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小さな科学と大きな科学(2)

2011年03月11日 17:49

小さい科学の価値は、意義は?

Little, big Journal of Cell Science 124, 671-673 (2011)

ようこそすばらしい秋の日にお帰り。私は座って大西洋越えの飛行機を待っている。そこでみんな一緒に個人でやるよりも大きな何かを作り上げ、どのようにやるかの議論をすることを楽しむ。我々の議論に新たに加わったあなたのため、小さい科学と大きな科学について話そう。それと雪についても。

伝説のフォーク歌手で社会活動家のPete Seegerはバンジョーを持ってBig Little, Little Bigと歌う。大昔、遠く離れた銀河系で(実際はNew YorkのFishkill)で、突然彼の家に連れ込まれ、暖かな食べ物を食べ暖炉の前で数時間話した。そこで彼にバンジョーの言葉について聞いた。それはNative Americanのことわざで、「見上げなければならない」というのだと言った。Look upはGoogleを意味しているのではない。それが天気予報に関することわざだと気づくまで数週間かかった。大きな雪の固まり、小さな嵐、小さな雪片、大きな嵐。それは時々事実であり、時折科学にも応用される。

人の努力の賜物の科学への公共の支援について議論するのは非常に難しい。私はそれが芸術に対してのように容易であって欲しいと思う。(たとえそれが科学でなく芸術だとしても、それが受け入れ易い場所と受け入れにくい場所がある。しかしこの街でできる事はそれ程多くはないが、この街をすばらしくするために生物学研究室を作ろうなんて聞いた事無い。)科学的努力は一般的に好評に受け入れられているけれど、小さな科学は完全に敵の包囲網にあっている。私の知る殆ど全てのプログラムでは個人の研究室への支援は削られ、大規模に連携して行なわれるbigなものへの支援を好む。今このようなことが起こっていると知ってさえも、小さな科学を防衛している研究者は「ここはたぶん大きな連携した研究をやる次の世代の研究者を育成するところなのだ」と言いがちである。

そんなに昔ではなく、私は小さな研究室の責任者からNIHの副所長になった同僚と話した事がある。彼の仕事は生物医学研究に対しての政府の援助を決める事にある。私は個人の興味や熱意に基づく研究者個人の研究の重要性について話した。すると彼は急に話をさえぎり、あなたとあなたが重要だと思う小さな科学では、何もできはしないと怒るように言った。あなたが出した論文について一度でも公共の場でだれかが好意を持って話してくれたことがあったのか? 何もありゃあし無い。我々は治療法を必要としているのだ。我々が直面している大きな問題の解決法を必要としているのであって、論文ではない。あなたが面白いと思う事は重要かもしてない、しかし面白くないと思う人も大勢いる。多分、かれは闇の世界に引き込まれ闇の帝王になってしまったのだろう。

それは非常にショッキングなことであった。何が何やら分からなくなった。しかし彼は我々が考えなくてはいけない要点を教えてくれた。面白いと思い、神秘的な領域での知識を広げて行くという仕事に携わるのは重要だということは傲慢なことなのであろうか?十分重要であって財政的に援助するのに値するのであろうか?
それを見極める方法がある。最初にどのくらいのお金が研究室あたり昨年費やされたのか(当然、電気代、人件費も入る)の情報が必要である。これを研究室で出した論文数で割ってみる。すると一論文あたりの正確なコストがでる。確かに、ある年は多く出て、ある年は少ないかもしれないがこれを長い年月やって、同じ領域の別の研究室についてもやればその数はそれ程変化しないであろう。一般に、私の経験では一論文あたりの経費は10万ドル(800万円)から50万ドル(4000万円)である(人件費例えば700万、電気代、overhead代及び消耗品代)。あなたの研究室ではこれより少なくやっているかもしれない。これは固定された数字ではないが。友達の研究者や親しい人にその論文が実際どのくらいの価値があるのか納得させてみてはどうだろう。道路の穴埋めの数と比較してみたらいい。小さな科学がとても高くつくとして、あなたの科学をやらない友達も税金を払っている一員であることを忘れてはならない。じゃあ実際に説得できるのか?

いや、それは無理だ。いかにタンパク質のリン酸化部位を知る事が重要なことか、いかにリン酸化によって他の蛋白質と結合できるようになって興味深い遺伝子の発現を促すかを説明しても、この研究にかかる費用がいくらかを言ったとたん、全ての他の思考を停止してしまうであろう。違うアプローチも試みた。きれいなページのジャーナルに載せられた研究は200個の爆弾(二つの航空機のトイレ)と同じ値段だ。といっても展望が良くなる訳でもない。やらなければならないのは家の価値に変換する事だ。論文は家である。多分あなたの周辺では、一軒の家は数本の論文に値し、そんなに多くの論文ではない(こうしてみるといかに論文を作成するのにお金がかかっているかが実感される)。私の代理の同僚は暖かないすに座ったとたん、最も印象深い小さな科学のできごとを完全に説明するには数分ではなく数字間要するであろうという問題に直面するであろう。(しかし彼は非常に忙しい委員の前では数分しか説明の機会を与えられない)。
もちろん、その仕事には価値があり、多分それにかかるお金よりも価値があるかも知れない。しかしどのようにしてこれを測ることができるのであろうか?我々はその論文が他の論文にどのくらい引用されたかを知る事ができる。しかしそれは我々の議論の助けにはならないであろう。そして思い起こして欲しい、これはわたしが誰かとしたいと思っている議論であることを。

