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第2次世界大戦時の戦車の開発競争

2011年01月08日 13:10

戦車の開発にみるお国事情

 現在、メーカー同士の新製品開発競争は熾烈を極め、各社生き残りをかけて魅力ある新製品の開発を急いでいる。どんなに画期的な製品を開発しても、その寿命は短く、数年から10年に及ばない。悲劇的なのは、全く方式の異なった新製品が開発され、従来の製品がサドンデスの状態に追いやられてしまう事であろう。デジタルカメラの出現による、フィルム市場の消失や従来の超優良カメラメーカーの相対的地位の下落。iPodによるwalkmanの駆逐やTVの地デジへの変換や録画、録音装置やメモリー記録装置のめまぐるしい変化。どれを取り上げても、対応できない会社は生き残れない。製品開発の潮流を見極め、speedyに製品開発をする一方、何が起こっても素早く対応できる体制を常に整えている必要がある。その開発戦略には国民性、社風が大きく反映している。今日まで日本やドイツは精巧で良質の製品を次々に開発して世界の市場を席巻して来た。しかしそのトレンドが変化しつつある。圧倒的に大きなマーケットを持つ中国、インドのような開発途上国が市場となると全く異なった戦略が必要となる。何よりも安いことが優先され、実質的な製品が好まれる。韓国や中国はこれに対応してシンプルで安い製品を供給して成功している。

このような猛烈な開発競争は戦争時に極端になって現れる。ある新兵器が開発されると、それを上回る性能の兵器が開発され、更にそれを上回る性能の兵器が開発されるといういたちごっこのサイクルに入る。その際の兵器開発の戦略には国民性が反映される。日本やドイツは職人まがいの精巧な極限にまで性能を突き詰めた兵器が好まれ、アメリカやソ連は使い易く、故障しても修理が容易で、大量生産に向くものが好まれる傾向にある。この違いが長期戦の戦争に決定的要因を与えた。第2次世界大戦時の戦車の開発競争を調べてみた。
陸上戦における花形兵器は戦車である。飛行機で前線を叩き、偵察しそれに呼応して戦車が前進するという方式がとられた。特に戦車が活躍したのはヨーロッパ戦線で、大戦車団同士の激突が見られたが、アジアでは海軍力による戦いが主で、大規模な戦車による戦闘はなかったため、日本の戦車は貧弱なもののままであった。
戦車が本格的に運用されるようになったのは、第二次世界大戦に入ってからである。第二次世界大戦に使用された戦車の代表はドイツ軍のタイガー戦車、ソ連軍のT34戦車とアメリカ軍のM4シャーマン戦車。我が国にも戦車はあったがお粗末な97式中戦車で、欧米を相手には華々しい活躍はできなかった。

 1 電撃作戦と戦車
開戦当初、ドイツの主力戦車は?号戦車だったが、重量は20トン、主砲は37mm 砲であり、性能的に優れた戦車ではなかった。それでも、ドイツ軍はフランスをたったの3週間で占領した。ドイツ陸軍のハインツ グデーリアン将軍は、空、陸連携した電撃戦を展開した。それまでの陸上戦では、歩兵の速度に合わせ、戦車が進軍すると言う、あくまで歩兵の補完的な武器であった。グデーリアンは、まず航空部隊が、空から敵を徹底的に打ちのめし、その後、兵員を乗せた輸送車両が、戦車とともに急進撃、目標点に一気に攻め上がる、その際、戦線の伸びをつかれる恐れがあるが、スキを与えないほど迅速に進撃するという新しい戦略、電撃戦を考案した。つまり、この頃、ドイツ軍首脳部が重視したのは、高速で移動できる軽戦車であり、後に現れるタイガー戦車のような重戦車ではなかった。
しかしヨッロパ大陸は席巻できたものの、空軍力の不足で英国の本土攻略に失敗したヒットラーはソ連侵攻へと目を向けた。1941年6月、突如300万もの大軍を投入してソ連に侵攻するというバルバロッサ作戦を開始した。
 バルバロッサ作戦は、フランス侵攻作戦同様、ドイツの快進撃ではじまった。そのため、ヒトラーは、モスクワは冬までには陥落するだろうと楽観視していた。ところが、1941年初夏、ドイツ第18装甲師団は、迫り来るソ連の戦車隊にまじって、見たことのない戦車を発見する。ドイツ軍は、さっそく?号戦車で応戦したが、主砲の50ミリ砲弾が命中しても、この謎の戦車はびくともしない。それどころか、ただちに反撃され、?号戦車は火だるまとなった。
 そこで、ドイツ軍は最強の?号戦車を投入、75ミリ砲で攻撃したが、それでも貫通できない。ドイツ軍はパニック寸前に陥った。この謎のソ連戦車こそ、第二次世界大戦中、最高傑作の誉れ高いT34戦車である。ドイツ軍の対戦車砲や戦車砲では、T34を貫通できず、T34ショックを引き起こした。

