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無常

2008年04月03日 10:51

神戸は平家一族の本拠地、福原があったのと一の谷の合戦が行なわれたこともあって平家ゆかりの地が多い。平家といえば誰でもが栄枯盛衰の物語、平家物語を思い浮かべる。
特に冒頭の一文。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
は誰でもが一度は目を通した,日本人の心の中に流れる無常を的確に言い表したものである。平家物語の敦盛最後の章は涙なくしては読まれない。若干16歳の平家の公達であった敦盛は一の谷の合戦で破れ、船に乗り、逃れようとしたところを熊谷次郎直実に呼び止められ、引き返し切り結んだ結果,討たれる。打ち取った直実も敦盛が我が子と同じくらいの歳の薄化粧した美少年である事が分かり、世の中の儚さのあまり出家した。敦盛は横笛の名手として知られ、討たれたときも鳥羽院より賜った青葉の笛を所持していたという。敦盛最後の場面は後に能、幸若舞、謡曲、歌舞伎の題材として取り上げられる事となった。
信長も幸若舞の敦盛の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」の歌を愛し、己の心情、生き方を現したものとしてよく敦盛を舞ったと言われている。
西行法師は命の儚さ、世の無常さが分かり、出家して世を捨てたが、信長はだからこそ人生を自分の思った通りにできるかぎりやってみようと行動したのであろう。だから本能寺で光秀の謀反を聞いて、逃れられぬと分かるとただ一言「是非もなし」と死に赴くことができたのであろう。
日本人の血の中には生きとし生けるものへの慈しみ、生の儚さを感受する遺伝子が流れ、外人には理解し難い、日本人感を構築している。

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コメント

  1. くりくり | URL | -

    須磨区観光協会(自称)

    そう、神戸は平家ゆかりの地、是非ともその醍醐味にふれてみて下さい。まずは、那須与一の墓。その名も那須神社。堂内に与一の墓が安置されてます。そして、須磨寺!本堂へ行く途中の宝物館には、青葉の笛、敦盛の木像などが展示されています。そう、あの青葉の笛です。何か敦盛の魂が吹き込まれているようで身震いします。(見る人の価値観によりますが、、、(笑))境内には、敦盛首塚、首荒池などの伝承地が、、、、。それと、平重衡とらわれの松跡。山陽電鉄須磨寺駅前ですが、昔、腰掛けの松といわれた大きな松があったそうですが、今は碑が立っているだけになっているのが哀しい。一の谷合戦に敗れ、生田の森(今の東門街あたり)を守っていた重衡も、湊川から須磨へと敗走、けれど、ついに生け捕られ、この松の根に腰をおろして無念の涙を流したそう。本当に、もしこの松の木がまだあったなら、、と思うのは私だけではないでしょう。須磨浦公園には敦盛塚がありますが、これは、平家一門を供養するため作られた「集め塚」なのだそう。ちなみに、須磨寺近くには、須磨の関所が設けられていたそうで、あの、淡路島、、、、、、いく夜寝覚めぬ須磨の関守の関所です。関守稲荷神社にはこの歌碑が立っております。ただし歌碑だけです!全く、当時の面影など見る影もない現在の神戸ですが、目を閉じて、その地にたたずめば、古の武将達の雄叫び、ひずめの音、落人達の無念の思いを、感じることができるかもしれません。ということで、ぜひ、神戸の平家物語観光ツアー、もしくは源平合戦体感ツアーをお勧めします(自称、神戸観光協会)。ですが、なにせ当時の遺構がほとんど残っていなので、旅する人の想像力如何で、旅が100万倍にも魅力いっぱいに膨れ上がることもあれば、その逆もまたありというギャンブル的な旅になることを保証致します。好いとう、神戸!になって下さいね。

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