我々は小さな科学に対しての訴えを別に起こす必要がある。実際、大きな科学は支出を正当化するに十分な根拠を持っている事が多い。さもなくば、大きな製薬会社はそのようなことはしようとしないだろう。新しい薬のコストはおよそ10億ドルであろうと言われている。もしそれが役にたつなら、それに値するだろう。それは十分の利益を生み、それを製造する会社がある場所に小さな街を作り出すであろう。これはその薬がたまたま効果が有り、たまたま起こることである。大きな科学は大きな結果を生じる。そして時折、そのコストを正当化するに十分であろう。そのような議論は小さな科学には同様には働かない。(必然的に、全ての大きな科学は小さな科学から生じる。しかし議論をもう少し洗練させる必要がある。)
そして、我々は小さな科学を正当化するため、小さな科学のコストを大きな科学のコストと比較できない。これは人間の心理学の基本原理であるためである。人は大きな数まで数えられない。一度非常に大きい百万個の何かを得たら、すべてが混在してしまう。実際、我々は百万個を想像できない。一度、百万の小さな点でできている「百万という本」を見たら、それは単に厚い本であったと思うであろう。10億は理解不可能だ。もしできるだけ早く数を数えたとして。一秒間に10言えたとして、10億数えるのに10年以上かかり、寝る事もできない。そして11億は実際に10億の本より厚いとは分からないであろう。大きな数との比較は我々の議論を深めはしない。だから、異なった方法を考えよう。
前に議論した時に、大きな科学と違って小さな科学は並行して行なわれる。一つの研究室での一つの発見にとどまらず、難しい問題の解答へとその領域を導く。それは我々が領域と呼んでいて、個々の研究の和より大きい。個々の研究室がすばらしいブレークスルーをしたかの様であるが、これはみんなが長い長い努力の末に到達した賜物なのである。そしてこの研究はだれからも指図されたり組織されたりした訳ではなく、多くの個人が自身で興味ある事を考え、その考えが正しいかどうかを追求した結果なのである。

いかに生物学システムが働くかについてのアイデアが優雅で論理的だとしても、間違えることがある。これは生物はデザインできないという基本的な理由による。それはやたらと努力して出来たものよりもたまたまちょっぴりうまく働いた要素の寄せ集めである。生物は歴史的な偶然で動き、潜在的英知によるものではない。これはダウイーンによってもたらされた人の思考の純然たる革命であり、多くの人が今ももがき苦しんでいる理由なのである。そしてそれは生物医学研究者として直視しなければならないものなのである。

現在、もし私の小さな研究が間違った予測に基づいているとしても、全てが手に負えない結末になる事は無い。一部は正しく、時間までに目的に到達するであろう。大きな科学として考えている多くは大きな問題にならない。しばしそれらの大きな科学は工学と呼ばれる。その区別はしばし公共の場では意味が無い。科学はしばしある難しい工学を含み、工学はある難しい科学を含むけど、それらは実際真反対にあるものである。科学はreverse engineeringである。我々が何かをengineerする場合、それをどのように作るかを説明する。しかし我々が何かをscienceする場合、すでに明らかにされた事から始まり、いかにして目的を到達できるかを説明する。橋を作る事はできる。しかし、いかにして橋が作られるようになったかを説明するのはとても難しい。それは細胞から始める時よりも随分と困難である。
これは多くの時間を費やす相違点ではない。実際、我々はあたかも科学が工学であるかのように行動している。(前回、多分、最近、あなたは科学者でない友達にどんな病気を治療しようとしているのかを話した。しかし、あなたが誰かに病気が実際にどんなものかという実態について説明しようとしたのはいつだったか?)。我々はよく目にする。大きな数々のセンターでの臨床試験がうまく行かなかったことを。結果がどのようであろうと、結果を予測できないことで非難される。

どのようにやったら、小さな事が大きな頼れる事になる方法をもたらす事ができるのか。そして何千もの研究室から情報を集め、それをまとめあげることが期待できるのか。当然、それは無理であろう。だから我々にはしなければならない事があり、常にそれをしていなければならない。つまり、「総説を書く」という事を。これらの収集された知識の始末に負えないアマルガム(ごった煮状態)はそれが正しく書かれていれば、小さなscience に大きなものを運んでくれる。しかしそれをするためには、何について書くべきなのか、また過去に頻繁に書かれていない題材なのかよく議論しなければならない。
ところで、今は朝である。大陸を離れようとしている。少しのコーヒーを取り、次のフライトまで心静かにいようと考えている。
着陸したらまた会いましょう。

我々のやっているlittle scienceは世間や政治家、官僚達にもあまり理解されない傾向にある。この基礎研究は何に結びつくとか何の病気を治すのに役立つから重要だと言わなければ興味を抱かせないし、申請も通らない。純粋にこの神秘的な現象を明らかにしたいという、pure scienceは死んでしまったのであろうか? 口がうまく常識的にはあり得ないことでも平気に、自分のやっている研究はがんの特効薬発見に結びつくとか、食糧問題を解決できると、破廉恥に言えなければ研究費はもらえない。

本文にあるアメリカのscience 事情と全く日本も同じになってしまった。なんでもかんでもbig scienceに結びつくlittle scienceをしろだ。自分のやっているlittle scienceがいかにすばらしく、将来big big scienceになるであろうとホラを吹ける奴が勝ちだ。世間は基礎研究には冷ややかな目を向け、なんでこんな不景気で就職もままならないのに、そんな優雅な遊びみたいな事をしているのだとおっしゃる。


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