2 T34 ソ連製戦車の登場
スペイン内戦やノモンハン事件の戦訓でBTシリーズは機動力は申し分ないが防御力に問題のあることが浮彫となり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車を求めるようになった。1937年、ミハイル・コーシュキンはBT戦車の後継戦車の開発を命じられ、独創的な新戦車を1939年12月にT-34戦車として完成した。T34の最大の特徴は、歴史上初の傾斜装甲にある。戦車のボディーラインが傾斜しているため、直進してくる砲弾を跳ね返しやすく、防御力が非常に高い。この傾斜角を持った装甲という画期的なアイデアは直ぐに他の国にもまねされてしまう。また、T34のエンジンはV12ディーゼルエンジンで、燃費も良好。しかも、ディーゼルエンジンにしては構造がシンプルで、メンテナンスも容易だった。
T34 spec
全長 8.15m, 全幅 3.00m, 重量 32t, 主砲 76mm, 速度55Km/h, 装甲 52mm,エンジン水冷ジーゼル
500hp。

 T34は、防御力のみならず、攻撃力も高かった。76ミリ砲という、世界最高水準の火砲を搭載していたからである。さらに、T34には、製造上のメリットもあった。T34 の砲塔は曲線で傾斜しているが、これは鋳造により製造された。鋳造は手間がかからず、素速く製造できる。一方、後に登場するドイツのタイガー戦車をはじめ大半の戦車は、複数の鋼板を組み合わせ作られ、手間も時間もかかった。T34のもう一つの特徴は、キャタピラの幅が広いことである。キャタピラの幅が広いほど、大地との接地面積が大きくなり、駆動力も増す。また、降り積もった雪の上でも、雪にめりこむことはない。つまり、機動力においても、T34 は抜きんでていた。1945年末までに、57,000台以上のT-34が量産された。初期型は76.2 mm 砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる。1944年には二番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。
 ドイツ軍は、このT34に対抗すべく、新型戦車の開発を急いだが、その結果、誕生したのがパンター戦車だった。T34同様、傾斜装甲により防御力は強化され、主砲は長大な75ミリ 70口径砲が採用された。ここで、75ミリ70口径砲とは、口径が75ミリで、砲身の長さが口径の70倍であることを意味している。同じ口径でも、砲身が長いほど砲弾が押し出される時間が長くなり、初速度が増し、貫通力も大きくなる。パンターの75ミリ長身砲は、1km離れた距離からでもT34の装甲を撃ち抜くことができた。 パンターは、その他にも様々の工夫がなされたが、何から何までドイツ式だった。つまり、複雑で、精緻で、高性能だが、量産にむかず、すぐに故障したのである。1943年、パンターは、歴史上最大の戦車戦 クルスクの戦いでデビューしたが、故障が頻発し、ドイツ戦車兵たちの信頼を失った。次に登場したのがタイガー戦車である。

3ドイツ軍最強戦車 タイガー戦車
タイガー戦車spec
全長 8.45m, 全幅 3.7m, 重量 57t, 速度 40km/h, 主砲 88mm, 装甲100mm, エンジン水冷ガソリン 650hp 製造台数 1300台

ドイツ軍はT34に対抗すべくそれよりも攻撃性に優れた戦車を開発すべく、パンター戦車を開発したが、使い勝手が悪く、それに変わる戦車としてタイガー戦車を開発した。タイガー戦車の特徴は、その圧倒的な攻撃力(主砲88mm)と防御力(装甲100mm)にあった。

