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大和古寺散策(2)

2011年11月04日 18:25

秋篠寺と唐招提寺を訪ねて

秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされている。
「東塔・西塔」などを備えた伽藍規模の大寺院秋篠寺だったが、平安時代に兵火により、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は残念ながら今は偲ぶことができず静かな佇まいの寺院となっている。
秋篠寺の東門(写真1)を入ると境内へと続く細い道がある。その傍らには苔が植えられていて、緑の絨毯(写真2)となり、折からの陽が濃い緑の上に樹々の葉影を落とし、絵も言われぬ、美しさを醸し出している。境内は狭くこじんまりとしている。国宝の本堂(写真3)があり、堂内には本尊の薬師三尊像が中心に据えられてはいるが、なんと言ってもお堂の花形は技芸天立像。本堂に一列に並んでいる仏像の中で、左側に少し離れて置かれている。技芸天の「かすかな微笑とその肢体の妖婉さ」はずーと見ていても見飽きることがない。

 堀辰雄は大和路の中で秋篠寺と技芸天を次のように画いている。
「いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある技芸天の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい」。

唐招提寺
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基は鑑真である。井上靖の小説「天平の甍」で広く知られるようになった唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」として日本に招請された。遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は既に66歳になっていた。琉球を経て753年12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌年の2月、ようやく難波津に上陸した。その鑑真が開き、晩年を送った寺だけに、境内も広く伽藍も重厚で、どっしりとした佇まいを見せる。
唐招提寺と書かれた新しい石碑(写真4)の横の門を入ると広い境内が広がっている。天平時代に建てられたという金堂が正面(写真7)に見える。その背後にはこれまた天平時代に建てられた講堂(写真5、6)が建っている。境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、本願殿、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝、写真8)、新宝蔵、東塔跡などがある。本金堂内には9体の像が安置されている。中央に盧舎邦仏坐像と左右に千手観音立像と薬師如来立像の3尊仏が置かれ、更に回りに小振りの梵天・帝釈天、四天王像が置かれている。金堂には中央に本尊・廬舎那仏坐像が向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の大きな像が安置され、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像が置かれている。講堂の堂内には本尊弥勒如来坐像と、持国天、増長天立像が安置されている。

唐招提寺の境内には、松尾芭蕉が詠んだ句碑が立っている。芭蕉は貞享5年(1688年)の春に唐招提寺を訪れ、鑑真大和上像に拝し、「若葉して御目の雫拭はばや」(この柔らかい若葉で鑑真和上の見えなくなった目の涙を拭ってあげたい)を詠んだ。「笈の小文」には、「招提寺鑑真和上来朝の時、船中70余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹き入りて、終に御目盲(しい)させたまふ尊像を拝して」と記している。
堀辰雄も大和路の中で天平時代の雰囲気の色濃く残った唐招提寺について次のように記している。「いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木かな」という秋桜子の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢も楯もたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日がいっぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽やかさだ。此処こそは私達のギリシアだ。もう小一時間ばかりも松林のなかに寝そべって、そんなはかないことを考えていたが、僕は急に立ちあがり、金堂の石壇の上に登って、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたっている。そしてそこには殆ど色の褪めてしまった何かの花の大きな文様が五つ六つばかり妙にくっきりと浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはそのときがはじめてだった。いましがた松林の中からその日のあたっている扉のそのあたりになんだか綺麗な文様らしいものの浮き出ているのに気がつき、最初は自分の目のせいかと疑ったほどだった。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさわってみようとしかけて、ためらった。おかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であってくれればいいというような気もしていたのだ。そのうちそこの扉にさしていた日のかげがすうと立ち去った。それと一緒に、いままで鮮やかに見えていたそのいくつかの花文も目のまえで急にぼんやりと見えにくくなってしまった」。

天平時代を思わせる大伽藍を仰ぎ見つつ境内を散策すると、秋の夕べの暮れなずんだ藍色の空がみるみる墨色に変わり、ひんやりとした風が、人もまばらな境内の裏隅の小径(写真9)を吹き抜ける。ああここは鑑真和上が仏教普及のため命をかけてやって来た異境の地だ。

秋篠寺東門(写真1)、 苔むす庭(写真2)、 本堂(写真3)、唐招提寺石碑(写真4)、講堂(写真6、7)、金堂(写真5)、経堂(写真8)、境内の小径(写真9)
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