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正気の歌と松蔭

2008年04月10日 18:34

 文天祥
 貧しさは強固な精神と肉体を生み、豊かさは精神を病め、肉体を虚弱化させる。それはいつの世も変わらない事なのだけど、南宋の最後の丞相、文天祥をご存知だろうか。20歳にして科挙を状元(首席)で合格。しかしすでに南宋は元との戦いに敗れつつあった。元との戦いに転戦するも、捕らえられるが、脱獄し各地でゲリラ活動を行う、再度捕らえられ元の都、大都(北京)に送られる。フビライはその才能を惜しんで何度も臣下になるように進めたが、断固として断り、獄中で「正気の歌」を詠む。享年47歳。処刑される。フビライは眞の男子なりと評したという。
 正気の歌
世の中はよこしまな気風がみなぎり正しい事が通らない世相になっている。しかし天地にには正気がある。正しいと思う事を貫徹し正気を貫こうとの歌。
「天地に正気あり、雑然として流形を賦す。下は河獄(かがく)となり、上は目星となる。人においては浩然の気となり、沛乎(はいこ)として蒼冥(そうめい)にみつ」と冒頭にあります。
「天地には正しい気がある、混然としてはっきりしていないが、地上では河や山となり、天に上れば太陽や星になる。人においては浩然の気となり、広がり宇宙に満つ。」

「是れ、気の磅礴(ぼうはく)する所 凛烈として万古に存す 其の日月を貫くに当たりては 生死、安(いず)くんぞ論ずるに足らん。」
この気の満ちあふれるところは凛冽として永遠の月日経て残り、生死など問題にならない。

「嗟(ああ)予(われ)陽久に遭い隷なり。 実(まこと)に力あらず楚囚 其の冠を纓(むす)び伝車もて窮北(きゅうほく)に送らる鼎钁(ていかく) 甘きこと飴の如きも之を求むれど得べからず」
ああ私は国の滅亡という大難に会いながら臣下として実のある努力が足らなかった。南宋に殉じた楚囚もいたが私は護送車で北の果てまで送られ、釜茹でさえ飴の如く甘いと思っているのにこれを求めても許してもらえず未だに死ねない」

フビライがどのように説得しても意思をかえず、自ら正気を貫き通した文天祥は3年の幽囚の後、ついに処刑される。
幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。

 江戸に送られ死と向き合った吉田松蔭は高杉晋作に宛てた手紙の中で「死は好むべきものでもなく、また憎むべきものでもありません。世の中には生きながら心の死んでいる者もいれば、その身は滅んでも魂の生き続ける者もいます。死んで己の志が永遠になるのなら、いつ死んだって構わないし、生きて果たせる大事があるのなら、いつまでも生きたらいいのです。人間というのは、生死にこだわらず、為すべきことを為すという心構えが大切なのです。」と書き送っています。
 松蔭は獄中で文天祥の正気の歌と同じ心情を読んだ遺書「留魂録」を弟子たちに残しました。そして最後にこう結んでいます。
私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのならそれは私の播いた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう
辞世の句 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
この大和魂は幕末の志士たちに引き継がれ、近代日本の魂の礎になっているのです。
 昨今は正気が片隅に追いやられ、大和魂も忘却の彼方の感がありますが。乱れた末世だけにこのような崇高な魂が心を打つのです。

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コメント

  1. | |

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  2. くりくり | URL | -

    圧倒されました。

    文天祥に吉田松陰、全く凄い人達がいたものです。凄いなどという形容詞しか思いつかない己の語彙力のなさがもどかしいです。崇高でかつ、潔いとでもいうのでしょうか、とにかくも言葉が思いつかないのが悔しいながらも、本当に久しぶりに感動で心が震えました。

    よく「賢く生きねば損」という言葉を耳にします。生きてさえいれば何だってできる、
    今はとりあえず主義主張を変えてでもとりあえず生きて、そうすれば、あとで何とでもなる、、、、そうした考え方です。例えば、豊臣秀吉とは昔馴染みの身でありながら、その後もずっと加賀百万石の城主として存続した前田家などは、その賢く生きた筆頭格なのでしょうが、感情的に、そういった立ちまわり方は好きではありません。 とはいえ、

    文天祥がもし、フビライの誘いを受け入れ、元の帝国繁栄のために働いていたなら、きっと、何か大きなことを成しえていた人物であったろうし、歴史は変わっていたかもしれません。その人物が敢えての死を選ぶ。
    「賢く生きろ」が本当なら、もともこもない選択です。

    己の志を曲げてでも、ひとまずは賢く生きるべきなのか、信念のためなら敢えての死を選ぶべきなのか、はたしてどちらが立派な態度なのでしょうか。

    常日頃頭を痛めていた問題ですが、吉田松陰が高杉晋作あてに書いたという手紙を読んで思いました。

    「死んで己の志が永遠になるのなら、いつ死んだって構わないし、生きて果たせる大事があるのなら、いつまでも生きたらいいのです。人間というのは、生死にこだわらず、為すべきことを為すという心構えが大切なのです。」

    この、為すべきことを為すという心構え。これなのです!
    賢く生きながらえようが、あえての死を選ぼうが、きっとどちらがどうとかいうのではなく、為すべきことを為すための選択であれば、まわりの者が、それは正しいとか正しくないとか、馬鹿だとか、犬死だとか、そんな評価をするような次元の問題ではないのです。楠正成などは、愚直なまでの後醍醐天皇への忠誠心でもって、結局、負けるとわかっている湊川の戦に出陣し、自刃。最後に「七度生まれまわって、朝敵を滅ぼさん。」と本当に言ったかどうかは別として、もう少しうまく立ち回ればって声かけたいくらい。けれど、本人が為すべきことを為したと思っていたのなら、それはそれでよいのではないか、そう思えてきました。 

    先の戦争で、国家の命により、あまりに無意味に散っていった命。
    よく言われるフレーズです。その過ちを二度と繰り返さないために、その死を無意味なものと位置づけ、無意味な死より、賢い生き方、これを強調するあまり、何か、みな、個人の利益ばかりを追求する、大義のない情けない国になり下がってしまったような気がします。大体、その死が無意味だったなんて、勝手に決めるな!ってもんですよね。

    今の日本に必要なものは、崇高な理想に燃え、志と大義をもった人間が数多生まれてくること。そのためには一も二もなく教育改革。

    惜しむらくは、吉田松陰。せめてあと少し長く生きていてくれたら、、、。、あのまま、渡米が成功し、日本に戻ってきていたら、、、。日本は、もっと違う国になっていたかもしれません。なっていたはずです。伊井直弼があの時、大老という役についてくれてよかったと思っていますが、安政の大獄だけは完全なる失策だったと思います。 

    「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

    本当に心がゆさぶられます。何度詠み返しても。




  3. 梅香 | URL | iJ7RlsqU

    Re:正気の歌と松蔭

    >伊井直弼があの時、大老という役についてくれてよかった

    井伊が開明的開国主義だったなどという戦後の風潮は、開国賛美の流れに乗って広まり、攘夷はただの偏狭とみなされがちです。戦後は反天皇、反尊皇イデオロギーのもと、幕末志士達が貶められてきました。井伊は頑迷な幕府守護者です。条約締結も安政大獄もそれがゆえ。日本國を自覚し、世界に目を向けていた志士を悉く弾圧しました。

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