先のT34の最大装甲は厚さ52mmだが、タイガー戦車は100mm。たいていの砲弾は、タイガーの装甲を空しくノックするだけだった。また、主砲は88ミリ砲という巨大な空を飛ぶ航空機を撃ち落とすための高射砲が取り付けられた。 このような、常識外れのぶ厚い装甲は、当然、重量にもあらわれた。重量は56トンで、先のT34の2倍もある。その巨大な重量をカバーすべく、650馬力のガソリンエンジンが搭載されたが、それでも力不足だった。つまり、機動力は完全に犠牲にされたのである。
 しかしその頃の戦況ではドイツ軍は防戦一方であったため、防御戦闘では低機動力はあまり問題にならず、タイガーの装甲の厚さと破壊力は全ての敵にとって恐怖の的だった。タイガー戦車の存在が連合軍兵士に与えた心理的影響は大きく、タイガー恐怖症を引き起こした。

4 連合国期待のM4シャーマン戦車
シャーマン戦車spec
全長 7.47m, 全幅 2.62m, 重量 32t, 速度 40km/h, 主砲 75mm, 装甲 75mm,   9気筒ガソリンエンジン 400hp 製造台数 5万台

 1944年6月、第二次世界大戦末期、連合国軍はフランスのノルマンディーに上陸した。この史上最大の作戦で、連合国軍の主力戦車となったのが、アメリカの新型戦車M4シャーマンであった。
 この新型M4シャーマン戦車は、GM、フォード、クライスラーなどアメリカの自動車工場で量産された。主砲は75ミリ砲を搭載。また、空冷9気筒の航空機用エンジンを搭載し、時速40kmを誇った。また、操作も簡単で、自動車なみに運転することができた。さらに、故障が少なく、シンプルな構造なため、メンテナンスも容易だった。この連合国軍自慢の戦車を迎え撃ったのが、ドイツのタイガー戦車だった。
 タイガー戦車とシャーマン戦車を比較してみると、最大装甲、主砲の大きさ、ではタイガー戦車がシャーマン戦車より上回る。しかし走行速度においては、M4シャーマン戦車が勝った。また、砲塔の回転スピードでもシャーマン戦車が上回った。つまり破壊力、防衛力ともタイガー戦車が勝っていたが、機動力においてはシャーマン戦車が勝っていた。                  量産ではM4シャーマン戦車がタイガー戦車を圧倒した。タイガー戦車は、構造が複雑なため、同じ手間で、他の戦車なら3台もつくれたほどだ。しかも、タイガー戦車は、他の戦車との共通部品も少なく、量産効果もうすい。つまり、高コスト体質だった。一方、M4シャーマン戦車は部品も標準化され、シンプルな構造のため量産が容易だった。今で言う日本製品対韓国製品の様であった。しかも、既存のデトロイトの自動車工場で、山のように生産することができた。結果、タイガー戦車の生産台数は1300台にとどまったのに対し、M4シャーマン戦車は5万台も生産されている。
ノルマンディーに上陸した400台のM4シャーマン戦車は、次々とタイガー戦車に破壊され、反撃のひまさえ与えられなかったという。また、ある戦場では、25台のM4シャーマン戦車が、待ち伏せしたタイガー戦車に遭遇、わずか30分で12台が撃破されたという。
 タイガー戦車の88ミリ砲は、1400mかなたのM4シャーマン戦車を楽々破壊できた。ところが、M4シャーマン戦車の75mm砲は、55mの至近距離でも、タイガー戦車に跳ね返されてしまった。やがて、ドイツ兵たちは、面白がって、M4シャーマン戦車をストーブと呼ぶようになった。砲弾が命中すると、M4シャーマン戦車がたちまち炎上したからである。まるで勝負にならなかった。
 しかし、最初はパニックに陥ったM4シャーマン戦車隊も、ようやく自分たちの優位点に気づく。数である。M4シャーマン戦車は4台1組となり、タイガー戦車1台に挑むことになった。スペックに対して数で対抗した。アメリカらしいやり方である。日本の零戦に対抗したのに似ている。

