対し勇進敢戦したる麾下将卒も皆この成果を見るに及んで唯感激の極言言う所を知らざるものの如し。」と
連合艦隊解散の辞では「武人の一生は連綿不断の戦争にて、時の平戦に由りその責務に軽重あるの理なし、事あれば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本文を尽くさんのみ。――――神明はただ平素の鍛錬に力めたたかわずしてすでに勝てる者に栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に案ずる者より直ちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」とこの名文に感激したT. ルーズベルト大統領は全文を翻訳して陸海軍に配ったとされる。

天下の名参謀は名文の持ち主で、人を文章でも感動させる。諸褐孔明の出陣に臨んで奉った「出師の表」も名文として名高い。先帝劉備の遺徳を偲んで、自分が受けた恩、その時誓った漢王朝再興へ向けて、魏を滅ぼさなければならないとの思いの深さが切々と書かれている。

秋山真之は海軍大学校教官にもどった。その後音羽艦長、伊吹艦長と艦隊勤務を歴任。大正2年同期のトップをきって少将となっている。軍務局長に任じられた頃から、海軍戦略を越えて国家の外交に関心を持ち始め、孫文の運動を助けた。しかし、ときの外務大臣加藤友三郎は政治的介入を嫌い、秋山を更迭する。

秋山は海軍兵学校を首席で通し、その後も同期のだれよりも早く出世し、日本海軍の英雄となった男が、その炯眼が世に入れられなくなり、組織から浮き上がっていく運命は、壮絶かつ悲壮的である。
秋山も、幸村も強いては孔明も山本五十六までも結局はその才能、能力が周りの人間より、あまりにも秀でていため組織から浮き上がり、真意を理解できる能力の者がいない。それがこれら歴史の勇者を孤独にし、深い憂いを持たせる原因となっていった。
大正6年海軍中将に昇進。その頃から病床にふけるようになる。病床の秋山は戦略を説き続け「海軍は飛行機と潜水艦の時代になる。その研究発達に万全を期せられたい。」「米軍とことを構えてはならぬ。さもないと、日本は大変な苦境になる」と言っていた。

辞世の句 「不生不滅明けてカラスの3羽かな」49歳11ヶ月の人生であった。


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