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My faraway

2009年06月24日 17:38

無情

大学で知り合って無二の親友となったHKは理系の学生では珍しく万葉集がとても好きでした。そのせいもあって妙に文学好きの僕と気があい、よく奈良の万葉の里を訪ねて歩き回ったものだった。その頃のぼくはどちらかというと万葉集よりも古今集や金塊集などの和歌の方が洗練されているようで好きだった。

午前中で学校を抜け出し、奈良へ急いだある日の夕方。「あああれが天の香具山でこれが畝傍山か耳成山か」などそこここに見える山や川全てが万葉の舞台。中大兄皇子の歌「香具山は 畝火雄々しと 耳成山と 相争ひき 神代より かくにあるらしいにしえも しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」を思い浮かべながらとぼとぼと日の暮れかかる大和路を歩いた。時は晩秋、麓にはすでに夜陰が忍び寄り、急に肌寒く感じられるようになって、残光が山の頂を茜に照らし出し、その神々しさにうっとりとしたものだった。その残光も色褪せてあたりが夜の帳に包まれ始めると、なぜか急に寂しく、物悲しくなり、二人は無言で家路を急いだのでした。

その彼が突然、死んでしまった。30歳を目前にしての自殺でした。残暑の残る暑い暑い夏の終わりでした。僕はおそ巻きながらやっと人生の方向を決めて、研究で身を立てようと決心し、秋からアメリカに留学するという一ヶ月前の出来事でした。そのため、今やっている仕事を片付けようと夜遅くまで必死で働いていて、自分のことばかりで精一杯、彼がわざわざ死のひと月前に東京に訪ねて来てくれたときも、自分のこれからの夢や抱負ばかりを一方的に話したに違いありません。もう少し彼が何を求めているのか、わざわざ訪ねてきた訳を察してあげる事ができたらと悔やまれてなりません。それからほどなく、突然の電話で、慌ただしく徳島に飛び、葬儀にでることになりました。身体も魂もふぬけになったように、その時のことは余り覚えていません。ただ火葬場での煙が風もない昼下がりの暑い中を、まっすぐに上っていくのをじっと見つめ、魂もあの煙とともに昇っていくのかなとぼんやり思っていました。夏の終わりを惜しむかのように蝉の鳴き声だけがあたりを包み、いっそう暑さを増していました。僕は流れ落ちる汗を拭きながら、炎天下に立ち尽くす事しかできませんでした。

一見、彼は周りからは公私ともに順調にいっているように見えました。同級では一番の出世頭ですでに助教授になっていましたし、結婚も予定されていました。なぜ死んだのか遺書がなかったので、その理由は今となっては分かりようもありません。全く自殺する理由など考えられないくらい、うらやましいくらい傍目からは順調に見えました。
突然、心におおきな穴がぽっかりと空き、例えようのない侘しさを感じました。人生の無情、不条理を感じました。

そんな彼が好きだった歌 「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和しうるはし」や 「あおによし奈良の都に咲く花のにおうがごとく今盛りなり」をどこかで耳にする度、未だに心がきゅんと縮こまり、人って何だろう?生きるって何だろう?と心が叫びます。

その後、すぐに留学をし、お墓に参る機会がなかったので、帰国してとるものもとりあえず墓参りをしました。彼の実家は北九州の小倉にあり、ご両親と弟さんとの3人家族でした。ご両親に会って何を話したかは定かではありませんが、朝日新聞の記者をされていた厳格そうなお父さんは「亡くなった親孝行なHとはできが違い、どうしようもない弟は早稲田を出た後、ぶらぶらしていたけど、今は落ち着いて予備校の先生をやっている」とすこしあきらめたようなそれでいて許しているような寂しげな顔で話された事だけを覚えています。

墓は父親の実家のある山口県の田布施の田園地帯の真ん中の灌木の生い茂った丘の麓にありました。夕暮れまじかで、日が落ちるのとの競争でタクシーを乗り付けての慌ただしい墓参りでした。実家は父親の兄が跡を継ぎ、農家を守っておられました。墓参りを終わるとあたりはまさに漆黒の闇に包まれ、ぽつんと田んぼの中に建つ一軒の農家の明かりが妙に明るく輝いて感じられました。
あれからもう30年以上になります。もう一度、最後のお参りをしなくてはと考える歳になってきました。



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