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秀吉の中国大返し

2011年06月21日 19:03

機動力

秀吉が天下を取れたのはなんと言ってもその機動力にある。その代表が明智光秀の謀反の報を聞いて備中高松(今の岡山市)から天下分け目の戦場となった山崎(今は大阪から京都に向う途中、道路や線路や川が一挙に集中し狭隘な抜け道になっている)への行進である。明智の予想よりはるかに速い到着に、明智軍はまだ防戦体制が出来上がってなく、そこを突いた。
歴史上の名将、チンギスハンやナポレオンはたまたロンメルなどもまずはこの機動力を最大の武器とし敵を撃破してきた。敵の備えが出来ない内に攻撃しろということだ。

中国大返しまたは備中大返しとは、天正10年6月(1582年6月)、備中高松城(現在の岡山市)の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長が明智光秀の謀反により本能寺で討たれたのち、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(現在の吉備線の備中高松駅もしくは山陽道岡山総社近く、岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200キロメートルを踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍ののち、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破する。これが中国大返しの簡単な経緯である。

第1幕 ―毛利方に信長の死を隠し有利に交渉するー

羽柴秀吉が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことであった。京から200キロメートル離れた備中高松の地で、わずか1日後に変報を知りえたことについては、秀吉があらかじめ光秀の謀反を知っていたのではないかとの憶測をまねいており、本能寺の変の「秀吉黒幕説」ないし「秀吉陰謀説」さえ生んでいる。『太閤記』にあっては、光秀が毛利氏にむけて送った密使を捕縛したからと説明されている。
変報を知った秀吉は、情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自陣に対しても緘口令をしいて毛利側に信長の死を秘して講和をむすび、一刻もはやく上洛しようとした。秀吉はただちに6月3日の夜のうちに毛利側から安国寺恵瓊を自陣に招き、黒田孝高と交渉させた。3日深夜から4日にかけての会談で、当初要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲の5か国割譲に代えて備後・出雲をのぞく備中・美作・伯耆の3か国の割譲と高松城主清水宗治の切腹が和睦条件として提示された。宗治とその兄僧月清らの自刃は6月4日の午前10時ころのことと推定されている。

第2幕 ―切腹を見届け毛利軍の様子をみるー

こののち、秀吉は高松城に妻北政所(ねね)の叔父にあたる腹心の杉原家次を置いたのち、兵を東方へ引き返した。
秀吉軍が備中高松城の陣を引き払って撤退し、備前沼城(岡山市東区)へむかって「中国大返し」を開始したのは、清水宗治の自刃を見送ってすぐの6月4日の午後とする見解もあるが、高柳光寿、池享、藤田達生らをはじめとして6月6日とする説が有力である。藤田によれば、5日のうちは毛利方の出方をみきわめ、6日には水攻めに用いた堤防を切って高松城包囲の陣を解いたのちの出発ということになる。
6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、貴下の書状を読んだが、成り行きまかせで5日のうちには沼城まで行く予定であると記してある。
岡山城の東方に立地する沼城は、その姿から亀山城とも呼ばれ、岡山城に本拠をうつすまで宇喜多直家の居城であり、嫡男秀家の生まれた城であった。沼城はちょうど山陽道と砂川の交点を扼する交通の要所、備前を東西南北に結ぶ「へそ」のような場所に築かれていた。現在もこの地を上記JRの幹線、国道2号線(旧)などが束になって通過しており、交通上の重要性は変わりない。
高松城から沼城までの距離はおよそ22キロメートルあり、重装備での行軍となった。6月6日未刻に高松を発したとする場合、沼城への入城はその日のうちのことであると思われる。

