スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

湊川の戦い

2009年06月11日 12:19

楠正成

今朝方から雨も本降りとなり、梅雨に突入した。窓を開けているとひんやりとした風に肌寒い。時折車が雨を轢いて走る音を聞きながら仕事をするのが好きだ。車のたてる喧噪が雨音にかき消されて、雨をはねる音だけが聞こえてくる。

楠の通りに面して湊川神社がある。湊川神社は楠木正成を奉った社である。
後醍醐天皇方の楠正成と新田義貞の連合軍はここ神戸の地、湊川で足利尊氏と足利直義の軍を迎え撃った。
足利尊氏は一時期新田義貞や楠木正成らに破れ、九州に落ち延びていた。楠正成はこの有利な折に尊氏と和睦する事を進言するが、後醍醐天皇の聞き入れることとならず、新田義貞に追討を命じ、正成は国元での謹慎を命ぜられる。しかし義貞が播磨の国の白旗城の赤松則村を攻めあぐねている間に、足利方は体制を立て直し、京都に攻め上がってきた。危険を感じた義貞は兵庫まで撤退し、この地で立て直しを計った。後醍醐天皇は正成に救援を命じた。ここで湊川の戦いと称する戦いが勃発する。

新田軍は本陣を和田岬と会下山の中間地点の2本松におき、和田岬にも軍勢を配して足利軍の上陸に備えた。楠軍は湊川の西の会下山に陣を敷いた。足利直義を司令官とする主力部隊は西国街道を進み、和田岬の新田軍には少弐頼尚が側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する

ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
神戸駅から歩いて5分の所に、楠木正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。

スポンサーサイト


最近の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。