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真夏の夢

2011年08月10日 18:58

旅愁
熱帯夜の続く寝苦しい夜、空想の世界に入って遠い過去を夢見てみませんか?

西域は日本人にとって西洋文明の香りを運んで来る交差路として憧れを感じるとともに、古来より多くの人民が夷狄の征戦に駆り立てられ、2度と帰ってこれなかったことに思いを馳せ、哀愁を持って受け止められて来た。旅に出ると楽しいはずなのにふと寂しさを感じることがありそれを旅愁と言うらしいが、西域は行った事もないのに聞くだけで旅愁を覚える。異国との境界となった関所、特に重要な関として嘉峪関、玉門関、陽関と山海関があり、別れの場所であったり、戦いの場所であったりした。

漢や唐の時代、異民族の侵入に悩まされた漢民族は万里の長城を一層強固にし、度々長城より出て、討伐の遠征に向った。西域への関として玉門関と陽関が置かれ、明代に入って嘉峪関や、北の満州族に対しての守りとして強化され山海衛が設置されて山海関が出来た。
特に玉門関や陽関は出れば茫洋たるゴビ砂漠のみ。古来より多くの詩に歌われ、これらの関を出ずれば二度と帰ってこれないと恐れられもした。

万里の長城の西の果てが甘粛省にある嘉峪関、万里の長城の東の果てで、北京の東を海に突き抜けているのが山海関、更に西域に突き出た甘粛省敦煌市にあるのが玉門関と陽関である。

嘉峪関
西の果てにあるこの関は林則徐がアヘン戦争での責任を取らされ新疆へ流された時に通った関で林則徐はアヘン根絶のためアヘン船を焼き払い、アヘン戦争を起こしたが、英国の攻撃に恐れおののいてしまった西大后は林則徐を罷免し、新疆へ左遷する。林則徐は一人寂しく万里の長城の最西端にある嘉峪関をでて新疆へむかう。関を出たとたん、関の門は閉ざされ、来し方、中原を見やれば目からは涙滂沱たり。

「出嘉峪関感之賦」 林則徐
 一騎 わずかに過ぎれば即ち関を閉ず

 中原 首をめぐらせば涙痕潸(さん)たり・・・

更には
「蹟中作」・岑参(しんじん)

 馬を走らせて 西に来たり 天に到らんと欲す

 家を辞してより 月の両回 円かなるを見る

 今夜 いずこに宿すのか知らず

 平坦なゴビの砂漠は、どこまでも人煙は絶えてない


玉門関
漢や唐の時代、西域に向かうには玉門関と、陽関の2つの関所があり、陽関は玉門関の南にあることから、「陽」の字を付けて「陽関」とよばれた。都、長安からは西へ1,500㎞の距離に敦煌があり、陽関はそこから更に70㎞離れたところにある。更に西に向かうと、井上靖の敦煌にでてくる砂漠の都市楼蘭があった。玉門関を詠んだ有名なものは李白の詩「子夜呉歌」である。

「子夜呉歌」 李白
 長安 一片の月
 萬戸 衣を擣(う)つの聲
 秋風 吹いて盡(つ)きず
 全て是 玉関の情
 何れの日か 胡虜を平らげて
 良人 遠征を罷(や)めん


 陽関
陽関を詠った詞としては王維による七言絶句の名作「送元二使安西」があり、はるばる陽関を越えて西方へ赴任する友人、元二を送る送別の気持ちを歌った。後の時代に楽府に入り「渭城曲」と呼ばれて、送別の曲となった。古くから伝わる琵琶の曲だが、二胡による演奏が多い。「陽関三畳」と呼ばれ故人なからんを三度繰り返す事からこう呼ばれたらしい。

「渭城曲」王維
 渭城の朝雨 軽塵を潤おし
 客舎青々 柳色新たなり
 君に勧む、更に尽せ一杯の酒
 西のかた陽関を出ずれば 故人無からん。

また涼州詞も有名な詞として多くの人に親しまれている。

「涼州詞」 王翰(おうかん)
 葡萄の美酒 夜光の杯
 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
 酔うて沙場に臥すとも 君笑うこと莫かれ
 古来 征戦 幾人か回る

いつの日か行きたいと思いつつまだ行けていない。同じように玉門関や敦煌に思いをやる人も多いはず。若かりし頃に井上靖の敦煌を読み楼蘭やさまよえる湖、敦煌にと心を引き込まれた。

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