第3幕 ―姫路まで駆け抜けるー

更に、秀吉の本拠地播磨国姫路城(兵庫県姫路市)へ向って出発されたとされている。
姫路城は、秀吉の中国攻め以前は姫路山城といい、黒田孝高の居城であったが、天正5年(1577年)の秀吉の播磨着陣の際に孝高より秀吉に献上され、播磨を再び平定したのちあらためて城が築かれ、城下町の整備された城であった。
沼城から姫路城までは約70キロメートルの道のりであるが、秀吉が姫路城に帰還したのは6月7日夕方とする見解が最も多い。
沼城と姫路城のあいだには「山陽道第一の難処」である船坂峠があり、谷が深く、道が狭隘なうえに滑りやすいとされていた。また、姫路城への帰還は暴風雨のなか行われたという記録もあり、道筋の河川は相次いで増水したという。このとき、秀吉は氾濫した川近くの農民を雇って、人の鎖をつくり、その肩に負いすがりつつ川を渡らせたという逸話がのこっている。
行軍は、秀吉を先頭に2万以上の軍勢が、一部は後方の毛利軍を牽制しながらなされた。街道で道幅の狭い箇所では2間(約3.6メートル)に満たないところもあり、兵は延々と縦列になって進まざるをえないことも多かったと考えられる。これは非常に危険な行軍となったことから、秀吉自身と物資を輸送するための輜重隊とは、危険と混乱を回避するために海路を利用したのではないかという憶測も生まれた。いずれにしても、悪天候のなか1日で70キロメートルの距離を走破したこととなり、これは当時にあって驚異的な速度といってよい。刀や鎧などの装備はその場に残し、姫路への街道沿いにはお金を配って百姓達にかがり火を焚かせ、おむすびを用意させて、ひたすら走った。装備は後から届けさせた。
本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、6月9日朝まで滞留し、休養をとった。休養にあてた一日、秀吉は姫路城の蔵奉行を召集し、城内に備蓄してあった金銭・米穀を身分に応じて配下の将兵にことごとく分与したといわれる。これは、姫路籠城の選択肢はないこと、目的は光秀討伐以外ないことを鮮明にし、決死の姿勢を示したうえで、負けても姫路へは帰れないが、勝てばさらなる恩賞も期待できることを示唆しての処置であったと考えられる。

第4幕 ―姫路城から山崎へー

姫路を出発したのが6月9日であったことについては、それぞれの史料において一致している。9日朝、秀吉は子飼いの浅野長政を留守居役として姫路にとどめ、残り全軍を率いて姫路城を進発した。秀吉は同時に、播磨・摂津国境付近に岩屋砦を普請している。これは、6月10日付の秀吉書状によれば明智光秀が久我(京都市伏見区)付近に着陣したと記されていることから、光秀が摂津・河内方面へ移動するのではないかと考えたため、国境付近をかためて急襲に備える必要に迫られたからと推定される。
当時、大坂に滞在中の神戸信孝が光秀軍に包囲されて自刃したという風評も流れていた。10日付けの秀吉書状には、6月11日まで兵庫または西宮(兵庫県西宮市)あたりまで行軍する予定であると記されている。実際には10日の段階で光秀は京の下鳥羽(京都市伏見区)におり、山崎周辺にも兵を派遣していた。この段階では、秀吉・光秀の双方が互いの腹を探り合いつつ、意図的に風評を流すことも含めた激しい情報戦を展開していたのである。
秀吉軍は慎重に行軍しながら10日朝に明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。10日夜は兵庫で充分に休息し、翌6月11日朝に出発。摂津尼崎へ到着したのは、その日の夕刻であったろうと考えられる。
光秀は、6月9日付で細川藤孝(幽斎)に対して再び書状を送り、味方してくれれば摂津一国と、希望とあれば但馬でも若狭でも藤孝父子に差し上げる、50日・100日の間に近国を平定し、その後は忠興や自分の嫡子明智光慶に政務をゆずって引退すると約束した。しかし、藤孝は中立の姿勢を貫いた。藤孝は光秀からの要請に応じなかったが、山崎の戦いでは秀吉に加勢しなかった。
いっぽう、大和国には使者を送り、筒井順慶に加勢を求めた。順慶は、6月2日の時点では上洛の途中であったが、本能寺の変報を聞いて引き返した。4日、兵を山城に出し、5日には一部を近江に進出させて光秀に協力したため、光秀への加担が確実なものと周囲には思われていたが、9日には居城の大和郡山城(奈良県大和郡山市)に退去して、籠城の覚悟をきめて米や塩を入れはじめた。態度をはっきりさせない順慶に対して光秀は、10日、宇治川・木津川をこえて男山(京都府八幡市)に近い洞ヶ峠(京都府八幡市・大阪府枚方市)まで出かけて圧力をかけたが手応えがなく、同日、順慶は山城に派遣していた兵も引きあげてしまった。光秀は順慶への誘いをあきらめ、男山にふせておいた兵力を撤収させ、洞ヶ峠をおりて下鳥羽に陣をしいた。また、兵の一部と近在の農民を徴発して天王山の北に位置する淀城(京都市伏見区)を修築し、その西方の勝竜寺城(京都府長岡京市)にも兵を入れた。これは10日から11日にかけてのことと考えられる。
なお、秀吉は備中高松から姫路までの移動の迅速さにくらべれば、姫路からの移動は、慎重さをともない、着実な行軍に重点が置かれている。明石(10日出発)、兵庫(11日出発)、摂津尼崎(12日出発)となり山崎到着は13日と考えられている。姫路までは、毛利方の追撃を免れるため何よりもスピードが重視されたのに対し、姫路からは光秀の放った伏兵などを警戒しながらの行軍であり、同時に同盟者を募り、情報戦を繰り広げながらの行軍だったのである。

