スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

摂津、播磨の国をめぐっての攻防(2)

2010年05月06日 18:22

秀吉と毛利の攻防と赤松氏の没落

 戦国時代以前の播磨きっての名門といえば赤松氏である。しかし毛利が台頭し一方で織田信長の中国地方進出の野望により、毛利と織田という強力な戦国大名のせめぎ合いの狭間にあって赤松氏一族は押しつぶされてしまった。

赤松氏が大勢力を獲得するきっかけは赤松則村(法名円心)の時代である。円心は鎌倉幕府討伐(元弘,建武の争乱)において最初は後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受け天皇方として参戦していたが、戦功に対しての恩賞に不満を持ち、足利尊氏方に寝返った。湊川の戦いにて楠木正成を打ち破り、室町幕府が成立すると則村は播磨の国の守護職に、長子範資は摂津守護職に任じられ、一躍歴史の表舞台に踊りでた。一時期は京極、一色、山名と並び四職の一家にまでなったが、1441年赤松満祐の代に将軍義教を殺害(嘉吉の乱)という騒動を起こし、赤松宗家は滅亡してしまう。

その後、応仁の乱の活躍で播磨、備前、美作の守護職に返り咲くが、播磨回復を狙う山名氏との泥沼の戦いのうちに、消耗して行く途中、信長の中国地方進出が訪れる。信長は中国攻略の先鋒に赤松氏一族の別所長治を考えていたが、加古川城での軍議において、長治は秀吉の配下に置かれる事になり、秀吉のような百姓からの成り上がりものの下につかされたことに腹を立て、反旗を翻し、三木城に立てこもったと言われている。これを中国進出の脅威と感じた織田信長は当初、三木城攻略に織田信忠をあて、秀吉は山中鹿之介の篭城する上月城へと救援へと向った。しかし三木城は前面に美嚢川を望み、背に裏六甲の帝釈山脈を配した難攻不落の城で、織田信忠には荷が重すぎたため、秀吉自らが三木城攻めを行うことになり、世に言う「三木の干殺し」の兵糧攻めを行った。天正8年(1580年)正月に食糧が尽き長治及び一族の自刃で三木城攻略の幕を閉じた。

しかしその間に上月城は毛利軍に責め立てられ陥落し尼子勝久が敗死し、山中鹿之介は捉えられて処刑されてしまった。更に、悪い事には荒木村重が謀反を起こし、摂津有岡城に篭城した。
西播磨に位置する上月城は備前、美作、出雲への要衝の地にある城で、赤松政範が城主を務めていた。秀吉は赤松政範に対し、信長への恭順を礼を尽くして勧めたが、結局毛利との同盟関係を優先させるに至り、秀吉の上月城攻めが始まる。秀吉は天正5年(1577)12月、総攻撃を敢行し上月城は陥落し、山中鹿之介に兵500を授け、引き上げた。しかし山中鹿之介が主君尼子勝久を迎えるべく、上京している間に、毛利の盟友の宇喜田直家が城を攻め奪回した。秀吉は再度上月城を攻め、上月城を奪取する。上月城を、お家再興の足がかりにしようとしていた山中鹿之介であったが、毛利に攻め立てられ、またも落城。尼子家は滅亡し、山中鹿之介は斬首されてしまった。

しかし上杉謙信が死去、更に顕如率いる石山本願寺の攻防戦で毛利水軍、村上水軍が第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に大敗北を喫し、次第に戦況は毛利側に不利となっていった。そんな折、謀将宇喜田直家は今度は毛利と手を切り、信長に臣従するようになり、備前(岡山)まで信長の息がかかるようになった。

こうして摂津、播磨の要所である摂津の有岡城、播磨の三木城、上月城を手にした秀吉は、姫路城に陣取って毛利攻略の拠点とする。秀吉は次に前線指揮官として毛利の最前線、清水宗治が城主の備中高松城を攻める。高松城の周囲は沼地で難攻不落を誇っていた。秀吉はここでは、軍師の黒田孝高の進言を入れ、世に言う「高松城水攻め」を行った。城は水没の危機に陥いり、食糧も尽きてまさに飢餓地獄状態になっていた。
しかし天正10年(1582年)6月2日、そこに青天霹靂の事態がおこる。主君織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺されてしまった。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返すいわゆる「中国大返し」を行う。

その後の事はよく知られているように、秀吉は明智光秀を打ち取り、柴田勝家との確執、戦闘にも勝ち、徳川家康を押さえて天下を統一した。毛利輝元はしかしながら天下の大勢が固まるまでは、秀吉、勝家に対しどっち付かずの態度を取っていたが、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利するや、秀吉に臣従する。ここに長年の秀吉と毛利との闘争が終わり、毛利は秀吉の配下に入った。

摂津、播磨を支配していた赤松一族は、些細な理由で信長に抵抗し滅んでしまう。信長の力を見くびっていたのか、毛利を頼りすぎたのか? 結局毛利は肝心なとき頼りにならなかった。その点、権謀術数を多用し平気で裏切りを行って来た謀将宇喜田直家は毛利とより密接な関係で同盟を結んでいたにもかかわらず、情勢が織田に傾くとさっさと寝返り、信長から本領安堵のお墨付きもらう。

戦乱の世を生き残るには人間らしい義理とか人情という精神はかって邪魔なのであろう。しかし歴史とは皮肉なもので直家死後、嫡男秀家は秀吉の寵愛を受け、秀吉の養子になり、秀吉政権の五大老にまでに上り詰めるが、関ヶ原で西軍につき破れ、57万石の大名から八丈島へと配流される。ここに宇喜多家は直家死後わずか一代で消滅する。こうしてみると、人のいい人情溢れる性格では結局生き残れないのが人の世の厳しさか。でも秀家の優しい性格が彼の命を助ける事にもなる。豊臣の重臣で、関ヶ原でも西方についた武将で命を長らえる事ができたのは秀家くらいであろう。人の運命とは分からないものである。


スポンサーサイト


最近の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。