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いい研究には馬鹿さが必要

2010年01月04日 17:53

Importance of stupidity in science


新年にあたり、若い研究者への教訓をSchwarz博士のEsseyから拾ってみた。
研究において馬鹿になることが必要との考えは自称penpenも感じていた事である。今時の学生は多くのものを詰め込み、知識が豊富であり、成績のいいものが研究者になっている。しかし過去の知識に縛られ過ぎると独創性のあるいい研究はできない。成績優秀で良くできる生徒程、過去の知識から離脱できない。馬鹿になって知識の壁の外の出よう。そして自身の自由な発想で研究しよう。


Essay by Martin A. Schwarz (J. Cell Sci. 1771, 2009)

 最近久しぶりに古い友達に会った。二人は分野こそ違っていたが、同時期にPh.Dの学生として科学を学んでいた。しかし彼女は後に大学院を飛び出し、HarvardのLaw Schoolに行き、今では大きな環境団体の弁護士として活躍している。何故大学院をやめたのかという話になった。驚いた事に、彼女は科学をやっていると自分がばか馬鹿に思え、惨めになったたと言った。毎日、自分がばかに感じるようになって数年後、何か違う事をやろうと決心した。
私は彼女が最も優秀な生徒の一人だと思っていたし、その後のキャリヤーもそれをうらづけている。彼女が言った事が私を悩まし続けた。考え続け、ある日思いついた。私にとっても科学をやっていると、自分のばかさをたびたび認識させられる。そしてただ何も分からず馬鹿に感じることに慣れてしまった。そう、慣れてしまって、積極的に自分がばかだと感じられる機会を見つけようとしていた。そのような感情無しに何をなすべきか分からなかった。

殆どの人にとって、高校や大学で科学を好きになる理由の一つは科学が得意だったことにある。それだけが唯一の理由ではない。物理の世界を理解するのにうっとりとするとか新しいことを見つけることにも惹かれる。
しかし高校や大学の科学とはそれを授業で専攻する事を意味する。そしてそのコースで良くできるとは試験で正しく答えることを意味する。もしあなたが問題に正しく答えられるなら、それは「よくできました、賢いね」とほめられる。

しかし、Ph.Dコースではプロジェクト研究をしなければならない。それは決定的に今迄の勉強と違う。私にとって博士課程の課題は意気消沈するようなものであった。いかにして意味のある発見にたどり着くか、デザインし、解釈をして完全に正しい結論に迫る事ができるであろうか。困難を予見し、様々な方法を見つけ問題を解くことができるであろうか。私のPhDプロジェクトはいささか学際的でしばらくは、問題にぶち当たるたびに、様々な領域に堪能な学部の教師を煩わした。Henry Taube(Nobel 賞受賞者)は私が持っていった彼が専門の領域の問題を「どう解いたらいいのか分からない」と言ったことを覚えている。そのとき、私は大学院の3年生で、Taubeは私より1000倍も知識があるだろうと思っていた。もし彼に答えがないのなら、だれも答える事ができないであろうと思った。

誰にもその問題を解く事はできないのだとぴんときた。だからそれが研究問題なのだと。そしてそれは自分の研究問題であるから、問題を解くのは自分しかできないと。その事実に気づいたら、その問題を数日で解決する事ができた。(それは実際にそれ程難しい事でもなく、ただ2-3のやらなければならないことをしただけだった。)それから得られた決定的な教訓は知らなかった事柄への視野が単に狭かっただけではなく、全ての実際の目標に対して、知らない事が無限にあるということを気づかせたことだ。そのように無知に気づく事はがっかりするのではなくて、自由に解き放たれることである。もし我々の無知が無限であるなら、行動可能な唯一の道は一生懸命やってどうにか切り抜けるということだ。

我々のPhDプログラムはしばしば学生達に2つの意味でひどい仕打ちをしていることを指摘したい。最初に、生徒が研究する事がいかに難しいかを理解させていない。そして重要な研究をすることがいかに難しいかを理解させていない。それは全ての非常に困難な専攻をとるより更に難しい。ことを難しくしているのは研究が未知のことばかりであることである。我々がいま何をしているのか分からない。そして正しい質問をしようとしているのか、正しい実験をしようとしているのか、その答えや結果を得る迄は分からない。明らかに、科学は研究費稼ぎの競争のためますます厳しくなって来ている。しかしそれらの事柄を離れてみても、重要な研究をするという事は本質的に困難な事で、学部の、研究所のまたは国の方針の変更ではその本質的な困難さを軽減する事はできない。

2番目に我々は生徒にいかにして生産性の高い馬鹿になれるかをうまく教えきれていない。即ちもし馬鹿らしく感じないのであればそれは実際に何も挑戦していない事を意味する。クラスの他の生徒があなたができないような資料を読み、それについて考え、試験でいい成績を取るという比較的な馬鹿さについて話しているのではない。科学は敢然と立ち向かっていく絶対的な馬鹿さを含んでいる。そのたぐいの馬鹿さは未知の分野に道を拓こうとする努力に常についてまわるものなのである。

重要な問題を集中して解決しようとすると、全く何も知らないんだという居心地の悪い立場に立たされる。科学が美しい事の一つは随分時間をかけ、間違いだらけの後、やっとその時々に何かを得ることができることである。疑いもなく、決まりきった正しい答えを得る事に慣れてしまった学生にとってとても難しい事かもしれない。科学の教育は、他人が発見したものを学ぶ事からあなた自身の発見へと、非常に大きな移行期をやり易くしてくれるだけだ。
馬鹿になって緊張せず心地よくなればなるほど、未知の世界により深く入り込め、そしてより大きな発見ができるようになるであろう。

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