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秀吉の三木城攻め

2010年03月26日 13:21

三木城攻め

三木城は神戸の北西20km, 明石の北19kmの地、京都と有馬を結ぶ湯山街道の要所にあり美嚢川の南岸の台地にあった。
天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させた。播磨の守護代である小寺氏や別所氏など有力武将は、秀吉率いる織田軍に加勢することを約したが、足利義昭が、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働きかけていたため、別所長治を中心に播磨の武将は織田方に反旗を翻し、三木合戦へと発展した。天正6年(1578年)から2年弱に渡って、羽柴秀吉と別所長治との間で、激しい攻城戦が繰り広げられた。秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行い、得意の兵糧攻め(三木の干殺し)を行った。その結果、城主長治は領民の命を救うため、天正8年(1580)1月、一族とともに自刃し開城。
本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っている。公園内には別所長治の辞世「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」の歌碑や、城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」、そして近年立てられた別所長治像がある。

また。秀吉の軍師であった、竹中半兵衛は京で病の治療に当たっていたが、先の長くない事を悟ると、急遽秀吉の忠告を振り切って三木に戻り、自分の亡くなった後の策を秀吉にさずけた。三木が竹中半兵衛の終焉の地となり、郊外に墓がある。

摂津、播磨の国は新興勢力の信長がまさに京から西に向って版図を広げようとした勢力と従来の中国地方の支配者毛利とのせめぎ合いの場であった。別所長治にしても荒木村重にしても、日頃から毛利の勢いを感じていたし、信長のやり方が余りにも残忍、神をも恐れぬ仕打ちには反発していたことや、毛利が対抗してやってくれるのではないかとの期待も大きかった。そこで毛利方についたのが間違いのもと。信長への反感も手伝って、情勢判断を誤った。戦国時代の判断ミスは即死につながる。

いまのH首相も判断ミスが多い。政権についた直後に、沖縄の普天間基地を海外,少なくとも沖縄県外に移すと豪語せず、そうしたいけど、自民党時代にすでに約束した事もあり,難しいかもしれないと言っておれば,全然違う世論になったであろう。小沢一郎問題もしかり。情勢判断は難しい。


三木城趾にある遺構。
写真1別所家一族の辞世 2別所長治の辞世の句碑 3三木城想像図 4三木城趾案内 5竹中半兵衛墓詩 6竹中半兵衛の墓 

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