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アヘン戦争

2009年09月18日 16:09

林則徐
ここに男の中の男。常に清廉潔白,私事を顧みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた人物「林則徐」を紹介しよう。
福建省侯官に生まれる。父は科挙に挑戦して悉く失敗したため、貧しい教師生活をしていた。林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、1811年、27歳の時に科挙に合格し進士となる。
ちなみに最終試験の筆頭合格者を状元、2位を傍眼、3位を探花という。林則徐は7位合格。北京の翰林院に入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。

当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺するという卑劣な手段をとった。
しかしあまりにアヘンの被害が大きいのと、大量の銀が流出していくのを抑制するため、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて焼却処分した。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。そこで、クェーカー教の教義に従ってアヘンを扱っていなかったトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出してひき止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にイギリス本国の議会でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後の首相)らを中心に「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は林則徐の位階を剥奪、罷免し、イギリスに対する政策を軟化させた。
林則徐は新疆に左遷され、万里の長城の最西端にある嘉峪関から単騎新疆に向かった。 その時に詠んだ歌。「一騎 わずかに過ぎれば即ち関を閉ず
 中原首をめぐらせば涙痕潸(さん)たり」と
林則徐「出嘉峪関感之賦」
1849年に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。しかし任地に赴く道中に病死した。

西洋事情の調査を積極的におし進め、その資料を友人の魏源に送り、魏源はその資料を基に大著「海国図誌」を上梓した。この本は西洋化への転換を促したもので、日本に伝えられ、明治維新の原動力ともなった。また民衆の力量を信頼しこれを対英戦力に編成して長期遊撃戦態勢を整えたことなどは、高杉晋作の奇兵隊の発想につながる。。

清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。この戦争の発端となった恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。
阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。それまで異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた幕府は、この戦争結果に驚愕し、薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる。この幕府の及び腰が、やがて明治維新という大きな流れとなり、日本を近代国家へと生まれ変わらせる事となる。アヘン戦争は醜い帝国主義の卑劣さを露呈し、それが他山の石となって日本は欧米列強に備える事ができた。
林則徐は正義を通そうとして、孤軍奮戦、力の無い正義は武力ある邪悪には敵わず、新疆への追放の憂き目に遭う。歴史に翻弄され、国家に翻弄されたが己の信念を貫いた一生であった。

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