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天空のラピュタ竹田城

2010年11月17日 17:30

幻の名城

姫路から北へ60kmあまり入ったJR播但線の竹田駅の近く、虎臥山の山頂に竹田城跡がある。別名虎臥城と言われる。この城跡の紹介を今年の夏に撮ったきた写真をもとにしよう。

城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。
晩秋から冬にかけてよく晴れたまだ空けやらぬ朝まだき、川面の霧が立ちこめ、山麓をすっぽりと覆うと、雲海の上に竹田城が浮かび上がって現れる(写真1)。

東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山の山頂に築かれ、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

築城に関しては、不明な点が多い。1431年但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる。
 戦国時代に入ると、織田信長は中国地方の毛利攻略の手始めに、播磨国に羽柴秀吉を派遣した。秀吉は天正5年(1577年)10月、姫路城に入城し、それから一カ月で播磨国の諸将から人質をとり帰服させた。その後、羽柴秀吉軍は二手に分かれて、本隊は上月城を攻城、羽柴秀長隊は三千の兵を率いて但馬国に進軍した。竹田城は生野銀山を管轄しており羽柴秀長隊の第一目標になった。同年11月羽柴秀長隊は真弓峠から但馬国に侵攻、まずは岩州城を攻城し次いで竹田城を攻城し、羽柴秀長が竹田城の城代となった。

羽柴秀長は天正7年(1579年)5月、織田信長の命により明智光秀支援のため竹田城から丹波国へ攻め入った。その後羽柴秀長は竹田城に入らず播磨国に引き上げた。その隙を縫って毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び織田信長の命により羽柴秀長が6400の兵を引き連れ但馬攻めを開始、竹田城、有子山城ともさしたる抵抗もせず降伏した。出石城の城主山名祐豊、竹田城の城主太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。
羽柴秀吉は羽柴秀長を有子山城主に、また秀長の武将である桑山重晴を竹田城主へと命じた。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって但馬国出石城に前野長康、付将として豊岡城に明石則実、八木城に別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が竹田城の城主となった。広秀は2万2千石を領有し、城の大改修に着手して文禄年間から慶長の初期に、現在見られるような豪壮な石垣積みの城郭を築き上げた。13年を要したと言われる。竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ技術で、近江穴太衆(あのうしゅう)の手による穴太流石積み技法が用いられている。野面積みで、石材は現地のほか山麓付近から集めたものと考えられ、花崗岩で最大のものは5トンと推測されている。

最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年(1600)鳥取真教寺にて切腹。享年39歳。竹田城は廃城となった。

今見られるのはその当時の城郭を支えていた石垣のみであるが、峻険なる山の山頂にこれほどの壮大な山城を建築したものだと、今更ながらその当時の難工事が想像される。城跡からは丹波の野山が一望され(写真)、当時の華麗にして豪壮な城が偲ばれる。一度訪れたらその壮大さ華麗さの虜になること間違い無し。

今まさに絶好の季節、霧に包まれ、錦秋を纏った天空の城郭、竹田城跡を見に行ってはどうでしょうか。

写真1 霧に浮かぶ竹田城(明日の地球より) 写真2 竹田城跡案内 写真3 竹田城趾から見た景色 写真4 竹田城趾から見た景色 写真5 竹田城趾 写真6 竹田城趾 写真7 竹田城趾 写真8 竹田城趾 写真9竹田城山門 写真10-12 立雲峡からみた竹田城 写真2-12は自分で撮影。

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