5 日本の戦車事情
陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、国産戦車開発が開始される事となった。
原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーバネ式サスペンションやディーゼル・エンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われた。こうして1927年に完成した試製1号戦車を経て、89式中戦車、95式軽戦車 、97式中戦車などの車輌が生産されたが、太平洋戦争において日本戦車はアメリカ軍戦車との対戦車戦闘で一方的に屠られる結果となった。なぜこれ程に戦車開発が遅れたのか?日本の主な対戦相手はアメリカで太平洋が主戦場になり、空母や飛行機、潜水艦などの戦いであった。日本が陸上で戦うのは近代兵器を殆ど持たない、中国や東南アジアの国々であった。そのため本格的な陸上戦が欧米諸国とおこなわれなかった。それに対しヨーロッパでは陸上戦が主な戦いになり、戦車と航空機の重要性が高かった。

初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年のノモンハン事件においては、97式は日本側の中戦車の主力として戦った。この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。特に主砲の貫徹力が低くすぎて、敵戦車を破壊するのが困難であった。そのため、後継の97式中戦車では対戦車能力を向上させる改良が行われた。しかし、日本は工業力が低く、十分な数な火砲を供給できなかった。特に90式のような自縛砲や対戦車転用可能な高射砲の製造能力は慢性的に不足(ドイツ軍のタイガー戦車の主砲は高射砲を転用)しており、それらを搭載した車両の増産が困難であった。
97式中戦車スペック
 全長5.55 m, 全幅2.33m, 重量 15t, 速度38km/h, 主砲 57mm, 装甲 25mm, ディーゼルエンジン170hp 製造台数 2123台

開発は三菱重工業。空冷ディーゼルエンジンを搭載。さらに空冷方式の採用は、当時の日本の工作技術では、技術的に複雑な水冷エンジンの量産が難しかったという事情があった。また、想定戦場である満州では、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であった。主砲として97式57mm後に47mm砲/47口径の戦車砲を搭載した。機関銃は口径7.7mmの九七式車載重機関銃を砲塔後部と車体前方に搭載した。しかしシャーマンM4戦車が登場して来ると全く歯が立たなかった。最大の欠点は装甲の薄さである。
太平洋戦争の最大の戦車戦は皮肉な事にサイパン玉砕時に行なわれた。昭和19年6月末のサイパン島の戦車第9連隊は同島に上陸していたアメリカ軍に夜襲突撃を敢行したが、M4シャーマンやバズーカのために全滅した。その頃の戦車製造技術においては、日本人特有の精密さ精巧さはまだなく、様々な問題が山積していた。しかし日本軍は本格的な戦車戦を戦う事がなく、戦車やその製造技術はそっくり温存され、戦後の自動車製造技術に向けられた。

6 国民性
ドイツはハイスペックで精巧、緻密な職人的な戦車を好んで開発し、アメリカやソ連は使い勝手の良い、低価格の量産可能な戦車を好んで開発した。一戦車同士の戦いでは、圧倒的にタイガー戦車が強く、それに対しアメリカやソ連は数でその劣勢を補った。その当時日本は一部の技術には優れたのもがあったが、工業全体としてはかなり遅れていた。特に戦車の様に周りに競争相手がいない分野での劣勢は甚だしかった。日本もドイツと同じように職人芸的なこだわりが強く、ゼロ戦に見られるが如く極限にまで機能が追求され、圧倒的に優位な戦闘機が戦争の初期に開発された事については以前のブログで述べた。しかしこの極限にまで追求されたエンジンや機体はそれ以上の改良が不可能であるという弱点を合わせ持つ。よってゼロ戦の後継機の開発が遅れ、重厚で小回りの利かない、しかしゆとりのあるヘルキャットが次第に優位に立って行った。こうしてみるとそれまでの長所が短所になり、短所が長所になる。いかにして短所を長所で補って敵(競争相手)を圧倒して行くかが重要な戦略となる。国によって、時代によって、価値観によってその価値は変化する。よってきめ細かいその場にあった戦略が求められる。

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