第5幕 ―山崎天王山の戦いー

秀吉が山崎に着陣したのは13日の昼ごろであり、宝積寺(京都府大山崎町)に本陣を置いた。梅雨の季節ということもあって雨も降りしきっていたという。この戦いに先だって、勝敗の行方を決すると見なされていた天王山は、すでに秀吉の先遣隊の中川清秀らによって占拠されていた。更に高山右近隊は山崎の町に入って西国街道の通る関門を手中におさめた。このとき、秀吉本隊は池田恒興らとともに右翼の川手方面を進んでいる。午後4時ころ、光秀軍の先鋒並河易家・松田左近隊ら丹波衆による中川清秀、黒田孝高・神子田正治隊への攻撃がはじまり、秀吉軍は反撃を開始した。近くに居城を構える中川・高山らは山崎周辺の地理にも明るく、兵力差もあって秀吉軍優位のうちに戦いは推移した。戦闘は光秀軍の丹波衆と天王山の山腹をしめる中川隊とのあいだから、やがて東の淀川沿いへと波及していった。
秀吉はこの状況をみてすかさず全軍に総攻撃を発令した。秀吉本隊の大軍が山崎の隘路より殺到したため、兵力、士気ともに勝る秀吉軍が光秀軍を圧倒し、光秀軍は副将斎藤利三らの奮戦にもかかわらず、たちまち総崩れとなった。ただしフロイスの観察によれば、高山・中川・池田の摂津衆にくらべて、秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れていたという。このとき、光秀の軍勢は、光秀直属の家臣のほかに近江衆と丹波衆、そして京都近郊を本拠地とする幕府衆より構成されていた。このうち近江衆が、変後の近江平定の際に光秀に従った者が多く、総じて士気が低かったのに対し、伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重などからなる幕府衆は奮戦し、多くが討ち死にしている。

第6幕 ―光秀敗走―

光秀は、山崎周辺に伏せておいた兵を早々に撤収させ、光秀本陣も解いて勝竜寺城に籠もらせたが、そこもまもなく秀吉軍に包囲された。勝竜寺城は堅城ではあったが、数万の軍勢による攻撃をささえることは無理であったため、光秀は近臣をしたがえて勝竜寺城を脱出して京方面に逃亡した。このため、京都市中は一時混乱をきわめ、主を失った勝竜寺城内の将兵もまた相次いで逃亡した。翌朝(14日)、兵員わずかとなった勝竜寺城は秀吉軍に降伏を申し入れた。光秀自身は、近江での再起をはかるべく、居城坂本城をめざして逃亡した。そして、現代の時法では日付の替わる翌未明、小栗栖(京都市伏見区)の間道へと差しかかったところを土民に襲われて死亡した。光秀の介錯をしたのは溝尾勝兵衛であったといわれる。

中国大返しを時系列でもって眺めてみる。

1582年6月2日、本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれる。
3日、秀吉は、そのことを毛利方に送った光秀の密使を捕まえて知った。
秀吉は、高松城主:清水宗治の首を差し出せば、城兵の命は助けると条件を出した。
4日、宗治が秀吉の見守る湖上で切腹したのを見届けた。
5日、和睦の儀式や兵量の徴収を行い、毛利軍の撤収を見届ける。
6日、25,000の兵の撤退を開始した。姫路までの70 Kmを駆け抜ける。この間に難所船坂峠越えをする。
7日、姫路城に到着、城にある全ての金銀を武将に、米は足軽に与え、闘争心を鼓舞した。2日間休養をとる。
8日、 姫路城
9日、姫路城出発し明石城に到着
10日朝、 明石城出発 夜 兵庫
11日朝、 兵庫出発、夜尼崎城に到着
12日、 尼崎出発
13日昼、山崎到着 秀吉軍36,000対光秀軍16,000が山崎(天王山)で対決。
14日、明智光秀土民に討たれ死亡。
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